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福永武彦研究会・例会報告 第209回(2025年1月)~ |
![]() ![]() ![]() ◇第210回例会 日時:202年3月23日(日)13時~16時 場所:リモート(Zoom)開催 【例会内容】 『海市』に関する発表と討論(2) 【例会内容(ズームAIによる要約)】 ・概要 福永武彦研究会の第210回例会では、福永武彦の小説『海市』について議論が行われ、作品の分析が行われた。来年度の例会計画や福永と中村真一郎に関する研究会の開催予定が提案され、両作家の文学的価値や若い世代への伝え方について意見が交わされた。さらに、福永の初版本や創作ノートの入手可能性、関連する書籍や文芸誌の情報共有も行われた。 ・全体 Ki氏が前回の宿題について報告し、新たな『海市』に関する論考は見つからなかったと述べた。Su氏が『海市』の構造について分析し、25のパートに分かれていることや、バッハの平均律クラヴィーア曲集とブラームスの弦楽六重奏曲第一番を参考にした構成について説明した。Mi氏は次回の例会内容や新年度の計画について議論した。 ・『海市』について 作品の構造、登場人物の視点、音楽的要素の使用など。また特にボートシーンの断片に関して、その登場人物についての意見が交わされる。また、ウィキペディアを参照しつつ、記事作成者や編集履歴についての情報共有も行われた。参加者たちは、福永の文学的手法や感動的な描写、そして作品の曖昧さが持つ意味について考察を深めた。 ・創作意図、読者像を新聞記事より Mi氏は福永武彦の小説『海市』に関する二つの新聞記事について説明した。1968年2月の「信濃毎日新聞」と「神戸新聞」の記事を紹介し、福永の執筆過程、小説の構造、テーマ、そして読者層について触れた。そこで福永は、一人称と三人称を交錯させる独特の手法を用い、現代の愛と運命をテーマにしていると述べた。また、福永は澁と同世代の読者に作品を読んでほしいと語っていた。 ・福永偽造原稿 A氏とMi氏は、福永の初版本や創作ノートの価格や入手について議論し、若い世代の古書収集への関心にも触れた。A氏は、ネット上で福永の原稿「飛天」が安価で販売されているが偽造品として詐欺的な事例を報告し、自身も類似の詐欺に遭った経験を共有した。Ki氏は、過去の蔵書処分の経験について話した。 ・来年度の例会案 福永研究の継続と新年度に向けての計画についても言及した。Mi氏は新年度の内容案を提案し、5月は『意中の文士たち』を取り上げることが決定された。9月の内容については中村真一郎の『秋』を候補として挙げ、私小説について議論する可能性が示唆された。また、福永武彦研究会設立30周年を記念して、次号の会誌では中村真一郎による1997年の講演録を掲載する計画が提示された。 ・『死と転生』の議論と追悼 会議では、中村真一郎と木原康行の共著『死と転生』に関連して、A氏が木原さんの奥様から入手した書簡の一部を報告書に掲載することが提案された。また、福永武彦の追悼特集が文芸誌に掲載されたことが話題となり、参加者たちは福永と中村真一郎との関係について回顧した。Ma氏は源高根先生宛の福永著書『批評のAB』の購入を計画していることを報告し、Mi氏はその意義を認めた。 ・福永武彦と中村真一郎 Mi氏は、福永武彦と中村真一郎の文学に関する会を隔月でZoom開催する予定を説明した。両作家の関係性や文学的価値について議論し、若い世代への伝え方や現代の文学的教養のギャップについて懸念を示した。また、中村真一郎の評論や江戸時代末期のモダニズムに関する研究についても言及している。Mi氏は、これらの活動を通じて福永と中村の文学をより広く伝えていきたいと考えている。 内容:例会後の会員による投稿 Su氏:『海市』感想 例会で述べたことを少々補足し、また、別途考えたことを以下に纏めてみました。 *構成上の考察 本作は第一部、第二部、間奏曲、第三部の四部構成、全25のピースからなる。各ピースは全小説版では改ページされる形で、文庫本では前後一行ずつ空け ⁂ の印をつけて示される。各ピースは更に*印によって区切られる複数の断章からなる。そして多くの場合、「彼」と「彼女」を登場人物とする挿話を伴う。 その構成は、作品に附された「著者の言葉」にあるとおり「平均率(「律」の誤記?)クラヴィア曲集」になぞらえた形式だと思われる。バッハの「平均律クラヴィア曲集」は、24の各調性に基づいた「前奏曲」と「フーガ」からなる全24曲の作品である。「前奏曲」は、調性順つまり時系列に従って並べられた主人公澁のモノローグのものがたりと、「フーガ」は、主題である澁のモノローグと響きあう形で追走される挿話群と、いう形で対応する。音楽が対位法という技法によって、各旋律が聴く者の心に響きあって感動をもたらすように、小説中の各断章と挿話が読者の心に響きあい感動を生むという意図によって構成されている。 小説中の「間奏曲」の部分は、この小説の主題である澁と安見子との愛の物語の進展がなく、挿話も附されない単一のモノローグで終わっているので、「間奏曲」という文字通りのものとして省けば、一部、二部、三部を合計して24のピースとなり、「平均律クラヴィア曲集」と数字的にも合致する。 更に、各断章群の「彼」と「彼女」の挿話を確認していくとその付置には一定の法則が見られる。まず、断章群はその直前に述べられた澁のモノローグに内的に連関する「場面」や「言葉」で繋がるのだが、二つの断章が並べられるとき、最初の断章の「彼」と「彼女」は澁と弓子で、次が古賀と安見子を表すのが基調となる。そのパターンは小説の最後まで変わらない。現在進行している「私」と安見子の愛と、「私」と安見子それぞれの「パートナー」と挿話を通して、それぞれの愛のかたちが対比されて、読者に心的交響作用を働かせようとする意図のためであろう。その流れから推測すれば、第七パーツ(七章)での高原の湖でボートに乗っている場面は弓子と澁と取るのが最も自然であろう。ただ、ここでは作者は、直前の部分で弓子の長年の思い人菱沼の帰国を澁が知る場面を描き、次の挿話で描く「安見子」と同定できる「彼女」の、異性への接し方との対比によって起こる読者への心的交響を図り、敢えて、ここでの「彼」が澁なのか菱沼なのか同定しにくく描いているのであろう。これは、ここまで繰り返された挿話のパターンに変化を持たせ、物語に新たな展開をもたらす動機の一つとなる。実際、ここまでの挿話はすべて澁と弓子、次いで古賀と安見子のパターンが並ぶ形で展開しているが、次の第八パーツ(八章)の挿話は「彼」=澁と「友人」=古賀を示す形に変化させている。転調といってもいいように、以降時折「彼」と「彼女」が澁とふさ、菱沼と弓子、野々宮と安見子を示すパターン、或いは「彼」、「彼女」のみが登場する挿話をちりばめて、変化していくのである。 また、小説全体を俯瞰すると、著者が東京新聞に書いた「『海市』の背景」で述べる通り、「間奏曲」を短い第三楽章としてとらえ、全4楽章のブラームス「弦楽六重奏曲第一番」になぞらえる形式とみることもできる。この曲は作曲者ブラームスが、自らのアガーテ・フォン・ジーボルトとの悲恋を振り返って描いた曲としても知られ、特にその第二楽章の美しさは非常に有名である。この「海市」においても、第二部は安見子との愛の深まりを非常にロマネスクに描いており、そのハイライトは澁と安見子とが二人音楽会でブラームス及びモ-ツァルトの弦楽五重奏曲を聴く場面とそれに続く二人の情事とが描かれ、この二つの場面に通底して響きあう、「死を内蔵したような生の象」が「透明な悲しみがものうく心を捉えているところ、いつまでも暮れることのない長い黄昏」に包まれたような濃密な美しさは、やはりこの弦楽六重奏曲と対応するように思われる。 次に、小説中の冒頭部と末尾が対応し、(ただし、冒頭は澁の視点から、末尾は「彼女(=安見子)」の視点から描かれる)時を同じくする場面が描かれる点と、実際に同定される人物は異なりながらも、何度も繰り返される「彼」と「彼女」の挿話について着目する。 これは音楽でいうところの「循環形式」の作曲技法に合致するのではないか。「循環形式」は多楽章曲中の二つ以上の楽章で共通の主題、旋律、或いはその他の主題的要素を登場させることにより、楽曲全体の統一を図る手法とされる。福永は、ボードレールに倣い「音楽からその富を奪う」という考えで小説づくりを行っており、この作曲技法を作品作りに援用しているのではないだろうか。 冒頭と末尾の対応については、或いはウロボロスを想定したのかもしれない。ウロボロスは蛇が自分の尾を嚙む形で、始まりと終わりがないことから永劫回帰や不滅、再生、循環、完全などのシンボルとされる。また、悪循環、無間地獄であり、破壊と創造を意味するともいう。小説では、愛の不可能性、現代の愛の無間地獄の様を象徴させているとみることもできるかもしれない。 *小説中に描かれた色彩表現の特徴 小説中「間奏曲」冒頭で、澁が自らの絵の色彩について説明する箇所があるが、その中で「私は自分の固有の色彩を、謂わば魂の色相とでも言うべきものを、作り出したいと望んでいた。」と書く。福永もこの小説中で、色彩をそのような「魂の色相」として表現しようとしたのではないか。 まず、安見子においてそれが最も顕著に表れる。この小説は、澁と安見子の不可能な愛の物語である。そのため安見子をどのように描くかが問われる。福永は、特に一部、二部で、安見子のその時その時の服装について繰り返し描く。そこでは、ほとんどの場合服の色も細かく描写する。そして、それに連関するように風景描写を色彩感豊かに表現する。安見子の登場場面、或いは澁が安見子に思いを馳せたりするとき、作中には色彩豊かな風景が描かれる。これが読者に強い印象を齎し、安見子をより魅力的にする。 それに対して、弓子の場面ではそれがない。弓子の服装表現はあっても色彩の記述はなく、風景描写にも色彩感は乏しい。他の登場人物を描くときも同様である。 但し、数少ないふさの登場場面は別である。病に斃れ、若く死んでいったふさを描くとき、安見子の場合同様描写は色彩感に溢れている。死んでいったもの、或いは死にゆくものは鮮やかな色彩の中に描かれる。一方、自殺未遂は繰り返すが、死なない弓子は色彩感をもって描かれない。作者は、安見子とふさに対して「魂の色相」として、その魂を象徴するかのように美しい「色彩」表現を行ったと言えるのではないか。 澁の説く人間の三つの分類、「確実に死ぬべき人間」「生き残った者」「無関心な者」という分類。澁は自らを「生き残った者」と規定し、安見子は自らを「死ぬべき人間」と規定する。すると、作者は「死ぬべき人間」こそが美しいといいたいのであろうか。或いは、「生き残った者」が「死ぬべき人間」を見つめるとき、限りなく美しく見えるということであろうか。 作中冒頭の安見子との出会いに続く部分で、作者は「風景も畢竟人間的なものだ、(略)人間の眼が見るからこそ風景は風景としての意味を持ち始める。そして人間の眼は各人各様に見る。(略)そして私は、心の平和を求めて、この明るい風景のある漁村を訪れたのだ。しかしあの女は、何を求めて岬へ蜃気楼などを見に行ったのだろうか。あの寂しい岬でどのような風景を見ていたのだろうか。」と書く。安見子が見たもの、或いは安見子を通して澁の見たもの、福永はそれを「魂の色相」として作中に定着させようとしたのではないか。 *作品にみられる“愛の三角形”としての男女の三角関係の構図につて 「廃市」と対応する形で構想された「海市」は、短編のレシ「廃市」に対し長編ロマンであり、相応するように三角関係も重層化する。 「廃市」は、表面上の郁代―直之―秀の三角関係に、実は安子―直之―郁代の関係が隠れており、更に深層面での「僕」―安子―直之の関係が加わる。対して「海市」では、表面上①澁―安見子―古賀、②澁―弓子―菱沼の二つだが、深層面では③弓子―澁―ふさ、④澁―ふさ―古賀、⑤澁―安見子―野々宮の構図、また、⑥弓子―澁―「母」、更に死んでゆくものと死にそこなったものという関係の繰り返しから見れば⑦ふさ―澁―安見子という構図も描ける。 この三角形の構図は、常に福永作品の基本構図の形となる。もしかしたら福永は、人間関係の基本構図はこのようなものだと考えていたのかもしれない。どちらかを選ぶことは不可能であるにもかかわらず、どちらかを選ばざるを得ない。それが人間の置かれた運命である。そういった運命を生きねばならないのが人間であると。 *エロティシズム或いはデカダンスとしての裸体表現、性描写 *福永作品にみられる「海」のトポス的役割 これらの問題についても考えなければならないが、まず、作品が成立した1960年代という時代状況や、福永に多大に影響を与えたと考えられる荷風、犀星、川端等の作品との比較検討が必要であろうし、福永のほかの作品での表現も詳細に見ていかなければならず、今回は時間が許さなかった。いずれ検討していきたいと考えている。 Ya氏:初参加の感想 神田?神保町でしたか、池澤夏樹さんをゲストに迎える記事を日経新聞で読んでから、是非ともということで会へ参加して以来です。大学時代に親しんだフクナガですので、当時のじぶんを振り返っている状況です。今後とも宜しくお願いします。 Ma氏:源高根先生と『福永武彦作品批評A/B』 昨年のいつのことだろうか、けやき書店が『批評A・B 著作家蔵本限26函 M番 各源高根宛毛筆署名入 総バックスキン装 函少日焼』を出品しているのを知った(日本の古本屋より)。これは絶対入手すると心に決めた。たとえ、これが30万円だったとしても。だが、懐事情からすぐに購入できなかった。幸いその後状況も改善されてきたので、近々購入することができそうでホッとしている(購入するまではまだ油断はできないのだが・・・)。 私がこの書籍に強い思い入れを抱くのは理由がある。単に『批評A・B』の限定版であるなら購入を決断することはなかった。「源高根」宛の署名がある書籍だからこそ購入したいのだ。 福永―源という繋がりは、私の想像を超える深さをもっているものだろう。そして、私と源高根氏との繋がりも一言で語り尽くすことのできない関係でもある。 源先生は実際に私の先生であられた。私が高校卒業後進学先に選んだのは大阪藝術大学だったからである。進学の決め手となったのは、源先生と福永の話をしたかったから、という理由による。 私が入学してしばらく経ってから先生はこう語られた。「君ね、ぼくは面接で福永が好きだという受験生がいると聞いた時、『きっと変わり者だろうから落としなさい』と言ったんだよ。でも、君は思ったよりも普通だったのでよかった」とおっしゃられた。そして、ニコリとされたことを覚えている。 一回生の時に受講した”日本現代文学史”のテキストは確か『火の山の物語』だったと記憶している。それをテキストに選定されたことが気になって、ある時先生に「この本は一人で読んで楽しむような本だと思っていました。なので、講義のテキストとして選ばれたのはちょっと驚きました」と伝えると、「そうでしょう。それでも参考になると思って選んだ」と答えられたと思う。 福永を好む私のような学生が入学したと言うこともあってか、先生は講義に関して意気込んでおられていたようだ。実際、例年よりも詳細な講義レジュメを作成して講義に臨まれていた。そして、講義後はいつも学食で貧乏学生の私に昼食をご馳走してくださった。 悲しいのは今、私の手元に先生の講義のレジュメが一つも残されていないこと、また、正確には先生がどのようにおっしゃられたのか、記憶が霞んでいることだ。 先生とは一回生から二回生の頃までは深い繋がりがあった。しかし、先生がご病気で長く休講が続いたことや、私が福永以外の作品も多く読むようになったことも関係するのか、いつの間にか先生との間に距離ができるようになってしまった。私は愛書家で、蒐集家の先生に”敵わない”という気持ちになってしまったのだった。いや、それは体のいい言い訳に過ぎない。当時の私は密かに未完の『夢の輪』の続きを書くことなど、大それた望みを持っていた。だが、執筆するのに必要な知識も経験も技量も持ち合わせていなかった。恥を恐れずに記すならば、私は何事に対しても踏み出す”勇気”を持ち合わせていなかったのだ。そのような私に対しても、先生はあたたかい眼差しをもって見守ろうとされていたと思うが、私の方は無意識のうちに先生を避けるようになってしまった。側で私の振る舞いを見た友人から「(先生に対して)つれないな」と言われたこともある。それは仕方ないことだったのかもしれない。仮にそうだったとしても、先生の善意を無駄にしてしまった、という後悔の念が私にはずっとある。加えて、先生が亡くなられたという知らせを聞いた時も、葬儀に参列することもなかった。なぜそうしたのかといえば、お世話になった先生に顔向けできない、と若かった私は考えたからだった。 先生は私が今、限定版の『批評A・B』を購入しようとしていること知り、天国で憤慨されておられるだろう。 ただ、今の私にできること―それは先生が大切にされ、また福永自身手にとった限定本を他の誰でもない私の手元に置くことが先生への罪滅ぼしになる、と思えてならないのだ。 このように源先生を介して、私は福永と繋がりを持っている。 Mi氏:要点 ① 愛読者や研究者にもあまり眼に触れていないだろう1968年2月の「信濃毎日新聞」と「神戸新聞」の福永武彦インタヴュー記事を配付し、福永自身の『海市』に関する発言を改めて確認しました。 「もともと抽象的な、観念小説を書くつもりで、実は彼・彼女がだれなのか、もっと終わりのほうまで読まないとわかりにくくするつもりだったんですが、少しやさしくしてしまった」「僕としては澁と同世代の人に読んでほしい。意見を聞かせてほしいと思います。三十代の人たちにはちょっとわかりにくいところがあるかもしれませんがね」(「信濃毎日新聞」1968.2.5) 「小説はたんに作者が読者に与えるものではなく、読者も精神的に参加してクリエート(創造)するものだというのが僕の持論なんです」。読者と一緒に考えたいのは「死」であり、なぜならそれは「芸術と同様、人生の本質に触れるもの」だから。(「神戸新聞」1968.2.8) *「神戸新聞」記事は、どこまで福永が<その場で>語った言葉なのかやや不明瞭。 ② 福永武彦自筆の「文字遣ひ表」(B5×3枚 自筆複写文に後から青色細ペンで加筆)を配付し、文字遣いに関する福永の原則、特徴(特殊な漢字、かな書き、正字など)を適宜説明しました(資料は電子全集第14巻「解題」掲載)。 一篇の詩のように、読者に別次元の幻像を創造せしめることを目指す福永小説の分析には、構成や主題などの鳥瞰図と同時に「具体的にどのような文字を使用しているのか」という言ってみれば虫瞰図が必須となります。 ◇第209回例会 日時:2025年1月26日(日)13時~17時 場所:リモート(Zoom)開催 【例会内容】 『海市』に関する発表と討論 【例会内容(ズームAIによる要約)】 AI要約を利用してみました。元文の書名・人名を中心に、語句の一部を手入れしましたが多くはソノママです。 内容:『海市』に関する発表と討論 ・概略 福永武彦の作品『海市』について議論し、音楽的構造、対位法的手法、そして19世紀小説の影響について探求した。また、読者参加の構成、時間の扱い方、そして福永の信仰観と創作プロセスについての洞察を得た。 ・『海市』批評的分析 Ki氏は福永武彦の小説『海市』について批評的分析を行っている。作品の構造、音楽的主題、愛と死のテーマ、芸術家小説としての側面、そして主人公の澁と安見子の関係性について詳しく論じている。また、Ki氏は複数の批評家の見解を紹介し、作品の多面的な解釈の可能性を示唆している。 ・音楽理論と文学の類似点 Ki氏は、バッハの平均律クラヴィーア曲集と対位法の関係について議論し、平均律と対位法の概念を混同している可能性を指摘する。彼は音楽理論と文学における対位法の類似点を探り、川端康成や安部公房の作品を例に挙げながら、文学作品の構造と時間の扱い方について考察する。さらに、Ki氏は西田氏の分析を引用し、文学作品における語りの重要性を強調する。 ・『海市』の音楽的構造 Ki氏が福永の小説『海市』について発表し、その音楽的構造や対位法的な手法を説明する。Su氏は小説の色彩感と音楽性について意見を述べ、Ma氏は対位法的な構造に共感を示す。Mi氏は芝木好子からの福永宛はがきを紹介し、作品の二度読みの価値とラストの重要性を強調する。参加者たちは様々な視点から作品の解釈や分析について意見を交換する。 Ki氏は、福永武彦の小説『海市』と19世紀小説、特にトルストイの「アンナ・カレーニナ」との関連性について議論する。彼は、福永が19世紀小説の影響を受けつつも、20世紀的な新しい小説を書こうとしていたことを指摘する。Ki氏は、『海市』における「アンナ・カレーニナ」の反映や、主人公の「安見子」と「アンナ」の類似点について分析し、福永の小説創作の意図や手法を探る。 ・福永の信仰遍歴 Ki氏は福永自身の幼年時代、キリスト教との関係、そしてトルストイの信仰観について議論する。福永とトルストイの信仰遍歴の類似点や、教会批判、独自の信仰形成について触れる。また、Ki氏は「草の花」における信仰をめぐる議論や、福永の晩年の思想についても言及し、今後の研究方針を示す。 ・Ki氏論考について Mi氏がKi氏の論文について発言し、その重要性と潜在的影響力を評価している。Ki氏の論考が幅広い読書体験と他の研究者の正確な解釈に基づいていることが高く評価され、また福永の小説における読者参加の重要性と詩的要素について説明がなされる。また、福永の作品における時間の扱い方や言葉の選び方の特徴についても言及がある。 ・創作ノート Mi氏が『海市』創作ノートについて説明し、福永直筆の「『海市』主題とその表現に関する最後的覚え書」を紹介し、澁のモノローグが全体として遺書的性質を持つことを示唆する。 ・電話が物語の重要な役割 Mi氏は1968年1月に出版された作品を2025年1月の視点から読み直し、当時の固定電話が物語の展開や主人公の思考に重要な役割を果たしていることを指摘する。Mi氏は、現代の通信技術の発達により(追記:携帯電話が行きわたっているなど)、この物語が現在では成立しにくくなっていることや、当時の澁の弓子に対する女性観―追記:自らを「お人よしの騎士(ナイト)」(全集P126)と自認し、それが大人の男性の余裕を示すものと(おそらく)肯定的に捉えている澁の思考―が現代の視点からは厳しい、反発と苛立ちを招く可能性にも言及する。また、創作ノートの詳細な内容や構成について説明し、次回の会議でさらに資料を紹介する予定であることを述べる。 ・時代的制約と『今昔』の影響 Mi氏は福永武彦の作品『海市』について議論し、特に主人公の澁と妻弓子の関係性に焦点を当てる。彼は作品に描かれた澁の「男女関係」についての潜在的役割意識に言及し、現代の若い読者にとっては違和感があるかもしれないと指摘する。また、その理由として福永の私生活がこの作品に反映されているのではないかと推測し、福永が19世紀の小説を好んでいたことにも触れる。さらに、『海市』の構成について、『今昔物語』の影響を受けているのではないかという独自の見解を示している。追記:名のない様々な男女がアトランダムに登場する『今昔物語』の現代語訳をしたことは見逃せない点だろう。 ・澁と安見子の関係 参加者は澁と安見子の関係、安見子の妊娠と中絶、そして作品の解釈について議論する。Mi氏が主導し、Su氏、Ma氏、Ⅰ氏、Ki氏が意見を述べる中で、安見子の運命や澁の今後について様々な推測がなされる。また、作品の細部や登場人物の動機についても詳細な分析が行われ、特に「愛しすぎる」という概念や中絶の意味合いについて意見が交わされる。 ・福永小説の構造と意味 Mi氏、Su氏、Ⅰ氏、Ki氏らは福永武彦の小説について議論し、特にエピブラフ5行(漢詩)とその意味、作品全体の構造、そしてテーマに焦点を当てる。Su氏は、この作品を福永の最初の完成したロマンとして位置づけ、他の作品との比較を行う。参加者たちは、作品の解釈や福永の文学的手法について意見を交換し、次回の議論でさらに深く掘り下げる可能性を示唆する。 【例会の感想と意見】 順不同 Kiさん:感想と意見 2010年の第123回例会で『海市』を取り上げた際にまとめた文献一覧(HPよりダウンロード可)と、会誌9号に寄稿した論考” 『海市』における「アン ナ・カレーニナ」の反映 ―「十九世紀小説」の枠組に構築された「二十世紀小説」― ”の概略を説明した。 『海市』の函に書かれた福永の言葉“バッハの「平均率クラヴィア曲集」に倣い、男と女との愛の「平均率」を、「前奏曲」と「フーガ」とを交錯させる形式によっ て描き出そうと考えた”の主旨は、福永はバッハを頂点とする対位法音楽の技法(注)の概念を小説作品に援用し、異なる視点や物語、テーマ、登場人物の声などを並列的に配置し、それらを相互に響かせることで、作品全体に深みや複雑さを与えようとしたのではないか。この手法により、物語が単一的な流れにとどまらず、多層的で動 的な構造を持つようにすることを意図したのだと考える。 また福永は、”文学的主題を追い求めることよりも、この小説では謂わば音楽的主題といったもの、人間の魂の中の和絃のようなものを追って、小説の全体が読者の魂の中で共鳴音を発しさえすればいいと考えた”と述べているが、象徴主義に親和性のある音楽的アプローチを採ることにより彼の考える二十世紀小説志向を強く意 図した作品であると考える。 (注)音楽における対位法:音楽の作曲技法の一つで、複数の独立した旋律(声部)が同時に進行しながらも、調和して音楽的なまとまりを持つように作られる方 法で、バロック時代(バッハの「平均律クラヴィア曲集」など)でその高度な形が完成された。 Miさん:感想と意見 AI要約で例会発言の大意は紹介されていますので、その発言を補足しておきます。今回は、この『海市』を思い切り主観的に読んで―現在、2025年に生きている者のひとりの視点から―感想を述べてみました。 例えば、この作品では「家庭電話」、「公衆電話」が話の筋を進めるための道具の域を超えて、澁太吉の安見子への思慕を募らせ、愛と死と美に関してさまざまに思いをめぐらす切っ掛けを作るための重要な役割を担っているだけでなく、最後には、安見子のもはやこの世の声とは異なったあの世からの呼びかけを伝える「魔物のような黒い受話器」(P456)となります。その「黒い受話器」は、いまは一般にはほぼ使われていません。その視点からの感想がひとつ。 もうひとつは、澁が暗黙の裡に前提としている男女関係―澁は相手を思いやる優しい心を持った思慮深い男性なのですが、しかし―弓子や安見子への接し方は、自らを「お人よしの騎士(ナイト)」(全集P126)と自認し、例えば弓子が家を出る際には旗岡浪子に妻を雇ってくれるように内緒で頼み、それを弓子には決して言わない、そのような態度が大人の男性の余裕と優しさを示すものと(おそらく)肯定的に捉えている、つまり自分を妻の庇護者の立場に置くことが夫として、男性としての優しさを示すことだという暗黙の前提を読者と共有するものとなっています。もちろん、現在でもそのような男性は一般的に女性から好意を持って受け入れられるでしょうが、逆に苛立ちや反発、そこまでいかずともなんとなくの違和感を覚える女性も、作品が発表された1968年当時よりは多いに違いありません。その視点からの感想がひとつ。 他には、福永自筆創作ノート「『海市』主題とその表現に関する最後的覚え書」(2010年7月の第124回例会で配付しましたが、一般には未公開)の一部を朗読して簡単に説明しました。次回例会では、この資料を含めてほかの資料を紹介・解説することを中心にする予定です。 【関連書籍紹介、資料情報】 ![]() 62年前、福永武彦は『悪の華』初版・再版の全訳を一冊にまとめ、詳しい独自の註釈を付した。福永文学に欠かせぬ一翼を担う。が、残念ながら手軽な文庫本で読むことは出来ない。 7年前、池澤夏樹はカヴァフィス詩集の全訳を一冊にまとめ、各篇ごとに独自の註釈を付した。池澤文学に欠かせぬ一翼を担う。そして今、元版に手入れを施し新たな解説と「タイトル索引」を増補した岩波文庫で手軽に読むことが出来るようになった。これは意義ある事件だ。この喜びを皆で分かち合いたい。 ※「62年前」人文書院版 福永武彦個人編輯『ボードレール全集』第1巻刊行。 ※「7年前」書肆山田版 池澤夏樹訳『カヴァフィス全詩』刊行。 ② 現時点(2025年2月1日)で、ヤフオクと「日本の古本屋」に福永武彦自筆草稿が複数と創作ノートを含む資料群が出品されています。その中にあった『死の島』第54回草稿と短篇『海からの聲』草稿、自筆色紙が既に売却されています。これらは、昨年末の古書市に「一口物」として出品されたものです。本では『櫟の木に寄せて』11部自筆草稿挿入本が現在も出ていますが『福永武彦詩集』限定50部本の内非売7部本は既に売れています。 現在の出品者は神保町の夏目書房ですが、「一口物」として昨年末市場に出品した荷主、或いは出品を依頼した個人は不明です(教えてくれません)。複数存在する本に関しては問題ないのですが、自筆草稿がまたこのようにして巷間にバラバラになってしまうのは残念なことです。 |
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