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福永武彦研究会・例会報告
第183回(2020年9月)~第186回(2021年3月)

第186回研究会例会 2021年3月28日(日)
第185回研究会例会 2021年1月24日(日)
第184回研究会例会 2020年11月22日(日)
第183回研究会例会 2020年9月27日(日)

第182回例会以前の例会報告

第186回例会
日時:2021年3月28日(日)13時~17時
場所:リモート開催

【例会内容】今回も、リモート開催となりました。
1中篇「冥府」雑誌初出版
・Kiさん:「冥府」参考文献一覧の解説/村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と「冥府」の比較対照表を使用しての解説。
・Haさん:「雑誌初出「冥府」についてのメモ」+「本文主要異同表」 の解説。
・Miさん:福永自筆「1948創作ノート」より「冥府」関連の抜粋翻刻+白井健三郎宛はがきの解説。
・各発表後に討論。
2来期の例会内容案(Haさん作成)を敲き台にして、採り上げる作品を検討。また、作品朗読を取り入れること。

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)

Aさん:新発見、福永武彦単行本・全集未収録文
評論『ブック・レビュウ「白鳥の死」ポオルモオラン岡田眞吉譯』
映画評論 筆名北原行也 昭和15年(1940年)9月号 171号 121ページ
<発見の経緯>
 令和3年(2021年)3月19日(金)午後、何時ものように東京古書会館の地下1階で開かれている古書即売展(趣味展)を訪れる。
※(ほぼ毎週金・土曜日の二日間に各古書店のグループにより開催されており、毎回販売目録が発行され古本愛好家へ郵送されている。)
 順次各古書店の棚を覗くと扶桑書房の台に戦前の映画評論が25~30冊近く山積みされていた。数冊手に取ると一部に福永と付箋が貼られている。その目次を開くと間違いなく北原行也の名前がある。早速スマホを出し、探求書一覧を見ると一冊該当書があった。値段を見ると300円である。安いので付箋が貼られた6冊全て購入する。
※(戦前の映画評論は通常1.000~2.000円する。しかし今回は安いので重複を厭わず購入した。)
家に帰り「未刊行著作集19.福永武彦」白地社刊の「映画評論」部分を参考に確認する。すると付箋が貼られた一冊昭和15年9月号の記載がない。「映画評論」の「ブック・レビュウ」欄は目次に評論者の氏名が省かれており、この号は他に北原行也の評論がなく目次に名前が記載されていないため今まで誰も気がつかなかったと思われる。
 しかし、扶桑書房は目次以外に中のチェックも怠らず、その該当部分に付箋を貼り、しかも300円と低額の値付けにしており頭が下がる思いです。また、私は古書即売展で今まで「映画評論」に福永と付箋が貼られたものを見たのは初めてと報告させていただきます。
 なお、私の「映画評論」蒐集は残すところ昭和14年9月号と昭和15年12月号の2冊です。
その後ラインを通して報告したところ三坂さんより「おそらく新発見だと思います。」とあり改めて皆様に詳しく報告いたします。


  (画像クリックで拡大画像にリンクします)
*新出文「ブック・レヴュウ」は、次号会誌第16号に掲載予定です。

Kiさん:『冥府』初出(「群像」1954年4月・7月号)を読んで感じたこと。
・旧仮名遣い・旧漢字が、日本近代文学を読んでいる実感を味わわせてくれた。
・前編・後編と分載されているのもリアルタイムで作品に接している感がある。
・前編・後編それぞれぴったり30ページに収めているのは、プロの作家としては当たり前だろうけど感心した。
・10年前に例会でこの作品を取り上げた際、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の"終りの世界"との比較・検討を行ったことが懐かしく思い出された。

Miさん:発言、発表概略。

Ⅰ 雑誌初出を検討する意義
 これから暫くは、例会で採り上げる作品(小説、詩篇)は、初出文を中心とします。福永作品を検討する場合は、決定版だけでなく、各版を対照することが必須となるにも関わらず、今までは「初出文を皆で精読する」ことを疎かにしてきたからです。この際、皆で初出文をキッチリと読んでみたいのです。
 HPの『福永武彦電子全集』紹介文冒頭には、各版を対照する意義に関して記してありますので、そちらに眼を通していただければよいのですが、ネット環境にない会員も複数おられますので、ここに改めて各版を対照する理由を簡単にまとめておきます。

<象徴主義小説>
 私たちは、福永の水晶玉のような作品を、一語一語虚心坦懐に繰り返して丁寧に味わい、言葉を一つ一つ、その響を含めて心に映し出すことで、日常とは別次元の世界が幻出され、カタルシスを覚えます。
 福永小説に於いては、一般の物語と異なり文章ソノモノが本質的要素となります。筋に奇を衒わず、特異なキャラクターも登場しません。喚起的文章を以て読者に人生の本質的一断面を追体験させ、想像力を刺激して別様の世界を垣間見させることを目的として書かれています。従って、言葉一つ一つが担う役割りが、世の多くの小説とは異なり、極めて重いと言えます(「結果として」上記のような作用を読者に及ぼす小説も他にあるでしょうが、福永は「それを意識して、目的として」作品を書き上げている点に注目してください。それを目的としない作品は、加田伶太郎名義で発表しています)。

<版ごとの細かな手入れ>
 そのような種類の小説ゆえに、福永は一度書き終えた作品でも新たな版を起こす度に、細かな手入れを繰り返して施しました。初出紙誌→初刊版→新版→文庫版→全小説版、そして全小説以降に刊行された限定版や文庫版と、生前にその手入れが留まることはありませんでした。つまり、機会があればどの作品にも必ず多数の手入れを続けていたので、絶えず細部が変化して流動しており、本文が確定したことはなく、作品内に揺らぎを含んでいます。その手入れの特徴は、大掛かりな修正よりも、むしろ小さな箇所に現れています。
 版毎の小さな多くの異同箇所に注目することによってこそ、福永作品はその魅力を開示してきます。小さな手入れ箇所にこそ、特に押韻定型詩の詩作体験から得られた福永のコトバに対する厳しい拘りが露呈しているからです。
 文体を決定し、その味わいを大きく左右しているのは、小さな異同の「積み重ね」です。私たちは、一つ一つの小さな手入れを漫然と読み過しているようで、実は微妙に違った文章の「積み重なり」から受け取る作品の味わい(幻像)は大きく変ってくる(一語の持つ指示機能と暗示機能の内の後者)。つまり、私たちが想像力を働かせることにより幻出する別次元の世界の姿は、この「小さな違いの重なり」によって大きく異なってきます。

<福永作品の醍醐味>
 上記の点から、福永作品を研究するに際しては、各版を丁寧に繰り返し読み込むことが求められます。決定版の筋・人物だけを味わう、解釈するのではまったく不十分であり、各版毎の―筋や展開を離れて―本文ソノモノを一語一語じっくりと味わうことが福永作品を読む醍醐味であり、自ずから立ち現れて来る幻像を捉え、心に刻み込むことが解釈の前提となります。
 そのような立場から、福永武彦電子全集は編輯されています。しかし、そこには初出文は収録されていません(短篇「鏡の中の少女」と長篇「小説風土」、「死の島」は初出全文を、「草の花」はその原型となる小説を収録してあります)。そこで、例会ではその初出文から一語一語精読することを、今回より開始しました。これで全版を読むことが出来ます。
「意味」に囚われている私たちの読書を、より広い地平に引上げるために有効な手段として、作品の朗読もこれから積極的に行なっていく予定です。

*作品は「文章と構成」からその特色を見ることが出来るでしょうが、ここでは、意識的に構成上の工夫は省いて文章ソノモノに注目しています。福永作品の構成上の工夫は、当然文章と相関関係にありますので。
構成、創作姿勢に視点を置けば、複雑な現代社会の現実を、その中に生きる人間(の現実)を、精確に重層的に捉えるために古今東西の文学的伝統に学びつつ、作品毎に新たな構成上の実験を行なっているという点で所謂モダニズムの流れを汲むのでしょうが(四迷、鴎外、漱石、潤一郎や龍之介、康成や淳や辰雄を通り、武彦・真一郎や邦生に行き着き、戦後の池澤夏樹、村上春樹に至る日本文学の伝統―各々、創作を始める以前に、ロシア文学やドイツ文学、英米文学やフランス文学を原文でたっぷり読み、その骨格、その文章の精髄を独自に掴み取った―)、その面の研究は少数ながら優れた論文が既に発表されていますので、これからは、創作姿勢を離れて(少なくともそれと同時に)、出来上がった文章ソノモノに注目することが肝要です。福永は日本語で創作しているのですから。

Ⅱ 自筆「1948創作ノート」より「冥府」関連箇所翻刻(*改行は原文ソノママ)

14(*ノートのページ数自筆)




*「1948創作ノート」は小さなメモ帖。鉛筆書きで75ページ余り(片面で1ページ)に、実現しなかった作品を含めて、数多くの小説の構想が綿密に記されているだけでなく、精神病理学の勉強をものがたる記述も散見される。
 ここに掲載した部分は、執筆年月は不明で、また小説「冥府」とはどこにも記されていないが、内容から「冥府」及び「夜の三部作」の関連事項と判断した。
 以上

Haさん:『冥府』について

1.福永武彦の中・短編小説集
(1-1)福永武彦(1918-1979)の中・短編小説集刊行年 
①塔1948年 ②冥府1954年 ③夜の時間1955年 ④冥府・深淵1956年 ⑤心の中を流れる河1958年 
⑥世界の終り1959年 ⑦廃市1960年 ⑧告別1962年 ⑨幼年その他1969年 ⑩夜の三部作1969年 ⑪海からの声1974年

2.『冥府』(1954年8月刊)に収録の短編小説の執筆・初出年月     
① 冥府:(前半)1954年1月~2月執筆、「群像」1954年4月号初出  
 (後半)1954年5月執筆、「群像」1954年7月号初出
②水中花:1954年4月執筆、「新潮」1954年6月号初出
③時計: 1953年2月執筆
④遠方のパトス:1951年12月執筆、「近代文学」1953年1月初出
⑤河:1947年9月~10月執筆、「人間」1948年3月号初出

3.短編「冥府」について
(3-1)「冥府」を検討する際の注目すべき事項
 ①福永の東京療養所入所期間:1947年11月~1953年3月
 ②友人の加藤道夫の自殺:1953年12月

(3-2)初出、初刊版、決定版本文の比較
「冥府」について、初出(「群像」1954年4月号、7月号)、初刊版(1954年8月刊)、決定版(福永武彦全小説第三巻、1974年1月刊)の本文を比較し、異なった箇所を付表(省略)にまとめた。電子全集第三巻の「冥府」初出本文と初刊版本文との主要異同表に、決定版の本文との異同表を追加した。

ただし以下の3項目は違いに含めなかった。
・歴史的仮名遣いと現代仮名遣い
・旧字と新字
・漢字表記をかなに直したもの(例:共に/ともに、尚/なお、何故/なぜ、如何に/いかに)

〇まとめ
・「冥府」の初出、初刊版、決定版本文の比較をすると、170枚(初出)の小説で、45の異なる箇所が確認された。
 ・「冥府」の変更箇所は、「塔」(65枚の小説)の約120箇所と比べるとはるかに少ない(約1/10)。
理由:①雑誌発表後数ヵ月後に初刊版を出版したため(「塔」は雑誌発表後の1年半後に初刊版を出版)。②「塔」は散文詩的傾向が強く、より言葉が厳選されたためと思われる。
 ・大きく意味の変わる変更は少ないが、変更によって文意がより明確になり、また言葉のニュアンスが重視されている。

(3-3)「冥府」の概略
主人公の僕の五つの夢(過去の出来事)と五つの法廷を記述する。冥府(此所、死後の世界)、秩序(あそこ、この世)

(3-3-1)主な登場人物
僕(余計者)、教授(知識を追った者)、教授主人(他人のために生きた女)、会社重役(善行者)、踊子(愛し過ぎた者)、職人(嫉妬した者)、友達(自殺者、愚劣には耐えられなかった者)

(3-3-2)五つの法廷

(3-4)技法
(3-4-1)死者の眼:「しかし僕は、その間に(注、病床生活の間に)、現実を死者の眼から見ることを覚えた。その視点は現実を
魔術的に変貌させ、見えるものばかりでなく見えないものをも見させることが出来た。」(「冥府」初版ノオト1954)

(3-4-2)構成
法廷、踊子、夢、友達の要素を繰り返しながら、僕と踊子との関係が次第に明らかになって行く。
冒頭の主人公の僕が歩いている場面から始まり(「僕がまず気づいたのは、僕が歩いているという事実だ。」)、最終部で僕が
歩いている場面で終わる(「僕はよろめき、そして歩き続けた。」)。すなわち冒頭部の歩いている場面に繋がり、この円環が
永遠に繰り返されることになる。

(3-5)主題
・死
・暗黒意識:「人間を内部から動かしている眼に見えない悪意のようなもの」(「夜の三部作」初版序文1969)

(3-6)死後の世界:
・仏教:極楽と地獄
・キリスト教(カトリック):天国と地獄と煉獄
・冥府:死者たちが再生までの時間を過ごす中継地(池澤夏樹『夜の三部作』解説2016、小学館)
 以上

【当日配付資料】
①「冥府」参考資料一覧 A4片面6枚
 *HP掲載資料。
②「冥府」と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の対比メモ A4片面 3枚
③『冥府』についてのメモ A4片面3枚
④「冥府」本文主要異同表(初出→初刊→決定版)A3片面1枚
⑤「2021年度の例会課題図書案」A3片面1枚
⑥「資料で愉しむ福永武彦6」A4片面3枚
 *「1948創作ノート」より「冥府」関連の翻刻、白井健三郎宛はがき(1954年2月)の画像。
 *画像は事前にグーグルドライブとライングループにアップした。
①・②:Ki、③~⑤:Ha、⑥:Mi

【関連情報】
1第1回「福永武彦本と資料を愉しむの集い」:2021年2月28日(日)
 中心とした資料:電子全集第20巻収録 金沢・能登旅日記
 他:神西清宛福永自筆書簡/三島由紀夫からのはがき/福永肖像写真3枚など。
 日記を逐一読み下しつつ、不明文字などを皆で検討した。この日記は、「貝合せ」ほか随筆の元となったものであり、同時に『百花譜』収録絵画の元となったスケッチを含む。福永写真は、新潮文学アルバム巻末写真と同じ1968年4月撮影が2枚。
 感想:自筆物を翻刻するには「福永文学と人」に関する知識が豊富にあるほど助けになること、そしてその翻刻に当っては、判読難易に関わらず、複数人でのチェックが不可欠であること。
2『草の花』のフランス語訳「La Fleur de l’herbe」(岩津航、イブ=マリー・アリュー)がLes Belles Lettres社より刊行されたとのこと。twitterで検索して紹介文にとぶことが出来ます。


第185回例会
日時:2021年1月24日(日)13時~17時
場所:リモート開催
 
【例会内容】今回もコロナウイルス蔓延により、リモート開催となりました。
1.エッセイ『内的獨白』
 ・Haさん小発表『内的獨白』についてのメモ
 ・Miさん小発表『内的獨白』に関する一考察
各発表後に参加者討論。
2.Miさん「資料で愉しむ福永武彦5」
 ・『内的獨白』執筆開始頃の日常生活と執筆作品を確認するために、福永武彦自筆手帳1975年12月1日~14日の画像を配付し、記述内容の説明と不明箇所の翻刻。
 
【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)     
Aさん:福永自筆資料
石神井書林の目録が届きました。「忘却の河」七章「賽の河原」149枚55万円が出ています。金額は森井書店と連動した金額となっているようです。お知らせまで。例会は今回もリモートでしたが、やはり対面でないと難しいと感じました。残念です。はやくコロナが終わらないと。
 
Miさん:『内的獨白』に関する一考察
*以下の論を含め、福永に於けるエッセイと随筆との違い、エッセイの(執筆時期による)二大別とその特色、随筆の特色などについては、電子全集第十巻、第十五巻、第十六巻、第十七巻の解題を参照されたい。
Ⅰ.『内的獨白』
① その叙述方法。
 『内的獨白』は、もともとは気楽な随筆的エッセイの予定で雑誌「文藝」に書き始められた。しかし冒頭近く、連載第2回「二の四」(1976.2)で、佐多稲子の鼎談での発言(=堀辰雄は生前、上條松吉を義父と知っており、廻りの友人たちもそれを察知していた)に刺激を受け、触発されて、そこから多種の資料を駆使しつつ堀の父子問題に関して推論を展開していく。連載第4回「四の三」(1976.4)に於いて、堀は生前、松吉を実父と信じて疑わなかった、佐多の意見は驢馬同人たちの「一種の集団的な妄想」であったと結論付ける。
 そして、連載第6回「六の一」(1976.6)以降に於いて、「幼年時代」の ア 初出本文(1938.9~1939.4)、イ 初刊版本文(『燃ゆる頬』1939.5)、そしてウ 青磁社版本文(『幼年時代』1942.8)を各々多数引用し、丁寧に比較対照することに拠り(その異同を明示することで)、自らの説を明証しようとする。
 つまり、3種の文章を、紙面の許す限り数多く抄出し―単行本に於いては初出で不足していた多くの引用を増補し―その異同(書き換え跡、削除や増補した箇所)を一語一語具体的に提示することにより、堀が松吉を義父であると知ったのはその死後だったことを、読者が自ずから納得するように導いていく。
その推論には、3種の本文だけではなく、同時に堀の著作と生活両面に渡った年譜的事実を挟みつつ、更に堀の友人たちの著作と発言を数多く挿入し、また洪水の起った年を追窮した際に見られるような歴史的文献をも援用している。

 *論の展開からは一見外れた寄り道の話も多いが、それがこの文章を堅苦しい評論文ではなく随筆的エッセイとして成立させている。
 その叙述方法として特徴的なのは、福永自らは「幼年時代」3種の本文紹介者の位置に退き、抄録文を自らの説の傍証とする以外、一々に論を提出することはないという点である。堀文学の本質の分析には筆を進めない。具体例を基に、推論を出しているように見える箇所も、資料に関する自らの読みを提示しているので、一種の解題となっている。

 *幼年の持つ意義に関して「純粋記憶」という自らの視点を挟む箇所があるが、それは小説『幼年』の作者としてこのエッセイに向き合っているからであり、客観的な論を立てようとしているのではない。
 また、「三の一」(1976.3)で中野重治宅を訪問した際の会話内容を挿入していることからも分かる通り、面識がある者の場合には、その日常的付き合いで得た個人的印象や発言までも文中に取り入れている点に注目したい。抽象的議論で終ることなく、どこまでも具体例を列挙している。
 以上のような手法は、例えば普及版『堀辰雄全集』全6巻(新潮社1958.5~12)を福永が単独編輯した際、各巻に附けた詳細な解説文(『意中の文士たち 下』収録)を書いたときの叙述方法とはまったく異なっている。堀文学の全体像、その特質を言わば鳥瞰図的に把握し、紹介しようとする評論文とこの『内的獨白』では、その叙述法が根本的に異なる。
 同様のことが、『ボードレールの世界』(1947.10)、そして『ゴーギャンの世界』(1961.7)、『福永武彦作品 批評A/B』(1966.5/1968.10)収録の各篇と比較しても言えるだろう。
 「幼年時代」から一つ一つの言葉を抄出し、その言葉の変更、削除、増補跡を具体的に丹念に検討することで、特定の事実(上條の生前、堀が実父と信じていたこと)を浮き上がらせようと試みているこの「内的獨白」と、それらの評論文の叙述方法は異なる。
② 『内的獨白』とはどのような著作なのか。 
 福永武彦のエッセイは、『死の島』と『全小説』が刊行された1970年代前半を境にして、それ以前に執筆された前記の評論文と、それ以後に刊行された文人意識に貫かれたこの『内的獨白』のような考証的エッセイに二大別して捉えるとスッキリと理解できる。

 *江戸時代後期、日常の生活風俗や巷説を実証的、歴史的に考究する随筆が隆盛するようになる。考証随筆である。その作者は多く文人(身分は学者、戯作者、幕吏、大名色々だが)たちであり、その骨法は博く書を探してその「抄」をつくることにあった。例えば、山東京伝の『近世奇跡考』や『骨董集』、大田南畝の『南畝莠言』、そして松崎慊堂や松浦静山の随筆や日記類を思い浮かべていただければよいが、それらの著作の多くが広く江湖に迎えられた。福永は、江戸後期の小説を好んで読み、同時にそれら随筆類にもしばしば眼を通していた。
 考証随筆の叙述法とは、種々の資料(人、物、出来事)を蒐集し陳列提供することにより、そのモノ自体に語らせようとする手法と言える。特に、先人の著作を広く蒐集し、その抄出を作成する(譜を作る)ことをその骨法とする。この『内的獨白』は、その伝統を引き継いでいる。同書「後記」に「この本は引用が大へん多く」とあるように、「幼年時代」を初めとして多種の文献からの引用(抄出)の多さは福永自身自覚しており、江戸後期の小説や随筆を座右の書としていた福永として、意識的に採られた手法である。具体的資料、文献そのものに語らせ、自らはその引用者、解題者として読者に語りかけるのである。そこから一般論を抽出、展開しようとはしない。
 『死の島』刊行後の後期エッセイの特色として、このような江戸以来の考証、校勘随筆の系譜を引く作品が次々に雑誌に連載され、刊行されている点に留意したい。この『内的獨白』は、堀辰雄の出生に関わる考証の書と言えるだろうし、同時期に「婦人之友」に連載された『異邦の薫り』は、鴎外以来の各種訳詩集について外国語訳と比較対照しながらの、まさに校勘の書と言える。没後刊行の『彼方の美』(1980.6)や『絵のある本』(1982.12)などにも、考証随筆の手法は引き継がれている。
 従って、この『内的獨白』は、一般的には考証随筆と言ってよいのだが、しかしながら、福永作品に於いては、「随筆」と言うのは自身の姿を等身大に描くこと(内的真実を描くこと)を目的とし、そのために虚構をも含む文章のことなので(このことは、電子全集第十五巻解題で詳述した)、この作品はそのような随筆ではなく、堀辰雄という対象に関する特定の事実を顕かにしようとした考証随筆の手法を用いたエッセイであると言える。

 *電子全集第十七巻の附録Ⅱに掲載した篠田一士宛の葉書をご覧いただきたい。「目下はじじむさい随筆的エツセイを書いてゐる」とあるのはこの「内的獨白」のことであるが、それを「随筆的エッセイ」と記しているところに注目したい。
 この言葉からも、福永が随筆とエッセイを明確に区別していること、この作品をエッセイと捉えていることがハッキリと読み取れる。ここで「随筆的」というのは、単に湧き上がる想いをあれこれと随意に書き綴ったという意味ではなく、いま述べた「考証随筆的」ということであろう。
同時期に刊行された『秋風日記』(1978.10)「後記」の「そこで随筆と言はんよりはエッセイに近いものまで混ることになつたが」という言葉も、エッセイと随筆の区別を前提としている。
 このような考証的エッセイをものするようになったのは、福永の文人意識の高まりに拠るのだろうが、この文人意識の高まりの要因を簡潔に列挙すれば、①犀星、一政、淳など文人たちとの交流、②身体的不調による外出の減少に伴い、中国・日本の文人たちの著作、作品に一層親しむことが多くなり知識が増したこと、③『死の島』の完成、『全小説』の刊行により、小説家として一段落したという意識(=新たな方向を模索していた)ことなどが挙げられるだろう。
 このような視点から見ると、後期のエッセイが(没後の『絵のある本』を除いて)、旧字・旧かな使いである点も自ずから納得できる。『内的獨白』が「文藝」に連載された際は新字・旧かな使い、『異邦の薫り』が「婦人之友」に連載された際は新字・新かな使いであるが(婦人向け雑誌への配慮であろう)、夫々単行本刊行の際に旧字・旧かなに手入れが施されている。『彼方の美』は没後刊行だが、生前から準備し、刊行間近だったので、字体にも留意し、やはり旧かなである。

 *『ボオドレエルの世界』や『ゴーギャンの世界』が旧字・旧かななのは、それら刊行当時の出版物として一般的であるが、1975年以降発行の著作として、旧字・旧かなは一般的ではなく、作者福永の意図を示す。つまり、『内的獨白』や『異邦の薫り』などの著作は、考証随筆・校勘随筆をものする文人としての姿勢で貫かれており、その姿勢が文体、字使いにも現れているということである。
 同時期に刊行された第六随筆集『秋風日記』もまた、旧字・旧かな使いである。「私はもともと歴史的假名遣ひを墨守し、ただ発表のときは相手次第、新假名でもしかたがないと諦める方針だつたが、この際少し意地を張ることにした」とその「後記」にあるが、「この際」という心境に至ったのも、やはりこの文人意識の高まりだろう。電子全集でも、旧字・旧かな作品はそれを踏襲している。
 しかしそもそも、これほど執拗に堀の親子問題に拘った福永の熱情は、どこから来るのだろうか。それは、福永自身の父子問題に由来し、堀父子の関係を自らの上に投影していたのだろうと推測される。池澤夏樹が小説「また会う日まで」で明かしているようなその自らの出生に関る。だが、その問題に踏み込むことは、現時点では控えておきたい。戸籍上は、確かに福永末次郎が父親である。

 * 堀辰雄が上條松吉の生前より義父と察知していたか否かに関して、参加者により意見が分かれた。例えば、ア 小説家として自身の生まれや環境(姓が異なることなど)にそれほど鈍感であり得るのか、「幼年時代」は、自身の出生を含めて「創作」しているのではないかという意見(=義父と知っていた)、イ 堀にはノンシャランな一面があり、西洋文化(文学、音楽、絵画等藝術一般)に深い関心を寄せていたその精神の遠心性からみて、自身の日常生活、その身内関係には関心を持たなくとも不思議ではないという意見(=実父と信じていた)など。

 *福永武彦の出生に関して考察した最初の論考として、次の1点を挙げておく。
・首藤基澄 福永武彦の「父なるもの」―「河」を中心に― :「近代文学論集」第16号1990年11月発行
 三坂作成の年譜を含め、既存年譜は戸籍の記載に拠り、福永末次郎を父親とする。小説「また会う日まで」が連載中の現時点で、この問題に関してここに私見を記すことは控えておきたい。
 
Ⅱ.小品と小説
堀辰雄「幼年時代」を堀辰雄全集に収録する際、福永が直接関わった新潮社元版、同普及版、筑摩書房版の収録状況を見てみると以下の如くである。
① 新潮社元版『堀辰雄全集』第三巻(1954.7)底本は青磁社版 川端康成・神西清・丸岡明・中村真一郎・福永武彦編輯/校訂 谷田昌平
小説の範疇を厳密に定義したこの全集では、「幼年時代」は「小品」に分類されている点に注目したい。第三巻に「幼年時代」を総題として、「雉子日記」や「大和路・信濃路」と並んで収録された。「幼年時代」「三つの挿話」(「墓畔の家」「昼顔」「秋」)、そして「花を持てる女」の順に掲載し、末尾に青磁社版『幼年時代』(1942.8)の註、そしてその「あとがき」を「ノオト」と改題して収めている。(画像クリックで拡大画像にリンク)
 本文の総題「幼年時代」のページ裏には紫の小字で「「幼年時代」「三つの挿話」「花を持てる女」の各篇個々に発表 併せて「幼年時代」とせるは初版による」とある。
 また、月報第3号の「校正室から」には「「幼年時代」を小説として扱ふことは根據のないわけではないが、著者に於ける小説の概念は、本来、極めて厳密であつたのを思つて、小品集として本卷に収めることにした」、「「幼年時代」に収めた個々の作品は、それぞれ制作年代が異るので、假名遣、用字等は強ひて統一しなかつた」とある。
② 新潮社普及版『堀辰雄全集』第三巻(1958.8) 底本は青磁社版 福永武彦個人編輯
元版全集に倣って、全集方針は「おほむね年代順に從つてジャンル別に排列」(第六巻解説)。
総題を「幼年時代」として、「幼年時代」、挿話3篇、そして「花を持てる女」を収録する点は元版を踏襲しているが、「小品」ではなく「小説」として「かげろふの日記」と並んで掲載されている点が異なる。末尾に青磁社版と同じ註を附す。(画像クリックで拡大画像にリンク)
③ 筑摩書房版『堀辰雄全集』第二巻(1977.8) 底本は青磁社版 中村真一郎・福永武彦編輯/編輯校訂 郡司勝義
収録作品は青磁社版を踏襲し、総題を「幼年時代」としている点は新潮社元版全集に倣っているが、分類は普及版と同様に「小説」として「かげろふの日記」などと並べている。註は適宜各篇の末尾に分散している。巻末に校異一覧。
 堀辰雄の小品の特質を福永がどこに見ているか、福永自身の小品に関してもその特質を引き継いでいるという点は、電子全集第1巻「解題」に記したので御覧いただきたい。福永文学にとっても、小品は独自の価値を持つ。
 例会では「幼年時代」の収録が小品から小説に変った理由も討論した。福永の小品に対する厳格な考えが徐々に柔軟になっていった(佐々木さん)という辺りが妥当な見方だろう。  以上
 
Haさん:『内的獨白』について   
1.堀辰雄『幼年時代』
(1-1)『幼年時代』の構成
青磁社版『幼年時代』は以下の三篇から成立っている。
「幼年時代」(初出:「むらさき」1938年9月号~1939年4月号)
「三つの挿話」(墓畔の家(初出:「時事新報」1931年3月)、昼顔(初出:「若草」1934年2月号)、秋(初出:「文藝」1934年2月号))
「花を持てる女」(初出:「文學界」1942年8月号)
(1-2)「幼年時代」の発表年月
初出:「むらさき」1938年9月号~1939年4月号(6回連載、1938年12月号と1939年2月号は休載)、むらさき出版部発行
訂正稿:『燃ゆる頬』に所収 1939年5月、新潮社、
決定稿:『幼年時代』1942年8月、青磁社
(1-3)「幼年時代」の目次
初出誌「むらさき」と青磁社版の「幼年時代」の小見出しの表題を以下に示す。かっこ内に青磁社版の表題を示す。また『燃ゆる頬』所収の「幼年時代」の表題は「新しい環境」が「新しい家」に変更されているほかは初出と同じ。
「むらさき」1938年9月号:最初の記憶(無花果のある家)、停車場(父と子)
1938年10月号 赤ままの花(赤ままの花)
1938年11月号 夏雲(夏雲)
1939年1月号 洪水(洪水)、新しい環境(芒の中)
1939年3月号 幼稚園(幼稚園)、口髭(口髭)、小学生(小学生)
1939年4月号 花結び(エピロオグ)
2.福永武彦『内的獨白』
(2-1)『内的獨白 ――堀辰雄の父、その他――』
初出:「文藝」1976年1月号~1977年5月号(11回連載)
初版:1978年11月、河出書房新社
(2-2)技法
『内的獨白』は、Miさんが言うところの考証随筆的エッセイで、「幼年時代」等の堀辰雄の文章の引用により主題を説明している。     
(2-3)主題
母方の叔母から話を聞くまで、堀辰雄が義父の上條松吉が実父でないことを知らなかったことを、主に「幼年時代」の三つのテキストを比較することによって、論証する。
(2-4)目次と内容の要約
『内的獨白 ――堀辰雄の父、その他――』の目次と内容の要約を付表(省略)に示す。
(2-5)上條松吉の死:1938年12月15日
(2-6) 「むらさき」の発売日と原稿締切り日(『内的獨白』による)
1939年1月号の発売日:1938年12月16日前後、原稿締切り日:12月1日前後
1939年2月号の発売日:1月16日前後、原稿締切り日: 1938年12月28日前後
1939年3月号の発売日:2月16日前後、原稿締切り日: 1939年2月1日前後
1939年4月号の発売日:3月16日前後、原稿締切り日: 1939年3月1日前後
・すなわち松吉が亡くなったのは、堀が「幼年時代」の原稿(「むらさき」1938年1月号)を出版社に渡した後の約2週間後ということになる。
・(「むらさき」3月号は)「父親が亡くなつたあとの一月末から二月初めにかけて書かれてゐるが、特に父親の死が堀の文章に影響を与へたやうには見えない。(『内的独白』「九の一」)
・堀辰雄「最近、父の死後、私ははじめて死んだ父が自分の本当の父でなかつたことを知つた。・・・そんな話を、或日、私のをばさんの一人が私にはじめて聞かせてくれたのである。」(「むらさき」4月号「花結び」)
・堀が叔母から松吉の話を聞いたのは、「「むらさき」三月号の原稿を一月末までに書いて雑誌に渡した後のことだと想像される。」(『内的独白』「十の二」)
・「「むらさき」四月号の原稿の締切が3月1日前後だったことを考慮すると、堀が叔母から松吉の話を聞いたのは1939年2月であったと考えられる。
(2-7)堀辰雄 父への手紙(24通)
・いずれのはがきでも遠慮のない極めて親密な雰囲気が感じられる文面である。堀辰雄が上條松吉を実父であることをいささかも疑問に思っていないことが分かる。
(2-8)初出「幼年時代」
3初出「幼年時代」の「むらさき」1939年1月号、3月号、4月号掲載の文章を読んでみると、3月号までは全く触れられていなかった松吉が義父であることが、4月号の「花結び」で初めて出て来ることが分かる。
(2-9)青磁版『幼年時代』のあとがき(1942年7月10日記)
「数年前、まだ「幼年時代」を書きつづけてゐたとき、私は父の死に遭ひ、それから暫くしてから、一人の母方のをばさんから、いろいろ私の知らなかつた自分の幼時のことを聞かされた。それは私にとつてはあまりにも思ひがけないことが多かつた。私は、まだ書きつづけてゐた「幼年時代」を最初からすつかり書き改めなければならないかとも思つた。
さういふ事も、私が「幼年時代」を中途で止めた原因の一つである。」(堀辰雄全集第四巻227頁、1978年、筑摩書房)。
小説「幼年時代」の本文ではなく、単行本『幼年時代』のあとがきに書かれている上記のことは、事実と推測される。従って堀は叔母から聞かされるまで、上條松吉を実父であることを疑問に思っていなかったと思われる。
(2-10)初出「幼年時代」の最終行
初出「幼年時代」の最終行は、(幼年時代第一部畢)となっている(堀辰雄全集第六巻352頁、1978年、筑摩書房)。「花結び」発表時点では、堀は幼年時代第一部の続編を書くつもりだったことが推察される。  以上
 
【当日配付資料】
① 『内的獨白』についてのメモ A4片面 2枚
② 付表『内的獨白―堀辰雄の父、その他―』の目次と内容 A3片面 1枚
③ 『内的獨白』に関する一考察 A4片面 8枚
④ 福永自筆手帳1975年12月1日~14日+巻末メモ画像 画像計3点
*画像は事前にグーグルドライブにアップし、各自ダウンロード。
①・②Ha、③・④Mi
 

第184回例会
全国的にコロナウイルス禍のため、会場での開催をとりやめ、リモートのみの開催となりました。
日時:2020年11月22日(日)13時~17時
 
【例会内容】コロナウイルス蔓延により、リモート開催となりました。
・会誌第15号に対する意見交換
・小発表と討論 堀辰雄『菜穂子』
・資料で愉しむ福永武彦4
 
【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)  
Haさん:堀辰雄『菜穂子』について  
1.堀辰雄の小説
(1-1)堀辰雄(1904-1953)の主な小説の刊行年
①ルウベンスの偽画 1930年(『不器用な天使』に収録) ②聖家族 1932年  ③美しい村 1934年 ④風立ちぬ 1938年 ⑤かげろうの日記 1939年 ⑥菜穂子 1941年 ⑦幼年時代 1942年
(1-2)初出    
①ルウベンスの偽画(初出 第1稿「山繭」1927年2月号、第2稿「創作月間」1929年1月号、第3稿「作品」1930年5月号)
②聖家族(初出 「改造」1930年11月号)
③美しい村(初出 序曲「大坂朝日新聞」1933年6月25日、美しい村「改造」1933年10月号、夏「文藝春秋」1933年10月号、暗い道「週間朝日」1934年3月18日号)
④風立ちぬ(初出 序曲「改造」1936年12月号、春(婚約)「新女苑」1937年4月号、風立ちぬ「改造」1936年12月号、冬「文藝春秋」1937年1月号、死のかげの谷「新潮」1938年3月号)
⑤かげろうの日記(初出 かげろうの日記「改造」1937年12月号、ほととぎす「文藝春秋」1939年2月号)
⑥菜穂子(初出 物語の女(楡の家第一部)「文藝春秋」1934年10月号、目覚め(楡の家第二部) 「文學界」1941年9月号、菜穂子 「中央公論」1941年3月号)
⑦幼年時代(初出 幼年時代「むらさき」1938年9月号~1939年4月号、三つの挿話(初出略)、花を持てる女「文學界」1942年8月号)
 
2.『菜穂子』について
(2-1)福永による『菜穂子』の四つの形(「菜穂子」創作ノオト考、以下「ノオト考」と略す。)
①-1初出・菜穂子 ― 中央公論 1941年3月号
①-2小・菜穂子(①-1の四章を二十四断章にしたもの)
②二部作・菜穂子(楡の家 + 小・菜穂子) ― 創元社版『菜穂子』 1941年11月刊
③菜穂子cycle(二部作・菜穂子 + ふるさとびと)
④大・菜穂子(堀辰雄「菜穂子」創作ノオトでの「菜穂子」の構想):「楡の家」は含まれない。
(2-2)大・菜穂子から小・菜穂子ができるまで(「ノオト考」)
第一段階 13章  ― ④大・菜穂子
第二段階 9章
第三段階 4章  ― ①-1初出・菜穂子
第四段階 24断章 ― ①-2小・菜穂子
(2-3)「菜穂子」関連作品の執筆・初出年月
物語の女 「文藝春秋」1934年10月号
菜穂子創作ノオト 1940年7月~10月に執筆(福永の推定、「ノオト考」)
菜穂子 「中央公論」1941年3月号
目覚め 「文學界」1941年9月号
創元社版『菜穂子』 1941年11月刊
ふるさとびと 「新潮」1943年1月号
 
3.『二部作・菜穂子』
以下では、1941年11月に出版された創元社版『菜穂子』(元版『菜穂子』)(福永のいう『二部作・菜穂子』)について論じることにする。
(3-1)視点人物とその表記
創元社版『菜穂子』の視点人物とその表記を付表1(省略)に示す。
・創元社版『菜穂子』は二篇(「楡の家」と「菜穂子」)から成り、「楡の家」は二部、「菜穂子」は24断章から成る。
・「楡の家」の視点人物は三村夫人、追記の視点人物は菜穂子;「菜穂子」の視点人物は黒川菜穂子、都築明、黒川圭介。
・「楡の家」の主人公は三村夫人;「菜穂子」の主人公は黒川菜穂子と都築明。
・各断章の位相は以下のように考えられる。:
 A=大過去の〈三村夫人〉パート(1926年9月)
 B=過去の〈三村夫人〉パート(1928年9月に1927年のことを思い出して日記に書いている。)
 C=過去の〈菜穂子〉パート(1929年)
 D=現在時の〈菜穂子〉パート(1931年)
 E=現在時の〈明〉パート(1931年)
 F=現在時の〈圭介〉パート(1931年)
 S=〈作者〉パート:作者によっての視点人物は外部の視点から描かれる。
(3-2)技法
「楡の家」:・息の長い文章を続けることがある。:思いを連綿と続ける。
「菜穂子」:・主に明と菜穂子の二人が交互に視点人物として用いられている。
・全知の視点人物としての作者が存在している。
・3人の視点人物(黒川菜穂子、都築明、黒川圭介)の内的独白が使われている。
・内的独白を「 」で示すことがある。
・レンブラント光線
(3-3)主題
(3-3-1)創元社版『菜穂子』の主題
・母と娘:三村夫人と菜穂子の不和・確執 (「ルーベンスの偽画」、『聖家族』と共通の主題)
・愛と死:三村夫人と森於菟彦との愛、菜穂子と明との愛(『聖家族』、『風立ちぬ』と共通の主題)
・孤独 :菜穂子の孤独と明の孤独
☆『菜穂子』の主題は福永の多くの小説の主題(愛、孤独、死)と重なる。
(3-3-2)『菜穂子』の主題を巡る堀辰雄と加藤周一のやり取り
〇1951年6月15日付加藤周一宛堀辰雄はがき:
「菜穂子の解説を有難う あの作品にすこしでも新しい価値があるとすればそれを君くらゐ深く理解してくれたひとは少いだらうとおもふ 」
〇加藤周一『菜穂子』解説:角川文庫版『菜穂子』1951年5月刊:
・「『風立ちぬ』の道とはちがうもう一つの道への出発、まことに『聖家族』の意図をつぐ小説家の再度の冒険は、『菜穂子』であった。その主題が、『聖家族』から『物語の女』へという発展を追って、『物語の女』の娘の運命に係っているのも、偶然ではないだろう。」(下線引用者)
・「(前略)菜穂子と都築明とは、日本の小説の主人公としてはまれにみる近代的特質を備えている。ひと口にいって、彼らには、孤独な生活がある。」
・「人それぞれのなかにそれぞれの孤独な世界があるのでなければ、そういう人々の間の交渉のつくりあげる小説的世界が、近代的なものではあり得ない。ところが、氷室の牧歌的な場景のなかで明は孤独に生きているし、牧場のまんなかに立っている大きな一本の樹から「悲劇的な感じ」を受け取る菜穂子も孤独に生きている。ここで、これらの人物にとって、孤独とは、他人の不在という消極的な条件ではなく、自己を見つめるための積極的な条件である。(中略)このような人物が互いに交渉してはじめて、近代的ロマンの世界は成り立つのだ。」
 
4.「菜穂子」創作ノオトから初出・菜穂子ができるまで
堀辰雄「菜穂子」創作ノオト (1940年)と福永武彦「菜穂子」創作ノオト考(1978年)の6と7を参照して、 大・菜穂子から初出・菜穂子と小・菜穂子ができるまでを付表2(省略)にまとめた。
初出・菜穂子の第一章前半(小・菜穂子の断章二~五)には大・菜穂子の構想の牧歌の章が採用され、初出・菜穂子の第一章後半と第二章(小・菜穂子の断章六~十五)には大・菜穂子の構想のサナトリウムの章が採用されている。また初出・菜穂子の第三章(小・菜穂子の断章十六~二十一)には大・菜穂子の構想の冬の旅の章が採用され、初出・菜穂子の第四章(小・菜穂子の断章二十二~二十四)には大・菜穂子の構想の雪の章が採用されている。
すなわち、大・菜穂子の構想13章のうち、牧歌、サナトリウム、冬の旅、雪の4つ章の内容を主に用いて、初出・菜穂子は書かれたと思われる。      以上
 
Miさん:刊本に見る「菜穂子」構成の変遷。 *赤字は堀辰雄生前刊行
「菜穂子」を検討するという場合、私たちはどの作品まで採り上げるのか。
初刊版『菜穂子』(創元社 1941・11)目次
「楡の家」は「菜穂子」の後に置かれる。その理由は、巻末「追記」に記されている。
「この作品の方は寧ろその背景として讀まれることを作者は希望するため」。
鎌倉文庫版『菜穂子』(現代文学選22 1946・10)目次
初刊版と同じ順で第一部、第二部を表示。他に「姥捨」と「美しい村」を収録。
巻末に「あとがき」(1946・2・1)。
角川版『堀辰雄作品集』第五巻(1947・9/再刊 1950・12)目次
作品はこの③作だけで、アステリズム(⁂)で区切って、その後に翻訳2篇
(「マダマ・ルクレチア小路」、「ユウジェニイ・ド・ゲランの日記」)と後者への「ノオト」が収録されている。
「楡の家」「菜穂子」の順とし、「ふるさとびと」の前に「覚書」(「帝大新聞」1940・1執筆 新潮社元版全集「覚書1」)を置く。巻末「あとがき」に「「ふるさとびと」はそれらの作品と或つながりをもたせつつ、一人の田舎の女を描かうとして、これも長いこと考へてゐたもの」とある。
堀生前の最終的意図は、この角川版「作品集」に反映されている。ただし「楡の家」「菜穂子」「ふるさとびと」は、各々独立した作品として扱われる。
堀本人が作品選択に関わっていない(と推定される)生前刊行された選集、シリーズ物、文庫版。
・新潮社『堀辰雄集』(縮刷全一冊シリーズ 1950・6 解説 神西清)では「菜穂子」と「ふるさとびと」の間に「曠野」が収録され、「楡の家」は未収録。
・角川文庫『菜穂子 他三篇』(1951・5 解説 加藤周一)では、作品集の三作を収録しているが、「菜穂子」「楡の家」「ふるさとびと」の順である(他に「信濃路」を最後に置く)。
新潮社版『菜穂子・風立ちぬ』(1952・6)は「菜穂子」のみ収録。
筑摩書房版『菜穂子・聖家族』(現代日本名作選 1952・12 解説 中村真一郎)は、「ふるさとびと」を未収録。

以下、堀辰雄没後刊行。夥しく出ている文庫、日本文学全集物は除き、堀辰雄全集のみ。
④新潮社元版『堀辰雄全集』第二巻(1954・5)目次 底本は初刊本
川端康成・神西清・丸岡明・中村真一郎・福永武彦編輯/校訂 谷田昌平
総題「菜穂子」として「楡の家」「菜穂子」、そして「ふるさとびと」まで加えている点に注目。
更に「覚書」と「創作ノオト」を同時に収録することで、ロマン「菜穂子」という堀の意図を具現した(と編者が考えた)斬新な構成になっている。
総題「菜穂子」のページ裏には「昭和十年頃より「物語の女」の續篇として構想し後出「『菜穂子』創作ノオト」の如き全體を豫定せるも執筆せるは「菜穂子」「楡の家」「ふるさとびと」の三篇にとどまる」とある。
また「「菜穂子」 創作ノオト」ページ裏には「これにより作者が初め「菜穂子」「楡の家」「ふるさとびと」などを含めた大きな作品を構想したことがうかがはれる」とある。
更に、月報第2号の「校正室から」には「初版本に從つて「菜穂子」「楡の家」のみを収めるか、或は「『菜穂子』創作ノオト」の意圖を重んじて「ふるさとびと」「『菜穂子』創作ノオト」をもその中に含めるかについて編輯委員會の席上繰返して討議されたが、著者生前の希望を具現する意味で本卷の如くにした」とある。
これらの記載から、たとえ創作ノートの段階で留まったとは言え、堀の意図は「菜穂子」をロマンとして執筆していたと元版編者たちが判断していたことは明白である。
⑤ 新潮社普及版『堀辰雄全集』第四巻(1958・9)目次 底本は初刊本   福永武彦個人編輯
元版全集に倣って、全集方針は「おほむね年代順に從つてジャンル別に排列」(第六巻解説)。
総題「菜穂子」とした元版全集を踏襲しつつも「楡の家」との2部作とし、「曠野」を間に挟み、「ふるさとびと」は別の作品と位置付けている。普及版として「覚書」や「創作ノオト」まで収録できなかったことによる判断だろう。
月報第4号の解説文で「菜穂子」の4つの形について述べ、「以上の四つを便宜的に「小・菜穂子」「二部作・菜穂子」「菜穂子cycle」「大・菜穂子」とよぶことにする。「かげろふの日記」と「ほととぎす」とは、cycleに加へようと思へば加へられる作品であることは、既に第三卷の解説に述べた。そしてこの二作や「ふるさとびと」を含むcycleは、短篇の集成としての「菜穂子」であり、一つの獨立した長篇を意圖した「大・菜穂子」とは根本的に別物である」と記す点に留意したい。
⑥角川版『堀辰雄全集』第七巻(1963・10)目次 底本は角川版「作品集」
室生犀星・川端康成・川上徹太郎・中野重治編輯/校訂 小久保実
新潮社版全集が「発表年代順・ジャンル別」であるのに対して、この全集の特色は徹底した発表年代順で、ジャンルに拘っていない点にある(「あとがき」「追記」類、創作ノートなどは各巻末にまとめている)。つまり、小説の間に小品や随筆が割り込んで来る。
「菜穂子」(1941・3)、「楡の家」(「物語の女」は別に第四巻に収録。この配置は、初刊本『菜穂子』1941・11に拠る)、「ふるさとびと」(1943・1)の間に、種々の文章が挟まっている。
「菜穂子」末尾に「覚書」を附す(新潮社元版の「覚書Ⅰ」)。また巻末に「ノオト」として「覚書」(新潮社元版の「覚書Ⅱ」)と創作ノートを収録している。
⑦筑摩書房版『堀辰雄全集』第二巻(1977・8)目次  底本は初刊本
中村真一郎・福永武彦編輯/編輯校訂 郡司勝義
作品構成は、⑤新潮社普及版全集を踏襲している。この筑摩版全集では、第七巻に各種創作ノオトを一括して収録しており、その第七巻(下)として「菜穂子創作ノオト」も「覚書」ともども収録されている。
 この時期に執筆された「『菜穂子』創作ノオト考」(『「菜穂子」創作ノオト及び覚書』麥書房 1978・8)の記述を勘案すると、福永の同作品に対する考えは新潮社元版に実現されていると見てよい。
 
【「菜穂子創作ノオト」の要諦】
「「ふるさとびと」を含むcycleは、短篇の集成としての「菜穂子」であり、一つの獨立した長篇を意圖した「大・菜穂子」とは根本的に別物である」(新潮社普及版月報)と記すその根本的な違いはどこにあるのか。つまり、福永の考えるロマンの要諦とは何か。「菜穂子」は、それを改めて考察するのに好適な作品である。
 
 「レシは、語り手によって物語られる第一人称の体裁を持ち、その内容は一つの完結した時間の中で演じられる。それは古典的な簡潔さを持って、一種の額縁に入れられた絵のような印象を与える」(「夢想と実現」1953・12 『枕頭の書』)
「楡の家」も「ふるさとびと」も、ひとつの視点、ひとつの完結した時間を持ち、古典的均整を保つ。「菜穂子」はそれらとは異なった試みであったが、完成された「小・菜穂子」では、①菜穂子と明ほかの複数視点を持つが、それらは「対話」までには至らずほぼ「独白」に終っており、更に②話は短い時間の中に閉じられ、ロマンとして社会的視野を含んだ「物語」のふくらみに欠ける。
つまり「菜穂子」cycleの各短篇は、純粋小説として余計な夾雑物を含まない。それと対比して見たとき、「菜穂子創作ノオト」の構想では、複数視点による「対話」が盛り込まれており、同時により長い時間の幅を持った「物語」として、(俗な部分も退屈な部分もある)風俗小説の面を含み込む点など、福永がロマンとして範とした理由だろう。
 
【「菜穂子」から展開したもの】
「『菜穂子創作ノオト』考」は、ロマン『死の島』を完結し、成熟した眼を持つ小説家として「菜穂子」の生成過程を作品の流れに沿って跡付け、「創作ノオト」のナンバーを附された9章の内容に関して分析し註釈を附けたものである。重要なのは、その分析や註釈は、あくまで小説家としての視点から成されている点である。
福永が堀から学んだものに関しては随筆「私にとっての堀辰雄」(1977年5月執筆『秋風日記』)に具体的に列挙されているが、小説家としては、「菜穂子」cycle、何より「菜穂子創作ノオト」から大きな刺激を受け、複数視点や時間の扱いを受け継ぎつつ、堀が充分に展開できなかった、日本と世界の歴史の枠組みにしっかりと結び合わされた「物語」としてふくらみを持たせたロマンの創造という視点を与えられたという点が最も重要だろう。 以上
 
【当日配付資料】
① 堀辰雄『菜穂子』についてのメモ A4片面 2枚
補足 レンブラント光線について A4片面 1枚
② 付表1『菜穂子』の視点人物とその表記 A3片面 1枚
③ 付表2 『菜穂子』の各部または各断章の主題 A3片面 1枚
④ 付表3 大・菜穂子から小・菜穂子ができるまで A3片面 1枚
⑤ 刊本にみる「菜穂子」構成の変遷 A4片面 5枚
⑥ 資料で愉しむ福永武彦4 福永自筆ノート画像+註解A4片面 2枚
*自筆ノートは「『菜穂子』ノオトのための年譜」(1958年作成)
⑦ 堀辰雄自筆「菜穂子覺書」(複製)A4片面 4枚
*筑摩版全集「菜穂子」覺書/新潮社元版全集「覺書Ⅱ
①~④:Ha、⑤~⑦:Mi
 

第183回例会
日時:2020年9月27日(日)13時~16時30分
場所:ミューザ川崎シンフォニーホール研修室3/各自自室
 
【例会内容】会場とリモートの平行例会となりました。
・会場の音声調整のため、15分余り遅れて開始。画像無しの音声のみ。
*複数のスマホを会場で使用するとハウリングを起こした。結局、会場では1台のスマホの接続のみで、全員が音声を聴き取ることが出来た。
・Haさん:小発表と討論。
・Miさん:小発表と討論。附:「資料で愉しむ福永武彦3」。
・既出論文の検討   
・会誌第15号の進捗状況報告。11月例会で配付予定。
 
例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)

Miさん:発表概要
福永武彦文学の実証的研究 其の1『小説風土』第2部生成過程の検討  
Ⅰ【福永武彦の言葉 ●印】
●何と言っても「風土」は、第二部があることでロマンとしての重みを持っているので、省略版では単に筋を通したというにすぎない。
(『小説風土』完全版刊行の予告文 1957.4 電子全集第2巻 No.23702近辺)
●第二部・「過去」の構想がなかなか決定しなかつたから、それも續稿を妨げてゐた原因の一つといふことが出來ただらう。つまり第一部と第三部だけでは、所謂ロマンよりはレシに近い作品になるので、どうすればそれがロマンになるかといふ點に作者の實驗が懸つてゐた。(「文学51」で連載再開の際の言葉。電子全集第2巻 No.1924近辺).
●僕は十年ばかり前に「風土」を書いていたが、これは第三人称の小説であるものの、内容の点から言えばレシに近かった。僕は途中で、何ともその小ぢんまりした仕組が気に入らず、そのうちに別の本格的な大河小説(註「獨身者」)を構想することで「風土」の方を忘れてしまった。後に、どうしても書きあげるべき義務を自分に課した時、僕は初めに考えてもいなかった第二部を插入することで、全体をロマンに仕立てる窮策を思いついた。
(「夢想と実現」『枕頭の書』1953.12 電子全集第15巻No.8175近辺 下線部筆者)
『獨身者』の(執筆が頓挫した)「後に」第2部の構想が立てられたという点に留意したい。
 
Ⅱ【資料は語る】
A.1941年、当初の計画:創作ノート
 全体の長さ300枚。1941年7月から書き始め、途中休止をしながら、1942年4月に第1章全体を書き直し、その年の9月には脱稿の予定であった(詳しくは、電子全集第2巻「解題」を参照)。⇒枚数、執筆期間ともにロマンよりはレシに相応しい。電子全集第2巻附録Ⅱ創作ノート冒頭に注目。
B.1943年:創作ノート
 「風土」の全体構成案。第2部「過去」の構想は無い。
 構成は全8章。「temps 1933頃」とあり、時は1933年、「à Paris 1919-1925」とあり、芳枝のパリでの生活が「章」に織り込まれるも、高遠や万里子は構想されていない。
C.1945年10月:『福永武彦戦後日記』
●これで四章が済んだ。丁度全体の半分、百四十三枚。さあこれで五章さへ出来たら、上田の滞在も大収穫なのだが、その「過去」の章がどういふものか。ここは三稿の時の舞踏会の章のやうにして、純客観的に三人の青年と二人の少女とを出さうと思ふのだが、かうした短篇小説的な行きかたは一寸手にあまるのだらうか。二十枚位で五人の人物を綺麗に書きあげてみたいのだが(『戦後日記』1945年10月5日 下線部筆者)。
 「過去」は「章」として扱われる。全8章。この時点でも、全体枚数は300枚の予定。「三人の青年と二人の少女」という言葉は、この時点では高遠や万里子の構想が生れていることを推定させる。
D.1947年:創作ノート
①創作ノートに、「過去の章を独立させる」。また、「年代決定、1939年、過去大正12年」とある(電子全集第2巻附録Ⅲ参照)。
②同ノートの全体構成案(未発表資料、例会参加者に配付)を参照しつつ、解説。「最後的plan 1947.5月」、題が「風土(roman)」。
 この時点では、ロマンの創作を明確に意図している。年代決定を経て、「現在」と「過去」が交錯するロマン創作への熱意。しかし、全体の構成に未だ第2部は無い。「過去」は章の扱いである。
E.1948年前半:創作メモ
 この時点でも、創作メモには「5章のなかに過去の章を織り込む」とある(電子全集附録Ⅳ参照)。第2部の構想は立っていない。第1章から第9章が並列する小説。
では、いつ第2部の構想が立てられたのか。
 
Ⅲ【第2部の構想の切っ掛けと時期】
F.1948年夏:「方舟」/創作メモ
「方舟」第2号(1948.9)編輯後記に、編輯長原田義人の次の記述がある。
・作者の意圖は、既に完成した四章の後に、過去の物語が描かれる第二部三章が續き、次いで再び現在に歸つて、第一部と略々同じ分量と形式とを持つ第三部が來る豫定である。

 雑誌「方舟」の発行は、この「小説風土」第2部の発案に決定的な役割を果した。電子全集第2巻附録Ⅳの2番目画像を参照されたい。1948年8月に記されたこのメモで、「第二部過去」の構想が現れる。右ページには、その概略が記されている。新雑誌発行を機に、「小説風土」を一気に完結させる決意をしたその時に「全体をロマンに仕立てる窮策」として第2部「過去」の構想が生み出された。
 ただし、この時点では第2部の構想は決まっても、特徴的な「過去(遡行的)」なる構成にはなっていない。それが実際に書かれるのは、雑誌「文學51」への連載が決定した1950年秋になってからである。その点は、今回林雅治氏の発表に於いて『福永武彦創作ノート』を参照しつつ解説された。
 電子全集第2巻「解題」で、以上を含めた第2部生成過程に関して検討している。

【まとめ】
 「小説風土」は当初レシとして構想された。1943年時点で「現在」は1933年であり、「過去」の扱いはごく小さかった。1945年10月時点でも、「過去」は第5章として簡潔に描かれる予定であった。1947年に至り、「現在」を1939年、「過去」を1923年と決定するに及んで、「現在」と並んで「過去」が重要性を増して来る(*日本と世界の歴史的動きを小説の枠組みに据える)。しかし、1948年前半になっても、「過去」は「章」の扱いであったのだが、雑誌「方舟」に連載が決定し、全体をロマンとして完結させる意思を固めた際に(=「どうしても書きあげるべき義務を自分に課した時」)、その過去を「章」から「第2部」に格上げし「全体をロマンに仕立てる窮策を思いついた」。しかし「過去(遡行的)」なる構成となったのは、さらに2年後「文學51」への連載時である。
*1947年まで、現在と過去の年月が明確でなかったことは、創作ノートを見なくとも、初出文と省略版本文を対照することにより、作品内部から検証できる。このことは、電子全集第2巻「解題」で具体例を挙げて記した。
*上記、A、B、Dの未発表資料は、2017年末、大阪の古書市場に出た源高根旧蔵資料である。それを三坂が購入したもの。この資料群の出現は、既に例会報告文に記した通りである。『小説風土』創作ノート全体は、適切な形で公表することを予定している。
 
Haさん:発表概要と感想
5.省略版との比較
(C)省略版/完全版第一部と(D)省略版/完全版第三部の本文主要異同表を検討した。
(5-1) (C) 省略版/完全版第一部の本文主要異同表
・大きく意味の変わる変更は少なく、殆どの場合、文意をより明確にするための変更、あるいは語調の変更である。
・語句の差し替えによりニュアンスが感じられる場合がある。
(5-2) (D)省略版/完全版第三部の本文主要異同表
・大きく意味の変わる変更は少なく、(5-1)と同じく、文意をより明確にするための変更あるいは語調の変更が多い。
・ただし、省略版の読点でつないだ文章を、完全版で句点に置き換える大きな変更箇所が3箇所あり。
①省略版171頁8行~19行/完全版328頁14行~329頁8行
「生きてゐる者と何の関りもないだらう、かうやつて無心に・・・」
②省略版184頁13行~186頁4行/完全版343頁6行~344頁18行
「それにはやはり日本の伝統といふのは役に立つでせう、例へば・・・」
③省略版268頁18行~277頁11行/完全版436頁14行~446頁2行
「わたしはわたしを呼んでゐるあの人の声を聞くやうに思ふ、わたしにももう何の希望もないのだから、・・・」
(5-3)堀辰雄の「物語の女」と「聖家族」の校異(校異、1977、堀辰雄全集第一巻 筑摩書房)を参照したが、これらの作品でも福永の『風土』の省略版/完全版の間と同様の変更がなされている。すなわち、『風土』第一部の初出と省略版の間のような大幅な書換えは見られない。
(5-4)本文異同のまとめ
『風土』の雑誌初出、省略版、完全版の本文の間の大幅な書換えの有無を部ごとにまとめると以下のようになる。

表2 本文の大幅な書換えの有無


6.技法
・池澤夏樹「技法の中心にあるのはフランス文学に特徴的な心理小説。登場人物の心の動きを外の視点から精密に書き、人々の関係とその変化をほとんど力学的に辿る。もう一つは「意識の流れ」ないし「内的独白」。」(解説、2016、『風土』P+D Books小学館、下線引用者)
・「福永武彦『風土』論」西田一豊について
①「『風土』の語り手は複数の登場人物を三人称で語り得ながらも、登場人物それぞれに容易に一体化し、「意識の流れ」という登場人物の主観的な意識の中での言語を一人称独白体で語る」
②「つまり『風土』は心理小説と「意識の流れ」小説との折衷した形として構成され、語り手によって登場人物は三人称で語られる一方で、その登場人物を一人称にした独白も語られるという表現形式を持っていると言えるだろう。そしてそうすることで『風土』は登場人物それぞれの「意識」が織り込まれた心理小説として成立する
(福永武彦『風土』論 ― 心理小説と個別化する「風土」、2007、千葉大学日本文化論叢第8号、下線引用者)
・視点人物(桂、芳枝、道子、久邇)の内的独白が多用されている。
・会話の始めを示すのに―を用いる。
・省略版及びそれ以降の版ではその場にいない人との会話あるいは回想場面での会話は「」で示されている。
 
7.視点人物とその表記
付表2(省略)に『風土』の視点人物とその表記を示す。
・『風土』は三部54断章から成る。
・断章の視点人物は桂昌三、三枝芳枝、三枝道子、早川久邇の4人。
・主人公は桂昌三。
・語り手によって各断章の視点人物は外部の視点から描かれる。また各視点人物は内的独白によってその内部からも描かれる。
・各断章の位相は以下のように考えられる。:
 A=現在時の〈桂〉パート(1939年夏)
 B=過去の〈桂〉パート(1923年8月のある日)
 C=大過去の〈桂〉パート(Bの前の晩~桂の幼少時)
 D=現在時の〈芳枝〉パート(1939年夏)
 E=現在時の〈道子〉パート(1939年夏)
 F=現在時の〈久邇〉パート(1939年夏)
 K=〈語り手〉パート
 
8.『風土』の主題
・福永「この長篇小説を書きあげるのに、種々の理由があって、十年もかかりました。フランスの傳統的な心理小説の線に沿って、それを「意識の流れ」で裏打して書いてみたいという技術的な企図から出発し、日本という特殊の風土に育った藝術家の主題と結びつけました。愛することにしか希望を持てなかった人間の不幸を描いています」(「風土」初版予告「出版ニュース」1952年8月)
・芸術家の物語(失敗した芸術家:桂、まだ失敗していない芸術家:久邇)(丸谷才一,新潮文庫『風土』、解説、1968)
・芸術家が官能によって鼓舞される物語(池澤夏樹 解説、同上)
 
9.例会のリモートとの平行開催の感想
①自宅のパソコンを使ってリモートで参加した。時々通信状態が悪くなって音声が途切れることがあったが、参加者の発言を理解するのに大きな支障はなかった。
②会場で回覧された資料(「風土構想ノート」など)を見ることができず残念に思った。
*当日回覧した資料は、『福永武彦創作ノート』、省略版と完全版『小説風土』で、自筆「風土構想ノート」は回覧しませんでした(Mi附記)。
③リモートとの平行開催でも、定期的に例会を開催することが重要だと思う。
 
【当日配付資料】
①「福永武彦文学の実証的研究」A4片面 2枚
②自筆創作ノート1947年より、「風土(roman)」A4片面 1枚
 *第2部の構想はない。
③資料で愉しむ福永武彦3 A3片面 1枚
 *高橋健人と酒井章一宛の省略版『小説風土』識語署名画像
 *秋吉紀子宛の完全版『小説風土』署名画像
④『風土』についてのメモ(承前)A4片面 2枚
⑤付表2『風土』全小説版の視点人物とその表記 A3片面 1枚
⑥付表3 初出版『風土』第二部(1951初出)の執筆年月日と原稿枚数の推測 A4片面 1枚
⑦付表4 各登場人物が視点人物となった断章の回数 A4片面 1枚
⑧資料1『福永武彦創作ノート』より39頁 A4片面 1枚
⑨資料2 電子全集第2巻附録Ⅱの翻刻 A4片面 1枚
①~③:Mi、④~⑨:Ha

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