雑誌連載「十二色のクレヨン」を収録した随筆集『夢のように』や『書物の心』、最後の随筆集となった『秋風日記』を収録。
第16巻について 目次 資料
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福永武彦電子全集第16巻について
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第16巻 『夢のように』、随筆の家としてⅡ
Ⅰ.「十二色のクレヨン」
「十二色のクレヨン」は、雑誌「ミセス」1969年1月号より、同年12月号まで連載された随筆である。毎回一つの色を選び、その色の名がどこかに現われるような洒落たすっきりとした随筆にする予定だったが、連載途中から、隣家の違反建築騒動に巻き込まれた自らの姿を描いた「違反建築の話」が挿入されるようになり(第5回から最終回まで)、全体のトーンは灰色一色になってしまった。
そこで、「十二色のクレヨン ノオト」に記されたような経緯で、単行本ではその「違反建築の話」の部分は削除された。当全集では、その「違反建築の話」を『夢のように』の直後に一括して増補した。
この「違反建築の話」は、隣家との騒動が進行中に並行して婦人雑誌に連載された文章であり、双方に弁護士が立っている状況なので、ここに記された騒動に関わる内容に、意識的な嘘や創作はない。あくまでレポートであり、自らの姿を描く「随筆作品」としては不十分である。単行本刊行の際にこの節を除外した理由は、隣家に対する配慮と同時に、その点にあるだろう。
「違反建築の話」に見える一連の行動からは、福永武彦の極めて強い能動的な性格、自らの世界を破壊しようとする者に対しては、積極的に行動して、理不尽なことを許さない、状況を好転させるまでは妥協しない実行派としての姿が見えてくる。そのためには、文筆にも訴える。事態を公にし、自ら隠れはしない。つまり、一般に誤解されている書斎に閉じ籠るばかりの人間とはまったく異なった、社会的にも極めて積極的な姿が読み取れる。そして、私たちがここで改めて思い起こすべきことは、作家としての福永が、極めて能動的であるということ、つまり、そもそも実験小説家として、作品毎に異なった文体、構成を工夫し、現実とは異なった次元の別世界を構築しようとする野心を生涯持ち続けたこと、この野心とは、現状に満足しない、あるがままの現実を受け入れるのではない、極めて能動的なものであることを再確認したい。
Ⅱ.「私の揺籃」
福永文学理解のために、極めて示唆に富む一文である。小説は言葉から成る。その言葉を、そもそもどのようなものとして福永は捉えていたのか。
「言葉は何よりも、表現不能の或る不可思議な世界を、魂を、暗黒を、探り当てる測深器でなければならない」「現実は言葉の中にある。現実が虚妄であり、言葉そのものが別世界の現実だと考えなければ、どうして文学などというものが成立し得るだろうか」。
そのような意識のもとに書かれた福永の小説は、「たとえ現実をそのまま写しているように見える場合でも、必ずや別世界の消息にすぎず、作者がそれを伝え、読者がそれを共有する」ものである。磨き抜かれた言葉によって虚空に描き出された、現実の世界とは次元の異なる別乾坤、それが福永武彦の小説である。
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