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福永武彦研究会・例会報告(7)

第94回〜第99回(2005年年12月〜2006年5月)


第99回5月例会(2006.05.28) 報告


日時:第99回例会 5月28日(日) 14:00〜17:00
場所:世田谷文学館 講義室
内容:
@ 総会 場所:世田谷文学館ロビー 13:20〜13:45
参加者・委任状含め、25名の同意にて総会成立。前回4月例会にて合議した役員・活動内容その他を、全員一致で可決。
空席になっていた事務局長には、高木徹氏に就いていただくことになりました。

A 小中陽太郎氏講演会「回想の福永武彦 東大仏文科あれこれ」
  1月に一旦予告をして延期となっていた小中陽太郎氏の講演会が無事行われました。「研究会で話すとなると、いいかげんには出来ないからね」と、自らレジェメを作成され、数種の資料を持参・配付されました。
  講演は、これらの資料を縦横に駆使しつつも、それに囚われることなく、連想が連想を呼ぶ自由で生き生きとした、そして刺激に満ちた内容でした。
  講演内容は、高木徹氏の下記「大略と感想」を参照。
  
 講演後は、当日参加された佐岐えりぬさんも同席し、皆で愉しく歓談する機会が持てたことも、参加者各人の喜びです。
  この講演会の実現のためご尽力いただいた新事務局長の高木徹氏に感謝いたします。

今回の小中陽太郎氏講演会の際、配布された資料は以下の通り。

@ 講演レジェメ 小中陽太郎氏作成
「福永武彦 わが青春の『草の花』、またはロートレアモンからボードレールへ、そしてその綜合へ」 A4片面2枚

A 新聞記事
ア 「死後の世界 人間の内面を追求 福永武彦「冥府」より」小中陽太郎 (朝日新聞 61年8月26日)
 イ 「行儀よくなった学生達」 福永武彦 (東京新聞 58年6月8日)『随筆集 遠くのこだま』(新潮社 70年8月刊)所収「東大仏文研究室の今昔」
  A3片面1枚
B Baudelaire “L'INVITATION AU VOYAGE”の福永武彦訳(「旅への誘い」)・鈴木信太郎訳(「旅のいざなひ」) A4片面2枚

C 小中氏宛知人からのメール『ラ メール母』(平原社 04年7月刊)への読後感 A4片面2枚

D 海老坂武著『<戦後>が若かったころ』より(岩波書店 02年12月刊)
108頁〜109頁 A4片面1枚

E 小中陽太郎氏紹介(小中陽太郎公式サイトより転載) A4片面1枚

F 新聞記事 「ベトナムの悲劇 今も訴え「発掘された不滅の記録」展を見て」小中陽太郎 (朝日新聞 06年2月13日)
 A4片面1枚

G ア 福永武彦略年譜 (『新潮日本文学アルバム』より 94年12月刊)
    イ 合同古書目録「アンダーグラウンド、ブック・カフェ Vol.7」玉英堂
    目録より 【福永武彦 幻の詩集】 A3両面1枚

以上@〜D 小中氏、E〜G 三坂

・上記のように、小中氏は自ら講演の資料を数種準備され、参加者に配布された。当会の如く小さな研究会での講演(出席は13名)においても、真摯に向き合い、最善を尽くされる小中氏に、私は真の democrat としての一面を見る。  (三坂)

【大略と感想】小中陽太郎氏講演会 高木 徹

【大略】
 東大仏文科の学生であった小中氏は、ロートレアモンの講義を受けていた縁で、50年前のちょうど今日、五月祭での講演を福永に依頼していた。ところがいつになっても福永が現れなかった(中村真一郎夫人の死)というエピソードから語り始められた。そこから仏文科同級生であった大江健三郎の作家デビュー当時の思い出を始めとして、中村真一郎や加藤周一のこと、そして仏文科の先生方へと話題は広がって行く。
 その後の多岐にわたる談話のほんの一部を、箇条書きで紹介したい。

・福永の「行儀のよくなった学生達」という切り抜き資料の紹介。
・大学を卒業してNHKのディレクターとなった小中氏が、福永の「冥府」をテレビドラマ化したいと書いた新聞記事(「朝日新聞」1961.8.26)資料の紹介。
・四日市コンビナートを舞台に、小田実原作のテレビドラマを制作したこと。
・『草の花』出版時の共感−日比谷公会堂への憧れ、高校の寮の雰囲気。
・『草の花』に描かれている愛は、「自分の中にある思いを創作し作り上げたもの」を相手にあてはめるというものであり、その構造は『死の島』にも引き継がれる。また、その点が中村真一郎との違いである。
・ ボードレールの「旅へのいざなひ(旅への誘い)」について、鈴木信太郎訳と福永訳との比較。

なお、会場には佐岐えりぬさんもお越しくださいました。

【感想】
 小中先生とは十年以上の長きにわたって同僚として過ごし、折に触れ、福永や大江の話を伺う機会があった。こういう貴重な話を私一人が独占するのは勿体ないことであり、研究会の皆様にも、というのが今回の企画の発端である。

 小中先生は座談の名手であり、話題が豊富で尽きない。ただ、お話は(福永の小説と同様に?)直線的に進まず、様々な連想(「意識の流れ」?)で脱線しつつ螺旋状に進むので、その場に居合わせたものにはよくわかる話であっても、後からまとめるのは至難の業である。そんな言い訳で、下手なまとめをお許し願いたい。
 最後に、当日あまり触れられなかった小中先生自身の翻訳を紹介しておきたい。森山隆との共訳による「蟻三部作」、『蟻』『蟻の時代』『蟻の革命』(角川書店)である。とても面白い物語で是非一読をお勧めしたい。詳しくは「小中陽太郎公式サイト」参照。
http://home.c01.itscom.net/ykonaka/ 
 また、『源氏物語』マンガ英訳版(新人物往来社)も興味深いお仕事なのだが、こちらは入手が困難と思われる。

・高木氏の以上の一文は、6月10日には手元に届いていましたが、様々の事情で「例会案内」発行が遅れましたことをお詫びいたします。 (三坂)


【関連情報】「アルベルト・ジャコメッティ―矢内原伊作とともに」展を観て
  逗子いづみ氏による詳細なコメントは、下記参照。

「アルベルト・ジャコメッティー矢内原伊作とともに」展を観て 逗子いづみ

2006年6月3日(土)神奈川県立近代美術館葉山館へ「ジャコメッティ展」を見に行ってきた。展覧会の初日である。(会期は7月30日まで) 
 梅雨の晴れ間であった。逗子は初めてである。横須賀線は鎌倉までで、逗子も葉山も泳げない私には遠いところだった。裕次郎の葉山マリーナのイメージが強かったためであろうか、近づくのが気はづかしかった。ところが、今年は年初から近年開通した湘南新宿ラインの便利さに目覚めて、鎌倉とその1つ先の逗子は物理的にぐんと近さを増した。新宿から直通1時間で逗子までゆけるのである。
「ジャコメッティ」と「矢内原伊作」について私の知ることは少ないが、20世紀を代表する彫刻家の名と、高名な平和主義者基督者矢内原忠雄の息子である矢内原伊作の名は、以前から別々の理由で気になる名前であった。共通しているのはいずれも「不可解」な人である。だからその展覧会のチラシを目にしたとき、ゆくことが当然のように思えたのだった。

 逗子駅前の3番のりばから海岸通りをゆくバスは楽しい。海に注ぐ川に繋留してあるボートも、おもいのほか小さなマリーナに林立するマストもシーズンオフのせいかのんびりしている。小さな漁港も鄙びて空気がゆったりと流れている気がする。
 三が丘の「近代美術館前」でバスを降りる。旧有栖川宮邸の敷地に立ったという近代美術館葉山館は、自然の眺望をとりいれた、海浜にふさわしいびやかな建物だ。美術図書室、講堂、レストランも併設し、展示室の入場とは別に自由にはいれるという。
 ジャコメッティのまとまった作品を観るのも初めてである。これまでにもいくつかの実物を目にしたことはあるが、写真による映像でも、針金のように細長く伸びた特異な彫像は強い印象を残すが、なぜ、そのような作品をつくったのか、その作品がどのような意味で価値があるのか、疑問も同時に残るのである。ピカソをすばらしいと思い敬愛するようには、私にはわからない。
そのジャコメッティと深い親交をむすび画と彫刻のモデルを勤めた矢内原伊作についても、その人間像には、不可解に感じられものがあり、明確な人物像を結ばない。私はジャコメッティとの関係ではない、全く別の観点から興味をいだいていた。

 福永文学に親しんでいる人にとっては矢内原伊作は小説『草の花』の主人公汐見茂思が思いを寄せる藤木忍が親しんでいる友人、汐見にとってはときに「小悪魔」のように狡猾にたちまわる、と、苦く映る矢代のモデルとして知られているだろう。実在の矢内原氏がそのまま小説の矢代である訳はないが、小説の矢代にある種のレアリテはある。じじつ矢内原の著書『若き日の日記  われ山に向かひて』(現代評論社 1974,5)は、矢内原の昭和13年1月3日〜昭和17年1月19日までの日記であるが、冒頭よりまもなく、藤木忍のモデルとなった来嶋就信の死(昭和13年1月8日)の前後が、『草の花』に描かれたのとほぼ重なる状況で書き記されるている。矢内原は来嶋をいたみ、福永の受ける痛手に思いを馳せ、福永に知らせるために深更家を訪ねている。

 矢内原は、後に留学を通じて、ジャコメッティと深い親交を結び、そのきっかけを作った友人の宇佐見英治とともに、国内外にジャコメッティの紹介者として多数の翻訳と著作がある。
 なによりも作品は実物を目にすることが優先するだろう。また、見えてくるものをみえるままにキャンバスに粘土にとどめようとした彫刻家・画家の目に捉えられた矢内原像はどのようなものであるのか。
 展示室はゆとりのある空間に、初期の絵画作品からキュビズム時代の、抽象的な違和感不快感を表現した量感のあるブロンズ(不快感において共感できる)、画家であった父 ジョバンニ・ジャコメッティの2つの頭部(私はこの像がとても好きだ)、それらの物体としての表現から、「見る」ことの追求を深め、描き、消し、加え、削ぎ落としていった過程で地上に留められた画と彫刻があった。弟ディエゴの像、妻アネットの像、そして矢内原伊作を描いたいくつもの未完の画と、胸像。
存在の芯だけが直立したかのような人体、うごくひと。痩せさらばえた犬。表現のその追求の激しさゆえに小指の先ほどの小ささに削られたというちいさな作品。
 直立する女性は厚みがない。アネットと思われる発掘された鏃のような何体もの女性像は、古典的な均整のとれた女体とは全く異質にもかかわらず、老いてゆく女の生の変容のさまを突きつけるのであった。
 描かれた矢内原は幾重にも筆遣いをかさね異様に黒ずんだ顔から目だけがこちらを注視している。私にはやはりよくわからない、それゆえ好きになれないとおもわれた。『草の花』の矢代像による色眼鏡かもしれない。現実の人と創作された人物像を混同するのは間違いだが、なぜかエジプトのアメンヘテプ4世イクナトンを思い出してしまう。だが、こちらをまっすぐに見つめる目に、みえない何か深いものを見ようとする強いまなざしを感じもした。
 写生だけではない、空間の構成を意識した彫刻もあった。海原を背にはるかな高みに並び立つ4人の女は、物理的なサイズに関わらず広大な空間を感じさせた。永遠を見ているかのように。
 見えてくるものを見える通りに表すことの困難に絶えず挑戦し続けたジャコメッティは極めて知性的な人であったらしい。見ること、つくることの新しい地平を切り拓いたのかも知れない。仮借ない仕事人間でもあったようだ。写真に見るその風貌は、暴力的破壊的と評される作品に比して、穏やかな暖かみと、茶目っ気さえ感じられるのだが。

 ジャコメッティ展を見に行ったとき、私はただ作品を見れば足りると思っていたのでカタログすらも購入しなかった。文章を書くよう三坂さんに言われて、急いで図書館に走った。私の書庫は、6階のベランダから見える市立図書館にすることにしたのである。図書館にはジャコメッティに関する本が少なからずあったが、私が借用したもののなかの何点かを参考までにあげさせていただく。ジャコメッティ自身深い感謝を表しているがその刊行は見なかったヘルベルト・マッターの写真集は、ジャコメッティの作品に内在するものを「それ自身のレアリテをもって」(ジャコメッティの手紙より)見せてくれるすぐれた写真と思う。
 矢内原は、若年より生涯に渡り親友であった宇佐見にとっても、亡くなった後も「未知の友」であった(「見る人」あとがき)という。「不可解」なのは当然なのだろう。哲学者だった彼はジャコメッティと同様、たえず明日へ向かって現在をのりこえようとした人かもしれない。
私は、今からすこし丁寧に『見る人  ジャコメッティと矢内原』l を読もうと思っている。
 
参考文献
「ジャコメッティ 私の現実」 ジャコメッティ著 矢内原伊作・宇佐見英治編訳1976(1988,9刷)
「見る人 ジャコメッティと矢内原」 宇佐見英治著 1999  みすず書房
「ジャコメッティ」 矢内原伊作著 宇佐見英治・武田昭彦編 1996 みすず書房
「ジャコメッティ あるアプローチのために」 ジャック デュパン 吉田加南子訳 1999 現代思潮社
「ジャコメッティ」 写真 ヘルベルト・マッター 文 メルセデス・マッター リブロポート 1988
「アルバム ジャコメッティ」 撮影・テクスト 矢内原伊作 1999 みすず書房


 【資料情報】幻の福永武彦自筆詩集が市場に出現!
  当会昨年12月例会で取り上げ討論した『時の形見に 福永武彦研究論集』(和田能卓編 白地社 05年11月刊)に、資料として全頁写真版で掲載された「幻の福永武彦自筆詩集」が、東京G堂の合同古書目録にカラー写真版で載っている。売価150万円。
   値については何ともいえない。文学的価値を考えれば、決して高くはないのだろう。例えば同目録の、志賀直哉の自筆随筆草稿(ペン400字×5枚完)が売価120万円。
   出現経緯の安易な推測は、ここではすまい。しかし、このような事態(自筆資料が巷間に流出することは必ずしも憂慮すべきことではないとしても)を防ぐためにも、場合によっては「売却した者の素性は決して明かさない」という古書店の原則を脇においても良いのではないか?
   中村眞一郎氏生前、氏宛福永武彦自筆葉書が或る古書目録に載った際、中村氏本人の依頼で当該古書店に入手経路の開示を求めた際にも、書店は頑として入手先を明かさなかったことを思い出す。
  中村氏宛の堀辰雄・立原道造・川端康成・三島由紀夫等の書簡・葉書の束は、今もって行方がわからないままである。既に散逸してしまったのか。誰かのもとに一括してあることを願うのみ。それにしても、悲しい現状だ。

 【重箱の隅 U】全集版『死の島』本文に関して
  「全集版本文は、全小説版と同一である」という誤解があるようだ。『死の島』に関しては、果たしてどうなのか。

全集版『死の島』本文について 三坂 剛

  現行の福永武彦全集(新潮社)本文に関しては、研究者を含めてまだ共通の了解がない(誤解がある)ようだ。今回は、その中で『死の島』本文に関して若干述べてみたい。

  『死の島』論文執筆の際、多くの論者は「全小説版」(『死の島』上・下 74年7・8月)、あるいは「文庫版」(上・下 76年12月)を底本としている。
  「全集版」(上・下 88年4・5月)が刊行されていても、その全集版を底本とする者は、多くはない。

  文庫版を使用するのは「*本文庫において著者の加筆訂正を経ている」と「解説」の後に注記があること、つまり生前の最終手入れがあるからであろう。
「底本は、著者が手直しをした最終本文に拠るべきである」という立場で、これは、(本文の生成過程を論じるなどの他は)当然の選択である。
一方「全小説」を使用するのは著者生前公認の(例えば刷によって頁数が変わることのある文庫版に比べて、様々な意味で揺らぎの少ない)確定した本文に対する信用だろう。読み仮名なども、文庫版よりは著者の意に近いだろう。さらに、「手直しをした」と言っても、大幅なものではないから、という点もあるだろう。

  つまり、『死の島』論文執筆の際に「全集版」が使用されることの少ないのは @ 「文庫版」のように、最終手直しを施した本文ではない(という推測) A 著者死後刊行故、著者生前の「全小説版」本文のような信頼性がない という理由があるのだろう。

  しかし、まずここで確認しておかなければいけないのは「全集版に最終手入れはなされていないのか(全小説版と全集版の本文は同一なのか)」という点だ。
もし、全集版の本文が文庫版においてなされた手直しを取り入れているならば、この全集が底本とされても問題はないだろう。むしろ、全集版本文の基本が全小説版で(つまり、読み仮名その他は福永が生前手を入れた全小説版を引き継ぎ)、その上で最終本文としての手直しがあるならば、この全集版こそ底本とすべき、ということになる。

  さて、私が確認した範囲では『死の島』上・下の本文に関する限り、全小説版の本文=全集版の本文ではない。文庫版の本文=全集版の本文である。文庫版と全集版の本文は、同一である(全集版本文には、文庫版での手直しが取り入れられている)。
上・下全体に渡って詳細に検討してはいないが、文庫版における手直し箇所(上巻・下巻で、私の気付いた数十箇所)を全集版で確認した限り、全集版は文庫版の手直しを取り入れている。
読み仮名は、全小説版にほぼ準じている。
となると、『死の島』論文で底本とすべきは、この全集版ということになる。

  もちろん、現行全集版において、全ての作品が最終本文と同一かと言うと、必ずしもそれは当てはまらない。
全集所収の他の作品、例えば短篇「夢みる少年の昼と夜」の本文は、全小説版=全集版であり、最終本文たる限定版と全集版とは異同がある。このことは、昨年11月例会の際に指摘し、例会報告文にも記したので参照願いたい。
概して、全集版所収の作品本文は、全小説版本文と同一のものが多いとは言える。
つまり、現行の全集は、最終本文と全小説時の本文が混在しているという、まことに使用しにくい版である。

  しかし、上述した通り『死の島』本文に関する限り、最終本文たる文庫版と同一であること(ただし、読み仮名は全小説版をほぼ引き継ぐ)、このことは確認しておくべき事だろう。

  『死の島』論文において全集版を底本としている少数の論者には、以上のことは既知の事柄なのかもしれないが、周囲の数人の研究者・愛読者に尋ねたところ「気付かなかった」ということなので、あえてここに記した。


第97回例会報告(2006.3.26)

日時 3月26日(日)  14:00〜17:00
場所 世田谷文学館 講義室
内容:福永武彦作品を朗読する・聴く 其ノ壱
   『小説 風土』第一部 三章「海について」

T 福永武彦自作朗読『忘却の河』を聴く
  NHKラジオ第2放送 77年2月/再放送 2004年5月
  福永自作朗読は、『福永武彦全集 第7巻』74頁11行目〜77頁終り
  参考として、志賀直哉自作朗読(新潮カセットブック「山鳩」)を聴く。

U 『小説 風土』「海について」朗読
  (執筆時期:福永武彦自筆日記によれば、1945年9月末〜10月初旬。
   執筆場所:上田奨健寮)
  昌三、芳枝、道子、久邇を参加者で分担して「海について」全体を朗読。

V 朗読後の感想、作品朗読の意義討議
  諸版の本文異同を確認することの重要性を主張するMに対して、「何版でも大意は変らないのだから、こだわる必要はないのでは」という異議が出された。さらに「ルビ」の問題に関して、研究上どこまで厳密に確定することが必要なのか(意味があるのか)に関して話し合われた。

  今回の朗読は、一つの試みとして行った。視覚障害者用には、『死の島』や『海市』、『加田伶太郎全集』など多くの福永作品の朗読カセットが作製されている様子だが、一方研究として、素人の朗読を聴くことに何ほどの意義が見い出せるのか、これからもこの試みを継続したい。

配付資料・感想
 今回配付した資料@〜C、回覧・紹介した資料@〜Cは以下の通り。

【配付資料】複写
@ 今回の例会内容案  A3片面1枚
A 「鴎外のルビ」:『随筆集 書物の心』所収 
   初出「新潮」71年11月号/『福永武彦全集 第15巻』所収  A3片面1枚
B 「山口瞳を聴く 『江分利満氏の優雅な生活』」三坂 剛
   初出「山口瞳通信 其ノ伍」2005年8月刊 山口瞳の会  A3表裏2枚
C 「福永武彦『風土』論―その方法論をめぐって―」長 榮一
   以前、芸術至上主義文藝学会で長氏が発表された際のレジェメ  B4片面5枚
 @〜B 三坂、C 長氏

【回覧・紹介資料】
@ 「方舟」1.2 複刻版  81年5月刊 日本近代文学館
 『風土』第1部 1章〜3章までの初出。
 52年刊行の省略版と対照しても、大幅な違いがある。
A 新潮カセットブック・CDブックの書目一覧より作品一部紹介。
   多くは、有名俳優・声優が朗読する。残念ながら、150点以上の作品中に福永作品は1点も入っていない。
B 視覚障害者用カセットブックの書目一覧(「点字・録音図書総合目録」)より、福永作品の紹介。多くは、ヴォランティアの素人が朗読する。
 以下の福永著書が掲載されている(訳書省略)。
『風土』・『独身者』・『草の花』・『心の中を流れる河』・『廃市』・『告別』・『忘却の河』・『幼年』・『海市』・『風のかたみ』・『夜の三部作』・『死の島』・『愛の試み』・『ゴーギャンの世界』・『深夜の散歩』
C 『旧制一高の文学』稲垣眞美著 2006年3月刊 国書刊行会
  各界のエリートを無数に輩出した第一高等学校(一高)。その思潮を代表する論説や、新しい才能を発揮した創作・詩歌などの舞台となった『校友会雑誌』と、部活動・学校行事などの記録『向陵時報』に、一高文学の血脈を読む(Amazon co.jp 紹介文)。福永・中村の高等学校時代の文業について多少触れられている。
 @〜B 三坂、C 長氏

【感想】 2006 年 3 月 26 日 第 97 回 例会から  
 朗読 あるいは聴覚の領域」 三坂 剛

  小説の朗読を通して、福永作品を味わう試み。また、素人の朗読によって、愉しむことと同時に、研究上参考にし得ることが見つかるか。
  当日、参加者は「完全版」・「文庫版」・「全集版」等、異なる版を各々持参していた。役割分担して朗読する際、夫々の本文を読み上げていったところ、かなりの違いが認められた。特に「完全版」を朗読して、それを「全集」で追っていくと、「違い」が眼に付いたようだ。
朗読することで、福永がどれほど入念に本文に手を入れているかが、はっきりする。その違いを、聴いて確認できる。
   諸版の本文異同を確認しておくことは、研究の前提となることは言うを俟たないとしても、同時に、今回の作品朗読を通して、「漢字の読み」について改めて考えさせられた。福永自ら「鴎外のルビ」なる随筆で触れているが、日本語の漢字の読みは実に難しい。
朗読を「聴く」側に立つと、例えば「郷里」を「くに」と(朗読されるのを)聴くのと「きょうり」と聴くのとでは、あるいは「乳房」を「ちぶさ」と聴くのと「にゅうぼう」と聴くのとでは、大分感じが違うだろう。その「聴いた感じ」が聴く者に何ほどかの感情を呼び覚ますならば(=文学的体験の一部だとするならば)、漢字の読みは決しておろそかにはできない。
ルビの問題は、福永が読みを原稿で特別に指示していない限り、結局は常識的な読みに落ち着くことになるが、それでも多少のブレは出るだろう。今回の朗読では、その各人ごとの読みの違いが出ている点も、面白かった。
   それにしても、朗読という他者を意識した音読行為は、朗読する者自身のその作品に対する理解の程度を如実にさらけ出すものであることを実感した。上手い下手ということを越えて、その作品への親炙のほどが知られてしまう。これは、恥ずかしいことであるが、互に聴きあうことで、その場に連帯感が生れる。
   生身で身体ごと作品と向き合っているという一体感、つまり一人で音読しているのとはまた違う、複数の人々の前で、自分の身体が一つの楽器となって「福永作品を演奏している」という感覚だ。皆で、福永作品を演奏する愉しみ。
文学というものは、結局は一人で味わい体験するものとしても、このような一体感を大事にしたい。 以上

【蛇足】
先日、テレビ「開運なんでも鑑定団」でお馴染みの某古書店目録に福永武彦著『夜の三部作』の5部本なる品が出ていた。まったく耳にしたことのない本なのでさっそく電話で確かめようとしたが、生憎店主は外出中。安くない値だが、とにかく送ってもらうよう伝言した。
その品を手に取ってみると、装幀・奥付・本文印刷等全てが講談社版500部限定本と全く同一。違いは、外函に「五部本の四」と毛筆で記してあるのみ。
店主からの同封の手紙にも、500部本と装幀他同一だと思うがとりあえず送る、返品可とある。これでは仕方ない、返品することにした。
まだ見ぬ幻の福永本かとワクワクしていただけにガッカリしたが、いわゆる改装本でない正規品(版元装幀)で「未知の本」に出会う愉しみが、まだあることを期待して、毎日目録(ネット上含)に眼を通す。
ちなみに、5部以下の正規福永本は、@『象牙集』元版 総革装5部 A『海市』総革装4部 B『加田伶太郎全集』蛇革装5部 C『櫟の木に寄せて』表紙銅板嵌込み本5部 を確認している(『未刊行著作集』白地社 に掲載済。 著者訂正本等の特別本は除く)。 
研究家必ずしも蔵書家とは限らず、会において福永本談義をする機会はほとんどない。福永本を語り合える書友からの連絡を待つ。 
追記・会員K氏より「存在 第92号」を贈られ、「福永武彦の著書の蒐集」なる一文に眼を惹かれた。さっそく一読し、『幼年』の頒価や限定番号を指定できたことなど、教えられる。福永と同時代を生きてこられた詩人・愛書家であるK氏ならではの、福永本に関する具体的知識と味わい深い文章に打たれた。
  文責・三坂               


第96回例会 報告(2006.2.26)

2月例会 報告
日時 2月26日(日)  14:00〜17:00
場所 世田谷文学館 講義室
内容:福永武彦自筆手帖 紹介・解説 其ノ壱 「小説メモ 1948」
 ―堅固な福永の世界、そして書かれなかった小説群― 発表者 三坂 剛

市場に現れる福永自筆物の中でも、日記・手帖の類は福永の「素志」を知る上で貴重な資料だろう。今回は、小説構想メモ・方法論メモを含む「小説メモ1948」を取り上げて、紹介・解説した。

T 2002年帯広例会発表(「福永武彦の出発」)の際の配付資料「1945年までの福永文業」・「1945年〜1948年の福永文業」を参照しつつ、メモ執筆時における福永武彦の文業は、後年自ら述懐している程「出遅れた」ものではないこと、むしろ戦後派の「出発」としてみれば、小説・評論・詩集と幅広い活躍をし始めていた点を確認した。そしてその事実と関連させ、47年秋に清瀬の療養所に入所して以来の福永の心境を、光太郎宛書簡の中に探った。

U 自筆手帖より@小説方法論に関わるメモ A完成された小説「遠方のパトス」・『夢みる少年の昼と夜』・『幼年』の構想メモ B完成されなかった長・短篇群の構想メモ の紹介・解説を行った。
特にAの構想メモを見ることにより、完成された福永作品を重層的に理解することが可能となろう。

福永武彦研究会 第 96回例会  2006年 2月 26日 配付資料・コメント

 今回の「紹介・解説」で配付した資料@〜C、口頭解説した資料@・Aは以下の通り。

【配付資料】複写
T 今回発表のレジェメ A3片面1枚
  このレジェメは、3月末発行予定「会報 第19号」に掲載します。
U 資料@
  ・1945年以前に発表された詩・評論・小説・翻訳(単行本含)一覧 
    ・1946年〜1948年に雑誌に発表された詩・小説・評論・翻訳 一覧
  A3表裏1枚
  この資料@は、2002年8月、帯広特別例会(「福永武彦の出発」)において使用したもの。
V 福永武彦自筆手帖 「小説メモ 1948」より
資料A 小説方法論を模索するメモより 「映画的手法」/「短篇小説」
資料B 完成された小説構想メモより 「遠方のパトス」/『夢みる少年の昼と夜』/『幼年』の3篇
資料C 発表されなかった小説構想メモより 計8篇 
 資料AA4片面1枚、資料B・CA4表裏各1枚

【今回紹介した福永自筆手帳】
 表紙・用紙 こげ茶厚紙表紙 121o×65o(縦×横)  42葉(表裏83頁)
 筆記具 極細鉛筆書き  拡大鏡が必要な小さな文字でびっしり埋め尽くされている。
 時期  1948年1月〜51年1月(?) ほとんど、48年・49年執筆
  以上 三坂
【口頭解説資料】
T 高村光太郎宛福永書簡。 1947年9月1日付/1948年11月26日付
『新潮文学アルバム 福永武彦』94年12月刊より
・「僕は今三十歳ですが以後に生がある限り自分のコスモスは確定したと思つてゐます」 47年9月
・「僕も藝術はやはり年少のジエニイに頼るのでなく年輪のある樹木のやうに成長すべきものと考へてゐます」 47年9月
 ・「昨年の十二月に第一回の成形手術 今年の三月に第二回の手術を受けてから〜」 48年11月

 この光太郎宛書簡の一部に関しては「福永武彦研究 第2号」(97年3月刊)に河田忠氏が「高村光太郎への書簡に見る福永武彦」という示唆に富む一文を発表されています(後『福永武彦ノート』宝文館 99年 に所収)。
U 福永武彦作 俳句2首
 「向陵時報」76号(6面)より、「白蟻」という総題の句、3句紹介。
 単行本・全集未収。

【コメント】 2006 年 1 月 22 日 第 95 回 例会から
 
三坂剛氏の発表についての感想  南雲政之

 もちろん、読者の前に差し出された作品がすべてで、その作品が別な形、別なヴァリアントを持つかどうか、について考えるのは邪道である、という意見もあろう。しかし、書かれなかった作品、あるいは書かれたものとは違う形だったかもしれない作品について考えることが、楽しいという人がいるのもまた、事実である。

 さて、今回の研究会例会における三坂剛氏の発表は、そういう想像力を刺激するのに充分な内容だった。1948年、福永が病床で綴った、おそろしく精緻で、また膨大な情報を持つ手帖について、それまでの福永の文学的営みを踏まえた上での発表であり、様々な示唆を含むものであった。
 この手帖は、小型(121ミリ×65ミリ)細罫(5ミリ19行)で、42葉(83ページ)という形態で、昔、文房具屋で安価で求めることが出来たものと同じようなものだったと推察できる。もっとも、発表の日は、あいにくの雨で、実物を三坂氏が持参することはなかったのだが……。

 この手帖の内容は、大きく二つに分かれる。一つは、小説理論についてであり、もう一つが、短編あるいは連作などに関わるメモである。そして、重要な点は、この短編などのメモが、実際に書かれた作品についてのものが含まれることである。また、書かれなかったメモにも、興味深い点が多々ある。

 まず、「遠方のパトス」と『幼年』という二つの作品について、現行の作品とは違って、登場人物の名前が、汐見茂思という名前だったことには、驚きである。もちろん、汐見茂思という名前は、福永にとっての代表作である『草の花』の主人公の名前である。『草の花』を、あるいは、この療養所時代に書かれたという『慰霊歌』を中心とした連作を考えていたのだろうか?
 また、書かれなかった短編には、福永文学の可能性を広げるものが多々あるように見受けられる。その主題、その構成は、決して古ぼけて筐底に蔵い込まれるべきでなく、誰か福永に挑戦する勇気のある作家に、書き上げてほしいくらいのものである。
 小説理論のほうはと言えば、これは、彼がこれから後に発表する作品群で、実現されてしまっているものが多いので、一見すると、なんだ、と思ってしまうかもしれない。しかし、実際の作品はまだ書かれていず、この時代から、意識的に方法を模索していたことは、彼が「マチネ・ポエティク」の詩人であったこと、現代フランス文学に精通してことを考慮にいれても、注目に値する。高村光太郎宛書簡において、「自分のコスモスは確定した」と言い切った福永が目指した「樹木のような成長」を考える時、この手帖の意味は大きくなるだろう。
 したがって、この手帖は、写真版として、公表されることが望ましいと、筆者は考えている。もちろん、消しゴムで消されたというページをも含めて、公表されれば、初期の福永文学について考える、いい材料になるに違いない。ただ、あまりにも字が細かく、拡大鏡を使って、やっと読める程度なので、拡大した写真版の公開という方法もあろう。また、鉛筆書きで書かれていて、消えかけている部分があるというのなら、絵画などで用いられる定着液か何かを塗って保存することを考えたほうがいいかもしれない。もちろん、これは、所有者の三坂氏の判断に任せられるべき事項だが。

 さらに、この時期のものを含め、多くの福永のメモ、ノートの類が市場に流通している現状を鑑みて、これらのメモ、ノート類が死蔵されず、公開されることを強く希望していることを記しておきたい。
以 上

【先月号 訂正】
 先月号、長榮一氏のお話に対するコメントにおける
「戦後の学習院大学が、安倍能成院長の下、一高、東大系の人材を活用しながら再出発したこと、殊に仏文科には、渡辺一夫、鈴木力衛、中島健蔵、三宅徳嘉など、福永には旧知の恩師、先輩、友人などが揃っていたことを指摘する」との一文中「殊に仏文科には」の直後に「辰野隆(をはじめとして)」を挿入します。
福永にとって、学習院大学の居心地の良さは、辰野隆がその淵源であるという点を明瞭にするためです。

対話、或は独語の領域 (カナ部分独語)  三坂 剛 
夢 昨春来、毎月の「例会案内・報告」作成、ご苦労さん。
剛 いやぁ、案内自体は大したことないが、毎月の例会内容を決め、多くの場合、自ら準備しなきゃならなかったのが、ちょっとシンドかったかな。
夢 そうだな。毎月、というのはちょっとね。でも、君は「いい機会を得て、大いに勉強になったよ」と、言っていたようだけれど。アレハ、エエカッコシイダッタカ?
剛 その通り。大変だったのは確かだけれど、しかし準備すること自体が愉しかったし、それを発表することが、またいい勉強になったよ。コレ、ホンシンナンダ。
  何より、非会員であるW氏の10年進んでいる研究発表を聴くのは、実にワクワクする体験だったし、夏に入会されたT氏の福永直話も実に興味津々のものだったね。
  それに毎月例会に参加して、一緒に会を盛り上げてくれた、Mさん、K氏、ホームページを担当してくれているU氏がいなかったら、とてももたなかった。
夢 そうそう。皆の協力があってこその会さ。
剛 うん、確かに。ただね、案内やコメントで具体的に例会内容を提示したつもりなんだが、不参加の会員からはほとんど反応がなかったね。唯一、岐阜のK氏からは、何度か葉書で励ましの言葉をいただいたけれど。ウレシカッタナ。デモ、ミナナゼダマッテイルノカナ? むしろ、外部の方々からお声をかけていただいた。
夢 まあ、皆いろいろだ。各々の考えがあっていいのさ。君は、君のやり方を継続すればいいんだよ。
剛 そうかな?こう反応が少ないと「やり方変えるべきか?」「他の人がやったほうがいいんじゃないか」とも思うが。各々の考えって言うけれど、何も言わなければ、会にとって、いないのと同様だろう。マア、ソノオカゲデヤリタイヨウニヤレタノダケレド。
夢 まあね。ただ、例会の頻度や案内の内容等については、4月の総会で君がこの1年やって来たことを基に、色々皆で相談すればいいじゃないか。改善すればいいんだよ。
剛 そうなんだろうが、どうもそれ以前にね――
夢 言いたいことは、「わかる」よ。しかし、言うな。君は、やったじゃないか。それでいいじゃないか。
剛 (微妙な表情で)うん、そうだ―― ソレニシテモナ。
夢 ワカルヨキモチハ。だからこそ、自分でやったことを、そして会を大事にすべきだよ。
剛 わかってる。ただ、とりあえず、この4月以降は他の会員に「案内」の発行をやってもらえれば、助かるんだが。中村眞一郎の会も始まるし、山口瞳の会のこともあるし。
夢 お察しする。けどまあ、そう急ぐな。何にせよ、4月の総会でよく話し合うことだよ。
剛 そのつもりだ。もちろん、様々協力はするし例会には毎回出席するつもりだけれど。
夢 そう願いたいね。福永研究会は、まだまだこれからだよ。メゲズニガンバレ。
剛 ガンバレッテイワレテレモナァ。ああ、まだまだやりたいこともあるしね。愉しみを見つけて、皆で協力してやっていくしかないか。
     了


第95回例会 報告(2006.1.22)

1月例会 報告
日時 1月22日(日)  14:00〜17:00
場所 世田谷文学館 講義室
内容:長榮一氏を囲んで お話「回想の師、福永先生」

 レジェメを配付し、その順に沿って話が進められた。
T 戦後学習院キャンパスの教育環境の特質 U 20世紀小説論の位相 V 素顔の師の面影 
T・Uを第一部とし、休憩を挟んで Vが第二部。
前半は、T 師福永にとって学習院は居心地の良い大学だったことを、戦後の学習院大学に集った多士済済、異能の教員たちの系譜(一高・東大の系譜)という視点から説き、U 受講した「20世紀小説論」を通して、純粋小説としての福永文学の特質について客観的・簡潔に論じられた。
10分休憩を挟んで、V 長氏ご自身の当時の日誌を参照しつつ、師福永との付き合いを日付を明らかにしつつ生き生きと具体的に語られた。

読書からでは知り得ぬ福永の言動に(「ダンテを読みなさい」・「君、ゴーギャンの絵はポエティックだよ」福永談)、まさに興味津津で聴き入った。
戦後学習院大学の特質を歴史的に広い視野からおさえ、そこに長氏自らの交遊を重ね合わせて造型された師福永像は、余人では語り得ぬ説得力と魅力を持つ内容であった。
渡邊啓史氏による詳細なコメントは、下記参照。

長氏作成のレジェメは、3月末発行予定の「会報 第19号」に掲載いたします。


* 2006年 1月 22日 福永武彦研究会 第 95回例会  配付資料・コメント

今回は、長 榮一氏より「回想の師、福永先生」と題した貴重なお話しを2時間余りいただいた。話の内容は、渡辺啓史氏のコメントが余すところなく伝えているので、熟読願いたい。
その後に、三坂より福永自筆資料(手帖)の一部を配布し、お話しの補足とした(蛇足だったか)。当日配付された資料を以下に記す。

【配付資料】複写
@ 「回想の師、福永先生」レジェメ
 T 戦後学習院キャンパスの教育環境の特質
 U 二十世紀小説論の位相(1953〜1973 講義録)
 V 素顔の師の面影
 ほぼ、この詳細なレジェメに沿って話が進められた。Vでは、氏自身の当時の日誌を参照されつつ、具体的な師・福永の姿が生き生きと語られた。
 A3片面1枚
A 長 榮一氏 プロフィール A4片面1枚
B フランス文学科の歩み(+「研究室の思い出」篠沢礼子)
『nos trente ans 仏文の三十年』学習院大学フランス文学科同窓会
  83年2月発行より  A3片面1枚
C 福永武彦自筆手帖 1953年より ア 表紙裏の53年度授業時間割表 
 イ 4月9日〜11日分 A4片面1枚

@・A 長氏 B・C 三坂
 
【コメント】
2006 年 1 月 22 日 第 95 回 例会から

幸福な出会い、または「再び見出された時」  渡邊 啓史

  長 栄一氏は、昨年夏より本研究会に参加され、毎月の例会でも活発に発言されているが、今回の例会では、その長氏が「回想の師、福永先生」と題して講演された。
 既に案内にも紹介されている通り、長 栄一氏は1937 (昭和7)年、石川県七尾のお生まれであり、1956 (昭和31)年、学習院大学政経学部経済学科を卒業後、三菱銀行に入行、以来第一線の銀行家として活躍され、現在も複数の事業、団体の要職を務めておられる由だが、同氏はまた、大学在学中、「単位にはならない」仏文科で、着任早々の「福永先生」による「二十世紀小説論」の講義を聴講し、個人的にも、研究室を訪ねて親しく教えを受けたと云う経歴の持主でもある。周知の通り、福永が清瀬の療養所を出て学習院大学仏文科に迎えられたのは、1953 (昭和28)年の春であり、長氏は、当時出版された長篇『風土』の作者がどのような人物かと云う興味から、その53年度と55年度の二度「二十世紀小説論」の講義を聴講された。本年最初の例会は、その長氏御自身から、二時間余りに渉り、当時の学習院大学の雰囲気や、教壇の「福永先生」の素顔などを直接お話いただくと云う、誠に得難い機会となった。

   話の全体は、短い休憩を挟んで第一部、第二部の二部から成り、三つの主題を立てて進められた。前半の第一部では、先ず話の冒頭、長氏は当時「福永先生」は大変溌剌としておられた、と語り始める。恐らく学習院大学の仏文科は「福永先生」にとって居心地の良い場所だったに違いない、何故なら ......、という巧みな導入に続いて、戦後の学習院大学が、安倍能成院長の下、一高、東大系の人材を活用しながら再出発したこと、殊に仏文科には、渡辺一夫、鈴木力衛、中島健蔵、三宅徳嘉など、福永には旧知の恩師、先輩、友人などが揃っていたことを指摘する(I. 戦後学習院キャンパスの教育環境の特質)。確かに駒場、本郷以来の知人に囲まれ、恐らくは旧帝大とは異なる自由な雰囲気の中に職を得たことは、社会に復帰したばかりの福永にとって、大きな意味を持っていたに違いない。こうした人脈への目配りは、単なる文学講演の域を超え、長年実社会で活躍してこられた長氏の面目を見る思いがする。

   続いて話は御自身の聴講された講義に移る(II. 二十世紀小説論の位相)。長氏は二十世紀小説を、第一に、時間の扱いに遡行、反転、非連続などの特徴があり、第二に、時間の経過と意識の持続は不可分のものであるから、こうした試みが人間内面の意識の根源的な探求に繋がる、として、代表的な作家名を列挙して説明する。これは極めて手際の良い解説である。その90 分の講義に「福永先生」は大抵 20 分程度は遅れて現われ、途中に10 分程度の休憩を置かれた由。休憩中、先生は「冬でも窓を開けて」煙草を燻らしておいでだったとのこと。また講義は準備された草稿を、説明を加えながら読み上げる形で進められたと云う。講義の概要は没後に刊行された『二十世紀小説論』岩波書店 (1984) によっても窺うことが出来るが、長氏によれば、実際の講義は本に纏められた程には整理されていなかったようである。

   此処までが前半第一部であり、休憩の後、後半第二部は、長氏から御覧になった「福永先生」についての個人的回想である (III. 素顔の師の面影)。此処で長氏は当時の仏文研究室の間取りを図示して説明され(「昼休みには、この卓子で福永先生が碁を打っておられた」)、当時の御自身の日誌の抜粋を、回想を交えながら紹介された。簡潔な記述ながら、この日誌抜粋は、一学生の眼から見た、教師としての福永の姿を生き生きと伝えるものであり、貴重な記録であると思う。殊に、肩まで届く長髪の「福永先生」の「ワイシャツの白が、眼に眩しい」といった条りなどは、若き日の『風土』の作者の姿を彷彿とさせる。
 また長氏は銀行に就職が決まった後、「福永先生」から紹介状をもらって、当時、東京銀行八重洲口支店で支店長代理の職にあった、窪田開造氏を訪ねたと云う。銀行家、窪田開造氏は、詩人、窪田啓作である。この時、窪田氏は長氏に、詩作ではマラルメに負うところが多いこと、画家ではシャガールを好まれることなどを語られた由。窪田氏は現在も御壮健ながら、長くパリに住まれて情報も少ないため、こうした回想もまた、貴重な証言と思われる。
 二時間余の時間を少しも長く感じさせない、実に興味深いお話であった。

   なお講演終了後、三坂 剛氏より福永の成績評価について補足があった。担当した語学については試験を行い、「二十世紀小説論」についてはレポート提出の上、口頭試問を行ったとのこと。三坂氏はこれを、この 1 月、例会直前に偶々古書店より入手した、この時期の福永自筆の手帳により確認された由。また長氏は、例会後の会食の席でも引き続き愉しいお話を御披露下さったことを付け加えておきたい(「福永先生は、自慢話が多くてねぇ」)。

   長氏の話を伺って改めて思うことの一つは、回想を語り伝えることの重要性である。福永逝って既に四半世紀、直接その人物を知る人々も少なくなりつつある現在、こうした回想の持つ意味は大きいと思う。それは単に情報として貴重であるばかりでなく、当事者の肉声によって語られた回想を通して、過ぎ去った一つの時代と人々が甦るからである。人の記憶にある限り死者もまた生き続ける、ということも、その外の意味ではないだろう。
  いま一つは、良き師との出会い、その幸福、ということである。1950年代前半、昭和20年代の終り、高度経済成長にはまだ遠く、敗戦後の混乱を脱して社会が再建へ向い始めた時代、生活は必ずしも豊かでなかったに違いないが、大学には個性的な教師が集まり、恐らくは学生の気風にも、今日では失われた価値や理想が生きていた。以来半世紀、豊かな社会にあって学問と教養の株は下落して久しく、制度改革の名の下に、大学と教育のあり方も大きく変わりつつある。
 福永とその周辺の人々を通して一つの時代を振り返ることは、単なる文学的回顧に留まらず、今日の社会を考える契機をも含んでいるに違いない。
 以 上


第94回例会 報告(2005.12.25)

12月例会 報告

日時 12月25日(日)  14:00〜17:00
場所 烏山区民センター 第6会議室

内容:『時の形見に 福永武彦研究論集』(白地社 05年11月刊)を読む
 以前より予告されていた論文集が刊行された。
当研究会会員も複数執筆している同書には、福永自筆詩集や「新出資料」も含まれており興味深い。
 時間の都合上全ての論文はとり上げられなかったが、様々な視点から検討を加えた。下記参照。

【関連情報】中村眞一郎の会 発足
研究会当日の12月25日は、故中村眞一郎氏の命日である。97年末にお亡くなりになって丸8年。晩年、そのお宅にしばしばお邪魔し硬軟様々のお話しを伺えたことを、本当に昨日のことのように思い出す。

その中村眞一郎さんの会については、数年来立ち上げ準備が徐々になされていたが、この4月にいよいよ設立総会が開かれることになった。
4月22日(土)、日本近代文学館にて、総会を兼ねた講演会が行われる予定。講師は未定。続けて東京大学教養学部内レストランで懇親会も開かれる。

 興味のある方は、三坂までご連絡ください。

【資料情報】今回は、翻訳書
 ア 『象牙集』元版 垂水書房 65年 限定500部版 47250円 龍生書林  03-3754-6755 /同500部版 42000円 石神井書林 03-3995-7949
 イ 『北緯六十度の戀』實業之日本社 40年 8925円 あきつ書店 03-3294-8175 /同元版7000円 ことば屋 0573-26-1688
      / 同新潮社新版 51年 8500円 玉英堂 03-3294-8044
 ウ 『幻を追ふ人』創元社 51年 4800円 風光書房 03-3295-1116/同元版(帯なし)1500円 書肆銀鈴舎 0742-36-9150

品の状態は、各古書店へ。
―――――――――――――――
* 相変わらず、福永自筆資料(草稿・書簡・日記等)の市場への流出が続いている。たとえ個人蒐集家の手に入ったとしても、死蔵されることなく、徐々に公開されていくことを望みたい。 文責・三坂

* 2005 年 12月 25日 第 94回例会  参考資料・コメント

今回も前2回同様、討論なので詳細なレジェメはない。代りに、当日配付・口頭解説された参考資料を以下に記す。

【配付資料】複写・実物
@ 「福永武彦研究会 会報第18号」05年8月発行より
   渡邊 啓史氏「覚書と余談2 アンリ・バルビュス『クラルテ』の余白に」
   「追記」のみ
A 「福永武彦研究 第2号」97年3月発行より
   三坂 剛「実存主義文學」解題
B 『福永武彦詩集』岩波書店 84年3月刊より 「後記」
C 「藝術論集 bP」大阪藝術大学藝術学部文藝学科研究室 84年10月発行より 源高根「岩波書店版『福永武彦詩集』後記への疑問」一部のみ
D 読売新聞 05年12月2日 夕刊 福永武彦「形見の詩集」
 以上 A3表裏2枚

E  福永武彦研究会 第11回例会 発表資料 三坂 剛
   「実存主義文學」をめぐって
   1997年2月の例会で新出資料「実存主義文學」の紹介と解説を三坂が行った際の資料  B4片面5枚
   福永研究会ホームページ 内「月例会履歴」参照
   http://www012.upp.so-net.ne.jp/fukunaga/getureikai.htm
F 第二回 福永武彦作品クイズ 
  福永作品(小説)10篇の冒頭を示し、作品名を当てるクイズ A3片面1枚
G 福永武彦著訳書 10冊
・ 『別れの歌』  新潮社 69年8月刊 函・帯
・ 『遠くのこだま』新潮社 70年8月刊 函・帯
・ 『枕頭の書』  新潮社 71年6月刊 函・帯
・ 『藝術の慰め』 講談社 新版 70年11月刊 函・帯
・ 『異邦の薫り』 新潮社 79年4月刊 函・帯
・ 『意中の画家たち』人文書院 73年7月刊 函・帯
・ 訳詩集『象牙集』 人文書院 新版 79年6月刊 函・帯
・ 『二十世紀小説論』岩波書店 84年11月刊 帯
・ 訳『北緯六十度の戀』モオリス・ブデル著 實業之日本社(今日出海 名義)40年4月刊 10刷
・ 訳『民俗學概説』ペー・サンティーヴ著 創元社(「序」のみ福永訳) 44年5月刊
  この1年の感謝を込めて、当日参加者に贈った本のリスト 
 以上 三坂

【口頭解説資料】
@ 福永武彦研究会 第15回例会 発表資料 三坂 剛
  「遠方のパトス」を読む ―愛を背負う者の生―
  1997年6月例会で発表した一文に若干手を入れて、一部口頭で解説した A4片面8枚
A 「福永武彦関連資料 発見の経緯と行方」 三坂 作成
  追分玩艸亭における福永関連資料の発見と経緯に関して、三坂が直接関った範囲のことを記した文書 99年に作成したものに若干手を加えた A4片面4枚
B 「W氏 預かり品目(略式リスト)」 W氏 作成
  W氏が玩艸亭より預かった福永の自筆創作ノオトや草稿、福永宛書簡他のリスト 三坂他数名の要請によりW氏が以前提出したもの 99年作(?) A4片面4枚
【コメント】
 砂上の楼閣 或は 文学外の領域 三坂 剛

T 論文討論
今回は、出席者各人別のコメントは省略します。
理由は、各コメントに対する異論・反論・説明を論文執筆者に同時に書いていただかないと、公平を欠くことになるからです。
今回はその時間が取れませんでした。従って、各論文への詳しいコメントは控え、討論全体の大まかな(客観的)流れを記すにとどめます。ただ、その流れを示すために、三坂の発言の一部は(必要最低限で)記します。
また、倉西聡氏と上村周平氏の論文は、時間の関係上次回に持ちこしました。

【配付資料】@〜D(A3表裏2枚)を配った後
一「戦時中の福永についての断片」 小林俊巳 
 資料@を参照しつつ三坂よりコメント。辞典の無署名項目の中から、福永執筆項目の探索(推定)をした点に注目。この探索を全体的にできたら有用。

 資料Eを配布した後
二「『愛の試み』における《充足》への《充実》」 鳥居真知子 
 三坂紹介の資料「実存主義文學」を、他論文でもしばしば言及(利用)され
ていること、「紹介の甲斐がある」。
A・Eを用いつつ、「実存主義文學」がサルトルの「実存主義はヒューマニズムである」(邦題「実存主義とは何か」)を下敷きにしていることを再確認。
「雅歌」に関しての解釈に異見あり。
【口頭解説資料】@を参照しつつ
三「遠方のパトス論 ―戦争との関わりにおいて」 倉持 丘
  執筆者倉持氏より自作論文解説の後、各自意見を述べる。記述の「間を埋めて欲しい」=もっと書き込める内容ではないか、という意見あり。

U 論文背景解説
配付資料B〜Dを参照しつつ
四「『ある青春』以前に ―詩集 MOURIR JEUNE」和田能卓
 この論文へは、主として三坂が発言した。
論文中、和田氏が「九十八年八月以降に本格化した」と記す玩艸亭での資料調査・整理に関して、三坂の知る範囲では T その日付が違うこと U 何故和田氏は日付を正確に記すことがないのか そして、さらに V 何故、この論文では源高根氏が執拗に拘った(資料C)「もう1冊の(MOURIR JEUNEとは別の)福永自筆詩集」の存在が無視されてしまったのかという点に関して、【口頭解説資料】A・Bをも参照しつつ、具体的に説明・推定した。

このような「論文の背景の解説」は、玩艸亭資料調査が研究会を主体として行なわれていない以上は、三坂の本意とするところではない。しかし、今やその資料調査・整理に関して知る者が会にも数名しかいない現状下に刊行された『時の形見に』において、「新出資料」が大きなウエイトを占めているのを見た時、何も発言しないのはむしろ不誠実であると考えた。
その「新出資料」に関して、各々「所蔵先(所有者)」が資料文末においても、また和田氏筆の「あとがき」においても触れられていない点に注意を喚起したい。この資料を利用したい場合、どこに許可をとればよいのだろうか。
 『文藝年鑑 平成十七年版』(新潮社 2005年7月刊)によれば、福永武彦の著作権継承者は「日本同盟基督教団 軽井沢キリスト教会」である。

【贅言】 
今回、論文集『時の形見に』を取り上げるか否か迷いました。一部に関して実に様々な問題を孕んでいると思われるからです。
各論文に対しては、参加者各人、真摯に向き合いました。しかし、三坂個人として、どうしても真摯に向き合いかねる論文が一篇あります。詳細は置きます。ただ、コメントの題「砂上の楼閣」は、その論文へのみ向けた言葉であり、他の方々の労作に対してではないことを、お断りしておきます。そして、当の論文に対しても、今回の言及はあくまで「文学研究」としての範囲にとどめたことを付言しておきます。



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