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福永武彦研究会・例会報告
第187回(2021年5月)~第190回(2021年11月)

第190回研究会例会 2021年11月28日(日)
第189回研究会例会 2021年9月26日(日)
第188回研究会例会 2021年7月25日(日)
第187回研究会例会 2021年5月23日(日)
研究会総会 2021年5月23日(日)

第186回例会以前の例会報告

第190回例会
日時:2021年11月28日(日)13時~17時
場所:リモート開催

【例会内容】
今回もリモート開催となりました。
1.「福永武彦研究 第16号」の講評。各々、感想・意見を交換しました。
2.森鷗外小説「灰燼」/福永武彦エッセイ「鷗外、その野心」「鷗外、その挫折」
Haさん、Kiさんより各々小発表の後、全体討論。
3.「資料で愉しむ福永武彦10」小冊子(三坂作成 電子版)を配付し説明、皆で愉しみました。収録は「鷗外、その野心/その挫折」福永自筆創作ノート、長谷川泉宛福永自筆書簡、鷗外『妻への手紙』小堀杏奴より木下杢太郎宛署名本、森潤三郎『鷗外 森林太郎』、小堀杏奴『晩年の父』初刊本、小堀杏奴自筆はがきの各画像。

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
Haさん:森鷗外「灰燼」について
 福永武彦研究会で森鷗外の長編小説の「灰燼」を取り上げる意味を考えながら読んだ。福永がこの小説をどう読んだか、また福永が「灰燼」から読み取ったものを自分の小説にどう生かしたかを考えた。
1.森鷗外(1862.1-1922.7)の現代小説
(1-1)森鷗外の口語体による最初の現代小説「半日」と最初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」の初出は以下の通り:
「半日」:「昴」1909年3月号
「興津弥五右衛門の遺書」:「中央公論」1912年10月号
鷗外の殆どの現代小説(短編、長編)は1909年から1912年の4年間という短い期間に書かれている。
(1-2) 森鷗外の現代長編小説
青年:初出「昴」1910年3月~1911年8月(鷗外48-49歳)、単行本1913年2月、籾山書店
雁:初出「昴」1911年9月~1912年5月(一章~二十一章) (鷗外49-50歳)、単行本『雁』1915年5月(二十二章~二十四章) 、単行本1915年5月、籾山書店
灰燼:初出 「三田文学」1911年10月~1912年12月(鷗外49-50歳)、単行本は未刊行

2.「灰燼」について
(2-1)視点人物と内容
「灰燼」の各章の主な登場人物、視点人物、内容を付表(省略)に示す。
・「灰燼」は19の章から成る。
・視点人物は山口節蔵と作者、ただし第六章の視点人物は谷田滋夫婦と作者。
・主な登場人物は山口節蔵、お種(谷田種子)、相原光太郎。
(2-2)主題(福永による)
・青春の敗北・挫折
・知の世界
・性欲が人の生涯にどれだけ関係しているか

3.福永が「灰燼」をどのように読んだか。
 鷗外の現代小説をどのように読んだかは、福永のエッセイ「鷗外、その野心」と「鷗外、その挫折」(初出は「文藝」1962年8月号と10月号)に詳説されている。「鷗外、その野心」では主に短編小説について述べ、「鷗外、その挫折」では主に3つの長編小説について述べている。
(3-1)鴎外の3つの長編現代小説についての福永の見解
「鷗外、その挫折」に従って、鴎外の3つの長編現代小説についての福永の見解をまとめると、表1のようになる。

(3-2)「灰燼」についての福永の見解
・「「灰燼」は鷗外の作品中で最もヨーロッパ的な小説となるべきものだった。未完とはいえ現在の形のままでも私は傑作と呼ぶに躊躇しない。しかし鷗外の野心が高まるにつれて、「灰燼」は二十世紀文学の新しい道である意識下の世界を描かなければならなくなり、それは既に彼のそれまでの文学の範疇からはみ出したところに位置していた。」(「鷗外、その挫折」、電子全集11、Kindle の位置No.4449-4452)
・「彼の現代小説は、ヨーロッパの小説の形式を学んで東洋人の心境で書かれたものであり、それが「あそび」である限りは何でも書けるし何を書いてもよかったが、人の心の「暗黒の堺」を描くためには、小説家としての立場よりも人間としての立場を固執しすぎたように思われる。しかしそこを貫いてこそ、彼は人間の真実に達し得ただろうに。これが小説家としての森鷗外の、自ら迎えた挫折である。」(「鷗外、その挫折」、電子全集11、Kindleの位置No.4462-4466)

4.考察
(4-1)福永が上記の鷗外の現代小説論を書いた時点(1962年)で、福永がまだ書いていない長編小説は以下の4つ:
①『忘却の河』:初出1963年3月~12月)、1964年刊行
②『海市』:執筆 1964~1967年、1968年刊行
③『風のかたみ』:初出1966年1月~1967年12月、1968年刊行
④『死の島』:  初出1966年1月~1971年8月、1971年刊行
・また、この頃(1962年頃)に『死の島』ノオト断片C(執筆1961-62年)(「早稲田文学」1972年2月号)を書いていて、その内容は現行の『死の島』の内容に合致しており、『死の島』の構想がこの頃にかなり固まったように思われる。
・「しかし興味のあることは、鷗外が「雁」とほとんど同じ時期に「灰燼」をも構想したことである。(「鷗外、その挫折」)」という福永のコメントは、福永が『風のかたみ』と『死の島』の2つの長編小説を同じ時期に雑誌に連載していたことを連想させ、興味深い。『死の島』を書くためにはタイプの全く異なる小説の『風のかたみ』を同時に書く事が必要だったのかもしれない。
また、これは鷗外が「雁」と「灰燼」を同時期に連載していたことから福永が学んだことかもしれない。
(4-2)福永が「灰燼」から学んだこと
・鷗外は「灰燼」で夜の思想を書かなかったが、「灰燼」を読むことによって、福永は長編小説における夜の思想の重要性を改めて理解した。そしてその後の『死の島』で夜の思想(素子と或る男の内的独白)を描くことに活用した。
・小説の中に謎(例:「灰燼」の冒頭でお種さんが節蔵を睨みつけた理由)を含めることの効果。

Kiさん:「灰燼」感想
・29歳の作家志望の青年、山口節蔵の現在の視点で彼が書生だった11年前の出来事を描いた未完の作品で、長編として完成すれば劇的な人間ドラマとなったと思われる。
・谷田家の跡取り娘お種さんの子どもは、お種さんと節蔵との間の子であると読み取れるが(定説のようだ)、このことが9年前に節蔵が書生先の谷田家を出た原因であり、小説の要となるはずの事件だと考えられる。
・本小説では節蔵の性格のユニークさが突出している。彼は何に対しても無感動、冷淡なニヒリストで、その佇まいは「悪霊(1873)」のスタヴローギンを想起させる(スタヴローギンと節蔵について考察した幾つかの論考があるが未読)。小説中断の要因のひとつとして、節蔵のあまりに非人間的な性格設定があったのではないかと想像される。
・『鴎外、その挫折』を読む限り、福永は鴎外が「灰燼」で書こうとしなかった("挫折した"と福永は考える)「人の心の暗黒面」を自ら書くのだという強い自負があったと思われる。

Miさん:会誌第16号感想/森鷗外「灰燼」
1.会誌第16号の感想。
 今回の会誌が薄冊となったこと3つの理由は、HP「掲示板」に記した通りです。これが当会の現在の実力です。
 しかし、「実力」と記すのは「論文が掲載されていない」ことに拠るのではありません。随筆、エッセイ、論文、資料紹介、どれも当会誌の重要な柱であり、論文の有無が会誌の価値を左右するものではありません。内容、装幀とも、それなりの良い出来栄えだと考えています。
 「実証的研究」の面に注目すれば、今回の会誌は、資料集として極めて充実しています。他では見ることの出来ない研究上欠かせぬ資料が複数掲載されています。ここで実証的研究というのは、①福永自筆物、著訳書、雑誌などのオリジナル資料の蒐集と公開に加え、年譜や書誌の作成を含めた側面、②作品各版の本文照合を柱とした本文研究を指します(これから、徐々にこの面をしっかりと取り入れた論文が現われて来ることを私は確信しています)。
 その実証的研究の①の面で、今号は高い水準にあると自認します(会員のAさんのご協力に拠るところが大きいです)。もちろん、既刊分会誌もこの実証的研究①、②に力を入れていることは、既におわかりいただけていることかと思います。
・補足:実証的研究を疎かにし、徒に独創性・論理性のみを競っている状況に、私は30年以前より不満を抱いています。勿論、視点の独創性や展開の論理性は不可欠です。しかし、上記①、②の実証性に正面から向き合わぬ限り、福永研究は行き詰り、停滞してしまいます。現にこの10年、新潮版全集が刊行された35年前よりも「論文」数は少なくなり、活気・熱気に欠けているように見えます。
 半世紀以前には近代文学でも実証的研究は盛んだったようですが、その後海外発の哲学思想の流行に乗って作者その人への関心だけでなく、本文ソノモノへの真摯な考究が蔑ろにされているように見えます。少なくとも福永研究ではそうでしょう。この実証性軽視の状況を徐々に変え、愛読者をも惹き付ける論文が書かれ、そのことにより新たな研究段階へと発展して行く状況を作り出すために、私はこの30年以上、自ら実証的研究(①だけでなく②)に力を注ぎ、一般を対象に働きかけて来ました(日記翻刻や電子全集刊行)。それは、半世紀以前の①をメインとした(年譜や書誌作成を中心とした)いわゆる実証的研究より幅広く、異なった質を伴ったものです。この点を見落とさぬようにしていただきたい。これからも継続します。
 研究者諸氏には、①、②の新たな実証的研究へ一層眼を向け、愛読者をも惹き込む論文を積み上げられることを期待します。そのためにも、文学館、図書館に既に所蔵されている福永資料だけではなく、広く市場へ眼を向けていただきたい。例えば、そこで福永らしき自筆資料が新たに見つかった場合、自信を持って福永筆跡の真贋を判別できますか? もし判別出来なければ、新出の自筆資料を自分では見出すことが出来ません。万一、文学館や図書館所蔵の資料に贋物の疑いが出てきた場合も、見分けられません。真贋を判別出来る眼を養うには、素性の明らかな真筆資料を大量に手に取り、眼にしつつ、一方で古書市場に出現する贋物も混じり込んだ多種多用な自筆物に眼を通すしかありません。

2.エッセイ「鷗外、その野心」、「鷗外、その挫折」の意義
 Haさん、Kiさんの報告文に小説「灰燼」に関しては具体的に紹介されていますので、ここでは福永エッセイの持つ意義に関して、簡単に記します。
 「鷗外、その野心」、「鷗外、その挫折」のふたつのエッセイは、福永の(後期)長篇を検討する際、欠くことのできない視点、内容を含んでいます。
 このエッセイが発表された年、1962年初頭より、福永は満を持してロマン『死の島』原稿の執筆を開始しました。構成や文体を模索しつつ原稿を書き進め、3月初旬迄には順調に100枚ほどに達していたのですが、結局その後の執筆は断念されました。その辺りの事情は、電子全集第18巻「解題」を御覧ください。
その状況にあった福永にとって、鷗外の長篇「灰燼」の挫折の因を検討することは、何より自らのロマンを完成させるために切実な課題でした。論のための論ではなく、小説家として、自らの隘路を打開するための必死の模索だったのです。
*この鷗外の場合に限らず、福永エッセイの特質は、対象をあくまでも自分の関心に引き絞って論じる点にある。「自らの興味・関心と切り結ぶ線上に於いてのみ対象を論じる」という小説家としての姿勢である。
 小説家の眼があり、文体があり、思想があればロマンは書ける筈だったのに、何故に鷗外は長篇を書き上げることが叶わなかったのか。その理由は、鷗外が「小説家としての立場」よりも「人間としての立場」に固執することにより、自らの「醜悪の心」・「暗黒の境」を紙上に定着することに踏み切れなかった、つまり小説家として挫折したのだ、と福永は考えたのですが、では、(このエッセイ以前に発表されていた)『草の花』や「深淵」の作者としての福永自身は、この後、小説家としての立場を貫くことが出来たのでしょうか。
 その答えは、この後の長篇『忘却の河』、『海市』、特に『死の島』(『風のかたみ』は「物語」なので、ここでは別とします)に於いて具体的に検討されねばなりません。
 その検討の視点を、小説「灰燼」と、それに関する福永のふたつのエッセイが提供しています。

補足:
Ⅰ.初出「灰燼」関連事項
小説「灰燼」は、「三田文学」1911年10月号より1912年12月号に「鷗外」の名で連載された(途中、休載あり)。署名は文末にある。編輯兼発行人は永井壮吉。
著者生前に単行本には未収録であり、初出版=決定版となるので、論文作成は言うまでもなく、研究としての討論には、初出版を手許に置くことが必須である。
【1911年】
10月号(第2巻第10号)第1回:1途中
11月号(第2巻第11号)第2回:1続き、2
12月号(第2巻第12号)第3回:3、4、5、6
*この号より以降、巻頭目次の題の後に(小説)と附記される。
【1912年】
*1912年1月号休載
2月号(第3巻第2号)第4回:7、8、9、10 文末(未完)記載ナシ
3月号(第3巻第3号)第5回:11、12
4月号(第3巻第4号)第6回:13 分末(未完)記載ナシ
5月号(第3巻第5号)第7回:14、15
*1912年6月、7月、8月号休載
9月号(第3巻第9号)第8回:16 文末(未完)記載ナシ
★9月13日、明治天皇大喪。同日、乃木希典夫妻殉死。同月、「興津彌五右衛門の遺書」執筆。
10月号(第3巻第10号)第9回:17 文末(未完)記載ナシ
11月号(第3巻第11号)第10回:18
12月号(第3巻第12号)第11回:19 文末(未完)記載ナシ

 漱石の活躍、また木下杢太郎や永井荷風など、周りの若い人々の熱気に刺戟されて、1909年以降、雑誌「スバル」や「三田文学」を中心に長・短現代小説を集中的に発表していた鷗外だが、1912年9月以降、歴史小説、そして史伝の執筆へと展開(転回)していく。その理由を、福永は外面的(社会的)なものよりも、むしろ鷗外の内面に求め探求する。福永の関心は、あくまで自らが長篇小説を完成させることにあるからである。

Ⅱ.このエッセイが執筆される以前に福永が眼にし、参考にしたと思われる文献を3篇挙げておく。共に、福永エッセイの視点を先取りしている箇所がある。
・林達夫
①「自己を語らなかった鷗外」(『鷗外全集』著作篇第2巻附録「鷗外研究1」1936.6)
②「鷗外における小説の問題」(同、第6巻附録「鷗外研究5」1936.10)
後2篇共『思想の運命』(岩波書店1939.7)/『林達夫著作集』4(平凡社1971.3)収録
・中村真一郎
③「『灰燼』と未完成のロマン」(『鷗外全集』月報第13号、第14号 1952.6/7)
後「鷗外と『灰燼』―未完成の長篇について」と改題の上『文学の魅力』(東京大学出版界 1953.5)/『中村真一郎評論集成4 近代の作家たち』(岩波書店 1984.9)収録

【当日配付資料】
①森鷗外「灰燼」についてのメモ A4片面2枚
②付表「灰燼」各章の主な登場人物、視点人物、内容 A4片面1枚
③森鷗外「灰燼」メモ A4片面2枚
④小冊子「資料で愉しむ福永武彦 10」電子版 A5 18頁
①・②:Ha、③Ki、④Mi


第189回例会
日時:2021年9月26日(日)13時~17時
場所:リモート開催

【例会内容】
①初出版「夜の時間」と初刊版との対照を踏まえた討論。
②「資料で愉しむ福永武彦9」
「夜の時間」自筆草稿、1955年4月の自筆手帳、初刊本・限定50部献呈署名本を画像で愉しみ、初出→初刊本文の異同(一部)などを確認しました。

【例会での発表要旨・感想】順不同(敬称略)
Haさん:「夜の時間」について
1.夜の三部作の初出と初刊版
①「冥府」初出:「群像」1954年4月号・7月号 初刊版:1954年8月刊、講談社
②「深淵」初出:「文藝」1954年12月号 初刊版:『冥府・深淵』1956年3月刊、講談社に収録
③「夜の時間」初出:「文藝」1955年5月号・6月号 初刊版:1955年7月刊、河出書房

2.中編「夜の時間」について
(2-1)主な登場人物
 不破雅之:医師、井口冴子:不破の婚約者、及川文枝:服飾デザイナー、不破のかつての恋人、奥村次郎:不破の医学部時代の同級生(故人)
(2-2)視点人物と各章の主題
 創作ノート、初出、初刊版の「夜の時間」の視点人物と各章の主題を付表1(省略)に示す。表の作成に際し、『福永武彦創作ノート』(北海道文学館叢書、2020年) の「夜の時間」ノートを参照した。
 ・「夜の時間」は創作ノートでは18章、初出では11章、初刊版以降では17章からなる。
 ・創作ノートの17章と18章の内容は初刊版の17章に含まれる。
 ・不破が8つの章で、文枝が6つの章で、冴子が4つの章で、また作者が第1章の冒頭で視点人物となっている。
 ・初刊版の1章と16章以外では章毎に不破、文枝、冴子のうちの一人が視点人物となっている。1章では作者と文枝が、16章では不破と文枝が視点人物となっている。
 ・奥村は視点人物となっていない。
(2-3)技法
 ・初刊版の17章の冴子の内的独白では長文が使用されている。
(2-4)主題
 ・暴力的愛
 ・暗黒意識:「人間を内部から動かしている眼に見えない悪意のようなもの」(「夜の三部作」初版序文1969)
 ・「夜の時間」における福永の意図が、奥村像の造形にではなく、不破と文枝における奥村体験の闡明にあった・・・現在を決定づけている過去の意味を明らかにしようとしている」(首藤基澄 福永武彦の世界1974)
(1)「それが一番無難に生きて行く方法なのだらう。過去を振り向かず、ただ現在、この刻々に誕生する現在のみを見詰めて、眞直に步いて行くことが。しかし或人々にとつてはさうではない。いつか或瞬間に、失はれたと思つた過去の經驗が、その時のとはまた違つた方向から、違つた色彩を帶びて、ふと思ひ返される時がある。それが異常な重みをもつて、現に生きてゐることの意識に干涉し、時間は今までのやうに未來に向つてのろのろと進行することを止めると、同時に過去にも溯つて行き始める、もう終つてゐた筈のことが、實際は少しも終つてゐないことが分る、人々は時間の夜の中で方向を見うしなひ、過去の事件の持つてゐた本當の意味をあらためて考へ込む、----とさういふ時があるものだ。」
(「夜の時間」初出1章、電子全集3 Kindleの位置No.6180-6189).
(2)「僕等はどつちも間違つてゐた。奧村を殺したのは奧村自身だ。僕でもなく、文枝さんでもない。奧村は彼自身の理由によつて死んだ。しかし、それではなぜ死んだのだらう?しかしその疑問よりも、文枝への新しい感情が不破の心の中に泉のやうに沁み渡つた。あの人も、僕と同じやうに過去に押し潰されてゐたのだ、と彼は考へた。過去といふものは、それほどまでに現在に影響を與へるものなのか。それほどまでに現在を左右してゐるのか。もつと、この現在だけを見詰めて、眞直に步いて行くことは出來ないのだらうか。過去を振り捨てて、過去を忘れて。」
(「夜の時間」初出11章、初刊版12章、電子全集3 Kindleの位置No.8619-8626).→ 初出の末尾で主題が再提示されて、小説は一応終了している。
(2-5)創作ノートでの暗黒意識、夜の時間への言及:
 8章:冴子:夜の思想 ― 絶望(主として肉体的理由に基づく)私は生きてはゐない。malignité[悪意]の発生、二人を近づけ合うこと、手紙を書く。
 11章:文枝に於ける暗黒意識 grossesse[妊娠]の不安。
 13章:あの事件で私[文枝]の中の何かが死んだ。暗黒意識。その精神的障害の説明。
 18章:冴子、暗黒意識からの脱却。弱いものとしての人間と孤独の靭さ。
 文枝のアパートの前で彼女の意識にのぼった或るささやき
 世界が終わったという感じ。大きな掌
(2-6)読後の感想
 主題が「現在を決定づけている過去の意味を明らかにしようとしている」ことだとすると、小説の内容が主題の一種の絵解きになってしまっていて余り面白くない。本筋でないキリーロフ思想の紹介が内容としては面白い。また奥村の霊と不破の対話は読み応えがあった。
 初出の最終章(11章)を読み終っても話が終った気がしない。→ 作品発表当時に雑誌で11章まで読んだ人は、おそらく単行本を購入しただろうと思われる。実際この小説が面白くなるのは初刊版の11章からだと思う。
以上

Miさん:極上の読書体験のために。
 福永作品の執筆時期を特定することは、創作ノートや自筆手帳を点検できれば、比較的容易である。多くの場合、執筆日と枚数が記されているからだ。
「夜の時間」の場合も『福永武彦創作ノート』(2020.6)124ページに5月号掲載稿(1節~6節)の執筆日と枚数が列挙されている。1955年3月14日に書き始め、翌日に37枚(200字詰め)、16日には50枚まで、17日には68枚まで、そして29日に225枚まで書き継ぎ、翌30日に243枚までで原稿渡し。一旦筆を染めるとはやい。この手渡し日は、所蔵の「福永武彦自筆手帳1955年」とも一致する。
 これは、作品研究上で大切な情報である。
 ただし、ここで見落としてはいけないことがある。この執筆時期は「文藝」連載稿(初出文)の原稿執筆時期であり、私たちが通常読んでいる「決定稿」とはその本文が異なっているということである。
 同年、1955年7月に新書版の『夜の時間』が河出書房より刊行されているのだが、その本文と上記「文藝」連載稿では数多くの違いがある。
「文藝」初出稿→初刊本『夜の時間』の異同箇所は、
 ・1955年5月号(1~6)で142箇所。
 ・同6月号(7~11)で125箇所。
合計267ヶ所、11節まででこれだけの手入れがある。見落としもあるかもしれないので、この数は最低限の数である。
*そもそも、初出稿は11節までしかなく(連載末尾に(未完)の記載は無い)、初刊本では12節以降17節までが増補されている(=この部分は、この初刊本が初出文となる)。その際に、11節が新たに挿入され、初出文の末尾11節は、初刊本の12節となる点も大きな違いである。
この手入れ数は「テニヲハ」や「漢字の入れ替え」という細かな箇所と同時に、一文削除や一文挿入をも一箇所として数えている。
例)
 ・棚に並べたボタンや下絲を見てゐた奥村 170.上.22(5月号、頁・段・行数)
 ・棚に並べたボタンや下絲やフランス人形などを見てゐた奥村 2節・電子全集Kindle 6315
和泉洋裁店を不破と奥村が最初に訪ねた際。赤字を増補、これで一箇所。また、
 ・事もなげに言つた。/不破も奥村も、屋上でのことは一言も説明しなかつた。 191.下.26(5月号)
 ・事もなげに言つた。「ちよつとした實驗をしてゐたものだからね。」/不破も奥村も、それ以上は一言も説明しなかつた。5節・電子全集Kindle 7164
これは一文挿入。この奥村の文枝への発言も一箇所と数える。更に
 ・笑ひ止むと、獨り言のやうに、「これできまつた、」と呟いた。 196.下.1(6月号)
 ・(削除)10節・電子全集Kindle 8057「私もう帰る。(略)」の直前。
 奥村が文枝を襲う前のこの一文削除も一箇所(この削除は、解釈上でも重要な意味を持とう。初出文を読んでいなければわからない)とする。
このような大小の異同を各々一箇所と数えるやり方で、267箇所(以上)の違いが初出文と初刊本にはある。
 それだけではない。それ以降に刊行された新版(『夜の三部作』1969.12)本文と、この初刊本本文を対照してみると、更に全体で218箇所の異同がある。
 そして、その新版と通常私たちが『夜の時間』として読んでいる決定版本文との異同は(新版→『福永武彦全小説』第3巻 1974.1)、全体で401箇所である。
要するに「夜の時間」本文の手入れ数は、
 初出文→初刊版:267箇所
 初刊版→新版 :218箇所
 新版→決定版 :401箇所(決定版で、新字を旧字に手入れしている漢字が幾つかある。福永の指示である。ただし、新潮社編集部の意向が反映されている箇所もあるので、すべてが福永手入れではない。しかし、それも違いである)
合計、886箇所。
 もはや、初出文をはじめとして各版を細かに点検する意義は明白だろう。福永がわざわざ手入れした箇所に、その作品の意図が見え隠れしている(場合がある)からだ。
 福永作品を読む際に、私たちはこの数多くの本文異同という「事実」を常に念頭に置く必要がある。「この言葉は初出から記されているのだろうか?」、或は「ここには何か削除されている語句、変更された一語があるのではないか」と。
 この点に気付くだけでも、従前に較べて読者には大きな実りをもたらす。しかし、その先がある。
 福永作品を、一篇の象徴主義小説として見た場合、単に意味(=内容)の相違に注目するだけでは足りない。内容と同時に、私たちが一文一文を読んだときに惹起される内面世界、イメージに注目したい。
 一語、一文が手入れされた箇所では、元の文章を読んだときと、手入れ後の文章を読んだときとでは、読者の内面に映し出されるイメージ、その世界が異なってくる。一語一語の持つ字型や意味、音(おん)が手入れによって変ったことにより(その違いの積み重なりによって)、読者の内面に創造される世界が微妙に異なってくるという点、このことをマチネ・ポエティク詩人として出発した福永は知悉していたに違いない。
 一篇の小説を詩のように、音楽的に書くというのは福永の終始一貫した姿勢であり、それは単に構成に顕れるだけでなく、一語に拘った文章ソノモノに示される。
 そのような作品を味わう際には、読者にも慎重な姿勢が求められる。重要なのは、意味の違いを含む比較的大きな手入れ箇所に注目するというよりは、むしろ「テニヲハ」や「漢字をひらがなに開い」たり、「読点の位置を変え」たりというごく小さな手入れ箇所に注目して、味わう姿勢と言えるだろう。
難しい小理屈を述べているのではない。一篇の小説を、意味内容と同時に、一語一語を字型や音を含めて素直に味わおう、丸ごと受けとめようということである。
 意味にばかり囚われるのではなく、その一語一語が放つ音、眼にする字型そのものを味わい取りたい。そのような読書によって惹起される自らの世界を大切にする、作者がそれだけの細かな配慮によって創造した作品を享受するには、それこそが自然な読書態度だろう。そして、初出文⇔初刊版⇔新版⇔文庫版⇔決定版と各種の本文を行きつ戻りつ丁寧に読むことによって、自らが作り出す別世界は幾重にも重なり、重層的な響きを奏でるのだ。それは、決定版を読んでいるだけでは体験できない、極上の読書体験である。
以上

<関連情報>
 上記に関連して、ひとつ追加します。
 小学館P+DBOOKSの福永武彦著作3冊(画像)の巻末にある(お断り)を見てください。初版本を底本とする記載があります。初版本と新潮版全集では 本文に多数の違いがありますので、この3冊には付加価値があります。
 その前年に刊行された『海市』、『風土』、『夜の三部作』の3冊は、底本はすべて新潮社版全集です。
 これは、2017年に電子全集のお話をいただいた際の席で、せっかく新しく福永単行本を刊行するのならば、簡単に入手できる全集版本文をそのまま重ねて出すよりは、入手し難くなっている初版本本文を出した方が、本文の対照などに便宜があり、初版本文に触れ得ることは愛読者にも喜ばれるはずと説いた結果です。
 もちろん、新潮社全集版と同じ決定版を手軽に読めるようにした前者3冊(『海市』『風土』『夜の三部作』)も読者にとってありがたいもので、巻末には各々池澤夏樹氏の解説が附されており―今回の例会でも「夜の時間」の解説を一部朗読しました―様々に利用、参考に出来ます。

*『夢みる少年の昼と夜』収録の『心の中を流れる河』は、人文書院新版(1969.9)を底本としていますが、この新版は、同書「再版後記」にある通り、初刊版の紙型を使用したもので、単純ミスの修正以外には初版本文と言っていいものです。

Kiさん:『夜の時間』感想
・福永作品には希有な愛の成就が描かれ、心に闇を抱え(人神思想の観念)夜の時間を生きる奥村次郎と井口冴子(失恋と病による孤独)に対し、言わば昼の時間を生きる不破雅之、及川文枝の対比が効果的。好きな小説。
・この小説で福永が一番描きたかったのは奥村が魅せられた観念の闇と冴子の抱く孤独の闇であり、とくに心を寄せている人物は、自身がかつて置かれた同じ境遇の結核で病床で愛を失った冴子だろう。
・奥村の言葉「愛というのはイリュージョンだ、動物的な本能を隠すための衣装だ。(略)一体この愛という錯覚によって、どんなに多くの人間が無駄な苦しみをしていることだろうね。」
 これは福永の本音では? 愛の不可能性のテーマは、この認識から来ているのではないか。
・観念による死を望んだ奥村に対し、不破が去り病を抱えながらも孤独とともに生きようとする冴子の靱さに光が当てられている。冴子の孤独の深さと靱さが萌木素子のそれにつながっていくのか。
・最終章の冴子の内的独白は福永の小説の中でもとくに心を打たれる箇所だが、かつての福永自身のサナトリウム体験の反映なのだろう。
・福永が療養所で熱心に勉強したという精神病理学の知識が、不破が自殺の要因について考察する場面などに生かされている。
・奥村の幽霊が不破の前に現れ、自身の哲学と文枝への愛と暴力について告白する場面は、ドストエフスキー「カラマーゾフ」でイワンの前に悪魔(イワンの分身)が現れる場面を思い起こさせる。
以上

【当日配付資料】
①「夜の時間」についてのメモ A4片面2枚
②付表「夜の時間」視点人物と各章の主題 A4片面1枚
③『夜の時間』についてのメモ A4片面2枚
④小冊子「資料で愉しむ福永武彦9」電子版 A5 27頁
①・②Ha、③Ki、④Mi


第188回例会
日時:2021年7月25日(日) 13時~17時
場所:リモート開催

【例会内容】
① 発表と討論、初出版「深淵」
*「文藝」1954年12月号
② 資料で愉しむ福永武彦 8

【例会での発表要旨・感想】順不同(敬称略)
Kiさん:『深淵』について
1.『深淵』初出(「文藝」1954年12月号)を読んで感じたこと。
・旧仮名遣い・旧漢字が、日本近代文学を読んでいる実感を味わわせてくれた。
・初刊版(1956年3月)から末尾に追加された新聞記事のない初出のほうが作品として優れている事を実感。 新聞記事を付加することにより読者が想像力を働かせる余地を著しく削いでいること、また文藝作品を三面記事を扱った中間小説に貶める危険を犯している。

2.三部作における「暗黒意識」について
 福永は「いずれも暗黒意識を主題にして、それを三つの違った面から取り扱っている点にのみ、共通点がある筈だ。」と書いているが、三部作それぞれの”暗黒意識”が同じ源とするのは無理があると感じた。
1)『冥府』における暗黒意識:大雑把に言って”無意識(深層意識)”
 福永:「人間を内面から動かしている眼に見えない悪意のようなもの、私は作中人物の口を借りてそれを暗黒意識と呼んだが、そのような無意識それ自体を幻覚化して抽象的な形で書いてみたいと思った。」
 現実世界において暗黒意識を研究していた教授にとって、暗黒意識とは死後の世界の記憶であり、そしてそれは無意識を基調とした生活であった。教授は死後、この自説を自ら証明した。
2)『夜の時間』:暗黒意識を象徴していると思われる奥村次郎の悪意ある行動は、マルドロオルや『悪霊』のスタヴローギン、キリーロフ同様、肥大化した強烈な自意識によるものであり、無意識とは明らかに異なる。
3)『深淵』:“己”や”わたし”の行動を支配しているのは動物的生存本能に近い「生への欲望」であり、広義の”無意識”と言えるかもしれないが、『冥府』における”無意識”とは相を異にする。現実を蝕むほどの「生への欲望」の深さを”深淵”と形象することはできるだろう。

3.『深淵』の評価
・「夜の三部作」という”キャッチコピー”に惑わされず独立した中編として読めば、限界状況下に置かれた男と女の心理劇として評価できる。
・技法的な側面(二人の独白のみによる構成)も評価できる。

Miさん:初出版「深淵」

 遠藤周作が『沈黙』(1966)を書き上げた後に、友人の評論家佐古純一郎から芥川龍之介の掌篇「神々の微笑」(1922)を読むことを薦められ、烈しい衝撃を受けた話を聞いたことがある。
 キリスト教が日本的心性の中でどのような運命を辿るのか、あらゆるものの境界をぼやかし、曖昧にしてしまい、すべてを日本的に作り変えてしまう風土において、キリスト者の自分はどのように誠実に生き得るのか、というテーマを追窮していた遠藤は、芥川の「神々の微笑」で描かれる、宣教師オルガンティーノが「負けですよ」という天の声を聞く場面、その「負けですよ」という言葉を1922年という時点で芥川が書いていたことに衝撃を受けたと語っている。自分(遠藤)が長い間かかって、『沈黙』という長篇によってようやく辿りつくことが出来た境地、「負けですよ」の言葉を既に芥川が先取りしていると。
 「負けですよ」とは、キリスト教信者が、日本的風土(すべてを截然とは区別せず、曖昧モコとして、変容して取り込んでしまう)に取り込まれてしまうこと、変容を自ら受け入れることを指す。


 この中篇「深淵」にも、末尾に近く、女の「私の負でございます」という言葉が出てくる。ここが中篇「深淵」の絶頂である。
キリスト教精神の化身である女、彼女は繰り返し、幾度も、自ら「観察」した男の姿をコトバで「定義」し続ける(倉庫の戸口から男を初めて見た際の女の独白など、社会経験のない処女として、異様なほど深く多面的な男の内面への考察=言葉による断定である)。いわば西洋文明(それは理性であり、ヒューマニズムであり、科学的精神である)の信奉者であり、独白として語られる女の思考の地平は2元論である。キリスト教の背景を成す2元論的思考、例えば善と悪、天と地、美と醜、そして助ける者と助けられる者を截然と区分けする思考の枠組みから逃れ得ない。
 これに対して、男は古代日本人的心性の化身であり、そのような2元論とは無縁である。非理性(反理性ではない)、非ヒューマ二ズム(反ヒューマニズムではない)、匿名性や非歴史性を特徴とするアルガママの自然の、その自然の持つエネルギーの体現者である。男の言葉も行為も、どこまでも自然、飢えに忠実である。どこまでも自由である。
 この中篇において、論者の多くが注目する暴力性は、その自然エネルギーの奔出に過ぎない。自然は烈しい暴力を内包する。そこには、罪や悪の観念は結びつかない。逆に言えば、生きとし生けるモノすべてに神は宿る、汎神論的思考の地平において、罪の観念が入り込む余地はない。
 この中篇で注目すべきは男の暴力(性)ではなく、その古代日本文化の背景を成す汎神論的思考と、女の一神論的思考(2元論の世界)の烈しい闘い、非ヒューマニスティクなエネルギーとヒューマニズムの、心身を賭けた、単に魂に留まらぬ身体を賭けた格闘にある。
 男のその心性は、例えば「古事記」、特に「今昔物語」に描かれる古代日本人のエネルギーそのものである。この作品執筆時期に、福永武彦がこの「古事記」と「今昔物語」を味読、熟読し、数年後にその両作品の翻訳を刊行していることを思い起そう。


 女は、何に負けたのか、古代日本的心性の烈しいエネルギー、2元論の思考の地平を圧倒してくる(無きものにする)そのエネルギーにである。女がコトバで定義し続け、ワカッタツモリでいた男について、しかし最後には「彼は暗い深淵なのです。その深淵の中に何が流れてゐるのか、或は何も流れてゐないのか、私には見分けるすべもありません」(初出本文 初刊版以降、最初の一文は削除されている点に注目したい)と告白する。男を定義付けることを諦める。そして、女は神、つまり自らの世界を棄てると誓う。
 にもかかわらず、最後の最後に女は「これからは彼が私にとつての神なのでございます」とのたまう。神を棄てると誓ったのではないのか? 男が自らの自然(自由)を守るためには、この女は、やはり身体そのものを無きものにされねばならなかった。


 福永が療養所から退所して1年半、結婚して市民生活を始めてまだ日の浅い1954年当時の福永、これから職業作家として生業を立てていく覚悟の福永には、このような日本的心性、エネルギーへの強烈な憧れがあった。キリスト教的倫理観に縛られてきた自身の環境や、身体的弱さへの反逆として、非ヒューマニスティックな、この野蛮なエネルギーに満ちた男の造型が、小説家としても、そして人間としても、この時ぜひとも必要だった。この野蛮な男のエネルギーに惹かれているのは、小説家福永ばかりでなく、人間福永武彦である。
 鴎外や漱石、荷風や芥川、そして遠藤のようなヨーロッパ文化を身体の奥深くから体験し、その文化の有態と、自らの血肉と化している日本文化の有態、その2つの齟齬や軋轢に悩み苦しみ、そこに自らの小説のテーマを設定した小説家の作品、その系譜に置いてこの「深淵」を見ることが実りある研究につながる。

*参考文献として読んだ木下幸太氏「福永武彦論〈暗黒意識〉以前 ―『夜の三部作』を中心に―」(2014執筆)の中に次の言葉がある。
>『夜の三部作』が発表されるまで、三作品が合わせて一冊の本に収められたことはなかった
その註でも、
>「夜の時間」は河出書房から新書版で刊行されたのみで、先の二作品と共に纏められるのは、それらが『夜の三部作』として刊行される昭和四四年が初めてである。
 しかし「一冊の本に収められた」ということならば、事実は、日本文学全集の一冊として、既に1964年刊行の新日本文学全集29『福永武彦集 安倍公房集』(集英社 1964.2)に、この三作品だけで一冊に収められている。各篇末尾には「この作品は、旧かな遣いで発表されましたが、本全集では福永氏との諒解のうえで、新かな遣いにいたしました」という註が附されている。電子全集第3巻解題を参照されたい。

Haさん:「深淵」について
1.福永武彦の中・短編小説集
(1-1)福永武彦(1918-1979)の中・短編小説集の刊行年は以下の通り:
①塔1948年 ②冥府1954年  ③夜の時間1955年 ④冥府・深淵1956年(「深淵」初刊版)  ⑤心の中を流れる河1958年 ⑥世界の終り1959年 ⑦廃市1960年 ⑧告別1962年 ⑨幼年その他1969年 ⑩夜の三部作1969年(「深淵」新版) ⑪海からの声1974年

2.中編「深淵」について
(2-1)初出、初刊版、新版、全小説版の本文の比較
 電子全集第3巻の解題にしたがって、「深淵」の検討すべき本文は表1の4種類になると思われる。

(表1)「深淵」の本文の比較

*電子全集第3巻の解題にあるように、初刊版以下の「私/わたしは」は「己」の校正ミスと思われる。
(2-2)視点人物とその表記
 初出と全小説版の「深淵」の視点人物とその表記を付表1に示す(省略)。
 「深淵」は19の断章(初刊版以下では末尾に新聞記事が追加される)から成る。
(2-3)主な登場人物
 女:結核療養所「愛生園」の事務員
 男:愛生園の賄夫
(2-4)技法
(2-4-1)視点人物
 女と男が交互に視点人物になり、視点人物の内的独白のみによって小説が書かれている。
(2-4-2)内的独白
 女は長い文章(1行に1/2~1文)の繰り返しの内的独白(聖母マリアへの祈り)によって今までの自分の人生を振返る。男は女の祈っている姿を見ながら、短い文章(1行に2~3文)の内的独白によって自分の人生を振返る。また自分の人生を振返っている中で、突然祈っている女とのことを思い出す。
(2-5)主題
 全小説版「深淵」の各断章の主題を付表2に示す(省略)。
 小説全体の主題は以下のように考えられる。
・男が女を掠う物語(『風のかたみ』と共通)
・暴力的愛
・暗黒意識:「人間を内部から動かしている眼に見えない悪意のようなもの」(「夜の三部作」初版序文1969)
→ 男の行動の原因となっている。 
・「逃げる」男(『死の島』の或る男と共通)
・「わたしは罪について考えました。一体わたしの犯した罪とは何だろうかと考えました。天主さまは第六誡を以て、邪淫の行いとすべて邪淫に導くことがらとを禁じ給うています。しかしわたしのように、わたしの意志のないところでそれを犯した者も、それはやはり大罪に数えられるのでしょうか。わたしの魂は汚れていない筈でございます。」(断章13、全集242頁)

3.考察
(3-1)女と男の表記
 初刊版以降で岸淵芙美に対応する女が、初出と初刊版で「私」(ルビなし)と表記され、新版以下では「わたし」と表記されている。一方、 初刊版以降で簑田嘉一に対応する男が、初出と初刊版で「己」(ルビなし)と表記され、新版と全小説版(=決定版)では「己(おれ)」と表記されている。
・①の初出と②の初刊版で女主人公の表記を「私」としていたのを、③の新版と④の全小説版で「わたし」に変更したのは、「私」だとその読み方が「わたくし」と「わたし」の2通りあり、確定されないためでもあったと思われる。
・③の新版と④の全小説版で男主人公の「己」に「おれ」とルビを振ったのは、「己」だとその読み方が「おのれ」と「おれ」の2通りあり、確定されないためでもあったと思われる。
(3-2)初出の場合、この小説が女の独白(断章19)で終わっているのはなぜか?
―①男は女の祈っている背中を見つめながら内的独白をしている。断章19の後では、女が男に殺されているので、祈っている女の背中を見ることができないため、男の内的独白は書かれない。
あるいは
②女が飢えのため餓死したため。女の祈りと内的独白がなくなり、従って、女の背中を見ながらの男の内的独白もなくなった。
(3-3)初刊版以降で末尾の新聞記事はなぜ追加されたか?
―①女が男に殺されたことを示唆するため。
この記事がなければ、女が死亡したことは未確認である。また死亡したとしても、必ずしも女は男に殺されたのではなく、餓死したとも考えられる。記事を追加することにより、女は餓死したと考えるよりは男に殺された可能性の方が大きくなると思われる。
②新聞記事によって主な出来事の時間関係を以下のように明確にするため。
 ①1946年2月 岸淵芙美が愛生園に勤め始める。
 ②1946年4月 看護婦寮が焼ける。
 ③1946年4月~10月頃(半年) 岸淵芙美と蓑田嘉一の同棲期間:二人の内的独白の現在は1946年10月頃となる。
 ④1947年2月~3月頃 岸淵芙美の妹が愛生園の住家を訪問、蜘蛛の巣状態であることを確認する。
 ⑤1947年3月22日 岸淵芙美の妹が捜索願を警察に提出する。
 ⑥1947年4月1日 岸淵芙美と思われる白骨が発見される。
 以上

【配付資料】
①福永武研究会 例会配付資料 第188回 深淵
②例会・資料を愉しむ8 中篇深淵初出版
③深淵・メモ
④深淵・文献2点
*各資料は事前にライングループにアップした。
①Ha、②Mi、③・④Ki


第187回例会

日時:2021年5月23日(日)14時40分~17時
場所:リモート開催

【例会内容】
1 『第5随筆集 書物の心』(新潮社 1975.8)
参加者各人が幾編かの随筆を選択し、意見・感想を述べ、或は書誌を確認し、各々発表後に皆で意見交換しました。
2 「資料を愉しむ7」小冊子(三坂作成 電子版)を配付し、簡単に説明しつつ献呈署名本、(『書物の心』収録随筆や書評で扱われている)内田百閒、鈴木力衛、花田清輝、川上澄生、吉田秀和(これのみ福永武彦宛)、各人の自筆はがきを画像で愉しみました。この冊子は、例会参加者のみ配付となります。

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
Haさん:『書物の心』について
1.福永武彦(1918-1979)の随筆集
(1-1)発行年(初出年)
①『別れの歌』1969年(1949-1969) ②『遠くのこだま』1970年(1951-1970) ③『枕頭の書』1971年(1954-1971) ④『夢のように』1974年(1968-1974) ⑤『書物の心』1975年(1947-1974) ⑥『秋風日記』1978年(1971-1978、補遺を除いて)
・『枕頭の書』の後記に「実を言うと、既に最初の本を出す時三冊分に足りるぐらいの分量があった」とあり、『別れの歌』の出版を考えた時に、①~③の構成をほぼ終えていたと推察される。
(1-2) 各随筆集の内容
①『別れの歌』:回想と追憶に関する随筆及び信濃追分だより
②『遠く』のこだま』:日常茶飯及び旅行と芸術作品の印象に関する随筆
③『枕頭の書』:書物に関係のある随筆
④『夢のように』:②の続編
⑤『書物の心』:③の続編(文学関係の随筆)及び推薦文と書評
⑥『秋風日記』:1970年以降の随筆と補遺

2.『書物の心』
(2-1) 内容(大項目)
・Ⅰ 文学関係の随筆(1968年~1974年に発表)
・Ⅱ 推薦文(1966年~1973年に発表)
・Ⅲ 書評(1947年~1970年に発表)
(2-2) 語り手の表記
『書物の心』における《僕》と《私》を付表(省略)に示す。
(2-2-1)語り手の表記として《僕》と《私》のいずれの表記が使われているかによって、福永武彦の主な著作を以下の3種類に分類することが出来た(林雅治:福永武彦著作の《僕》と《私》について、福永武彦研究 第十五号 2020)。第Ⅰ期《僕》の時代(1936年~1954年に発表)、第Ⅱ期《僕》と《私》の併用時代(1955年~1961年に発表)、第Ⅲ期《私》の時代(1962年~1979年に発表)。ただしエッセイ集の『福永武彦作品 批評B』では《僕》と《私》の併用時代が存在せず、第Ⅰ期が1961年発表の作品まで継続した。付表により随筆集の『書物の心』でも第Ⅰ期が1961年発表の作品まで継続したことが分かる。
(2-2-2)
Iは全て1968年以降に発表された著作で第Ⅲ期に属し、語り手として《私》が使われている(ただし、「雪国」読後(1969)では語り手の表記はなし)
Ⅱは全て1966年以降に発表された著作で第Ⅲ期に属し、語り手の表記として《私》が使われている(ただし、「或る友情の形見」(1971)と「内田百閒」(1971)では語り手の表記はなし)。
Ⅲは1961以前の作品(第Ⅰ期)と1962年以後の作品(第Ⅲ期)に二分され、語り手の表記として第Ⅰ期では主として《僕》が使われ、第Ⅲ期では主として《私》が使われている。また、第Ⅰ期と第Ⅲ期のいずれの随筆でも語り手の表記がないものがある。

3.『書物の心』の中で印象に残った随筆
(Ⅰ 文学関係の随筆)
〇等身大――内田百閒の文学 1973年4月初出
「その本人を識っていて著作を読むのと、本人を識らずしてただ著作にのみ親しむのとでは、読者の理解に多少の相違があるだろうとは誰しも考えることだが、一般論として本人を識っている方が読者にとって有益かどうかは疑問である。(中略)私はひそかに敬愛した内田百閒なる人物に一度も会ったことがなかった、しかしそれを嘆くには当らない、と言いたいのである。(中略)百閒さんの文章は一寸の物は一寸に描く。六尺の物は六尺に描く。大きくもしなければ小さくもしない。それでいて測ることの出来ないものは、刻々にそれがふくれ上って行くように描く。その辺の呼吸はえも言われない。(中略)百閒さんの文学が等身大に「私」を写し出すことが出来るのは、つまりは真実を描くために遠慮なくフィクションを採用しているという、この一事で説明される。(中略)こういう大胆な虚構に百閒文学の真骨頂が潜んでいるのではないか。」
→ 福永は百閒のこの考えに賛同し、福永も随筆を書く時に、自らにとっての真実を伝えるために、必ずしも事実を述べていない(フィクションを採用している)と思われる。
(Ⅱ 推薦文)
〇我が立原 1971年6月初出
「青春をみずみずしく新鮮に生きることは、必ずしもた易くはない。従って魂の充足を求める人にとって、立原道造は青春の象徴のように思われ、「我が立原」と呼ぶような親しみを覚えるのではないだろうか。立原道造は青春そのものを造型してその央に死んだ。遺された詩、小説、エッセイ、書翰のいずれもが、或る種のはかなげな、未成熟の美しさを、捉えがたい花の馨りのようにくゆらせている。青春とは本質的に手が届きそうでいて届かぬものであり、それを捉える手立ては時間的推移による追憶の他にはあるまい。立原は追憶する年齢まで生き延びることが出来なかったが、その代り時間を空間に置き換えて、「今日」を追憶そのものとして歌うことを知っていた。そこに彼の青春の微妙なからくりがあった。その結果、彼ほど見事に完結した青春を印象づける者も少いだろう。私は生前一面識もなかったが、立原は常に「我が立原」である。」
→ 福永の立原に対する思い・親しみがよく表現されている見事な文章。
(Ⅲ 書評)
〇内田百閒「残夢三昧」 1969年12月初出
「書評というものはそもそも何のためにあるのか。理屈はとにかく、私にとって書評は褒めるためにある。」
→ なぜ褒めるのか?その本を読んでもらうため。
〇森有正「流れのほとりにて」1959年9月初出
「これは複雑な内容を持つ書物である。一つの魂の内面への旅路を描く、と言えば当るだろうか。一人のパリ在住の哲学者が西欧文明について日本の友人に書き送った手紙である、と言えば皮相にすぎようか。西欧文明が彼の魂といかなる微妙な交感を奏でたか、それが観察と分析とによって、認識と感覚とによって、捉えられる。(中略)問題は常に、森有正というこの一人の人間が、彼自身の魂を求めてさ迷い行く過程であり、ただ彼がパリの客舎にあるという異常な環境によって、その孤独を一層切実にさせ、その感覚を一層鋭くさせているにすぎない。(中略)この一冊の書物は、少くとも僕にとって、最も美しい音楽を聞くのと同じ質の魂の昻揚を感じさせる。
短い枚数で、こういう書物の感想をしるすことは不可能である。従って僕は、僕という人間の責任に於て、森有正の「流れのほとりにて」を無条件に推薦するほかはない。」
→ ここまで手放しの勧めがあれば、多くの人がこの本を読んでみようと考えるだろうと思われ、福永の書評を書く目的が遂行された。

Miさん:『第5随筆集 書物の心』―ひとつの作品としての随筆―
Ⅰ.書誌事項
塚田印刷(株)・46判・紙装・函・帯(薄茶)・257頁(「掲載紙誌一覧」、「後記」含)、装画 川上澄生、製本 新宿加藤製本(株)
帯文は電子全集第16巻書誌画像参照。帯裏は、「福永武彦全小説」全十一巻の内容紹介。
初刷 新潮社 1975.8 定価800円 10000部
2刷 同社 1975.10 同 *10月5日 2500部
3刷 同社 1975.10 同 *10月30日 2500部
4刷 同社 1975.11 同 2000部
5刷 同社 1976.2 同 2000部
*部数は、1975年、1976年の自筆手帳より。
*刷数は、現時点(2021.5)で確認しているもの。
*古書価は、初刷帯付で400円~2750円。後刷りならば1000円以内が多い。

(画像クリックで拡大画像にリンク)
*署名入り本の市場価格は1万円~1.5万円、識語や句・歌入りは、その数倍。
*宇田健は岩波書店編集者。
*画像の句は、「雜百首」に「信濃追分」として収録。ただし、最後の「一つ」→「ひとつ」。

Ⅱ 随筆はひとつの作品 >茶色は引用。
 自身の等身大の姿(内面の真実)を描こうとする福永随筆には、自らの文学的源泉や信条が直裁に語られている部分があり、研究上でも有意義である。同時に、外面的事実(関係)の言及には、韜晦や意識的ウソを含むので(内面の真実をより効果的に描くためである)、安易な引用をすることは戒めねばならない。また、主語は執筆時期により変わり(林さん発表の「僕」から「私」への転換)、文体も内容によって変えている。
つまり、随筆は意識的に構築されたひとつの創作物=作品である。従って、愉しみながらも小説を読むのと同じ緊張感をもって、細部まで読み取る姿勢が求められる。幾編か見てみよう。
・「雪国」読後
我が国の王朝の物語作者は、省筆によって場面や心理に陰影を加え、書かないことによって書かれた以上の効果をあげる暗示的手法を知っていた。川端さんもまたその伝統の上に立ち、美は暗示的、象徴的なものであると思われているらしい。
意見)川端の「暗示的、象徴的」手法に眼を附けている福永自身のこの言葉は、自らも同様の効果を日本の文学的伝統から学んでいることを明かしている。
特に『今昔物語』を訳すことで摂取したものは多大だと私は以前より考えている。そこには、名もない市井の人物達(は、その生の軌跡に多くの「空白」=「謎」を含む)の日常的な、或は特異な振る舞いが、入れ替わり立ち替わりアトランダムに語られるのだが、その無名性や全体の構成が、福永後期の短篇小説、そして『海市』や『死の島』の人物造型や構成に影響を与えているだろうことは間違いあるまい。

・「中村真一郎とカツ丼」
>(中村と自分が、舌鋒鋭く内外の小説を論じながらも、自ら書くことが出来なかったのは)書くべき内容としての実人生の体験に乏しかったためだろう。
意見)これは、実人生の体験なしで小説を書くことは不可能ということではなく、「長篇小説(ロマン)」を書くためには、実人生の体験が不可欠なことを言っている。つまり、物語(=日常の具体的事柄が描かれる)を含むロマンの創造には、体験が絶対に必要である。
例)『小説風土』に於いて「舞踏会」の章が挫折したことで、書き継ぐことを一時中断した事実。
 『草の花』における「冬」の章は、療養所体験なしでは書き得なかったこと。
これらの事実は、「ロマン」の主題をより効果的に表現するための実人生に於ける体験の意義を物語る。

・ 「私の揺籃」:「等身大」と並んで、この随筆集での白眉。
現実は言葉の中にある。現実が虚妄であり、言葉そのものが別世界の現実だと考えなければ、どうして文学などというものが成立し得るだろうか。
意見)「現実が虚妄であり」:これは観念論の表明ではない。存在自体の有無に言及しているのではなく、人間の認識に関わっての言及である。電子全集第15巻「解題」に収録した内田百閒「作文管見」の言葉を参照のこと。私たちが言葉に定着することにより、はじめて現実はその姿を顕わす(認識することが出来る)ということ。
「言葉そのものが別世界の現実だ」:福永が作品の一語一語に徹底的に拘った根源的理由は、この思想に拠る。電子全集第16巻「解題」を参照されたい。

・「等身大」:内田百閒を語りつつ、自身の「現実と言葉」に関する意見を開陳している興味深い随筆。
>(百閒は)真実を描くために遠慮なくフィクションを採用している。
こういう大胆な虚構に百閒文学の真骨頂が潜んでいるのではないか。
意見)自らの随筆に於いても、ときにフィクションを取り入れた福永随筆理解のために、ぜひ精読すべき文章である。電子全集第15巻「解題」を参照されたい。

Kiさん:随筆集「書物の心」についてのメモ
>茶色は引用。
1.福永の書評に対する姿勢
 書評というモノはそもそも何のためにあるのか。理屈はとにかく、私にとって書評は褒めるためにある。僅かばかりの枚数で悪口を言うのは食い逃げのようなもので、それなら初めから厭だと言って引き受けなければいい。
P244 内田百閒「残夢三昧」より

2.書評に誘われて関心を寄せた本
1)川端康成「千羽鶴」「古都」p17 「雪国」p21
 西洋の文学とはまったく別の道を、それこそ東洋の古典にしか通じない道を、歩んでいるように見えて、意外に現代の最尖端の文学の道と相交わっているようである。
2)ロートレアモン「マルドロールの歌」p53
 私は夢中になって読み耽り、字引を引き引きとうとう読み終わって、周囲の世界が黄色く見えるような感銘を覚えた。感銘というのではあるまい。文学的狂気に感染したと言った方が当っていよう。
 福永は本作で卒論を書いている。研究会で取り上げてもいいかもしれない。私は余り好きな作品ではないが。
3)プルースト「失われた時を求めて」p78
 私は獨歩も好き、秋聲も好きだが、プルーストほどの影響を受けた覚えはない。「スワン家の方へ」の第一部「コンブレ―」は全体のほんの序曲にすぎないが、当時その部分を熟読しただけでも、私にとって新しい小説の方向は明示されていた。
 「スワン家の方へ」を研究会で取り上げてもいいかもしれない。福永は作品の初めの方の1/4位しか読んでいないとも書いている。私は半分くらい読んだ。福永と同じくいずれ完読したい。
4)夢野久作「ドグラ・マグラ」p110
 ひたすら渾沌とした中有の世界とも言うべきものが、時間空間を無視して展開する。純文学とか大衆文学とかの境を越えた、我が国では稀な神秘的な作品と言えよう。
 昔読んだが、よく覚えていないので再読したい。
5)泉鏡花p129
 鏡花を読むことは、昔も今も、私にとって無上の楽しみである。まるで全身を美の温湯に涵(ひた)したかのように、一切の余分な感覚は麻痺し、忽ち別世界が現前する。それは散文によって構築された堅牢な世界であり、しかも詩的としか言いようのない前代未聞の美が揺曳している世界である。
6)そのほか
・室生犀星「杏っ子」p169 ・矢内原伊作「芸術家との対話」p179 ・谷崎潤一郎「夢の浮橋」p197
・フェリックス・クレー「パウル・クレー」 ・辻邦生「廻廊にて」p225

Suさん:例会時、失念し発言できなかった点を、聊か以下に述べたい。
*「森鴎外全集」
 「私は中学生の頃にせっせと漱石全集を読破して、やがて旧制の高等学校に入った。そこで熱中したのは、詩の分野は一切省略するとして、芥川龍之介、泉鏡花、永井荷風の三人である。(中略)ある人の読書体験は目に見えぬ糸でつながっていて、決してでたらめに動いているのではあるまい。」
 「私が鴎外全集を購い、また鴎外の著書をせっせと読むようになったのは、戦後になって物を書き始めてからのことである。(中略)日本語の美しさを、特に散文の美しさを味わうためには、鴎外に即くのが一番の捷路だと言うだろう。」
→たしかに「ある人の読書体験は目に見えぬ糸でつながってい」る。自分がどういう経路で福永作品と出会い、また、今も惹かれ続けているのか、もう一度問い直してみなければならないと思う。さらに、福永の読書傾向を確認することで、福永文学のより深い理解に繋がると思う。漱石、鴎外、芥川、鏡花、荷風、また、さまざまなところで福永が言及する堀や、さらに朔太郎他の多くの詩人達の作品を読んで行かねばならない。

*「私の揺籃」
 「人が文学というこの不確かなものに手を染めるのは、実際のきっかけはともあれ、彼が子供の頃に感じていた或る種のもどかしいもの、感覚、感情、情緒、認識などを一緒くたにした子供の内部、それに表現を与えたいという願望から発しているような気がする。」
 「多くの人は、言葉によって創り出されるべき世界への郷愁を、大人になってもまだ保存しているし、また或る少数の人は、言葉の魔力を自分の手で取り返し、その別世界を自分なりに(彼の見ているように、そして彼の言葉によって)構築してみたいと考えるのである。」
 「言葉は何よりも、表現不能の或る不可思議な世界を、魂を、暗黒を、探り当てる測深器でなければならない。」
→福永の考える「文学」という物の本質を述べた部分だが、それはそのまま「福永文学」の核心を言い当てているように思える。福永は、言葉を用いて、常に「表現不能の或る不可思議な世界を、魂を、暗黒を、探り当てる」作業を続けたのだと思う。だからこそ、小説でありながら詩と同じように、版を重ねる毎に細部の表現にこだわり、手直しを繰り返したのだろう。

*「ジュリアン・グリーン『四角関係』」
 「原題『レヴィアタン』の意味するものは人間の無意識界を占める悪意の意志で、人はそれを理解しないままに怪獣の餌食となって苦しまねばならない。」
→学習院大学での講義にジュリアン・グリーンを取り上げ、晩年には人文書院版全集の編集も行っている。ジュリアン・グリーンは福永文学を理解するうえで大変重要な作家であろう。小説技法の点からはW・フォークナー。小説を作り出す、現実認識の点からはグリーン。この二人の作品と福永作品との比較研究を行う必要を痛感している。

→福永はその随筆、エッセイにおいて、しばしばさりげなく自己の文学を語っている。私たちは彼の文章の端々にまで細心の注意を払い、その言葉に込められた福永文学の「世界を、魂を、暗黒を、探り当て」なければならないと思う。

【当日配付資料】
① 2020年度会計報告書 A4片面 1枚
② HPアクセス者数の推移(2010~2021) A4片面 1枚
③『書物の心』についてのメモ A4片面 2枚
④ 付表『書物の心』における《僕》と《私》 A4片面 1枚
⑤ 随筆集『書物の心』についてのメモ A4片面 1枚
⑥ 『第5随筆集 書物の心』書誌 A4片面 1枚
⑦ 小冊子「資料で愉しむ福永武彦 7」電子版 A5 21頁
*各資料は事前にライングループにアップした。
①Sa・Ki、②Ki、③・④Ha、⑤Ki、⑥・⑦Mi

【関連情報】
・第2回「福永武彦本と資料を愉しむ集い」:2021年4月25日(日)
中心とした資料:電子全集第3巻と第4巻収録の小説創作ノート、そして「第2回資料を愉しむ集い」小冊子電子版。
感想:第2回も愉しく有意義なものとなりました。「河」、「夢みる少年の昼と夜」、「心の中を流れる河」、「未来都市」、そして「夢と現実」の創作ノート(すべて北海道立文学館所蔵 *その内、『福永武彦創作ノート』に収録されているのは、「夢と現実」のみ)を事前に翻刻したもの(林 雅治、三坂 剛作成)を皆で読みながら、一語一語すべて点検し(修正し)ました。
後半では、この会のために作成した小冊子(三坂作成、電子版30ページ)を用いて、福永武彦の源高根宛自筆はがき2点(会誌第15号収録はがきとは別)、初出雑誌4点の表紙・目次画像、イタリア語版『世界の終り』2種(異装本あり)、『心の中を流れる河』元版識語(マラルメ訳詩)本、阿部良雄宛『世界の終り』元版署名本、矢内原伊作宛鮎川信夫と白井健三郎の自筆はがき、そして「世界日報」1948年4月の伊藤整「河」書評(福永自筆書き込みあり)を、画像で愉しみました。


研究会2021年度総会
日時:2020年5月23日(日)13時~14時30分
場所:リモート開催
【総会内容】
・会計報告、今年度新運営委員の選出、本年度例会内容案が承認された。


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