敗戦直後の日本文学へ警鐘を鳴らす評論集として大きな反響を呼んだ『1946文學的考察』、大学での講義録『二十世紀小説論』など、外国文学への評論を纏めた一巻。
第8巻について 目次 資料
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福永武彦電子全集第8巻について
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第8巻 外国文学評論、翻訳
外国文学評論と講義ノートを中心に、戦後の翻訳の一部を収録する。
Ⅰ.『1946文學的考察』(1947)
ここには、敗戦直後の日本文学に対して、福永が具体的にどの点に不満を抱いていたのかが直裁に表明されているが、人間的現実が描けていないという点は、既に現代の私たちにとっては克服された課題であるように一見思える。当時の実存主義などの最新知識も今や常識である。
しかし、今この評論を読む際の重要なポイントは、一々の論の当否だけではなく(論点には、現在にも突き刺さる面がある)、福永自身の生きるスタンスと分かち難く結びついているその文学的教養の質と視点(の持つ力)、それらの教養を獲得するための刻苦勉励、そして論を提出するに至るまでの文学創造に向き合っての福永の真摯な姿勢、それらの点にある。一言で、実が詰まった切実な評論という点をしっかりと受けとめたい。
Ⅱ.『二十世紀小説論』(1984)
ここに記されているのは、20世紀欧米文学の傾向と特質、「小説が藝術であるための特殊な方法、条件、その要素」(同書より)――人間的現実を把握するための意識や内面的時間の発見、各作家の文学技法他――であるが、取り上げられている人や事項は、あくまで小説家福永武彦にとって切実な問題が選択されている点を見逃してはいけない。福永はそれらの文学的富から大いに学び、自らの小説創造に意識的に採り入れている。特にJ・グリーンとフォークナー文学からの示唆は大きい。この著作は、福永文学への自解、自注という一面を持つ。
しかしながら、本書が福永文学への「一つのかけがえのない手引き」であることは確かなこととしても、福永が「近代・現代西欧文学を、自国の文学以上に切実なものとして読み、受けとめた」(共に豊崎光一)というのは事実だろうか。例えばジッドやプルースト、フォークナーやヘミングウェイの文学を、漱石や朔太郎、辰雄や日本古典文学以上に切実なものとして受けとめたのだろうか。この点は、フランス文学者豊崎の、欧米文学へのバイアスがかなり掛かった見方で、留保を要する。
漱石、朔太郎、辰雄等の福永文学に於ける重要性は、『二十世紀小説論』で論じられる作家たちに較べて劣るものではないこと、西欧文学を「自国の文学以上に切実なものとして読み、受けとめた」という安易な憶断を前提に福永文学を捉える視点から、そろそろ開放されてよい時期であると編者は考えている。
* 翻訳『蜘蛛』(トロワイヤ 1951)・『幻を追ふ人』(Jグリーン 1951)・『運命(モイラ)』(Jグリーン 1953)・『賭けはなされた・歯車』(サルトル
1957 「歯車」は中村真一郎訳)を、著作権と制作費の関係で収録出来なかった点を遺憾とする。
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