師・堀辰雄の「父」を検証した『内的獨白』、愛書家として記した書物エッセイ集『異邦の薫り』『絵のある本』等を一同に収録。
第17巻について 目次 資料
|
福永武彦電子全集第17巻について
画像クリックで Amazon.co.jp にリンク |
第17巻 『内的獨白』、『異邦の薫り』、考証と校勘
Ⅰ.『内的獨白』
堀辰雄は、父親上條松吉が義父であることをその死まで知らなかったことを証しようとした熱意の籠った随筆的エッセイである。
この「内的獨白」という題からは西洋流のエッセイという感じを受ける。しかし執筆スタイルは、江戸以来の考証随筆の手法が採られている。それは、大略様々な資料(人、物、出来事)を蒐集し陳列提供することにより、そのモノ自体に語らせようとする手法と言えるが、特に先人の著作を広く蒐集し、その抄出を作成する(譜を作る)ことをその骨法とする。その「後記」で「この本は引用が大へん多く」とあるように、引用(抄出)の多さは福永自身自覚しており、江戸後期の小説や随筆を座右の書にしていた福永として、自然に採られた手法である。「幼年時代」の3種の文章を、紙面の許す限り数多く抄出し、その異同を具体的に提示することにより、読者が自ずから理(ことわり)を顕かにせんとすることを目的としている。
その手法は、普及版『堀辰雄全集』全6巻を単独編輯した際、各巻に附けた解説文を書いた際のスタイルとはまったく異なる。その解説文が、堀文学全体を鳥瞰図的に把握、紹介しようとする評論文とすれば、この「内的獨白」では、堀自身の書いたひとつひとつの言葉を抄出し、その言葉の変更、削除、増補跡を具体的に丹念に検討することで、特定の事実(上條の生前、堀が実父と信じていたこと)を浮き上がらせようと試みている。同じことは、『ボードレールの世界』、そして『ゴーギャンの世界』と比較しても言える。
従って、この『内的獨白』は、一般的には考証随筆と言ってよいのだが、しかしながら、福永作品に於いては、「随筆」と言うのは自身の姿を等身大に描くことを目的とし、そのために虚構をも含む文章のことなので、この作品はそのような随筆ではなく、堀辰雄という対象に関する特定の事実を顕かにしようとした(考証随筆の手法を用いた)エッセイであると言える。
Ⅱ.『異邦の薫り』
『内的獨白』が、江戸以来の考証随筆の流れを組むエッセイなのに対して、この『異邦の薫り』は、やはり長い伝統を持つ校勘(学)の手法を用いたエッセイである。
ⅰ.明治以降の好みの翻訳詩集を採り上げ、①訳文と原文、②訳文と他者訳を各々抄出し、対照、校合することを通して、当該訳書の日本語への独自の寄与、その文学(史)的意義を述べ、同時に訳文の特色を具体的に指摘し、その味わいを語っている。
つまり、全13冊の訳詩集を一つの文学作品として捉え、原文や他者訳と一語一語対照することにより、世界文学の流れの中に置き直し、その視点から訳文の特質を見極めようとしている点に、この『異邦の薫り』の特色がある。
ただし、抄出した文章を対照すると言っても、「内的獨白」に於いては各文の意味の違いに着目しつつ事実を追窮し、堀辰雄の内面に迫ったのだが、それに対してこの「異邦の薫り」では、原文や各訳文の詩句ソノモノの持つ音韻やリズムに着目し、訳文の特徴、その色合いの違いを指摘する。散文と韻文とでその手法が違うのは当然ではあるが、しかしここに於ける記述の根底には、詩の実作者としての、そして訳詩集『象牙集』の訳者としての眼差しが貫かれている点に留意したい。つまり、訳詩の現場から訳文を判定しているのがこのエッセイのもうひとつの特色である。
ⅱ.誤りや勘違いなどを指摘された箇所には、重版でその字句を訂正することはせず、末尾に指摘してくれた方の名前を挙げた上で、「重版追記」として増補している点に、自身「文士たる者は一度書いたことに対して責任を持たざるを得ない」(「冬の夜のモーツァルト」
『遠くのこだま』)と記した姿勢がよく示されている。
|
目次 ◎は単行本・新潮版全集未収録作品 |