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福永武彦研究会・例会報告
第201回(2023年9月)~第204回(2024年3月)


第207回研究会例会 2024年9月22日(日)
第206回研究会例会 2024年7月28日(日)
2024年度総会・第205回研究会例会 2024年5月26日(日)

第204回例会以前の例会報告


第207回例会
日時:2024年9月22日(日)13時~16時30分
場所:リモート(Zoom)開催
【例会内容】 W.フォークナー『野生の棕櫚』

【例会での発言要旨・感想】 順不同(敬称略)
さんフォークナー『野性の棕櫚』検討を終えて
 福永が影響を受けた作家フォークナーの作品『野性の棕櫚』と、福永の「フォークナー、フォークナー!」「『野性の棕櫚』と二重の現実」(『福永武彦電子全集20』)、「フォークナー覚書」「フォークナーと私」(『福永武彦電子全集8』)の4つを捉えました。今回の研究会の目的は、福永がフォークナーのどのような手法(構成、表現方法など)を、彼自身の作品に反映させたのかということを捉え直すことでした。新たに、福永が影響を受けた日本の作家についての話もありました。
 さて、フォークナーの『野性の棕櫚』に対して、福永は「これは合せ鏡のように作られた小説で、常に右の鏡には左の鏡が映り、左の鏡には右の鏡が映っている。読者は別々の物語を謂わば同時に読むように強いられている」(「『野性の棕櫚』と二重の現実」『 福永武彦 電子全集20 日記と自筆物に見る福永武彦』:原出典1968『フォークナー全集14 野性の棕櫚』)と述べています。これを読んで、すぐに思い浮かんだのは、鴎外が『雁』の最後の24章で「譬(たと)えば実体鏡の下にある左右二枚の図を、一(いつ)の影像として視(み)るように、前に見た事と後に聞いた事とを、照らし合せて作ったのがこの物語である」です。
 今回の研究会がきっかけで、フォークナーの『野性の棕櫚」を新たな観点で読むことに挑戦できました。そして、「オールドマン」という意味が「ミシシッピ河」を意味する俗称であることを知り、土地と人の関係性を活かした福永の作品が思い浮かびました。
 また、福永が「率直に言えば、ジェームス・ジョイスとヴァージニア・ウルフとウィリアム・フォークナーとの三人(いずれもイギリスとアメリカの作家であって、私が学生時分に専攻したフランス文学に属していない)によって、私は何となく自分の進むべき小説の方向を定められてしまったという感じを否めないのである」(「『野性の棕櫚』と二重の現実」より)と述べている部分から、研究会でこれらの作品を福永との関係性から、また、読んでいきましょうという話も出ました。これらの作品を異なる視点で読み直せるという点で、少しワクワクした気持ちにもなれました。
 これからも、たくさんの知的な刺激に出会えるという期待をもって研究会を終えました。

Miさん:福永武彦作品の舞台裏、フォークナーの場合
福永武彦によるウィリアム・フォークナーを主とするエッセイには以下の4点がある(主として論じている文章に限る)。
① フォークナー覚え書 *1951年5月「文學51」 電子全集第8巻
② フォークナー、フォークナー! 電子全集第20巻
 *1966年6月 集英社版『世界文学全集4 フォークナー』巻末作品論
③ 『野性の棕櫚』と二重の現実 電子全集第20巻
 *1968年4月 冨山房『フォークナー全集14』巻末 
④ フォークナーと私 電子全集第8巻
 *1979年6月「ウイリアムフォークナー」2巻1号 

 上記が発表された年月を見るだけでも、福永が文学的出発時から晩年まで、持続的にフォークナー作品に関心を寄せていたことがわかる。
今回は、主として③、④を参照しつつ Ⅰ.福永武彦のフォークナー作品受容史、Ⅱ.フォークナーからの4点の影響、そしてⅢ.『野性の棕櫚』についての意見を皆で確認・共有した。②、➂は新潮版全集未収録。

Ⅰ.フォークナー受容
第1期:戦前の大学生時代から敗戦まで。
 主として仏語訳により『聖域』『死の床に横たわりて』の他2、3の短篇、そしてサルトルのフォークナー論を読む。
第2期:戦後清瀬のサナトリウムに閉居していた時期。マルカム・カウリー篇『ポータブル・フォークナー』(右画像・クリックで拡大画像にリンク)、仏訳『八月の光』でフォークナーに目ざめ、大久保康雄訳の『野性の棕櫚』と原文を対照しつつ読むことでその作品の虜になった。
第3期:療養所退所後から、邦訳と仏語訳が出る度に買い求め、切れ目なく晩年に至る。プレイアド叢書『フォークナー作品集』の詳細な註解や年譜をも愉しんでいる。

Ⅱ.フォークナーから取り入れた4点 
以下の4点各々の福永の理解に関しては、「フォークナーと私」を参照されたい。その技法・視点に刺激を受けて書かれた作品として、福永自らが以下の諸篇を挙げている。
1.時間の問題
  『心の中を流れる河』、『世界の終り』収録の諸篇。
2.作中人物の視点の問題
 『小説 風土』の終りの部分、『夜の時間』「世界の終り」、さらに『夢の輪』『忘却の河』そして『死の島』。
3.イタリック体の問題
 >せっかく日本語には片かなという武器があるのだから、イタリック体を移すには片か なが最適だと私は思うがどうだろうか。
 「夢みる少年の昼と夜」「影の部分」「飛ぶ男」「告別」、そして『死の島』における片かなの使用、「形見分け」における句読点なしの平がなの使用。
4.「ヨクナパトーファ」の問題
 「心の中を流れる河」と「夢の輪」の寂代物、「世界の終り」も人物はことなるが同じ土地。

 福永は、自らの作品の楽屋裏を随筆やエッセイで開陳しているが、特に晩年になるとその傾向が著しい。「私にとっての堀辰雄」(『秋風日記』)で堀辰雄の影響を自ら列挙しているが、このフォークナーに関しては影響を受けた自らの作品を具体的に明かしている。

*補足:例えば「飛ぶ男」や「世界の終り」でフォークナーのイタリックの問題(福永作品 のカタカナ文)を採りあげ、それを分析、論じることには意義がある。しかし、そのことでどれだけ両作品の魅力が解明され、伝わるだろうかという点はまた別である。
 つまり、魅力の源泉は福永の日本語、その本文ソノモノにあるのだから、たとえフォークナーの文学技法上の痕跡を分析してみても、福永作品の魅力は容易には開示されない。明晰かつ抒情的・静謐な文体の魅力を具体的に分析せずには、さらにその本文の変遷をしっかりと追跡することなしには、作品の魅力は決して把握できないだろうという点に関しては、今回は意識的に触れることをしなかった。

Ⅲ.『野性の棕櫚』について
 上記➂のエッセイを適宜朗読・紹介しつつ、参加者で福永の意見・視点を共有した(各自参照されることを望む)。
 その中で特に「オールド・マン」の話を<『創世記』の一種のパロディである>と捉えている点は興味深い。背の高い囚人がノアで、彼の方舟には(まるで感情のない女のように書かれているから)妊婦という一種の動物が乗って、<洪水の中を惨めにあっちに行ったりこっちに行ったりするが>、それは<ひょっとするとシャーロット(「野生の棕櫚」)の言った「愛は大洋のようなものだ」というその「大洋」に、愛に満たされて漂流しているのではないか>と記し、この話を人類が原始的に持っていた善、無意識の善を描いたものとし、文明に毒された愛を描く「野生の棕櫚」の話と対照させようとしている、と福永は言う。
このようなコントラストと、更に「選択」という主題(選択しない場合も含め、これは福永文学の鍵語でもあるだろう)に注目して、この『野性の棕櫚』の特に各話のラストを読み取っている点など、いかにも福永的である。

 今回は、Ⅰ、Ⅱでフォークナー文学の受容と影響を、そしてⅢで「野生の棕櫚」に関して福永自身がどう記しているのか、その点を皆で確認したまでであり、フォークナーの文学を検討したわけではない。せいぜい福永とフォークナーの関係を検討する土台を確認した程度である。フォークナー文学のなんたるかに関しては、各々が興味の有りように従って研鑽を積むしかなく、私たちとしてそれで十分だろう。
 ただし、今回共有したことは必須であり、この点をいい加減に―例えば上記4つの文章の全てにしっかり眼も通さずに、『野性の棕櫚』原文・翻訳と福永作品をやみくもに―対照、検討しても(解説ではなく作品ソノモノに寄り添うという意義は認められるが)、それは単なる自己満足に陥る危険性がある。

*上記『THE PORTABLE FAULKNER』新版の全訳が新たな解説他を附して、河出書房新社より2022年9月に刊行されています。


第206回例会
日時:2024年7月28日(日)13時~17時
場所:リモート(Zoom)開催
【例会内容】 「告別」

【例会での発言要旨・感想】 順不同(敬称略)
Kiさん:中篇「告別」(初出:「群像」1962年1月号)について
1.本作に対する作者の言及より ( )は「告別」参考資料一覧(本HP「参考文献」よりダウンロードできます)該当No.
・「福永武彦全小説第6巻 序」より(0-1)
 「告別」はその昭和36年の9月から11月にかけて書いた。それまで実験して来た二つの作風、観念を幻覚として凝固させる方向と、流れ行くものを内的リアリズムによって造形する方向とを、ここでは同時に追求したいと思ったが、それは私が長篇小説を書くための準備として「告別」を書いたことを意味していた。やがて私が試みるようになる長篇小説は、すべてこの二つの方向の交る地点に於て成立させたいと、既に気がついていたようである。
・「わが小説」(「朝日新聞」1962.3.13)より(0-2)
 「告別」の方は、動機は文体より事件にある。その事件を書くべきか否か、長い間ためらっていた。雑誌の註文はただ最後の決心を促したにすぎない。
・「私の小説作法」(「毎日新聞」1964.8.9)より(0-3)
 私は一つの作品が自分の仕事の延長上に於ける常に新しい実験であることを望んでいる。何も実験小説ばかり書くという意味ではない。自分の既知の主題、既知の技術のみで、ただの繰り返しを演じているのでは、その小説家は死んだも同然である。 (中略) 小説家が成長するにつれて主題が深く掘り下げられるのは当然のことだが、それは同じ方法を踏襲しながら書かれるべきではあるまい。新しい方法を(その主題にふさわしく)発見すること、それが小説という自由で難解な形態を選んだ者の、義務とまでは言わないが任務ではないかと私は思う。
・「告別」新版後記(1970年7月)(0-5)
 「告別」は今でも愛着のある作品と言える。ところがこの作品は発表当時から一種のモデル小説のように取られ、それは私の気持にまったく反していた。 (中略) これは私の小説、想像力の産物であり、決して現実そのままを複写しようとしたものではない。私の書いたのは「告別」という虚構世界に於ける現実であって、そこに登場する人物は「私」が私でないように、「上條慎吾」もそのまま存在した人物ではない。ただ作者は「私」をいかにも作者に似せて書き、それによって一種のリアリティが作品に与えられるように計算した。その計算が少しばかり上手く行ったからと言って、作中人物を現実と混同されては迷惑至極である。しかし初版を出版してから年も経ち、今では作品を純粋に想像的なものとして読んでもらえるかと思う。
・私にとっての音楽(「音楽之友」1967年7月)(資料0-4)
 どういうものか一つの小説を音楽的に構成したい(ということは純粋小説という意図とは抵触しないだろう)と考えているうちに、つい具体的な音楽作品がそこに絡まって来てしまうのである。そしてこの「音楽からその富を奪う」ことが、詩に於ても小説に於ても、私の関心をやまない野心である。

2.本作を扱った論考の概括 ( )は参考資料一覧該当No.
・「群像」発表時の評:
 好意的な評の例:「こういう意識派文学の技法と氏のめざす主題がなんの齟齬もなしに一致し得た例はないのではないか」(1-1)、「時間の前後が自由に転換され、「私」との接触面からみた主人公の外部生活と、彼の内的モノローグが交互に織り交ぜられているが、それが読者にすらりと飲み込める必然の手法となっている。題名を恥ずかしめぬ佳編である」(1-2)、「欠点も目につくが、それにもかかわらず私は「告別」に感動した。それは、福永氏の自分の「秘密」に対する誠実さが、ここから一貫して感じとれるからである」(1-3)、「この死んでいく男は、別に天才でもなければ魅力のある人物でもなく、むしろ異国娘との煮え切らない情事はいやらしいくらいだが、それでいてその死をいたむ気持ちが何となくホノボノと伝わって、好感の持てる中編である」(1-4)、「私はむしろこの小説のなかを流れる抒情性に心をひかれる」(1-11)など。
 批判的な評の例:「「父親」としての主人公、とくに、父親の「弱さ、醜さ」にふれて自殺してしまう娘との関係が、説得力を欠いていると感ぜられた」(1-9)、「人物もひとりとしてえがけていないし、作者が得意とする過去と現在の時間の交叉は一応うまく仕組まれているが、全体のナレーション(物語形式)を通じて躍動するものがない。それに「視点」の役割をしている「私」の設定が曖昧というよりも、とってつけたような機械的な感じで、拡がりも深まりもない。なんだか作者はこの「私」をえがくのにひどく臆病になっている。また文体も粗く、小説の構成もギスギスしている点もぼくを甚だしく失望させた。何よりも感心しないのは、言葉によって日常的な場から屹立したひとつの想像的空間を創ろうという意志を作者がはたしてどれほどもっていたかと疑わせるような部分が随所にみられることだ。「風土」以来の福永氏としてはまったく異例のことといっていい」(1-10)
・講談社文芸文庫「告別」解説(管野昭正氏)の要点(2-1)
 故郷を求めて彷徨する生という主題がはっきり書き込まれたのは「告別」が最初である。そして失われた故郷への希求としての生という観念は、故郷への回帰としての死という相補的な観念を招き寄せながら、「告別」以後の小説(「忘却の河」、「死の島」)でしだいに大きな比重を占めていくことになる。
 「告別」におけるマーラーは小説の内的な構造と結びついている。第6楽章が聞く者の魂に訴えかけようとするのは、沈鬱な告別の情感であるとすれば、この小説はそれと等質の情感を言語で喚起することに焦点をむけ、それを漸層的にたかめながら、その言語的な等価物になろうとする。明るい生と暗い死という常套的な対比を描き出すのではなく、暗い生と暗い死という暗鬱なイメージを繰り広げる対比、つまり福永のなかにすでに基盤を固められていた対比が、「大地の歌」という触媒を得て、ひとりの作中人物の内面の姿として具象化される。
 「私」が一人称で登場する断章と、上條を三人称として書かれた断章を交錯させる形式は、暗い生、暗い死という痛ましい認識に苦悩する内面の深淵の核の部分だけを、純粋に提示するために選ばれたのだと断言してもよい。
 ここでは、「彼」にせよ「私」にせよ、作中人物の内面はそれほど深い奥行をもっていないし、複雑な陰翳を畳み込まれているとは言えない。しかし、そういう犠牲を払ったために、生の暗さ、死の暗さの重圧に押しひしがれる一人の人物の内面の深淵が、あざやかに凝縮された純粋形態としてそこに彫りあげられることになったのも事実である。それは上條慎吾という一人の作中人物を越えて、普遍的な通用力をそなえた「生は暗く、死もまた暗い」内面の問題に結晶されてゆくのだ。
・「忘却の河」「死の島」への橋渡し的な小説とする論考:2-2、3-2、3-3、3-5
・前後する時間構成や異なる人称の重層についての論考:3-4、3-5
 原善氏の論考「<もう一つの「死の島」論>福永武彦 告別」の構造—響きあう声/告げあう別れ」(3-5)と、これを受けた162回例会のHaさんの発表が参考になる。
・マーラー「大地の歌」関連:2-3、3-6、3-8、3-9
・上條慎吾のモデルとされる原田義人について:2-2、3-7
 原田は、ドイツ文学者、翻訳家、元東京大学教養学部教授、1960年8月1日に癌で死亡(41歳)。
 加藤周一「続 羊の歌」(1968)によると、「告別」での上條の友人で医師の安井は、加藤周一と考えられる。
 欧州滞在中の恋愛(日本人女性)、入院から死までの経過などから、福永が原田の死を念頭に置いて、彼の死の1年後に小説を執筆したのは間違いないと考えられる。夏子の存在、死については創作と考えられる。
 マチルダのローマ字表記「MACHIRUDA」のなかに、ハラダ「HARADA」がそっくり含まれている。原田義人の一人娘の名前は、明絵(はるえ)という。これから連想がふくらみ、夏子、秋子というふたりの娘に結晶したのではないか。(3-7)

3.感想・検討
・小説としての印象
 読み返すたび、篠田一士氏の『これはいい作品ではない。人物もひとりとしてえがけていないし、・・・』(文献1-10)、菅野昭正氏の『ここでは、「彼」にせよ「私」にせよ、作中人物の内面はそれほど深い奥行をもっていないし、複雑な陰翳を畳み込まれているとは言えない』(文献2-1)と同様の感を抱く。
上條が、いわゆる暗黒意識を抱えた人物として描かれておらず、彼とマチルダの愛も不可能愛の次元にまで深まっていない。夏子の自死の動機が曖昧で現実性に乏しい。
 マーラーの交響曲「大地の歌」の援用は、福永の他の作品(「風土」「草の花」「死の島」)同様、あらたな小説的方法論の試みとともに作品に固有のリズムを創出する効果をもたらしていると評価できる。小説の最終断片で、演奏会場で「大地の歌」の歌詞とそれを聞く「彼」と内的獨白の「己」、「夏子」の呼びかけの言葉が詩的に重奏し、叙情的で感動的な場面を醸成している。
・福永の意図
 20余りの断片からなる本作の複雑な時間構成や異なる人称の重層(「私」「彼」やカタカナ表記の「己」、「夏子」の呼びかけなど(文献3-4、3-5で分析)から新しい方法論の探求が先行した小説であるとの印象が強く、「忘却の河」「死の島」へと続くその意図は福永自身の言葉からも窺える。『それまで実験して来た二つの作風、観念を幻覚として凝固させる方向と、流れ行くものを内的リアリズムによって造形する方向とを、ここでは同時に追求したいと思ったが、それは私が長篇小説を書くための準備として「告別」を書いたことを意味していた』(文献0-1)、『小説家が成長するにつれて主題が深く掘り下げられるのは当然のことだが、それは同じ方法を踏襲しながら書かれるべきではあるまい。新しい方法を(その主題にふさわしく)発見すること、それが小説という自由で難解な形態を選んだ者の、義務とまでは言わないが任務ではないかと私は思う』(文献0-3)。
・小説論
 作中で「私」が上條に、音楽と対比させながら、自らの小説についての考えを語る個所が”楽屋落ち”のようで興味深いが、これも本作における小説的方法のひとつなのだろう。ここで示されているように 「告別」は、原田義人(上條)の死という生(ナマ)の現実をモデルとして福永の意図する方法論により固有のリズムを創出し、新たな一つの現実を再構築しようと試みた小説と考えられるのではないか。そして福永はその試みを長篇小説に適用できるとの感触を得ることができたのではないか。「死の島」で相馬鼎が自らの小説について思いを巡らす「現実そのもののように多くの断片からなる小説」として「告別」が構想され、「死の島」へと継承されたのだと考えることができる。
(「告別」より 全集第6巻p422)
 「・・・小説家は嘘から出たまことという意味で、一つの現実を書こうと思う。それが果して真実になり得るか、もしなり得なければ、小説はたかがつくりあげられた人生、嘘っぱちの人生を描いたものにすぎなくなってしまう。そこのところがむつかしいんだ。(中略) これは感動的な、身の上相談的な材料を用いたから、それで人が感動するといったことじゃない。偉大な小説には固有のリズムがあり、そのリズムに合せて我々の見る現実よりも一層現実的な人生が、展開するはずだ。しかしそれは結局作者自身の幻影にすぎない。幻影というのはつまりは嘘さ。しかしそれは誠実な嘘であり、実在する幻影でなくちゃならないのだ。そこで固有のリズムをつくるための小説的方法というものが、主題を生かしもすれば殺しもするのだ。君はけなすけれど、何も僕だってむやみと変てこな方法を使うわけじゃない。そうしなければ、真の現実を捉えることが出来ないと思うからだ。」
(「死の島」より 全集第10巻p391)
 小説が如何に人生を模倣し、複写し、再現したからといって、それが人生の等価物である筈はない。(中略) 彼は、現実そのもののように多くの断片からなる小説を書こうと思い、ただいかにそれらの断片を選択し、表現し、展開するかによって、小説家の内部に於てしか決して実現しないような、つまり藝術にまで昇華した現実をつくり上げようと決心したのだ。

Koさん:「告別」に見られる福永武彦の思想
 私は、以下の文章を、「私」および「上條慎吾」の思想内容や発言内容が、基本的には、福永武彦氏 (以下、敬称略) の思想を表しているものと仮定して (あくまでも、そのように「仮定」して) 記した。この「仮定」はそれ自体重要な (あるいは、重大な)論点になりうるかもしれないが、本文章はそのような仮定のもとに書いたものであることを、予めお断りしておきたいと思う。
 福永武彦の小説「告別」について、私は、「ペシミズムの漂い詩情を帯びた、実存主義的な小説」という印象を持った。この「ペシミズムの漂い詩情を帯びた、実存主義的な小説」というフレーズの中には、「ペシミズム」〔pessimism〕と「詩情」と「実存主義的」という3つのキー・ワードが含まれているので、それら3つの言葉について、以下に説明したいと思う。
〔1〕「ペシミズム」について
 小説「告別」の中には、「生ハ暗ク、死モマタ暗イ」という言葉が何回か出て来るが (『福永武彦全集 第六巻』375頁12行目、469頁2行目、472頁1行目、以下 ページ数や行数は『福永武彦全集 第六巻』のページ数、行数を表す)、この「生ハ暗ク、死モマタ暗イ」という言葉は「ペシミズム」を象徴していると思う。
 (「ペシミズム」は、日本語としては、「厭世主義」や「悲観主義」がそれに対応する。「生ハ暗ク、死モマタ暗イ」という言葉は、マーラーの「大地の歌」の第一楽章で繰り返される言葉である。また、「告別」は「大地の歌」の第六楽章のタイトルである。このことは、424ページ11行目にも記されている。)
 468ページ15行目~469ページ3行目には、
…[夏子に向かって]オ前ハ青春ノタダナカニイタ。好運ハオ前ニ約束サレテイタ。ソレナノニオ前ハ。
 生ハ暗ク、死モマタ暗イ。
 ソノ方ガヨカッタノカモシレナイ。
と記されている。「ソノ方ガヨカッタノカモシレナイ。」という言葉は、非常にペシミスティックである。
 さらに、「己ノ人生ガ取リ返シガツカナイヨウニ」(473頁1行目) や「この世は私に幸福をめぐまなかった…。」(473頁8行目、「大地の歌」の第六楽章「告別」のアルトの歌) もペシミズムの匂いの濃厚に漂う言葉である。
 上に記した言葉から、私は、世界最高の厭世詩人として知られるイタリアの G・レオパルディ(1798~1837年) を思わせるような「ペシミズムの美学」とも言うべきものを、この作品〔「告別」〕に感じた。
 同時に、私は、この作品のペシミズムが、ドイツの文豪ゲーテ (1749~1832年) の思想と対極的であることを感じないわけにはいかなかった。
 ゲーテに、次のような言葉がある。
 「誠実な友よ。何を信じたらよいか、言ってあげよう。生を信じなさい。生の教えは雄弁家や書物よりはるかによい。」(詩「四季」)
 この言葉について、手塚富雄氏 (1903~1983年、ドイツ文学者、元東京大学名誉教授、元日本学士院会員、当時の「ゲーテ研究」の第一人者) は、「ここでまた、ゲーテの生き方の核心が言われた。……ゲーテは勇気をもって、生を信じ、生の教えに耳を傾けたのである。」と言っている。そして、さらに、手塚氏は、「これと同じ根から出たゲーテのことばをあげておこう。」として、以下の二つの言葉を記している。
 「わたしと同じように生活を愛そうと試みたまえ。」(『ツァーメ・クセーニエン』)
 「いつか死ぬという事実にさからってなんになる。そのために君は生をにがくするだけだ。」(「エピグラム風」)
 ゲーテは「生」を積極的に肯定しているが、「告別」における福永の思想は、それと対照的である〔対極に位置する〕と思われた。福永は教養人なのでゲーテの思想に触れていたと思うが (465ページ6~7行目には、「先生[上條慎吾]がゲーテとかベートーヴェンとか口にする時には、本当に尊敬しているという感じでしたね。」という言葉が見られる)、上記のことは興味深いことと思われた。
 因みに、「『生キルトイウコトニドウイウ価値ガアルノ?』」、「果シテ誰ガ知ッテイヨウ。」(469頁11~12行目)にも、「生」に対する懐疑が表れていて、ゲーテの思想と対極的である。

〔2〕「詩情」について
 福永の小説は全般に詩情豊かであるが、この「告別」にも詩情が感じられる。
 まず、この小説の冒頭の三つのパラグラフ (371頁1行目~372頁5行目) からして、いかにも福永らしい内省的・詩的な作風が感じられる (引用は長くなるので、省略させていただく)。
 また、小説の終わりの方には、次の言葉がある。
 「パパ、早クイラッシャイ。早ク。夏子ガ此処デ待ッテイルノヨ。」(469頁4行目)
 「パパ、早クイラッシャイ。夏子ガ此処デ待ッテイルノヨ。」(474頁16行目)
 「早クイラッシャイ、パパ。」(475頁5行目)
 これらの言葉には、「死」の有する美的魅力や心のやすらぎも含まれているのではないかと思われる。
 さらに、
 「彼は見ていた。笑い声を立てて走って行く夏子のうしろ姿を。彼がゆっくりと歩いて追いつくと、夏子はまた走り出した。蕎麦の畑に白い花が咲き、風が吹くたびに畑が揺れるように見えた。」(469頁6~8行目)
 「彼は見ていた。晴れ上った空に眩しいほど葉末をきらめかせながら聳えている樹を。その彼方の空にある白い雲を。梢に近い枝々では小鳥たちが安らかに飛びまわっていた。小鳥たちは喜々として歌っていた。」(473頁16~18行目)
 これらの情景にも、詩的情緒が感じられる。

〔3〕「実存主義的」について
 私が、この小説が「実存主義的」であると思ったのは、特に467ページにおいてであるが (すなわち、467ページの文章が、特に実存主義的思想を表しているように思われる)、まず「実存主義」という用語について説明しておきたいと思う。
 「実存主義」は、第一次世界大戦後~1960年頃にかけて隆盛を見た思想である。(「西洋哲学史」の本には必ず出て来る用語であるが、「学」〔学問〕(それは「客観的妥当性」を「生命」としている) と言うより、「思想」と言った方がよいと思う。)
 それ〔実存主義〕は、「人間の本質ではなく、孤独や不安や絶望に悩みながら現実を生きる個人的自己 (すなわち、『実存』) を、哲学的思索の中心に置き、『自己の主体性や自由』を回復しようとする思想」である。代表者としては、キェルケゴールやヤスパース、ハイデガー、サルトル 等が挙げられる。
 「孤独と愛と死と芸術」を凝視し続けた福永の小説は、一般に、実存主義的色彩の濃いものであると言えると思われる。
 私は「告別」の 467ページの文章が特に実存主義的思想を表していると述べたが、まず、467ページの7~11行目の文章を引いてみよう。

 しかし現代人にとっては (…中略…)、我々は死を恐れるばかりでなく、生をも恐れているのだ。我々はみな仮面をかぶって生活し、時々その仮面を取って自分の本当の顔を鏡に映すが、素顔の方が、この生の顔の方が、バコタよりも百倍も恐ろしいのだ。我々は昼も夜も仮面をかぶって暮し、遂にはそのことを忘れ、半ば死んだまま、真の死が我々に訪れるまで、渾沌のうちに過ぎて行く。

 私は、この文章を、以下のように解釈する。
(1)「我々はみな仮面をかぶって生活し」:我々は皆、人生における (本当の) 欲望ーー例えば、上條慎吾のマチルダへの恋愛などーーを隠蔽して生活している。
(2)「自分の本当の顔」、「素顔」、「生の顔」:人生における自分の (本当の) 欲望
(3)「半ば死んだまま」:本当の〔本来の〕自分を失ったまま
(4)「渾沌のうちに過ぎて行く」:ほとんど意義もなく人生が過ぎて行く
 次に、467ページの15行目~468ページの1行目を引用してみたい。

 しかし私は恐ろしいのだ。途方もなく恐ろしいのだ。その時私は肉眼で、生の実態を眺めるからだ。その時私の飼っていた獣たち、ーー無意識の群れが、これが生だ、これが生の正体だ、と叫びながら一斉に私の意識の表面へと浮かび上って来るからだ。
 そして生を恐れた人たちの或る者は、死を迎えるはるか以前に、彼等自身の生を既に見失ってしまっていたのだ。--上條慎吾のように。


 私は、この文章を、以下のように解釈したいと思う。
(5)「生の実態」:本当の〔本来の〕自分の人生
(6)「私の飼っていた獣たち」:無意識のうちに抑圧されていた欲望
(7)「これが生の正体だ」:これが本当の〔本来の〕自分の人生だ (すなわち、これが、無意識のうちに抑圧されていた欲望に忠実な自分の生〔人生〕だ)。
(8)「生を恐れた人たちの或る者」というフレーズ中の「生」:無意識のうちに抑圧されていた欲望 (に忠実な人生)
 (例えば、上條慎吾の「マチルダとの恋愛」などが、これに相当する。)
(9)「彼等自身の生を既に見失ってしまっていた」:彼らの実存〔本来の自己〕(の人生) を既に見失ってしまっていた。
 (上條慎吾を例に採るならば、彼は「マチルダとの恋愛」を諦めて、道徳的義務感等から、悠子や夏子、秋子のもとへ戻って、悠子との生活に甘んじた。「私ガ[マチルダとの恋愛を]諦メタコトヲオ前[夏子]ハ分カッテクレタ筈ダ (悠子ニハソレガ分ラナカッタトシテモ)。ソノ時カラ私ハ死ンデイタノダ。」(379頁6~8行目)という上條慎吾の心の声や「パパハ御自分ヲ欺イテイル。パパハ御自分ヲ欺イテ生キテ来タノヨ。」(380頁8行目)という夏子の声が、夏子の告別式の場面において記されている。また、上條慎吾は、「もしも僕が自分の思い通りに生きられたとしたなら、僕は作曲家か、でなければせめてピアニストになりたかった。」(373頁6~7行目)と言っていたが、その願いも叶わなかったのである。)
(10)「ーー上條慎吾のように。」:「上條慎吾」は、「生を恐れた人たちの或る者」の一つの例である〔一つの例に過ぎない〕。
 以上が、私の「告別」467ページの文章の解釈である。

 私は、この小説〔「告別」〕における「思想」の重心〔核心〕は、『福永武彦全集 第六巻』の467ページ、すなわち「実存主義的思想」にある、と考える。
 「実存主義的思想」は上條慎吾の一周忌の場面 (467頁) で述べられているが、それより前の叙述、すなわち「私」を語り手として「上條慎吾」を主人公として述べられている、この小説の筋の主要部分を構成している文章は、この普遍的・抽象的な「実存主義的思想」のための一つの詳細なわかりやすい「具体例」となっているとも考えられる。
 そして、「彼は見ていた。」と「彼は聴いていた。」とが16回にわたって繰り返される、468ページ~475ページ〔最終ページ〕の文章は、この小説のための「内省的で詩情豊かなエピローグ」とみなすことができる、と思われるのである。

Suさん:『告別』感想
 随分と久しぶりの再読で、正直なところ内容の詳細は忘れていた。今回の再読で、この作品はその小説技法、主題の上から、福永文学における一つの結節点を成す重要な作品であるとの認識に至った。例会当日、Kiさんの要を得た大変すばらしいレジュメと発表、また参加の皆さんの貴重なご意見のおかげで、自分の曖昧であった感想を幾分か明確化できたので、以下に記しておきたい。

・『告別』はモデル小説か
 福永周辺の文学者たちからの、この作品に対する評価の低さの要因の一つに、上條慎吾=原田義人、作中の「私」=福永と想定され、自ずからこれは私小説的モデル小説である、と読めてしまう点がある。確かにそう読めてしまうのは一つの欠点であろう。が、作者本人が新版後記の中で完全に否定しており、そう読むべきではないと考える。
 福永は「わが小説」(「毎日新聞」1964.8.9)で「動機は文体より事件にある。その事件を書くべきか否か、長い間ためらっていた。」と書いている。当然これは原田義人の死を意味するのだろう。だが、それをもって短絡的に『告別』をモデル小説とするのではなく、小説を書く「動機」になったと素直にとらえればいいのではないか。
 作者における"「草の花」体験"程ではないにしても、作者の身辺に起こった「事件」は作者に切迫した心情をもたらした。自らは幾つもの危機を乗り越え現在ここにあるが、友は人生を中途で断ち切られていった。その無念さを福永は書かずにはいられなかったのではないか。

・小説の構造
 ではどのように描くか。その工夫が作品の構造にある。作品は23の断章からなる。そして、各断章は時間軸とは一見無関係に並べられる。だが、その配列は「事件」を最も効果的に読者に訴えかけるための計算に基づいて並び替えられているのだ。
 まず、小説の記述スタイル。「私」というこの作品の「事件」を記述する小説家からの視点で描かれた断章と、この作品中の「事件」の主人公たる「彼」(上條慎吾)の視点から描かれた断章とからなる。そして、「彼」の視点から描かれる断章には、カタカナで主に記述される「己」の内的独白と、その内的独白に時として木霊するように上條慎吾の亡くなった娘夏子の呼びかける声、また、更にクライマックスではマーラーの「告別」の歌詞の一節も挿入される。
 この小説の断章を時間軸順に並べて「事件」を確認すると、ある初冬の夜クラシックコンサートで「私」は友人上條と出会い、バァで共に過ごし帰宅途中も共にする。ところが、その晩が上條の娘夏子の睡眠薬による自殺の夜と重なっていた。ほぼ一年後、「私」は上條が体調を崩し入院したことを知り、妻と見舞いに行く。そこから、「私」は彼の転院の世話をすることになる。そして、死病を得た上條の死と葬儀が描かれる。小説内の時間の最後は、上條の一周忌当日の展覧会の様子と一周忌の描写である。これらはすべて「私」の視点で描かれている。ともに中年を迎えた友を襲った、人生の挫折ともいうべき死の表層的な現実である。確かに悲惨ではあるが、そのような不幸な人生はまま見られるものである。しかし、その当事者本人の内面に去来するものはどういうものであったか。その内面の葛藤を「彼」の内的独白をメインに据えて、より劇的に読者の心に響くよう様々な工夫を凝らしたのであろう。時間軸順によらない断章の再構成ということだ。
 「彼」の視点で描かれた断章は、小説家である作中の「私」が、上條の死を受けて想像(創造)した作品(作中小説)とみることもできる。そして更に、『告別』という小説全体が作者福永による創作ということになる。
 最初の断章で上條の葬儀を描き、そこでマーラーの『大地の歌』第一楽章で歌われる歌詞の一節「生は暗く、死もまた暗い」という言葉が、この作品の基調として提示される。次に、対比するかのようにその前年の上條の最愛の娘、夏子の葬儀を上條の視点から描く。その後も各断章は交響しつつ展開し、小説の半ば11、12、13番目の断章で「私」と上條との交友の「事件」に関わる重要な接点を描き、夏子と上條との会話を通してこの小説の主題が明示される。また、「独自の方法論により固有のリズムを創出し、新たな現実を再構築しようと試み」るとする「私」の小説論も披瀝される。そして、それに続く上條によるマーラー『大地の歌』の紹介によって、この小説と『大地の歌』との関係も示される。言わば作者本人による作品自解といってもよい。クライマックスに近づくにつれ、「彼」の視点で描かれる断章内のカタカナ表記の内的独白は、なかったり短くなったりしていく。最後の23断章では、「彼は見ていた。」「彼は聴いていた。」で始まる地の文のフレーズが繰り返される。そして、そのあい間あい間に細切れでカタカナの内的独白が展開する。死が差し迫った上條の脳裏を駆け巡る、数々の思い出と途切れがちになっていく彼の意識を反映するかのように。それは、詩的に展開する「固有のリズムを創出し、新たな現実を再構築しよう」という試みにほかならない。

・小説と音楽
 その「固有のリズム」は、マーラー『大地の歌』、特に第六楽章「告別」とリンクする。『告別』の歌詞の一部がとぎれとぎれに引用されて、音楽の流れと死に赴こうとする上條の意識の流れとが交響し、読者の心にこだましていく。

 「たちまちあの長い第六楽章の『告別』が、ピアニッシモの弦の上にオーボエで主題を響かせるのだ。(中略)つまり人生の本質というものが、アルトの独唱に乗って、僕自身の魂の旋律となって心の中でひびきはじめたからだろうな。『私は故郷を求めてさ迷う』たしかにそうだ。ただ僕たちはこの世に於て、何処にその故郷があるのか知らないんだよ。」

 作中で上條が「私」に『大地の歌』を解説する一節である。
 福永は「私にとっての音楽」(「遠くのこだま」1970所載)の中で、「どういうものか、一つの小説を音楽的に構成したい(ということは純粋小説という意図とは抵触しないだろう)と考えているうちに、対具体的な音楽作品がそこに絡まってきてしまうのである。そしてこの『音楽から富を奪う』ことが、詩に於ても小説に於ても、私の関心をやまない野心である。」と書いている。
 その具体的な試みの一つが、この『告別』である。彼は、『草の花』においてショパンのピアノ協奏曲二番を、『風土』でベートーヴェンのピアノソナタ「月光」を取り上げているが、ともにその作中のシチュエーション、或いは雰囲気を効果的に表現するために用いたものである。だが、『告別』では作品の構成、文章表現と深く連関させながら取り上げられており、まさに「音楽からその富を奪う」意図をもって作品作りがなされている。
 これは『海市』、『死の島』へと繋がっていくものである。

・福永文学における『告別』の位置
 今回の研究会において教えていただいた参考文献一覧によれば、『忘却の河』との関連、また、『死の島』との関連を指摘する論攷に注目する。まだ具体的に目を通してはいないが、福永文学における『告別』の置かれた位置がおのずと示されよう。
 全小説第六巻の「序」に福永自らはこう書いている。

 「それまで実験してきた二つの作風、観念を幻覚として凝固させる方向と、流れゆくものを内的リアリズムによって造形する方向とを、ここでは同時に追求したいと思ったが、それは私が長編小説を書くための準備として『告別』を書いたことを意味していた。やがて私が試みるようになる長編小説は、すべてこの二つの方向の交る地点に於て成立させたいと、すでに気がついていたようである。」

 『告別』と人物設定は異なるが、家族構成はそのままに家族の成員各々の視点から作品を描いていく形で発展させたのが『忘却の河』。芸術家小説として『風土』の登場人物の後年を、人物設定を変えながら、『告別』のように「音楽からその富を奪う」意図をもって、更に追求していったのが『海市』。そして、『告別』で行った実験をはるかに大規模に行って綜合させ、ひとつの交響曲のようなスタイルに完成させたのが『死の島』であろう。
 『告別』は中編小説である。1961年9月から11月にかけて書かれ、「群像」62年1月号に発表された。中編小説ではあるが、小説の結構としては長編小説的な部分を持つ。であるがゆえに、登場人物の人物造形に膨らみを持たせる余裕がないまま終わっている。上條の妻悠子は主に「私」の視点から描かれ、あまりにも紋切り型であり、夏子もその死の理由の説明が不十分である。上條とマチルダとの愛も、鴎外の『舞姫』ほどにも切迫していない。そういう点からみれば、成功作とはとても言えないのだろう。だが、この作品は雑誌の註文によって書かれたものである。註文が何回かの連載ものであったなら、例えば『夜の時間』ほどの長さであったなら、人物像に書き込みがなされ、十分なふくらみを持った作品となったかもしれない。しかし、この長さで実験したからこそ作品の欠点も明らかに見通すことができ、作者にとって目指すべき長編小説の形が明らかになっていったともいえるのではないか。そういう点からも、福永文学における重要な位置を示す作品であるといえるのではないか。
 これまで書いてきた内容は、先行論攷で既に詳述されているのかもしれない。本来なら、これを書くにあたって主要論攷は確認せねばならず、不勉強のそしりを受けて当然である。しかし、一福永文学愛読者の“感想文”として、寛恕していただければありがたい。

・日本の60年代初頭における、マーラーの交響曲と小説『告別』
 今回『告別』を読むにあたって、気になったことがある。現在ではクラシック音楽ファンならずとも、多くの日本人がマーラーの名くらい知っている。交響曲の一部がテレビCMのBGMに使用されたことがあるくらいであるから。しかし、『告別』が書かれた60年代初頭ではどうだったか。ネット検索とかつて音楽評論の重鎮であった吉田秀和の文章とで確認してみた。
 マーラーのどの交響曲が最初に日本初演されたのかは定かでなかった。ただ、日本でマーラーが演奏されたのは意外と早く、1932(昭和7)年2月には5番がクラウス・スプリングハイム指揮東京音楽学校管弦楽部によって初演されているようだ。東京音楽学校教授のスプリングハイムは次々にマーラーを演奏しており、音楽学校の管弦学楽部を指揮し、1934年2月17日に第6番、翌35年2月16日には第3番を初演している。『大地の歌』の日本初演は1941年1月22日、ヨーゼフ・ローゼンシュトック指揮、新交響楽団で、会場は日比谷公会堂ということである。"千人交響曲"ともいわれる大編成の第8番は1949年12月8日、同じ日比谷公会堂で、山田和男指揮日本交響楽団によって演奏されている。その模様は「日本ニュース」第205号(1949.12.13付)に収録されているという。ちなみに、9番の初演は遅く1967年4月16日キリル・コンドラシン指揮モスクワフィル、東京文化会館であるという。
 このような経緯を考慮すると、一部のマーラーを好む音楽関係者が、啓蒙の意味を込めて、時々演奏会に取り上げていたというのが実情ではなかったか。
 そのあらましは、吉田秀和も『マーラー』(2011、河出文庫)中の「マイラーの流行をめぐって」と題する一文(1973.1.16『朝日新聞』初載)でも述べている。その中で彼は、「日本の音楽会がそれにどう応じたか。私は正確には知らないのだが、聴衆の中の少数の感激を別とすれば、大した影響を残さず終わってしまったのではなかろうか。私などずっと後輩だが、わからないその他大勢の組で、戦後早いころ、N響でマーラーを聴いたときも、感傷的で甘ったるい音楽として閉口した覚えがある。」とも書いている。この本の「文庫あとがき」でも「私は戦後になってものを書きだした人間だが、その私がマーラーの交響曲全9曲をすべてきいたのはバーンスタインがコロンビアから出したLPの全集を通してだった。あれは70年代に入ってからだったと思う。」と書いている。
 つまり、60年代初頭、一般の小説読者の大多数はマーラーの交響曲など聴いたことがなかった。そういう状況で、読者はこの小説をどう受け止めたであろうか。また、福永のマーラー受容の何と早かったことか。そして、彼は誰の指揮、どこのオーケストラ演奏で聴いて、この小説の構想を練ったのであろうか。 名盤とされるバーンスタイン盤レコードはまだ出ていなかった。ワルター、ウィーンフィル盤の『大地の歌』は1952年録音というので、これあたりであろうか。作中では、上條は留学中に放送局が持っている交響楽団の定期公演で聴いたということになっているが、「私」の方は書かれていない。
 私がこの小説を初めて読んだのは70年代後半、マーラーブームのなかであった。『告別』を読むのと『大地の歌』を聴くのとどちらが早かったか、今では定かではない。この小説を再読して、読みながら、当然、『大地の歌』の第一楽章冒頭やあの「生は暗く、死もまた暗い」の歌詞のメロディー、また第六楽章「告別」の音楽、特に消え入るように終わる「永遠に…永遠に…」のメロディーが、私の脳裏に繰り返しこだまする。『大地の歌』を聴いたことのない読者は、どのようにこの作品を読むだろうか。その心中に音楽は響いているだろうか。

Miさん:告別」を読む。
Ⅰ.「告別」自筆草稿と創作ノート ともに古書市場に流れている
①「告別」自筆草稿:400字原稿用紙×164枚揃。2001年7月の七夕古書大入札会に出品され落札(青木目録2の377番)。神保町玉英堂を通して入手。  
 自筆の筆跡を直に繰り返し眼にすることにより、福永の人柄だけでなく、執筆している最中の想い(逡巡や決断)、更に体調にまで想像力を羽ばたかせることが可能となる。書かれている内容を超えて、多くの情報を私たちにもたらしてくれる。
 時代を遠く遡って、道長『御堂関白記』の自筆はいまや手軽に眼にすることが出来るが、その翻刻だけを読んでいるよりは、たとえ一部でも道長自筆文字を見ることにより(注釈書では用紙のシミの位置にまで注目し、書かれた状況を推測しているなど)、単に親しみだけでなく、執筆時の状況や人間関係など様々なことを知る手掛かりとなる。
 『直筆で読む 坊っちゃん』や『直筆で読む 人間失格』(ともに集英社)のように手軽な新書本として、全画像を刊行できたら大きな意義を持つだろうと以前より考えている。
②「告別」創作ノート:200字原稿用紙(B5 細字横書き)×8枚。2017年12月、大阪の業者市に出品され落札、大阪矢野書房を通して入手。
 *この時、「小説 風土」(一部)、「世界の終り」「廃市」「形見分け」、そして「忘却の河」などの創作ノートと一括して出品された。源高根旧蔵資料。「忘却の河」に関しては、2018年1月の第168回例会報告文にて既に報告済み。

Ⅱ.感想
・作品評価は当時より必ずしも芳しくないが(篠田一士、中村真一郎)、『忘却の河』以降の長篇を創作するに当っての基点、転換点となった重要な作品で、福永文学理解の要となる。
・私(小説家)と上條慎吾との精神的気圏が同質なので、上條の日常生活(夏子との思い出や家庭での出来事、そしてマチルダとの交渉パート)を描いても、全体として平板な印象を受ける。
・衝突が描かれていない。すべては予定調和のよう。たとえば、上條とマチルダと悠子の三角関係を描くに際し、悠子の内面はあくまで夏子やマチルダの口を通してその内面が読者に示されるだけで、三者の直接的葛藤が描かれていないので、上條の独白が極めて重いわりに、家族を選んだ決断の重さがいまひとつ響いて来ない。悠子の内面を暗示するにとどめたことの効果を考慮していたことはわかるが弱い。
・上條が家族を選択した決断は、日本の因習的家族関係に縛られての消極的な「責任」ということで、それが生きる意欲の喪失に繋がったのならば、上條が西洋文化から学んだものには力がなかったことになる。自らの存在への根底的問い掛け。
 これは上條一個人の悲劇ではなく、日本の因習的文化と西洋の精神的気圏の大きな隔たり(これ自体が幻想であったかもしれぬが、しかし彼等はそれを実感していた)に引き裂かれた知識人の悲劇ということであり、当時の福永自身、その周りの中村真一郎や加藤周一たち誰にでも起こり得る普遍的な悲劇だった。
・身の周りの友人知人たちには原田義人を連想させる人物をわざわざ書いたこと、これは当時の福永の置かれていた日常生活、身体的衰弱に起因して、なんらかの精神的危機を福永自身が孕んでいたことを推測させる。
・1961年9月~11月にこの作品が創作されたという点に注目すると、1958年末の国立東京第一病院への入院、1960夏の原田義人の死去、そして同年秋の佐久市浅間病院への入院の体験が大きい。

 この「告別」を読むたびに(作品ソノモノを超えて)以下のような気持ちに囚われることをあえて強い言葉で記しておきたい。
 福永武彦の持つ魔的なものを、その作品内だけのこととして矮小化し、乱倫破戒の日常生活という一面をまったく無視し、小市民的倫理観念の枠内に収めて論じようとする研究姿勢に私はウンザリしている。 福永武彦という人は、そんなお行儀のよいだけの人ではないし、チンマリと纏まった文学ではないのだ。だから惹かれるのだ。
 「それはどんな表現者、芸術家でも魂にデモンを抱えている、福永が特別ではない、日常生活だって同様、なにもそんなことに眼を向けることはない」などという流通観念を基にして、自ら福永の日常生活を調べる労力を厭い、<わかった気>になっている研究者のなんと多いことよ。知らない人に関してモノを書くことのおかしさ。
 福永自身がボードレールやゴーギャンに関して論じ、年譜や年表を作成するために、どれほどの資料を探索し読み込んでいるかは、たとえば『ゴーギャンの世界』の「文献目録」に一目瞭然である。
 *「乱倫破戒」とは中村真一郎さんが福永に関して使用した言葉である。

Ⅲ.上記に関連して作品が創作された時期の福永の生活(文学的・日常的)を明らかにすることにより、作品に籠められた意図を読み解くことの薦め
 そのために日記、メモ、書簡類をも利用する。このような実証的手続きを<古い>と断じ、人間福永武彦を何も知らずに研究することのおかしさに気付いていないことが、福永研究停滞の大きな要因である。
 これからは間違いなく(漱石や龍之介は既にその路線に移っているが)、50年以前とは異なった位相での実証的研究が不可欠になる。時代がそれを求めている。

 以下、「告別」に関わる範囲での福永武彦の日常生活大略。
 1958年10月2日、胃潰瘍で国立東京第一病院に入院し(~12月19日 清瀬の療養所退所以来はじめて)、12月19日に退院。
 同年12月21日から肺炎になり高熱を発して寝込む。
 翌1959年、年明け回復過程で短篇「世界の終り」執筆(入院時の精神的気圏がこの作品に濃厚に反映している)。この1959年夏は懸案の『ゴーギャンの世界』第2章から第7章を執筆する傍ら、短篇「廃市」を「婦人の友」に連載し(7月、8月、9月号)、短篇「飛ぶ男」を発表(「群像」9月号)するなど旺盛な活動を展開。
 『ゴーギャンの世界』を書き進めていたことと、「告別」執筆に至る動機にはある種の関連があると私は推測している。
 翌1960年8月1日、原田義人死去。追分から上京し告別式に参列。式の際に流す音楽を種々選択する(福永はそういう高尚なことをやっていたが、こちらはもっと下世話な采配で大変だった、と中村真一郎さんから聞いたことがある)。
 同9月上旬に追分で下血し、13日に胃潰瘍で佐久市浅間病院に入院(~10月24日)。退院後はそのまま追分で静養し、翌1月10日まで滞在。
 同年7月に映画「モスラ」が公開され、『ゴーギャンの世界』刊行。
 同9月から11月にかけて中篇「告別」執筆。

 自らの体調が優れぬ一方で文学活動は旺盛であり、映画が大好評となり社会的認知度も上がる。体調に波はあるものの、40代前半でまだ基礎体力もあり、社会的活動も旺盛で、個人的日常での様々な<愉しい付き合い>もそれなりにあったろう。

Ⅳ.要諦はあくまで本文ソノモノ、作品研究の基礎として
本文ソノモノ、そして福永自筆原稿や創作ノートを丹念に読み解くことにより、実証的に作品創作時の意図とその実現の有り様を把握すること。その際、執筆過程で自ずから創作ノートから逸脱し、削除された部分、付け加えられた部分に留意すること。

★この前提として肝要なこと。本文がすべて。
 作品創作時だけでなく、その作品が社会的存在となった後の、本文の変遷、手入れ痕をキッチリと追うこと。ひとつの言葉、フレーズがどの段階から作品に記され、削られたのかを確定することは、どのような面からの研究に於ても不可欠のことである。具体的には、初出稿⇒単行本⇒新装版⇒文庫本⇒全小説に至る全版の本文異同を精確に押える作業が不可欠となる。この点を未確認な研究は砂上の楼閣となる。
 これは<(中短篇は)詩を創作する代わりに執筆した>という象徴主義小説としての福永作品が自ずから求める作業であり、作品の本質を把握するための必須の前提である。


総会・第205回例会
日時:2024年5月26日(日)13時~17時
場所:リモート(Zoom)開催
【総会内容】
・会計報告
・運営委員選出
・2024年度例会課題図書の決定ほか

【例会内容】 「深夜の散歩」

【例会での発言要旨・感想】 順不同(敬称略)
Miさん:『深夜の散歩』と加田伶太郎作品の特質

Ⅰ.『深夜の散歩』読解のための補足(初出誌と対照して)
①中村真一郎と丸谷才一の連載文の毎回の小題が単行本で新たに附されている一方、福永連載文では、文末***以下が増補されている。その増補の内容も原稿料が上がったことなど、このエッセイの親密で気楽な文体に相応しい。ここにも「書き換える(加える)作家福永」の姿を見ることが出来る。
②福永の連載部分には関わらないが、この本を検討する際、注意すべき点がある。それは単行本化するに当り、福永と中村の分は、雑誌連載をすべて収録しているが、丸谷の分は1961年12月号、1962年2月号、9月号、1963年1月号、3月号、4月号が、更に同7月号以降12月号(最終回)まで、計12回分が未収録である点である。
 連載途中である事実を丸谷筆の「あとがき」では、後のすべての版で何も触れていないので、雑誌を見ていない読者にはわからない。この単行本(初刊本)刊行時点で終了していたものと勘違いするだろう。
 丸谷の連載がまだ継続している1963年8月に単行本を発行した理由は、ひとつは全体の枚数が丁度良かったからであろうし、またこのエッセイが雑誌読者に好評だったことを伺わせる。
 1964年8月31日に再刷が発行されている。

Ⅱ.藝術小説(純文学)と探偵小説。
 福永が本名で発表する小説と、加田伶太郎名義で発表する探偵小説の根本的な違いについては、エッセイ「探偵小説の愉しみ」と「探偵小説と批評」の2篇にも簡明に記されているが、それをやや敷衍しながら、改めて私の考える要点を記しておきたい。
 探偵小説に於ては、著者の加田伶太郎は文学作品を創造することを目指してはいない。結果として文学的一面があったとしても、藝術としての小説が、その文章を以て読者に人生の本質的一断面を追体験させ、想像力を刺激して別様の世界を垣間見させることを目的として書かれるのに対して、言い換えれば読者の知性と感情の総和に訴えて、日常とは別次元のカタルシスを体験させるために書かれるのに対して、探偵小説は文章よりもその内容、「筋とトリックと推理」を本質的要素とし、読者の分析力、推理力に訴えかけ、一時の知的愉楽を与えることを目的とする。
 要するに、(20世紀以降の)藝術小説に於ては、喚起的文体を用い意識的に空白(謎と言ってもいい)を作ることで、読者の想像力の参加を誘い、日常生活から飛翔した一つの別世界を体験させることを目的とするのであり、その文章ソノモノが本質的要素であるのに対して、探偵小説では、「筋とトリックと推理」が本質的要素であり、文章ソノモノはそれを読者に伝える道具に過ぎない。コトバひとつひとつが担う役割り、重さが異なる。この点が決定的な違いである(電子全集で「本文主要異同表」を探偵小説では一篇も掲載していないのはこの理由に拠る)。
 ただし、福永の場合、探偵小説にも藝術小説と同様な版毎の文章の手入れ(初出→初刊→新版→文庫版→全小説版)が、少数ながら見られる。それは、前記の3要素をより説得的に読者に提示するための福永の良心である。
 もちろん、自ら記す如く、探偵小説と藝術小説は全く無関係ではない。探偵小説は、読者が推理を縦横に働かせること、その知的参加を求めるものであり、この読者の参加という点で、想像力の協力によって一つの作品が成立するという福永小説の(そして20世紀小説の)特質と繋がる。福永の目指した藝術小説は、短篇であれ長篇であれ、読者の想像力を喚起する空白部分(謎)が残されるものになっており、読者の魂の参加なくして完結しない。その面で探偵小説と通じ合う部分がある。
*Ⅰ、Ⅱともに「福永武彦電子全集」第9巻解題(2019.5)を転用し、若干字句の手入れを施しました。

Kiさん:「深夜の散歩 -ミステリの愉しみ-」について
1.書誌、登場作品・作者一覧
 別紙「深夜の散歩 ―ミステリの愉しみ―」書誌と紹介作品一覧(会員のみ公開)に示す。

2.執筆の経緯
 当時、文壇作家がミステリーを書くことが流行していたが、元々ミステリー好きで、既に加田伶太郎名義の探偵小説を発表していた福永は「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長、都筑道夫の依頼で1958年7月号より「深夜の散歩」と題して連載を開始、1960年2月号まで18回続け、中村真一郎、丸谷才一に引き継いだ。
 加田伶太郎名義の探偵物第1作の短篇「完全犯罪」が週刊新潮に掲載されたのが1956年3月、最終8作目「赤い靴」の小説新潮への掲載が1962年6月号であり、推理小説執筆活動の時期と重なっている。福永は当時について以下のように振り返っている。

 思えば私が加田伶太郎として一番張り切っていたのは、ちょうど「EQMM」に「深夜の散歩」を連載していた頃かもしれない。恐らく翻訳物の探偵小説を毎月たくさん読まされて、私もまた腕を撫していたからであったろう。
 「深夜の散歩」の頃(初出:「ミステリ・マガジン」1976年8月号、「深夜の散歩」単行(1978)に収録)

3.構成
 初版の早川書房「ハヤカワライブラリ」版では、18の章立てで、序文のQuo vadis?(何処へ行く?)以外は、「・・・の方へ」と題され、それぞれ取り上げる主たるミステリー作品がフィーチャーされている。
 全体で約100作の推理小説名が記されていて、アガサ・クリスティやエラリー・クイーンなど本格推理小説、レイモンド・チャンドラーやロス・マクドナルドなどのハードボイルド、 E・S・ガードナー(A・A・フェア)の法廷物、カトリーヌ・アルレエやウィリアム・アイリッシュなどのサスペンス物と幅広いジャンルをカヴァーしている。
 
4.『加田伶太郎全集』との関連
 「深夜の散歩」で窺えるように福永自身は、ジャンル横断的なミステリー・ファンであったが、“ミステリー作家”の加田伶太郎は”忠実な本格派”という設定で、安楽椅子型探偵(シャーロック・ホームズが典型)の古典学者・伊丹英典が事件を解決する短篇小説は、物理トリック重視の本格派探偵小説として始められた。エッセイ『素人探偵誕生記』(1959)には以下の記述がある。

 本格物がかくも退潮時にある時、一つこちこちの本格探偵小説を物すというのは、痛快でもあれば野心的でもある(と、われながら興奮してきた)。そこで絶対に名探偵が必要ということになった。

 単行本『完全犯罪』にまとめられた第1作「完全犯罪」(1956年3月)から第5作「電話事件」(1957年9月)までは物理トリック主体の本格派ミステリーだが、第6作「眠りの誘惑」(1958年7月)以降では作風に変化が見られる。第6作、第8作「赤い靴」(1962年6月)では心理トリックを加えたサスペンス要素が濃く、第7作「湖畔事件」(1961年10月)では本格派ミステリーのパロディー風味が濃くなっている。「EQMM」1558年7月号からの「深夜の散歩」連載のために触れた様々なジャンルの海外ミステリー小説が、第6作以降の作風に影響を与えたのではないか。個人的には、サスペンス要素の最も濃い最終第8作「赤い靴」がシリーズ中の最高作であると考えている。

5.探偵小説と現代文学作品
 福永は、両者の共通点として、いずれも読者を作品に参加させることにあると述べている。

 読者が作品に参加するという問題は、謂わば象徴主義の理論なのだが、二十世紀の小説が作者の意見を押しつける種類のものから、次第に読者の想像力を刺戟し、作品の中に空白の部分を残すようなものに変りつつあることと睨み合すと、探偵小説がはやることも、文学とまんざら関係がなくもない。
エッセイ『探偵小説の愉しみ』(1956年初出、「深夜の散歩」に収録)

 福永は、エッセイ『現代小説に於ける詩的なもの』の中で、現代小説における詩的方法の可能性として三つの特質(内密な雰囲気、空白な部分への読者の参加、時間的感動)を挙げている。そして、これらを取り込むことが福永の考える二十世紀小説の方向であるとの考えを示している。

 僕が以上に取り上げた三つの特質、―内密な雰囲気、空白な部分への読者の参加、時間的感動― これらは、広義な意味での詩的なものであり、現代小説に於ける詩的な方法の可能性、ということが出来よう。つまりは、その作品に固有の時間を持つ世界を確立し、その世界に読者を誘い入れ、読者の想像力が、自らも一役を買うような小説、それを買うことによって、読者が詩的な感動を覚えるような小説、そういう漠然とした定義しか言えないとしても、その方向が、反十九世紀的小説の主要な線であるように思われる。
 エッセイ『現代小説に於ける詩的なもの』(初出『東京新聞』1958年2月15~17日、全集第17巻に収録)

 二十世紀小説を志向する福永の作品においては、空白な部分(謎)を残すことにより読者の想像力を促すという手法が積極的に用いられている。
福永は1945年からの戦後日記や1949年からの新生日記の中でも、クリスティやヴァン・ダインなどの推理小説を読んだと記していて、読者の想像力を促すという手法について、意識的にあるいは自覚せずに推理小説から学んだ部分があるのではないかと想像される。

6.感想
・福永が苦労しつつも楽しんで書いたのだろうということが伝わってくる。
・私は中学生のころから海外ミステリーが好きで、「深夜の散歩」をガイドブックとしても活用していたが、本書(福永執筆部分)に登場する約100作品中、47作を既読している。初読時にインパクトを受けた1960年代までのミステリー作品を以下に挙げてみた(順不同)。
・シャーロック・ホームズの冒険(1892)/コナン・ドイル 安楽椅子型探偵小説の典型
・Xの悲劇(1932)(あるいは「Yの悲劇」)/エラリー・クイーン ”読者への挑戦状”の国名シリーズも有名
・黄色い部屋の謎(1907)/ガストン・ルルー 密室殺人の有名作
・八点鐘(1923)/モーリス・ルブラン アルセーヌ・ルパン・シリーズの代表作
・樽(1920)/F.W.クロフツ 警察小説の元祖的作品
・そして誰もいなくなった(1939)(あるいは「葬儀を終えて」)/アガサ・クリスティ 
・マルタの鷹(1930)/ダシール・ハメット ハードボイルド小説の元祖的代表作
・長いお別れ(1953)(あるいは「大いなる眠り」)/レイモンド・チャンドラー 村上春樹が贔屓の作家で大半の作品を翻訳している。
・警官嫌い(1956)/エド・マクベイン 警察小説”87分署シリーズ”第一作目
・幻の女(1942)(あるいは「暁の死線」)/ウィリアム・アイリッシュ サスペンス小説
・さむけ(1963)(あるいは「ウィチャリー家の女」)/ロス・マクドナルド 人間の心の暗い部分を探る重いハードボイルド小説で、福永の小説と近親性があるような気がする。


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