日本の近現代文学について、作家の目線から「文学作品」として生み出された評論文の数々。「群像」での創作合評も見逃せない。
第11巻について 目次 資料
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福永武彦電子全集第11巻について
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第11巻 近・現代日本文学評論
Ⅰ.『福永武彦作品批評B』/『意中の文士たち』
福永武彦が随筆とエッセイを明確に区別していたことは、当全集第10巻、第15巻の解題でも記した。要は、「僕」を全面に押し出し、虚構を混えながら内面の真実を描き出すのが随筆、それに対してこの第11巻に収めたエッセイは、小説の実作者としての立場から切実な問いかけをもって対象に迫り、虚構を廃して多様な資料を駆使しつつ、自らの文学観と切り結ぶ線上で一刀両断に論じていく点に特色がある。
更に、長短に関わりなく、エッセイがひとつの作品として自立していることを求めた。各篇は、すべてが「作品」として意図されている点にご留意いただきたい。その作品として自立するエッセイの条件、それは、内容に相応しい文体を保持しているという点にある。小説と同様に、内容に相即した文体を保持していること、それが文学としてのエッセイの要諦である。
それは、「人物評・解説」に収録された各短文にも見られる。文学全集の解説や辞典文、或いは推薦文や講演下書き、アンケートとして執筆されたもので、媒体も内容も多様であり執筆時期も幅広いので、文体に各々相違が見られる。
Ⅱ.鼎談(創作合評)
加えて、雑誌「群像」での創作合評計18回分を収録した。注目すべき点を2点のみ記しておきたい。
①「現代詩新鋭十人集」(1958.3)で、福永がイメージ尊重で音楽性に反逆するという方針の詩人の言葉は荒いと指摘したことに対して、中村が、言葉を意識的に荒っぽく使用している例もある、感動させるよりはショックを与えようとしていると反論すると、福永は「ガンと一つぶつければいいんだといわれたらそれまででね。ぼくは散文においても言葉は練りに練るべきものという主義だから、いわんや詩において練つてない言葉が出てくるというのは言語道断だと思う」と主張する。「散文においても言葉は練りに練るべきものという主義」という福永のスタンスは、小説各版での、本文への多数の手入れに具体的によく現れている。
②私小説に関して「庄野君の小説をずっと読んでいる限りにおいて」とか「庄野君の作品は好きですから」(1963.8)という言葉も興味深い。以前、中村真一郎から「福永はね、実は日本の大正時代の私小説をよく読んでるんだよ、宇野浩二とか。戦後の人でも、庄野潤三の全集が彼の家にはあったからね、そういう小説も好きなんだよ」という話を聴いたことを思い出した。「庄野さんという人は、日常的生活の底にある深いものがときどきぐっと出てくる、そういう底知れないものを持っている」(1969.10)という発言と共に、収録の鼎談全体から私小説に対する福永の考えを再考察することが出来よう。
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