師・堀辰雄との交情を記した初随筆集『別れの歌』をはじめ、『遠くのこだま』、『枕頭の書』等の随筆に、対談集『小説の愉しみ』を収録。
第15巻について 目次 資料
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福永武彦電子全集第15巻について
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第15巻 『別れの歌』、随筆の家としてⅠ
Ⅰ.随筆集
言葉によって表現し定着して、初めて「現実」はその姿を現すという考えから随筆に虚構を交えること辞さなかった内田百閒の創作態度に対して、「かういふ大胆不敵な虚構に百閒文学の真骨頂が潜んでゐるのではないか」(「等身大」 『書物の心』)と賞賛する福永は、百閒の創作方法から大いに学んでいる。福永に於いては、エッセイ(評論)と随筆は明確に区別される。一般的に両者は混用されているので、この点は、よく注意する必要がある。両者の違いのポイントを一言で記せば「一文の主役が対象(物)なのか、福永自身であるのか」という点によって分かれる。福永随筆では、誇張や創り話を意識的に採り入れる場合があるのだが、それは「自らにとっての真実(レアリテ)を伝える」「等身大の自己の姿を活写する」ためであり、そのためには事実(アクチャリテ)を創り変えることを辞さない。対象を描く場合にも、その客観的姿(事実)よりも、自らの内面に映ったその像を求める。従って、読者は内容をソノママ受け取るのではなく、文章自体の効果を愉しむ態度が求められる、そのような種類の散文が福永随筆である。その例は、「高村光太郎の死」(『別れの歌』)・「東京の夏」(『遠くのこだま』)・「紫の背広」(『遠くのこだま』)ほか、幾らでもある。
私たち読者は、福永の書き記す言葉から、自然風景や世相人情が、内面にどのような反響を惹き起こしているのか、その内面像を汲み取り、同時にその立ち居振る舞いから福永の人となりを愉しむ姿勢が求められよう。つまり、随筆は単なる閑文字、或は年譜作成の材料なのではなく、種々の色合いの文章によって表現された、ひとつの「自立した作品」であり、随筆もまた文学であるという点を忘れないようにしたい。
Ⅱ.『小説の愉しみ 福永武彦対談集』
対談・鼎談・座談文は、作品ではない。それらは、話した言葉を筆記者が文字に起こした上で読者に提供される「読み物」である。発言される場の状況によって、選択される言葉は違ってくる。対談相手との相関関係である。思いつきの発言もあろう。従って、必ずしも意に沿った適切な言葉が使われるとは限らない。つまり、あるテーマに対する意見なり感想なりの大意を知ることはできるが、別の対談者とならば、また別の言葉を使用することにより、ニュアンスは変って来る。まして、この対談集は福永没後の刊行であり、最終的に本人の眼を通っていない文章である以上、小説やエッセイ、随筆と同水準で鑑賞することは適当ではない。
しかし一方で、この対談集を読むことで、福永武彦のモノの見方、関心の有り様、何よりその能動的な姿勢が伺えてまことに興味深い。中村真一郎のあとがきに「福永の饒舌は、光彩陸離たるもの」だったとある通り、この対談集に見られる福永は饒舌であり、かつ能動的で、体調のよい元気なときの雰囲気――その顔つきや口調まで――を生々しく感じ取ることが出来るとう点で貴重な資料となっている。
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