若き日の福永の苦悩の日々を綴った『戦後日記』『新生日記』に加え、晩年の画文集『玩草亭百花譜』と年譜等を収録した最終巻。
第20巻について 目次 資料
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福永武彦電子全集第20巻について
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第20巻 日記と自筆物に見る福永武彦
Ⅰ.『福永武彦戦後日記』/『福永武彦新生日記』
「戦後日記」末尾の「いつか僕のロマンの時代色的資料たらんことを祈つてゐる」(1945年12月31日)という言葉には、敗戦直後のこの厳しい時代を生き抜き、将来必ずやロマンを完成するという福永の藝術家としての強い意志と、同時に作品完成の暁には、それが人々に広く読まれ論じられるようになることを願う気持が込められている。そのことを念頭に書かれた日記であるゆえに、一文と言えど書き流した部分はなく、字体も読みやすく、池澤夏樹氏が指摘するように全体としてひとつの「作品」となっている。
そして、この2冊の刊行によって、若き日の願いは現実となった。否、願いを超えたとも言える。私たちは、この日記のあちらこちらに福永作品読解のための様々の材料を見つけ出すだけでなく、この日記ソノモノをひとつの類稀な作品として、味わい感動する。そこに人生に於ける希望、葛藤、絶望などの原質を読み取り、自らの生を見つめ直す。
Ⅱ.玩草亭百花譜』上・中・下
収録の絵、特に晩年の草花の絵は、消閑のために戯れに描かれたものではない。これらは、「詩書画」をよくする文人としての姿勢がグッと強まってきた時期に描かれたものであり、体調の都合で自由に出歩くこともままならくなっていた福永が、紙面に可憐な草花の姿を出来る限り精確に写さんとする手業(てわざ)を通して、生の息吹を感じ取り、草花と自らの生をひとつの世界として定着した作品である。謂わば生の証(あかし)と言える。草花の姿を描くだけでは足りず、「草花同定帖」のような、各種の植物図鑑と首っ引きで時間のかかる絵に集中し得たのも、見た眼だけでなく、草花の生の実相に迫りたいという衝迫があったからだろう。
Ⅲ.福永武彦を自筆で観る、読む
編者は、福永の各種資料に数多く触れることで、福永その人に近づけた気がするだけでなく、その文学に対する理解自体が大きく進展したと実感している。「資料の持つ力」をひしひしと感じている。
自筆草稿や創作ノートを見返していて、今まで思いもつかなかった視点が生まれて来る経験を何度もしているからだ。それは、手で触れることの出来るブツとしての資料の力でもあるが、何より「福永の自筆を眼にする」ことの効用である。オリジナル(実物)に限らず、この電子書籍でも「福永自筆物を数多く眼にする」ことは、必ずや読者の福永文学理解を促進するに違いない。
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