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福永武彦研究会・例会報告(16)

第167回(2017年11月)~第174回(2019年1月)

 
【第174回研究会例会】 2019年1月27日(日)
【第173回研究会例会】 2018年11月25日(日)
【第172回研究会例会】 2018年9月30日(日)
【第171回研究会例会】 2018年7月29日(日)
【総会・第170回研究会例会】 2018年5月27日(日)
【第169回研究会例会】 2018年3月25日(日)
【第168回研究会例会】 2018年1月28日(日)
【第167回研究会例会】 2017年11月26日(日)
 
 *直近の研究会例会報告は、本サイトのTOPページに掲載されています。


第174回例会
 日時:2019年1月27日(日) 13時~17時
 場所:川崎市平和館第2会議室
【例会内容】
 ①現在刊行中『福永武彦電子全集』(全20巻 小学館)の途中報告。
 ②『獨身者』を読む そのⅠ。
 
【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
 
 ・Kiさん:感想 1)『独身者』執筆中断の理由について
  •  中村真一郎との対談における福永の発言”「チボー家の人々」の影響に気がついて筆がつっかえた” というのは納得しがたい。当時の福永の状況を考えた時に、大河小説を書き続ける気力、体力、時間がなく中断せざるを得なかったのだろう。さらに、宮嶌氏の論考『独身者論』で示されているように、「独身者」の重要なテーマとして書かれるはずだったであろうキリスト教に関する考え(教会批判)は「草の花」で書き尽くしたことで、「独身者」執筆継続の意味を失ったと考えられる。
    2)福永とキリスト教信仰
     福永は生涯にわたり一貫して「孤独」を中心テーマとした小説を書いた。三位一体の絶対者キリストと対峙する信者にとって「孤独」を問題とすることはないだろうし、加えて「草の花」での辛辣な教会批判ということから考えても、晩年のある時期まではキリスト教を信仰するということはなかったと考えられる。おそらくは、倫理的な規範としての人間イエスに学ぶというスタンスにとどまっていたのではないかと思う。西田氏が論考『福永武彦とキリスト教』で示しているように、”「妣」や「古里」といった言葉に表される母体回帰への志向” を通して、改めて幼年時には親しかったキリスト教に近づいていったのではないかと思う。
    ・個人的には、完成された大河小説「独身者」を読みたかった。実現していれば、福永にとって「草の花」と並ぶポピュラーな作品となっていたかもしれないのではないかなどと想像したりする。
 ・Miさん:『獨身者』本文に関して  
  •  未完の長篇『獨身者』を検討する際には、執筆時期と刊行年に31年の隔たりがあることを念頭におかなければならない。つまり、この作品が1944年、26歳の若き福永によって書かれたことは事実だが、その刊行は1975年であり、その際の「後記」に記された「もともとは自分の耕した畑であるからせめて雜草を拔き石ころをのぞいたくらゐが關の山で、収穫が乏しいのはもともと地味が痩せてゐるせいだと思ひ諦める他はあるまい」という言葉に注意したい。
     福永が、全ての作品で、原稿→初出→初刊版は言うに及ばず、→新版→文庫版→全小説版(ほぼ全集版に等しい)と新たに版を起す度に本文に入念な手入れをしていることは、例会でも度々「本文主要異同表」を配付して説明している通りであるが、その福永が30年に渡って篋底に秘していた原稿に、どれほど多くの手入れを施したのかは、初刊本(=決定版本文)と元原稿(ノート)と対照してみなければ判然としない。
     「雜草を拔き石ころを除いたくらゐ」というその手入れが、文章を整えるという程度のものだったのか、或いはそれを超えて、例えば後に『幼年』に結実するような思想を既に木暮英二が独白している箇所(第九章)があるが、その一部分を増補するなどの大きな手入れがあったのか、或いは、キリスト教の信仰と人生を巡って秋山清が真摯に向き合い、様々な議論を闘わせるが、この箇所の文言に加筆や修正がどれほどあったのか、――今回の例会で一部複写を配布した創作ノートの記述を見る限り、章を丸ごと増補するなどの大幅な手入れはないことは判るが、しかし会話や地の文の小さな手入れでも、そこに盛られる思想や人物の性格、そして話の展開はまるで変ってくることもあり得る――それが現状では確認出来ない。
     その点を考慮せず、1944年に書かれた本文を確認せずに、ここには福永文学の全ての要素が既に出揃っているとか、或いは、福永は文学的出発点からキリスト教を目指していたのだとかの解釈をしても、それは所詮砂上の楼閣である。
     この「各版の本文異同を精密に対照する」作業が等閑に附されたまま論文が積み上げられている現状は、他の作品でも同様であり、私は久しい以前からこの点を指摘している。「本文」の精確な姿を捉えること、そのために資料蒐集と本文照合に精力を注ぐこと、このことからしか精密な研究は成され得ないことを改めて力説したい。
 ・Haさん:『独身者』について   
  • 1.福永武彦の長編小説
    (1-1) 福永武彦の長篇小説の執筆・初出年月
    ① 風土(1941年7月頃に執筆開始~1943年10月に第一部第三章(舞踏会)で中絶;1945年に第一部第三章・第四章;1950年秋に第二部;1951年7月に第三部完成) ② 草の花(書下ろし;1953年夏~冬執筆)1954年 ③忘却の河(初出1963年3月~12月)  ④海市(書下ろし)1968年 ⑤ 風のかたみ(初出『婦人之友』1966年1月-1967年12月) ⑥『死の島』(初出 『文藝』1966年1月-1971年8月) ⑦ 獨身者(1944年6月-12月執筆、刊行前未発表)  ⑧夢の輪(初出『婦人之友』1960年10月-1961年12月;序章 或る愛:『自由』1963年5月)
    (1-2)草の花・風土・独身者の執筆年
    草の花・風土・独身者関連作品の執筆年一覧を付表に示す。
    ・『草の花』関連作品(「かにかくに」、「戸田の春」、「ひそかなるひとへの思ひ」、「慰霊歌」、『草の花』)の執筆に18年かけている。
    ・東京療養所出所後(1953年3月)に、直ちに『草の花』を執筆している(1953年7月~12月)。
    ・『風土』と「慰霊歌」、『独身者』、「幼年」の執筆時期が重なっている。
    ・東京療養所入所中に『風土』、「慰霊歌」(『草の花』第一の手帳の原型)及び「幼年」(構想メモ)が書かれている。
    2.『独身者』
    (2-1)視点人物
    ・『独身者』は11の章から成り、章ごとに視点人物を替えて叙述している。各章の視点人物は一人から三人で、木暮英二が主人公。
    ・九章:視点人物は一人称で、作者が表面に出てこない(語り手が存在しない)。
    ・九章以外の章:視点人物はすべて三人称で、作者が視点人物を描写している(語り手が存在する)。
    ・すべての章で現在の事柄(1940年前後のこと)が過去形で叙述されている。
    (2-2)主題
    ①福永武彦:「「独身者」の主題は、「(独身者の)日記」によれば、「一九四〇年前後の青年たちを鳥瞰的に描いて愛と死と運命とを歌ふ筈」だった」(「独身者」後記 1975 全集第十五巻306頁上段)   
    ②『独身者』の実際に書かれた部分から読み取れる主題:
     ・愛:牧不二子と秋山清、死:木暮修三
     ・神あるいはキリスト教をめぐる議論(五章、八章)
     ・幼年時代について(九章)
    ③『独身者』と福永武彦の初期小説間の主題の重複
     ・福永武彦の初期の小説(『独身者』、『草の花』、「幼年」)間に主題の重複が見られる。
     ・「神あるいはキリスト教」の主題が『独身者』と『草の花』の第二の手帳と春で共通している。
     ・「幼年時代」の主題が『孤独者』九章(英二の日記)と「幼年」で共通している。
    3.考察
    (3-1)『独身者』が未完に終わった理由として、以下が考えられる。
    (A)外的要因
    ①結婚(1944年10月)による執筆時間の不足
    ②体調不良(1945年2月の肋膜炎、1945年4月の結核の発病)
    (B)内的要因
    ①福永:「……けっきょくあれ(『独身者』)は、ロジェ・マルタン・デュガールの影響が顕著なんだな。それに気がついた瞬間に、筆がつっかえた。不思議だね。ぼくはあんなにジードの『贋金つくり』なんてものに夢中だったのに、やっぱり『チボー家人々』のほうが影響甚大なんだね。」(1971年、中村真一郎との対談「自由と死の谷間で」) → 『独身者』への『チボー家の人々』の直接の強い影響に気づき、『独身者』を書き続ける興味を失った。
    ②福永の理想とする小説観の変化(大河小説から純粋小説へ) (『独身者』を再開しなかった理由)。
    ③神・キリスト教と幼年時代の主題をそれぞれ『草の花』と「幼年」で十分展開した(『独身者』を再開しなかった理由)。
    〇 Bの内的要因が主な理由と思われる。 B:①(中断) + ②,③(再開せず) = 未完
    (3-2)『独身者』と福永武彦の他の作品(『草の花』と「幼年」)との比較
    ①『草の花)』 第二の手帳、春(神・キリスト教について)
    ①-1 『独身者』ではキリスト教に対する人物のありようが類型化され過ぎているように思われる。すなわちキリスト教を全く問題にしない木暮家の長男の良一、一度キリスト教に近づきそして離れた次男の英二、クリスチャンの三男修三,陣代曉子、キリスト教のとば口で逡巡している秋山清、確固とした信仰の持ち主の陣代直吉、キリスト教を感化院経営の道具にしている陣代牧師夫妻の描写に類型化が見られる。
    ①-2 『草の花』第二の手帳では『独身者』の木暮英二と同じく、一度キリスト教に近づき(受洗)そして離れた汐見茂思(作者の分身)とクリスチャンの藤木千枝子との神・キリスト教をめぐる対話が交わされるが、『独身者』の場合よりも対話の内容は深いように思われる。
    「僕の考えている基督教と、教会の基督教は違うような気がした。(中略)僕は聖書を読み、イエスを信じ、イエスの言った通りに行動しようと思った。(中略)何も教会に行く必要なんかありはしないのじゃないか、とね。」(全集第二巻420頁)
    「(……戦争で敵を殺した基督教徒は死んで天国に行けるのだろうか。(中略)ぼくが戦争になって、今迄以上に基督教が厭になったのはね、彼らが平然とこの戦争を受け入れたことだよ。」(全集二巻440~441頁)
    ②「幼年」(幼年時代について)
    ②-1『独身者』九章(英二の日記)で主人公の英二が「純粋な記憶、純粋な幼年時代」を書きたいと述べ、一つの例として「僕はヴァニラの匂の中に母親を感じる。」と述べている。
    ②-2 一方、「幼年」の断章17 暗黒星雲 と断章14 ヴァニラの匂 でそれぞれ「純粋記憶」と「ヴァニラの匂」について『独身者』で述べたのとほぼ同じことを述べている。また「幼年」では更に多くの純粋記憶の例を各断章で詳しく取り上げている。技法としては、私から子供(彼)への変換と子供(彼)から私への変換を文の途中で行替えすることにより行なっている(私、子供、彼は何れも作者福永を表わす)。
     → 英二(作者の分身)の意図をほぼ実現できた。
    (3-3) 『独身者』と他の作家の作品との比較
    『独身者』と以下の三人の作家の作品を比較検討し、次回の例会で報告の予定。
    ①ロジェ・マルタン・デュ・ガール 『チボー家の人々』(1922-1940))
    ②アンドレ・ジッド 『贋金つくり』(1926)及び『『贋金つくり』の日記』(1926)
    ③オルダス・ハクスリー 『対位法』(1928)
【当日配付資料】
 ①『独身者』参考資料一覧 A4片面5枚
  *福永自身のコメントと論考の要旨を一覧に纏めたもので、有用な資料。HPに掲載予定。
 ②『独身者』についてのメモ A3片面1枚+A4片面2枚
  *例会報告文と同じ発表資料。
 ③『獨身者』創作ノートより、第7章と第11章の複写 A4片面2枚
 *1944年、執筆時に記された小型の手帳。細字鉛筆書きで、第1章より第30章までの概略、また第2部、第3部の構想が記されている。未発表資料。この資料は、「後記」に記されている「独身者の日記」とは別物である。
 ①Ki、②Ha、③Mi
【当日回覧資料】
 ①『獨身者』限定A版200部本(槐書房)
 *A版は丸背印度産純白山羊皮装、天金、ローマ字ペン署名入り
 ①Sa
  

第173回例会
 日時:2018年11月25日(日) 13時~17時
 場所:川崎市多摩市民館第1学習室

【例会内容】
 ①詩集『マチネ・ポエティク』検討+討論「マチネ・ポエティク」の活動について。
 ②福永武彦電子全集刊行の経緯概略とその特色。

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
 ・Haさん
  • 「マチネ・ポエティク」について ― マチネ・ポエティクとその後: ―
     マチネの詩人たちはマチネ・ポエティク詩集を1948年5月に刊行した後に、①詩作を続けたか、②押韻詩を作り続けたかを各人について確認する。

    1.マチネ・ポエティク詩集
    (1-1)中村真一郎と福永武彦の日本語の押韻定型詩への興味
     中村によると「・・私たちは九鬼博士の論文を読み、それに刺激されて、実作を試みたのではない。私に関して云えば、戦前二十歳の私はネルヴァリアンであり、かの『悪夢篇レ・シメール』を日本語に置き換えることで作詩の秘密を学んでいた。その場合、ネルヴァールの詩の最大の魅力は、あの陶酔的効果を持つ脚韻の響きである。それをいかにして日本語に移すかが、第一の問題になっていた。(中略)一方、福永武彦はやはり当時、既にボードレリアンであり、彼にとっても『悪の華』を日本語に置き換えるということは、殆んど脚韻の問題に尽きていた。」(「日本詩の押韻」とマチネ・ポエティク、1981、九鬼周造全集第5巻月報6)

    (1-2)マチネ・ポエティク
    ・マチネ派の結成:1942年秋(最初に会合を持った時点)(マチネ・ポエティク詩集NOTES 1948)
    ・参加者:福永武彦、中村真一郎、加藤周一、白井健三郎、中西哲吉、窪田啓作、山崎剛太郎、小山正孝、原條あき子、枝野和夫(マチネ派の主要メンバーは20歳台前半)
    ・マチネ活動期間:1942年~1950年頃?((3-2)を参照))

    (1-3)押韻定型詩の外部発表と三好達治の批判
    ・マチネ同人が押韻定型詩を初めて外部に発表したのは「近代文学」1947年4月号「マチネ・ポエティク作品集第二」
    ・次の外部発表:「詩人」第5号1947年8月「マチネ・ポエティク作品集第一」
    ・中村真一郎「詩の革命-「マチネ・ポエチック」の定型詩について」「近代文学」1947年9月号
    ・三好達治の「マチネ・ポエティクの試作について」「世界文学」1948年4月号でのマチネ批判は、上記三つの発表を読んだ上でなされた。三好の批判はいわば好意的批判だが、これを読めばたいていの人は押韻詩を作るのが嫌になるのではないかと思われる。:「邦語現代詩に於ける押韻(専ら脚韻)は、他の何人がたち替つてこれを試みても、絶対に成功の可能性の見込みのないことを信じるものである。(中略)定型押韻詩を以て、詩型の至上完璧なものと考へるのは、私と雖もマチネ・ポエテイクの諸君子と共に同感だ。これを邦語に移して可能と考へない點で諸君と異なるのみ。しばらく押韻といふ問題を別にして、なほ一種純乎たる定型詩を想定し得ないだろうか、(和歌俳諧の他に―)。これなら邦語の本質の上にも、十分建設の可能性が考へられる。(中略)諸君の試作が決して無意義な試みでなかつたことを尊重して、ここに改めて一揖する。不可能を可能にせんとして、諸君の払はれた多くの犠牲の前に、私は感動なしにゐるものではない。さうして問題は、諸君の努力によって、いっそう明瞭になることを得た。」

    (1-4)マチネ・ポエティク詩集
    ・ マチネ・ポエティク詩集(1948年5月刊)の作者別詩篇一覧を別表(省略)に示す。
    ・全詩篇59篇のうち、戦中(1942~1944)の創作詩篇は41篇(69%)、戦後(1945~1947)の創作詩篇は18篇(31%) で、詩篇の主なものが戦中の作であることが分かる(1945年作の詩篇は、便宜上、戦後にカウントした)。
    〇福永が戦後の1946年と1947年に押韻定型詩を書いていない(あるいは戦後制作の押韻定型詩をマチネ・ポエティク詩集に掲載していない)のはなぜか? → 押韻定型詩が批判を受けたために押韻定型詩を書かなかったのではないと思われる。

    2.『マチネ・ポエティク詩集』の中の好みの作品
     (1)加藤周一:さくら横ちよう (1943) 
     (2)加藤周一:愛の歌 Ⅲ (1947)
     (3)原條あき子:髪 (1946)  
     (4)原條あき子:頌歌 (1945)、参考:なつきへ (1946)、「北海文学」1947年11月号) 

    3.マチネ・ポエティクのその後
    (3-1)マチネ・ポエティク詩集刊行以降の詩集と詩篇
    ①福永武彦:詩集:『ある青春』1948年7月、『福永武彦詩集』(限定600部、3分冊本限定50部、1966)、『福永武彦詩集』(枡形普及版、1968)、『櫟の木に寄せて』(限定版・私家版ほか 計124部、1976)
    詳細:『ある青春』は「ある青春」(1935年~1943年制作の詩篇) +「夜 及びその他のソネット」(1943年~1944年制作の詩篇)からなり、戦後制作の詩篇は含まれない。なお、「夜 及びその他のソネット」は、『マチネ・ポエティク詩集』に収録の、福永の押韻定型詩11篇と同じもの。
    詩篇:死と転生(Ⅰ~Ⅲ:1952、Ⅳ:1954)、仮面(1961)、高みからの眺め(1962)、北風のしるべする病院(1964)、櫟の木に寄せて(1975) → 以上いずれも押韻定型詩ではない。
    ・ボードレール『悪の華』のいくつかの詩を押韻定型詩で訳す(1963年刊行)。
    ②加藤周一:詩集:『加藤周一詩集』(限定150部、1975、未見)、『薔薇譜』(詩歌集、1976)、『美しい時間』(散文詩、限定150部、1980、未見)
    詳細:『薔薇譜』:脚韻定型詩と無脚韻の定型詩を含む(マチネ・ポエティク詩集に収録の詩以外は制作年不明)。
    詩篇:立命館大学図書館/加藤周一デジタルアーカイブに「詩作ノート」が掲載されている。加藤周一のフランス留学中の1952~1954に書かれたと思われる恋愛詩29篇が掲載されている(タイトルが日本語の詩:12篇、タイトルが外国語の詩:17篇)。→ 詩は何れも日本語で書かれており、押韻定型詩ではない。
    ③原條あき子:詩集:『原條あき子詩集』(1968)、『やがて麗しい五月が訪れ』(2004、原條あき子全詩集、死後出版)
    詳細:『原條あき子詩集』:全47篇の押韻定型詩、制作年は1943~1950が36篇、1956~1966が11篇。
    → マチネ・ポエティクが活動をやめた後にも、原條あき子は少ないながらも押韻定型詩を書き続けた。 全詩集には1968年以降に書かれた詩が9篇掲載されているが、すべて押韻定型詩ではない。
    ④中西哲吉:1945年5月フィリピンで戦病死
    ⑤窪田啓作 ⑥白井健三郎 ⑦枝野和夫:刊行詩集は国会図書館の検索機能で調べたが未確認。
    ⑧中村真一郎:詩集:
    ⑧-1『中村真一郎詩集』限定300部、1950ユリイカ社、⑧-2『中村真一郎詩集』1972思潮社、
    ⑧-3『中村真一郎詩集』1980思潮社、⑧-4『愛と性をめぐる変奏』1974フジオ画廊、⑧-5『死と転生をめぐる変奏』1977大阪フィルム画廊、⑧-6『中村真一郎詩集』(現代詩文庫版)1989思潮社、⑧-7『戯画と戯詩』1997
    ⑧-1, ⑧-2, ⑧-3の内容は全く同じで、すべての詩が押韻定型詩である。
    ⑧-3の中村の文章「押韻定型詩三十年後に」の中に「・・・内容は一行の改変を加えず、・・・」、「この詩集に含まれた詩篇は、すべて押韻定型詩である。」とある。
    ⑧-3の内容:極みの時(1941作)、愛の歌(1942作)、炎(1943作)、頌歌(1943作)、運河(1943作)、谷神(1944作)、冬の組曲(1946作) → すべて『マチネ・ポエティク詩集』刊行前制作の詩である。
    ⑧-6の内容:⑧-3(押韻定型詩)及び⑧-4, ⑧-5と未刊詩篇5篇(以上は何れも押韻定型詩ではない)。
    ⑧-7(例会時に三坂さんが回覧された。) の内容:全30篇のうち半分以上の詩篇が押韻定型詩である。    
    ⑨山崎剛太郎:詩集:『夏の遺言』(2008)、『薔薇の柩』(2013)、『薔薇の晩鐘』(2017)
    詳細:『夏の遺言』:大学生時(戦前)に制作した詩が主体、「蘇つたちひさな吐息」等の押韻定型詩も若干含まれるが、押韻定型詩は少ない。
     『薔薇の柩』:2009~2013年の制作、無脚韻詩
     『薔薇の晩鐘』:2013~2017年に発表された詩、無脚韻詩
    ⑩小山正孝:詩集:『雪つぶて』(1946)、『逃げ水』(1955)、『愛し合ふ男女』(1957)、『散ル木ノ葉(1968)、『山の奥』(1971)、『風毛と雨血』(1977)、『山居乱信』(1986)、『小山正孝詩集』(現代詩文庫版1991)、小山正孝全詩集1, 2(2015)
    詳細:『雪つぶて』:全28篇すべて押韻定型詩ではない。
     『逃げ水』:「お前に逢ふてだては」は十四行脚韻詩(制作年は未確認)
     『愛し合ふ男女』:全13篇すべて無韻の定型詩(十四行詩)
     『散ル木ノ葉』: 無韻の定型詩(十四行詩)主体、押韻定型詩は含まれない。
     『山の奥』:押韻定型詩は含まれない。
     『風毛と雨血』:全15篇すべて押韻定型詩ではない。
     『山居乱信』: 押韻定型詩は含まれない。

    (3-2)マチネ・ポエティクの活動中止時期
    (A)戦争末期の活動中断
    ・戦争末期の1944年春から1945年9月まで加藤は勤務していた東京帝大医学部佐々内科教室とともに信州上田に疎開していた(鷲巣力『加藤周一はいかにして「加藤周一」となったか』、2018)。この間はマチネの会合は持たれなかったと思われる。
    ・「その後、戦争の推移と共に、同人が国内乃至国外の各地に分散するといふ自体を生じ、為にこの集会は戦争末期に一時中絶の已むなきに至つたが、最近復活して今日に及んでゐる。」(『マチネ・ポエティク詩集』NOTES、1947年12月執筆、筆者は窪田啓作。)

    (B)戦後の活動停止
    以下の5点からマチネ・ポエティクは1950年頃には活動を停止していた可能性が大きいと思われる。: 
    ① 中村真一郎「マチネ・ポエティックの運動は数年にして[林注、詩集発刊後]止んだ。」(「日本詩の押韻」とマチネ・ポエティク、1981、九鬼周造全集第5巻月報6)
    ② 西田一豊によると(「マチネ・ポエティクと『草の花』」、千葉大学人文研究 第37号、2008)、中村真一郎は1950年に早くも「マチネ・ポエティク」に終結宣言を出す。:中村「「マチネ・ポエティク」は戦争終結後、戦時中の実験的作品を大部分発表して、社会の批判を仰ぐと共に解散し、」(「詩学」1950年4月号「マチネポエティクその後」)
    ③ 「文学51」5月創刊号(1951)に原條あき子が押韻定型詩「あなたが唄つた夕暮のために」(1948年制作)、福永武彦が「フォークナー覚書」と小説「風土(長篇第一回)」、加藤周一が「詩人の態度」、中村真一郎が「文学の魅力について」を寄稿している。→1951年前後まではマチネ・ポエティクが活動していた可能性がある。 
    ④ 加藤周一がフランス留学のため1951年11月~1955年3月まで日本を留守にした(鷲巣力『加藤周一はいかにして「加藤周一」となったか』、2018)。→マチネの会合場所を提供していた、マチネ主要メンバーである加藤周一が日本に不在で、マチネ同人がこの期間は会合を持たなかった可能性が大きい。
    ⑤ 原條あき子は1951~1955年に詩を書いていない。→これはこの間にマチネ・ポエティックの活動が停止していたことを示唆する。(1950年12月の福永武彦と原條あき子の離婚も、原條がこの期間に詩を書かなかったことに関係があると思われる。)

    (3-3)まとめ(3.「マチネ・ポエティクのその後」についてのまとめ)
    ・福永武彦、加藤周一、中村真一郎、山崎剛太郎、小山正孝はマチネ・ポエティク詩集刊行後も、詩を書き出版したが、若干の例外を除き、それらは押韻定型詩ではなかった。
    ・原條あき子はマチネ・ポエティク詩集刊行後も1966年まで押韻定型詩を書き続けた。1968年の『原條あき子詩集』刊行後も詩作を続けたが、それらは押韻定型詩ではなかった。

    4.マチネ・ポエティク活動の意味
    ①原條あき子というひとりの優れた詩人誕生のきっかけの場を提供したこと。
    ②福永武彦がボードレールの『悪の華』を日本語に翻訳する際に、いくつかのソネットを脚韻詩として訳すきっかけとなったこと。
    ③福永にとって文学の生涯の盟友(中村、加藤)を得たこと。

    5.その他
    (5-1) 優れた詩と押韻詩あるいは脚韻詩につぃて
    命題A:その詩が優れた詩である。命題B:その詩が脚韻を踏んでいる。
    命題Aと命題Bとの間には論理的な関係はない。すなわち「A→B」は成り立たない。また「B→A」 も成り立たない。→マチネ同人が押韻にそれほど拘った理由は率直に言って理解しにくい。
    ○立原道造の無韻のソネット(十四行詩)とマチネの押韻のソネットの比較によって、詩における押韻の効果を検討することができると思われる。
    ○ボードレールの『悪の華』の押韻訳(福永武彦)と無韻訳(阿部良雄)の比較によって、日本語の詩における押韻の効果を検討することができると思われる(例えば『悪の華』(再版)の4万物照応、12先の世、22異邦の薫り、75憂愁 について)。

    (5-2)詩の翻訳可能性について
    ☆詩は言葉で作るもの(マラルメのことば?)
    ✩言葉とは、意味・表記(外観)・音・映像・匂い・味・触覚。
    ✩外国語、例えば英語の詩を日本語に翻訳する場合、
    ・意味はほぼ正確に伝わる。
    ・表記(文字)は異なるが、行数は同じにできる。
    ・音は全く伝わらないが、原詩が脚韻詩であれば脚韻詩であることは示せる。
    ・言葉の意味から浮かぶ映像・匂い・味・触覚はほぼ正確に伝わる。
    →原詩と翻訳詩は等価ではないが、翻訳でも詩の内容はほぼ正確に伝わるのではないかと思われる。
 ・Miさん
   Ⅰ.詩篇創作の意義。
  •  福永の小説は、大人が頷く「内容のある」筋や人物、思想を開陳したものではなく、記されたコトバに刺激されて(誘われて)、私たち読者の想像力が日常生活とは別次元の現実を虚空に描き出す類の小説であり、その別次元の世界が作品の「内容」である。
     つまり、福永小説、特に短篇作品で見るべきは、その内容にはない。私たち読者が享受し愉しむのは、作品の筋や出来事にではなく、形式(構成)に、何より文章=言葉ソノモノにこそある。言葉それ自体、そしてその文中での働きが、作品ソノモノということである。福永自身、私たちの想像力が参加してはじめて小説は完結すると述べている通りである。
     そのような小説創作上に於いて、詩作の経験は大きな意義を持っただろう。詩篇において一語の選択、その配列は決定的な意味を持つ。詩の創作、その書き換えに全身で打ち込み「僕は精神を労し肉体を刻むことによつて、僅に数行の詩を得た」(『ある青春』ノオト 1948)とう姿勢は、中・短篇創作の上でもそのまま生かされた。一篇の詩を創作するように、緻密な構想を練り、言葉を吟味し、読者への効果を測定しつつ言葉の書き換え、入れ替えを繰り返した。その姿勢、その辛苦は、そして愉しみは、定型詩篇を書く際となんら変りはない。その痕跡は、各版の本文異同を閲すればよくわかる。
     詩篇創作の体験は、小説、特に中・短篇小説創作の姿勢に、決定的な影響を及ぼしただろう。

    *[附けたし]として、福永は自由詩も多く書いているので、論文などで詩篇を引用する場合は、全集だけに頼らず、福永生前に刊行した版を参照することが不可欠なことを画像を用いて説明した。例えば、戦後書かれた自由詩「詩と転生」Ⅰの冒頭を引用する場合、全集だけでは、ページ変りの空きをどう判断するか迷う。
    *上記と関連して、水声社版『マチネ・ポエティク詩集』(2014.5.20)は、連の途中でページ変えをしているので、読んでいて安定感・心地よさに欠けること(詩は眼でも味わうものでしょう)、福永が生前に刊行した各種の『福永武彦詩集』(麦書房)は、福永の形式感覚が行き渡っており、行空きに配慮をした紙面になっていることを確認した。

    Ⅱ.福永武彦電子全集の特色。
    【収録方針】
    ・各巻毎に、単行本や既刊の全集に未収録の文章を掲載する。
    ・小説は、福永武彦が内容・造本の両面に渡って心血を注いだ初刊本本文、そして最終手入れを経た決定版本文の提供を原則とする。『小説風土』と『草の花』、そして『死の島』については別に定める。
    *これは、単に複数の本文を載せるということではなく「書き換える作家」福永武彦の文学の本質に根ざした対応であり、同時に電子全集でなければ不可能な試みである。
    ・初出、初刊本文が旧字・旧かなの場合もソノママ掲載する。
    ・詩は、原則として①自筆草稿 ②初出雑誌 ③『ある青春』(1948) ④『福永武彦詩集』(1966)の4種を掲載する。
    ・随筆・評論・短文、そして散文訳は、原則として初刊本1種類を掲載する。初刊本が旧字・旧かなの場合は、新字・新かなに変換の上、掲載する。
    ・『我思古人』(1975)や『堀辰雄「菜穂子」創作ノオト及び覺書』(1978)等編纂本の訳・解説も、すべて掲載する。
     
    【解題・書誌】
    ・解題では、当該作品の執筆された年月日、その前後の生活・文学的状況の記述を含め、作品生成過程を中心に、未発表の稀覯資料も用いながら多面的に記述する。総じて、作品解釈の拠って立つべき事実(本文・生活含)の提供を原則とする。
    ・作品によって「本文照合より」として、初出→初刊→新版→文庫版→決定版に於ける本文異同を記述する。
    ・全巻に、収録著訳書の書影と詳しい書誌を掲載する。書影は、単行本は表紙と奥付の2種を、雑誌は表紙画像を掲載する。
     
    【附録】
    ・全巻に、署名本・識語本や原稿、作品構想ノート、メモ画像を、また自筆絵画、色紙、福永撮影の写真などの画像を掲載する。
    ・作品により「本文主要異同表」を掲載する。

     大略、上記のような方針で、10月19日に第1巻『草の花』を、11月16日に第2巻『小説風土』を既に配信しています。第3巻『夜の三部作』・『愛の試み』は、12月21日配信予定です。

 【当日配付資料】
  ① 「マチネ・ポエティク」についてのメモ―マチネ・ポエティクとその後―
  ② 原條あき子「みちびき」(「文藝」1979.10) 福永武彦追悼文コピー
  ③ 勝野良一『詩集 海そして残照』(2004.3)より1篇+「あとがき」
  ④ 『マチネ・ポエティク詩集』―詩集の組みに関して―
  ①:Ha、②~④:Mi

 【当日回覧資料】
  • ① 普及版『マチネ・ポエティク詩集』(真善美社 1948.5)
    *限定750部版より、刊行が2ヶ月早い。同書は、その存在を余り知られておらず、マチネ詩集として、多くの場合7月刊行の限定750部版が紹介されるが、この普及版が紹介されることはほとんどない。判型、装幀とも同一であるが、用紙が限定版と異なり和紙ではないので、厚みは半分ほどである。
    ② 思潮社版『マチネ・・ポエティク詩集』(思潮社 1981.1)
    * 思潮社版の牛革改装本 
    ③ 中村真一郎『戯画と戯詩』限定800部(吉井長三 1997.2)山崎剛太郎宛献呈署名本。
    *晩年限定版で刊行された定型詩集+絵
    ①~③:Mi

第172回例会
 日時:2018年9月30日(日) 13時~17時
 場所:川崎市平和館第2会議室
   
【例会内容】
 ①軽井沢高原文庫で開催中の「新しい世界文学へ 加藤周一・中村真一郎・福永武彦」展(10月8日まで)と8月4日に行われた「高原文庫の会」のご報告。
 ②新刊「福永武彦研究第13号」の講評。
 ③石川淳著『紫苑物語』の討論。
  
【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
 
 〇Haさん:石川淳「紫苑物語」について
  • 1.石川淳(1899-1987)
    (1-1) 主要作品
    ・翻訳:A.フランス:赤い百合1923、Aジッド:背徳者1924、A.ジッド:法王庁の抜穴1928、モリエル:ドン・ジュアン1933、モリエル:人間ぎらひ1924、モリエル:タルチュフ1924
    ・小説 短編・中編:普賢1936、黄金伝説1946、焼跡のイエス1946、紫苑物語1956
          長編:至福千年1967、狂風記1980
      ・評論:森鴎外1941、文学大概1942、江戸文学掌記1980
    (1-2)石川淳と福永武彦の共通点
    (1-2-1)「外文」系小説家である。
    ・鹿島茂:「・・・この巻に集められた三人こそは、二葉亭と同じく翻訳家あるいは外国文学研究家から小説家に転じた、私が「外文」系小説家と名付ける系譜に属する人たちである。」(日本文学全集第十九巻 石川淳 辻邦生 丸谷才一 月報2016年、河出書房新社)
    ・「外文」系小説家の共通点(鹿島茂):
    ① 論理性:「彼らのテキストを・・・書かれている通り翻訳していけば、そのまま英語やフランス語になる。」
    ② 文体と方法論の多様性:「様々な文体や方法論を試す。」
    ③ フィクション性:「彼らは私小説は小説ではないという信念がある。」
    (1-2-2) 日本古典文学の現代語訳を作成していて、それを自分の作品に活用している。
    ・石川淳:「新釈雨月物語」1953/54) →「紫苑物語」1956、「神神――古事記物語1957(『新釈古事記』1983)
    ・福永武彦:現代語訳『古事記』1956 →『古事記物語』1957、現代語訳『今昔物語』1958 (41篇),1961(157篇)→『風のかたみ』1968
    (1-2-3)引越し好き:二人とも頻繁に転居している。
    (1-3)三坂さん作成の福永武彦年譜(福永武彦研究第十三号、2018年)の中の石川淳に関係する事項:
     ・1952年8月10日:石川淳より「小説風土」に対する長文の手紙。(『小説風土』省略版1952年7月刊行) 
    ・1952年12月19日:中村真一郎の長編5部作完結出版記念会にて、石川淳と初めて会う。 *
     ・1953年1月13日:石川淳より手紙でマルタン=デュ=ガールの「ジイドについてのノオト」の翻訳を勧められる。
     ・1954月8月:『冥府』帯文 石川淳
     ・1954年12月:NHKラジオ教養大学で、石川淳の対談相手に指名される。
     *1953年1月8日:石川淳宛の福永武彦書簡(新潮日本文学アルバム65石川淳、59頁、1995年)を参照。:石川淳から自宅に来るように誘いがあったが、インフルエンザで寝込んでいるため訪問出来ないという内容の手紙。
       〇以上から、二人が急速に親しくなっていく様子がわかる。
      
    2.紫苑物語
    (2-1)1957年までの石川淳と福永武彦の作品年表を別表(省略)に示す。
    (2-2)新潮文庫『紫苑物語』収録の小説の福永による解説(1957年)のまとめを表1に示す。
     ・(2-1)の別表を参照しながら福永の解説を読むと分かり易くなる。
      
           表1 善財と鷹と紫苑物語についての福永の解説まとめ

     
    ・福永の見解をひとことで言えば:
    「(三つの作品は)いずれも石川淳的世界の極めて濃厚な、エネルギーの凝縮した中編である。」
    (2-3)福永が「紫苑物語」の解説で「この小説の最後を占める部分は言いようもない名文章で・・・」と言っているのは、「紫苑物語」全十二章のどこの部分か?
    ――― 第十一章の最初の三つの段落、「照る月の光をあびて宗頼は岩角に立つた。 ~ そのとき、手にした弓は手からはなれ、たちまち炎を発し、一すぢの光ものとなつて、月の光をあざむき、谷からいただきに翔けあがり、いただきを越えて、向うの空に舞ひくるひ、館の方角に飛び去つた。」であると思われる。また、これらの文章は、文の構造を変えずにそのままで英語に(恐らく仏語、独語にも)翻訳可能であると思われる。このことは(1-2-1)で鹿島茂が述べている「外文」系小説家の共通点である「論理性」を、石川淳のこの小説が満たしていることを示す。
    (2-4) 「紫苑物語」についての感想
    ・この話はおとな向けのおとぎ話のように思われる。
    ・五章の終わりに千草が登場してから物語が動き始める。
    ・福永の解説に述べられた「(石川淳の作品は)混沌としていながら論理的な世界」であることは、種々の二項対立(歌道と弓道、殺生と仏,宗頼の動と平太の静、千草とうつろ姫等)を用いていることでも分かる。
    (2-4-1)宗頼の戦いの物語としても読めると思われる。:
     ・宗頼と父との戦い:歌道をめぐる戦い、宗頼は7歳で歌道を捨て、弓道に没頭する。国の守の任地への出立の朝、弓で父の烏帽子のひもを射切り、父と決別し、宗頼の勝利。
    ・宗頼と弓麻呂との戦い:弓道をめぐる戦い、最後に3本の矢により弓麻呂を倒し、宗頼が勝利。
     ・宗頼と平太の戦い:殺生とほとけの戦い、岩のほとけを破壊するも足元の石が崩れ絶命、引分け。
    ・宗頼とうつろ姫との戦い:千草を得て宗頼の勝利。
    ・宗頼と藤内との戦い:藤内を館ごと滅ぼし、宗頼の勝利。
    (2-4-2)物語のクライマックス
    ①千草の正体が暴かれる場面の描写(七章)。
    ②宗頼が弓矢で岩のあたまを射削った後、足元の岩が崩れて宗頼が谷底深く落下していく場面の描写(十一章)。
      
    3.加藤周一
    (3-1)石川淳は加藤周一とも親交があったようである。現在開催中(7/21-10/8)の軽井沢高原文庫の夏季特別展「新しい世界文学へ 加藤周一・中村真一郎・福永武彦マチネ・ポエティク、モスラ、…」に、加藤周一宛の石川淳の長文の手紙が展示されていた。石川淳はこれはと思う人には長文の手紙を送り、人を引き付けていたように思われる。
    (3-2)加藤が石川淳の小説について述べていること
    加藤周一:「・・・石川淳の独特の傑作は、超現実主義的な(surrealistic))短編小説である。戦時中に「普賢」と「マルスの歌」があり、戦後には、「黄金伝説」や「焼跡のイエス」(一九四六」、「紫苑物語」(一九五六)、「喜寿童女」(一九六〇)がある。」(日本文学史序説下(498-500頁、1980年、ちくま学芸文庫)。加藤周一が「紫苑物語」を石川淳の傑作短編小説の1つにあげている。
 〇Miさん:石川淳と福永武彦の出会い、その一端。
   福永武彦の初刊本『冥府』(大日本雄弁会講談社 1954.8)帯文は石川淳の筆である。

  •  石川とは、この2年前1952年7月に、省略版『小説風土』を贈ったとき以来の附き合いであり(直接顔を合わせたのは、1952年12月の中村真一郎の長篇五部作完結出版記念会の席)、この『冥府』刊行後の12月には、石川の希望でNHKラジオ第2放送で、総題「東西の文学」と題した4回連続の対談の相手をしている。放送日と題目を掲げておく。
     12月7日「文学論」、14日「東西文学論」、21日「東洋文学論」、28日「東洋文学論」。時間は19時半~20時。録音は2回分ずつ2回にわたって行われた(1度目は11月下旬、2度目は12月5日)。
     「とても素面じゃ出来ないことに意見が一致したので、ビールを飲みながら雑談をし、いい加減お神酒(みき)が廻ったところで係員が録音を開始する。ところが僕の方に計画性がなくて、出たとこ勝負で思いついたことを口に出すだけだから、折角の機会なのに、文学史的資料に供せられるような話にはならない。そのうちに石川さんは酔っぱらって来て、勝手な気焔を吐くから聞き役が口を入れる隙がない。二度目の時は話が小説論になり、石川さんが大いに僕を素人扱いして苛めるので、無念残念、聞き役も少しは気骨のあるところを見せて演説をぶとうと決心したとたんに、「はい、時間です、」と係員に言われた。口惜しいけれど、相手のタイミングがいいのだから、もう追いつかない。作品同様に、座談に於ても切味は無類、僕ひとり天下に恥をさらした」(「夷斎先生 一、伝説」『枕頭の書』1971.6) 残念ながら、録音自体は残っていないようだ。
     この後、福永は石川と生涯親密な交際を続け、その創作方法から大きな影響を受けることになる。つまり、作品執筆前に綿密な創作ノートを作成し、全体の構成をしっかりと組み立て、十分な準備をした上で執筆していたスタイルから、(石川流の)「書きながら考える、人物の動きに任せる」書き方を意識して創作するようになった。石川の創作方法は、福永にとって1つの啓示であったろう。
     以下の画像は、石川から福永への献呈署名本/献呈「著者」箋 2種
 
  筑摩書房元版『石川淳全集第一巻』(1961)  『一目見て憎め』(中央公論社 1967)
   
【当日配付資料】
 ① 石川淳「紫苑物語」についてのメモ(石川宛福永武彦書簡画像複写1953.1.、/1957年までの石川、福永の作品一覧附き)
 ② 石川淳より福永武彦宛献呈署名本画像2種+封筒表書き画像
 ③ 石川淳より諸家宛献呈署名本画像4種(角川源義、宇田健、三好達治、梅田晴夫)
  ① Ha、②・③Mi
  
【当日回覧資料】
 ① 福永武彦1周忌ご案内関連資料
 ② 初刊本『紫苑物語』帯附き(講談社 1956.10)
 ③ 限定本『紫苑物語』毛筆署名入り(槐書房 1974.1)
 ④ 初刊本『霊薬十二神丹』毛筆署名入り(筑摩書房 1959.5)
 ①・③A、②・④Mi
 

第171回例会
 日時:2018年7月29日(日) 13時~16時30分
 場所:ミューザ川崎シンフォニーホール研修室3
   
【例会内容】
 ①新刊会誌第13号を配付し、簡単に内容・装幀を点検。
 ②軽井沢高原文庫で始まっている夏季特別展、8月4日「高原文庫の会」ほかの御報せ。
 ③2019年1月、3月例会内容を「『獨身者』を読む。」に決定。
 ④『加田伶太郎全集』の討論
   
【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
  
  〇Kiさん:『加田伶太郎全集』について
  • 古典学者・伊丹英典が探偵を務める加田怜太郎名義の8つのミステリー短篇小説において、第1作「完全犯罪」(1956年3月)から第5作「電話事件」(1957年9月)までの作品発表間隔の平均は3.6ヶ月となっている。同年12月には、これら5作が単行本『完全犯罪』にまとめられた。
     出版社からのミステリー執筆の要請を受け、以前からミステリー小説の大ファンだった福永は、この機会にトリック重視の本格派ミステリー(お手本として念頭にあったのは、作中に「読者への挑戦状」を掲げ、読者の作品への積極的参加を図ったエラリー・クイーンの国名シリーズ・ミステリーだっただろう)を自分でもモノにしたいという野心が第5作までの執筆の主要な動機だったと思われる。
     これに対し、第5作から10か月後に発表された第6作「眠りの誘惑」、それから3年3か月後の第7作「湖畔事件」、さらに8か月後の第8作「赤い靴」と、第6作以降の作品発表間隔の平均は1年7ヶ月となり、第5作までと比べ5倍以上となっている。
     第1作から第5作までと(前期とする)、第6作以降(後期とする)では作風にも変化が見られ、前期では物理トリック主体の本格派ミステリー、後期の第6作、8作では心理トリックを加えたサスペンス要素が濃く、第7作では既存の本格派ミステリーのパロディー風味が濃くなっている。
     後期作品の作風に変化が生じたのは、トリック主体の作品を書き続けることに満足できなくなり(あるいは限界を感じ)、サスペンス重視、あるいは本格ではなくパロディー要素の強い変格ミステリーに支点を移した為と考えられ、発表間隔が長くなったのは「飽き」の要素に加え、サスペンス要素が濃くなるにつれ、元々福永の純文学作品に通底する「謎(サスペンス)」の要素を含む作品群との距離が近くなり(6・8作)、単に遊び心では書けなくなったことも要因ではないだろうか。
     個人的には、サスペンス要素の最も濃い最終作「赤い靴」がシリーズ中の最高作であると考えていて、福永がさらに書き続けたなら、カトリーヌ・アルレーの「わらの女」(『深夜の散歩』で言及している)に伍するミステリー史に残るサスペンス作品を遺せたかもしれないのにと残念に思っている。
 〇Waさん: 福永武彦研究会 第171 回例会に寄せて  
  •  加田怜太郎、再読。最初は学生の頃、新潮文庫で読みました。いま全集版で久し振りに読み返し、その頃の感想を思い出しました。
     加田怜太郎の最初の短篇「完全犯罪」は、マルセイユを出航して日本に向かう客船の、乗客の会話から始まります。この冒頭の場面で、探偵小説の好きな読者は先ず「ははあ」と思いますね。一般に船というものは、海に出てしまえば「動く密室」ですから、昔から船を舞台にした探偵小説は少なくありませんが、フランスを出た客船で、パリで起こった怪事件について乗客同士が話をするとなると、これはxxxx・xxxxのよく知られたxxxxx・xxxの登場する最初の短篇 (1905) の冒頭の場面です。
     同じ作者の同じ主人公の出る長篇の一つでは、最後にある人物の意外な正体が明かされて読者を驚かせますが、その大胆な「プロット」はそのまま『風のかたみ』に使われていますし、別の長篇は「アナグラム」についての文に出るので、福永さんはこういうの、お好きだったのかな、と思いながら先に進みます (ちなみに日本語では、探偵小説の話をする場合、犯罪隠蔽や捜査攪乱のための「仕掛け」や「工作」を、昔から「トリック」と呼ぶことになっていますが、英語にこの用法はありません。英米の探偵小説を原書で読んだり、書評・評論をお読みの方はご存じと思いますが、英語ではこうした場合「プロット」の語を使うのが普通です。例えば アガサ・クリスティ Dame Agatha Christie (1890―1976) は、巧妙な「トリック」を、ではなく、巧妙な「プロット」を考えた、というように)。
     さて、さすがにパリの事件は脇に措いて本題に入り、船医の青年が昔、遭遇した事件の話に移ります。青年の寄宿していた家の主人に、謎めいた英語の警告文が繰り返し届き、やがて主人は自室で絞殺体となって発見される。関係者の事情聴取が行われますが、その夜、別室にいた夫人は夜中に「さらさらとかすかな音が聞こえて来たのでぞっとしました」と語る…… (全集 5 巻 p.33)。
     ん? ちょっと待って下さい、福永さん。しかし作者の方は気附かない読者がいるとでも思ったものか、念を押すかのように「何だか蛇でも這っているような」と附け加えます (同巻同頁)。やれやれ。密室で、絞殺で、それで「蛇の這うようなさらさら」って......、これって殆どxxx・xxxの「xxxxx」(1892) じゃないですか。何で此処でxxxxxx・xxxxが出て来ますかね。そもそもあの短篇の場合は題名に含みがあって、それが読者の注意を逸らす「ミスディレクション」misdirection になっている訣ですが、此処では持ち出す必然性がないでしょう。
     そもそも此処で「蛇」を持ち出すなら、普通は続けて、蛇の這った跡があるとか、近くに蛇を飼っている怪しい人物がいるとか、少しは「蛇」で引っ張るものですが、さすがに作者も気恥ずかしかったものか、この後の話に「蛇」は出て来ません。福永さん、これ、ただ書いてみたくて書きましたね。いやはや。これで「犬が吠えなかったでしょう」とでもやられた日には、真面目に読めなくなるところですが、さすがに「吠えない犬」までは出て来ません。ともあれ、呆れる読者を余所に、物語は進行します。
     そこからしばらくは順調に運んで、読む方も安心ですが、考えてみれば作者は作家ですから、安心して読めるのはあたりまえです。やがて物語は終盤を迎え、そろそろ張っておいた伏線や手掛りを回収して、話をまとめに掛かるかと思うところですが、そこで突如、何故か都合よく、被害者の自室に「巧にしつらえられた秘密の隠し戸棚」が見つかり、そこから殺人の計画を記した一枚の便箋が発見されます (全集 5 巻 pp.41―42)。うわっ、出たっ! 殺人計画書! こ、これはxxxx・xxxxの『xxxx』(1932) の「探偵小説の梗概」の..... しかし作者は、ひと工夫加えてあるので「だから真似というわけではない」と胸を張る (全集 5 巻 p.5xx)。やれやれ、何考えているんですか、福永さん。
     そろそろ話をまとめなければならないところで、どうしてこういう、使い方次第では長篇の骨格だって組めるようなものを持ち出しますかね。しかも持ち出しておいて、刑事が少し途惑って、それで過去の事件の話が終わって直ちに推理でしょう。どうも、わざわざ持ち出す意味がないような。それで「書きあげたら、予定の週刊誌二回分が三回になってしまった」って (全集 5 巻 p.506)、そりゃそうなりますよ。ううぅっ、福永さん、これも、ただ書いて見たかっただけじゃありませんか。
     私はかねて中期の中・短篇群について、幾つかの作品では予定された枚数に対して、主題を盛り過ぎたり、人物が多くて関係が複雑になったりして、無理が生じていると考えていますが、いま読み返すと、何やら此処でもやっていることは同じ。昔読んだ時には考えもしませんでしたが、この人、周到な「創作ノオト」を作ることで知られている割には、まとめ方、ヘタだったんじゃないの?と、関係者が次々と殺された後で、ようやく事件の真相に気附く金x一x助のような気分になります (「そ、そ、そうだったのかっ」)。
     しかし、この古典的名作について、福永さんは別のところで「後味があまり宜しくない」と書いていますから (全集 17 巻 p.3xx)、ははあ、すると此処ではxxは犯人ではありませんね、などと、まあ書く方も書く方ですが、読む方も読む方で、情けない推理をすることになります。
     終盤の、四人の人物がそれぞれ推理を試みるという趣向を、作者は「大学の演習で用いているのと同じ方法である」としていて (全集 5 巻 p.503) 実際そうかも知れませんが、これは昔から複数探偵、複数解決として知られている形式です。事件の展開や解決を二転、三転させるためによく用いられるもので、さまざまな変種 variation がありますが、最もよく知られているのは、才人アントニイ・バークリー Anthony Berkeley Cox (1893―1971) が、最初短篇に試みて後に長篇にした『xxxxxxxxx事件』(1929) でしょう。
     物語は最後に名探偵の見事な推理で「意外な犯人」が明かされて幕を閉じますが、さて、此処に説明された方法で、首尾よく目的を達せられるものかどうか。作者自ら案ずる通り (「これで殺せるかな、いや、こんなことじゃ死なないな」) どうもxxの強度が足りないような気がします。強度を持たせようとすると、かなり太くなりそうで。しかし、これで上手く殺せれば (!)、「消える凶器」として、なかなかのものだと思いますが……。これ、題名は「完全犯罪」より「不可能犯罪」の方が、よかったんじゃありませんかぁ。
     第二作以降は題名も「○○事件」となって、連作のように続きますから、さすがに第一作とは違うだろうと思うところですが、「密室」で味をしめたものか、第二作では「不可能犯罪の巨匠」xxx・xxxxx・xxの向うを張るかのように「幽霊」が現われます。いやはや、福永さん、そこまでやりますか。
     こうして、何やら作者その人を思わせるような名探偵 (個人の感想です) の登場する連作が始まります。さすがに後の方の「湖畔事件」や「赤い靴」では、探偵小説としては幾らか息が切れて来るかに見えますが、そうしたところ―例えば前者の少年の扱いや、後者の異常心理の描写―には、筆名でない作者本来の筆遣いが見て取れるように思います。
    *
     加田怜太郎が現われてから現在までの間に、ミステリの愛読者、殊に古典的な探偵小説の愛読者にとって、決定的な「事件」が二つありました。第一は、所謂「新本格」ミステリの出現。1980 年代後半から 90 年代にかけて、一群の若者たち、具体的には京都大学ミステリ研究会の学生たちが、論理性を追求した極めて技巧的な探偵小説を発表して、人々を驚かせた。彼らが範としたのは、エラリイ・クイーン Ellery Queen (Frederic Dannay 1905―1982, Manfred B. Lee 1905―1971) であり、ジョン・ディクスン・カー John Dickson Carr (1906―1977) であり、また横溝正史 (1902―1981) です。
     彼らは、自分たちも本格探偵小説を書きたいという、その意味では加田怜太郎と同じようなところから出発して、加田怜太郎よりも遥かに周到・緻密な作品を書いて見せました。のみならず、彼らはこれを「素人芸」として終わらせず、作家として世に出て次々と作品を発表し、日本の推理小説の歴史に一期を画した。その背景には、講談社の強力な後押しもあった訣ですが、ともかく最盛期には俗に「れんが本」と呼ばれた分厚い「ノベルス」が飛ぶように売れた。やがて、かつての学生 (大学院) が中堅となり、ベテランとなり、第一世代に第二、第三世代が続いて、これはミステリ界にひとつの分野として定着しました。「新本格」ミステリというのは、謂わば究極のパズル小説ですから、それに対する疑問や批判もありますが、いまそのことは措きます。
     ただし福永さんの立場は極めて明快で、探偵小説が「文学的である必要は毫もない」(『小説の愉しみ』p.101)。ちなみに、ご存知の方も多いかと思いますが、本格探偵小説という用語は日本独自のもので、英米にはありません。英米では puzzler が普通だろうと思います。つまりパズル小説、謎解き小説です。
    これより早く 70 年代から 80 年代にかけては、角川書店が映画と連携して展開した横溝正史の「復活」もありました。こうしたことが、もはや可能性はないと考えられていた古典的な本格探偵小説の認識を大きく変えた。かつては、すなわち加田怜太郎が現われた頃には、論理一辺倒の探偵小説はいずれ行き詰まるので、心理的要素に重点を置いたものに移行するはずだ、という「論理から心理へ」という命題がまことしやかに喧伝されていました。乱歩さんの提唱した「新本格派」はその意味でしたし、都筑さんが盛んに唱えていた「モダン・デテクティヴ・ストーリー」も同じ。私は高校生の頃から、そうした考えには漠然と違和感を抱いていましたが、いまでは少し明確に、それらの何処に誤解があったかを―いま長くなるので控えますが―説明出来るように思いますし、そうした見方で加田怜太郎の後期の作品を「心理的」と見ることは、誤りだろうと考えています。
     第二に 90 年代以降、恐らくはこうした動きを反映して、各種の文庫や叢書で 1920 年代から 30 年代にかけての所謂「黄金時代」の未訳作品、名のみ知られていた「幻の名作」の、翻訳が飛躍的に進んだ。この傾向は現在でも続いていますが、殊に 4 期 45 巻に及ぶ国書刊行会の『世界探偵小説全集』の刊行は決定的でした (1994―2007)。これに拠って、これまで代表作の一作、二作しか紹介されていなかった作家の全貌が、さらには黄金期の探偵小説の全体が、かなり具体的に見えて来るようになりました。
     余談ながら (この文の全体が余談のようなものですが)、黄金期の幻の作家として、一部の「マニア」にのみ知られていた T. S. ストリブリング Thomas S. Stribling (1881―1965) の短篇集『カリブ諸島の手がかり』Clues of Caribees (1929) も 1997 年、この『世界探偵小説全集』で、初めて完全な形で紹介されました (2008 年に河出文庫)。これはエラリイ・クイーンが、探偵小説史上、里程標 milestone となる重要な作品と見倣したものを集めた作品目録『クイーンの定員』Queen's Quorum にも選ばれた短篇集で、一連の連作の最終話には、とんでもない「驚愕の結末」surprise ending の待ち受けているものですが、今回読み返していて、福永さんの 1959 年の文に「探偵が先生だという先例には、T. S. ストリブリングのポジオリ教授があるが」とあることに気附き (全集 5 巻 p.501)、本を取り落しそうになるほど仰天しました (え、えぇ~っ)。
     何で 59 年にご存知だったのか、しばらく愕然とした後で正気 (?) に戻り、これは短篇作家ですから、短篇ならば単発の紹介もあるかと思って調べたところ、灯台下暗し、1956 年 6 月に創刊の日本語版「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の創刊号と 2 号に続けて短篇二篇、それもエラリイ・クイーンの紹介文を添えて掲載されていました。福永さんは、これを読んだのだろうと思います (創刊号と 2 号、3 号の三冊が復刻合本として 1995 年に出ていますが、クイーンの紹介文は、創刊号 pp.112―113、2 号 p.69)。
    *
     いま説明のために話を少し単純化して、これら黄金期の探偵小説を二つの類に分けることを考えます。ひとつは、シャーロック・ホームズ型の名探偵を主人公とする古典的な探偵小説。これを A とします。探偵役は貴族や大学教授、また犯罪研究家という「ディレッタント」の場合もありますが、いずれも基本的には、天才的な名探偵が「神の如き」推理で謎を解く。
     しかし、やがてこれらに対して、探偵小説の定石を逆手に取ったもの、時には探偵小説を冷やかしたり、からかったりするような、ひとひねりした探偵小説が現われます。これを B とします。例えば探偵役が平凡な青年で、推理を間違えたり、女性と恋に落ちたりする。また最後に名探偵が一同の前で謎を解いて、その後にもう一章設けて、名探偵の推理を全部ひっくり返して読者を愕然とさせる、など。これは謂わば、反探偵小説、探偵小説批判の探偵小説です。
     そして注意したいのは、日本では戦前から欧米の探偵小説が続々と翻訳された際、これらが区別されることなく、等しく名作、傑作として紹介された、ということです。
     実はこれら A, B は、あくまで理念的な区別で、実際の作品はそう単純に分類出来るものではありません。中間的なものも少なくない。また A 型の作品が現われて、かなり後に B 型が現われたという訣でもなく、実際には A の後、間もなく B が現われ、双方が同時平行的に次々と書かれた、というのがむしろ実態に近いので、区別なく翻訳されたということが、必ずしも不都合な訣でもありません。
    ただ本来、ひとひねりした B の型の作品は A の型の作品を読み飽きたところで読んで、その皮肉や面白さがわかるようなものですから、日頃、原書で英米の探偵小説を読んでいる「通」の読者から「これはちょっと変わっていて面白いよ」と薦められても、何処がどう変わっていて何がどう面白いか、薦められた方は、本当のところはよくわからなかったといった場合もあっただろうと思います。
     例えば、中村さんや福永さんが時折ふれる『消えた玩具屋』The Moving Toyshop (1946) のエドマンド・クリスピン EdmundCrispin (1921―1978) などは、明らかに B の型の作家ですが、邦訳でその全貌を窺うことが出来るようになったのは、比較的最近のことです。中村さんも福永さんも勘のいい人たちですから、恐らくはかなり深いところまで見抜いていたに違いありませんが、それにしても一冊や二冊の翻訳で、その作家の全体や背景まで見て取ることは、さすがに難しかったのではないかと思います。
     福永さんの書きたかったのは、明らかに A の型の探偵小説です。そして私がいま思うのは、その頃 B の型の探偵小説の紹介が限られていて、そうしたものの存在を、ご存知だったにせよ、福永さんは探偵小説を少し狭く考えておられたのではないか、ということです。全集序文には、私は「決して加田怜太郎名義のものを軽く見ていたわけではない」とあって、如何にも福永さんらしいとは思いますが、それを承知の上で敢えて、少し軽く考えてもよかったんじゃありませんか、と声を掛けたい気がします。
    ご本人が、こっちが書きたいんだというのであれば仕方ありませんが、探偵小説は、もう少し幅のある豊かなもので、何か必要以上に、自分で自分で縛っておられたのではないか、作品を見ると加田怜太郎は A の型の探偵小説よりも、むしろ B の型のそれに、より多くの可能性を持っていたのではないか、という気がします。まあ、日本のエドマンド・クリスピンくらいにはなれたのでは、というのは贔屓の引き倒しでしょうが。
    ただ、そうした、妥協を許さず、必要以上に自身を縛るような、頑なにも見える姿勢こそが、福永文学の骨格を支えてもいる訣ですから、これはそう気安く「少し軽く考えても」という訣には行きません。それに日本のクリスピンなどになられては、読者としても困る。まだ『死の島』も書かれていない時期ですから。
    *
     『加田怜太郎全集』は、作者の古典的探偵小説への「偏愛」と「遊び」の産物です。これは日本の探偵小説/推理小説の歴史の一頁を飾るもので、その評価は動かない。しかし、その歴史的評価以上に出るものではなかろうと、私は考えています。
     「読者の娯楽に供する」ために別名義で書いたものを、外の作品と同列に論じるのは、作者に対して礼を欠くだろうと思います。作者の蘊蓄と自慢を拝聴して楽しみ、その「遊び」に附き合うのが、読者の作法でしょう。
     しかし後生畏るべし、その「遊び」も現在では途方もなく手の込んだことを考える若手が現われて、加田怜太郎の時代は遥かに遠くなりました。加田怜太郎だけでなく、乱歩さんも、都筑道夫さんも、遠くなった。数十年振りに再読して、改めてそういうことを考えました。加藤さんならば、加田怜太郎よ、さらば、というところかも知れません。
     しかし、こういうものを、恐らくは張り切って (腕まくりして?) 思案を重ねて書いて (「大変苦労して書いた」)、悦に入っている (「真似ではない」) 作者その人、何やってるんですかと声を掛けたくなるような作者その人については、まあ、困った人だとは思いますが、私自身はどうも近しいものを感じています。   
  〇Haさん:『加田伶太郎全集』について
  •  結城昌治『ひげのある男たち』(1959)の序で、福永は「・・・僕に言わせれば、探偵小説は結局遊びである。」と述べている。一方、福永武彦作品と加田伶太郎作品(純文学と探偵小説)は、いずれも福永武彦という同じ作者が作り出したものである。共通点もあるはず。そこで福永武彦作品と加田伶太郎作品の間の類似点と相違点を考えながら『加田伶太郎全集』を読んだ。
    1.福永武彦の「完全犯罪」前後の作品
    (1-1)・福永武彦がSFを含めた推理小説を書いていた時期に、純文学のどういう作品を書いていたかを確認するため、下表の「福永武彦(1918-1979)の「完全犯罪」前後の作品一覧表」を作成した。
  • ・最初の作品「完全犯罪」(1956/3初出)から最後の作品「赤の靴」(1562/6初出)まで6年間
    に亘り、福永は推理小説を書いた。『加田伶太郎全集』には11作品を含まれ、8作の探偵小説(伊
    丹英典を探偵とする)と1つのSF、その他2作品からなる。

    (1-2) 「完全犯罪」と同じ時期に発表された純文学作品について、福永は以下のように書いている。:
    「『深淵』『水中花』『秋の嘆き』(以上の3作品は1954年初出(林))『鏡の中の少女』(1956年初出(林))の四作品は、それぞれ謎を含んでいて、それが最後に至るまでに少しずつ解明されるという点では多少は推理的だが、・・・。」(全集第十七巻392頁下段、『川端康成・福永武彦集』(「文藝推理小説選集」解説、1957年執筆)。これにより、これらの四作品には謎が含まれていることがわかる。
    例えば、「水中花」では、語り手の僕の友人、青木の妹の八千代と初めて会った時の八千代の言葉「ひどいのね。不意にいらっしゃるなんて。」について、なぜ八千代がこう言ったかは後ほど分かるようになっている。
    (1-3)・福永の作品においては、しばしば、純文学(本格小説)にも謎解きの要素が含まれているのではないか。そう思って(福永の他のどの純文学作品にも謎が含まれているのではないかと思って)、(1-4)に示す、直近の2016年~2018年に研究会例会で取り上げた8作品及び『死の島』を読んでみると、「風花」を除いたこれらすべての作品に謎が含まれていることが分かった。長編、短編を問わず、福永武彦のほとんどの純文学作品に何らかの謎が含まれている可能性があると思われる。
    ・また、このことは他の作家の作品に比べると、福永武彦の純文学作品においては、作品が成立するのに謎がかなり重要な役割を果たしていることを示すのではないかと考えられる。

    2.福永武彦の探偵小説と純文学の比較
    福永の探偵小説と純文学(本格小説)の比較を以下に述べる。
    (2-1)・随筆とエッセー:同じテーマでも福永は随筆ではリラックスして書いているように思われる。
    ・探偵小説と純文学:福永は探偵小説もリラックスして書いているように思われる。
    (2-2)主題
    探偵小説の主題は殆どの場合、殺人の犯人が誰かを当て、犯行のトリックを推理することに限定されるが、このことは加田伶太郎の場合も当てはまる。
    一方、純文学では主題は様々で、福永の純文学の主な主題は愛・孤独・死。
    (2-3)謎:加田の探偵小説と福永の純文学では、殆どの場合に、いずれにも何らかの謎が含まれている。
    ①探偵小説では
    ・謎の種類:殺人犯人はだれか、犯行の手段(トリック)は何か、に限定される。
      ・解答(犯人とトリック)はほとんどの場合、作品中で提示される。
    ②純文学では
    ・謎の種類は様々。
    ・解答は必ずしも提示されない。これは謎を解くことが純文学の主目的でないため、また読者に想像させる余地を残し、余韻を残すためであると思われる。
    (2-4)視点人物
    ①探偵小説の場合、視点人物は作者あるいは探偵であることが多い。
    ②純文学では視点人物は様々で、登場人物の誰でもが視点人物になりうる。

    (2-5)小説を読む目的
    ①探偵小説を読む目的:犯人が確定され、トリックに納得が行き、安心すること、(一種のカタルシスを得ること)。
    ②純文学(本格小説)を読む目的:主題、構成、技法、文体等を理解し味わうこと。

    3.『加田伶太郎全集』で好きな作品
    ・福永(加田)の推理小説はどれも面白い。その中で特に好きな作品である「温室事件」と「湖畔事件」を取りあげて考察した。
    ・福永武彦は「探偵小説と批評」(全集第十五巻32頁上段、1958/4)で探偵小説批評のタブーとして4つあげている。:①真犯人の名前 ②殺人の動機 ③殺人の方法 ④小道具 そして、これらのタブーに抵触せずに探偵小説を批評する難しさを述べている。
    ・福永武彦は中村真一郎と丸谷才一とともに探偵小説批評の本『深夜の散歩』を書いている。上記4つのタブーを思い浮かべながら『深夜の散歩』を読むと、福永らもこれら4つのタブーに抵触しないように書いているが分かる。

    (A)「温室事件」(1957)
    ・『加田伶太郎全集』の探偵小説全8作のうちの第3作。
    ・探偵:伊丹英典助教授と久木進助手のコンビ。
    ・視点人物:伊丹英典(全10断章中9断章で)、ただし断章二の三の視点人物は久木助手。
    ・舞台:宇久須の漆原家((元貴族の家柄)。
    ・探偵コンビ以外の登場人物は木村(久木の友人)、漆原香代子(漆原家の長女、30歳位)、遠村(香代子の伯父)、漆原里子(漆原家の未亡人)、弓雄(里子の子供、香代子の弟)、蟹山(40代の正体不明の漆原家の使用人)の6人。
    ・温室を密室とする殺人事件が発生(蟹山が殺害される)。
    ・私はふだん探偵小説を読むことがないためか、他の加田伶太郎作品と同じく、「温室事件」の犯人と殺人方法(トリック)も分からなかった。
    ・話の内容(犯行の動機、トリック)はありそうな事柄で、不自然ではなく、納得出来る。
    ・福永の純文学と比べると、文章に潤い・深みがない。話の筋だけに関心が集まる傾向。
    ・疑問点:紐を引くと、温室のガラス屋根の窓は閉まるのか開くのか?
    ----「①片方の硝子屋根に四角な窓があり、紐を引くとその窓が上にずりあがって開くようになっていた。②蟹山はいっぱいに引きしぼったその紐を手に持って、ちょうど窓の下あたりに俯きに倒れていたわけだ。」(全集五巻116頁) ③「ところがそこ(この天窓)はしまっていた。」(同) 
         ⇒✩①,②,③は同時には成立しない。紐を引くと窓は閉じるのでは?

    (B)「湖畔事件」(1961)
    ・第7作目の探偵小説。
    ・探偵:伊丹英典助教授。
    ・視点人物:13の断章全てで伊丹英典
    ・舞台:北海道の高原の湖畔にあるホテル。
    ・伊丹探偵以外の登場人物は瀬木(ホテル支配人)、瀬木一郎・二郎(瀬木の子供、小学5年生と2年生)、中川(ホテルの従業員)、丸田鷹夫(新婚夫婦の夫、30歳位)、本田朱美(鷹夫の妻、25-6歳)、香代(観光船の案内所の女の子、15-6歳)、宮本小次郎(ホテルの客)、花岡優子(ホテルの客)、ミチ子(優子の娘、小学4年生)、寺田(自称、新聞記者)の11人。
    ・ホテルの東屋で殺人事件が発生。
    ・犯人と犯行方法(トリック)は分からなった。
    ・話が面白い。特に、子供がよく描かれている(生き生きしている)。特に断章の2,4,8,13後半。
    ・小説の終わり方が面白い。
    ・先が読めない。ハラハラ・ワクワク感がある。
    ・犯行の動機は納得がいく。
    ・伊丹「殺人犯人はいないんです。」香代「犯人がすなわち被害者なのよ。」⇒ 探偵小説の公式を破り、探偵小説のパロディーになっている。
    ・子供たちの探偵ごっこと同じく、今回の事件は探偵ゲームの感覚の話になっている。
    ・結局、この資料の最初の福永さんの言葉「・・・僕に言わせれば、探偵小説は結局遊びである。」に行き着き、福永さんはこの遊びに飽きてしまい、探偵小説を書くことを6年ほどでやめてしまったのではないか。同じ時間をかけて苦労するなら、探偵小説にではなく、純文学の方に力を入れたいという意味のことを福永は書いている。「決して加田伶太郎名義のものを軽く見ていたわけではない。或る意味では大変苦労をして、こんな苦労をしてまで加田伶太郎に尽くすことはないと考えた。」(全小説第五巻の序1974、全集第五巻7頁)。その後、『忘却の河』、『死の島』などの純文学の制作に興味が移って行ったものと思われる。ちなみに、「赤い靴」(1962/6初出)の発表の翌年1963年に『忘却の河』の雑誌発表を始めている。

  〇Miさん:高原文庫への貸し出し資料一覧。
  • 2年前、軽井沢高原文庫副館長のOさんに「生誕100年を迎えるに際して、福永武彦と中村真一郎の2人展を開催できないだろうか」という打診をしました。その際は「①高原文庫は展示スペースが小さい、②2018年前後には多くの文学者が生誕100年を迎えるので、2人だけを取り上げるのは難しい」という理由で、よいお返事を頂けませんでした。
     ところが、昨年も押し詰まった時期に「来年、福永、中村に加藤を加えた3人展を開催することになりました。ご協力いただけないでしょうか」という連絡を受けました。どのような経緯で開催に至ったのかは分りませんが、ありがたいことです。即座に、全面的にご協力する旨をお伝えしました。 
     ポスター(チラシ)に使用してある画像(『1946文學的考察』と『マチネ・ポエティク詩集』)ほか、計8点の画像をまずお送りし、そして展示用に多数の資料を貸し出しました。資料の細目は、以下の通りです。
    この一覧は、ホームページ「掲示板」にも先日掲載しましたが、閲覧していない、或いはネット環境にない会員のために、ここに改めて掲載しておきます。Aさんにお貸しいただいた1点を除き、Mi所蔵品です。

    Ⅰ 福永武彦関連資料
    ①【雑誌・冊子】全てオリジナル(復刻本はナシ)。
    ・東京開成中学校一覧(昭和6年2月開成中学校刊)
    *福永武彦が第1学年3組、中村眞一郎が同学年4組 中村は班長
    ・「開成会会報」第6号~第8号 計3冊
    *福永武彦、中村眞一郎の自筆署名画像あり
    ・一高「校友会雑誌」第353号/第355号/第358号 計3冊
    ・弓術部雑誌「反求会会報」第17号/第20号 計2冊
    ・「エクラン」1936年5月号
    ・「映画評論」1939年4月号/40年1月号/40年11月号 計3冊
    ・「ATELIER」 1940年9月号
    ・「冬夏」第4号/第5号/第6号(12月号) 計3冊
    *翻訳「マルドロールの歌」連載
    ・「四季」第66号 *翻訳「エロディアド」掲載
    ・「北海文学」 第1号/第2号 計2冊
    ・パンフ「アプレゲール通信」 *裏に花田清輝「塔」評
    ・「詩人」第2号/第3号/第4号/第6号  計4冊
    ・「人間」1947年7月号
    ・「近代文学」1947年7月号/50年2月号(原條あき子詩篇) 計2冊
    ・「花」1947年11月号 *押韻定型詩6篇掲載
    ・「至上律」第4輯
    ・「世代」第1巻第3号/第1巻第4号/第1巻第6号計3冊
    ・「美術手帖」1951年10月号/52年8月号計2冊
    ・「秩序」(ORDO)1956年5月号
    ・「別冊クイーンマガジン」1959年秋号/60年冬号計2冊
    ・「ディズニーの国」1963年6月号/7月号/8月号 計3冊
    *「猫の太郎」連載
    ・「本」 第1巻第2号
    ・「文芸」1966年1月号(連載開始)/67年1月号/68年1月号/71年8月号(最終回)*「死の島」連載 計4冊

    ②【単行本】
    <詩集・歌集>
    ・マチネ・ボエティク詩集 普及本 *限定本より薄冊
    ・マチネ・ボエティク詩集 限定本
    ・ある青春 限定50部の内第28番辰野隆宛ペン署名入り
    ・ある青春 限定50部の内第8番 岩松貞子宛ペン詩篇署名入り
    ・ある青春 普及本 ペン詩篇署名入り
    ・福永武彦詩集 限定50部の内第2番 3分冊 各冊駒井哲郎銅版画入り 
    ・福永武彦詩集 限定13部の内第7番
    ・櫟の木に寄せて 私家版限定23部の内第3番本 緑ペン歌入り
    ・櫟の木に寄せて 普及版源高根宛、ペン長文識語入り 別に銅版画1葉附き
    ・櫟の木に寄せて 普及版限定10部の内第9番本
    ・夢百首 雜百首 限定A版50部の内、第39番本 毛筆歌、署名入り
    ・夢百首 雜百首 普及本  中村眞一郎宛緑ペン署名入り
    ・新版象牙集 串田孫一宛ペン署名箋入り
    <小説>
    ・塔特製 初刊版 中村眞一郎宛ペン識語署名入り
    ・塔 初刊版
    ・塔 再版異装本
    ・塔 新版 白井健三郎宛ペン署名入り
    ・小説風土省略版 中野好夫宛 ペン署名入り
    ・小説風土完全版 中村眞一郎宛 ペン識語署名入り
    ・小説風土決定版 岡鹿之助宛 ペン署名入り
    ・草の花 初刊版(帯美)
    ・草の花 初刊版 中村眞一郎宛ペン署名入り「共感を以て」
    ・草の花 初刊版 ペン識語署名入り「冬よりも靭く 春よりも若く」
    ・草の花 新版 私家版限定10部本 濃緑バックスキン装
    ・冥府 マラルメ「エロディアド」断章訳 ペン書き
    ・夜の時間 小林善彦宛ペン識語署名入り
    ・夜の時間 限定50部の内第32番本
    ・冥府・深淵 帯附き
    ・完全犯罪 夷斎先生宛 ペン歌署名入り
    ・古事記物語(第5刷) 函
    ・海幸と山幸 *小学生4年生用教科書 古事記物語からの抜粋
    ・心の中を流れる河 石川淳宛 ペン署名入り
    ・世界の終り
    ・La fine del mondo(世界の終りのイタリア語版)
    ・廢市 中村眞一郎宛 ペン署名入り
    ・告別 ペン歌署名入り
    ・忘却の河 加藤周一宛ペン署名入り
    ・おおくにぬしのぼうけん(初刷) カヴァ
    ・幼年 限定265部の内第194番本 刊行覚書附き
    ・幼年その他 鳴海四郎宛ペン識語署名入り 
    *鳴海は「幼年」の旧友N君。
    ・海市 ペン詩篇(海の時)入り
    ・風のかたみ 田中澄江宛毛筆署名箋入り
    ・夜の三部作 源高根宛 毛筆歌、長文識語入り
    ・加田伶太郎全集 限定50部版の内第4番本 都築道夫宛識語署名箋入り
    ・加田伶太郎全集 白井健三郎宛毛筆識語署名箋入り
    ・獨身者 限定番外5部の内第2番本
    ・夢みる少年の昼と夜 限定201部の内第119番本
    <評論・随筆>
    ・ボオドレエルの世界
    ・1946文学的考察 長谷川泉宛 加藤周一のペン署名入り
    ・1946文学的考察(再販本)帯付き
    ・愛の試み 河盛好蔵宛ペン署名入り
    ・愛の試み愛の終り
    ・愛の試み愛の終り(重版)ペン歌署名入り
    ・ゴーギャンの世界  河盛好蔵宛ペン署名入り 30部限定「後記」附き
    ・深夜の散歩 初刊版 当時の新聞書評4種附き
    ・藝術の慰め 初刊版 萩原葉子宛毛筆署名入り
    ・藝術の慰め 新版 毛筆漢詩入り
    ・福永武彦作品批評A 限定200部教科用特別版
    ・福永武彦作品批評B 中村眞一郎宛 朱毛筆署名入り
    ・別れの歌(6刷) 山田爵宛ペン署名入り
    ・枕頭の書 大岡昇平宛朱毛筆署名入り
    ・夢のように 岡鹿之助宛毛筆署名箋入り
    ・書物の心 ペン句入り
    ・意中の文士たち/意中の画家たち250部限定の内第4番(著者本)
    「意中の文士たち 上」扉に漢詩入り 函
    ・異邦の薫り 森茉莉宛青ペン識語署名箋入り
    <編輯本>
    ・近さん歩んだ道(福永共同編輯本)
    ・堀辰雄詩集(弥生書房) 源高根宛ペン歌・識語署名入り
    ・我思古人 堀辰雄・福永武彦版  中村眞一郎宛毛筆署名入り
    ・「菜穂子」創作ノオト及び覚書 限定160部の内56番本
    <翻訳>
    ・北緯六十度の恋(翻訳 今日出海名義 第16刷) 葉書附き
    ・民俗学概説(「序」のみ翻訳)
    ・アンドレ・ジイド(翻訳) 中村眞一郎宛 ペン署名入り
    ・幻を追ふ人(翻訳) 石川淳宛 窪田啓作と連名ペン署名入り
    ・運命(モイラ)(翻訳) 石川淳宛 ペン署名入り
    ・推理小説の歴史(翻訳)  都築道夫宛「訳者」ペン署名入り
    ・PETITE HISTOIRE DU ROMAN POLICIER (「推理小説の歴史」仏語原本)
    ・古事記 国民の文学第1巻(翻訳)
    ・今昔物語 国民の文学第8巻(翻訳)
    ・ボードレール(翻訳) ピア作
    <福永装丁本>
    ・ピランデルロ短篇選集(福永装丁本 筆名 冬木元)
    ・空中庭園(中村眞一郎 筆名 千載寓一)
    <外国語訳>
    ・Dunkle Seiten *「影の部分」の独訳
    ・Secret Places *「廃市」の英訳(Dead City)が収録
    ・FLOWERS OF GRASS
    ・DES GRASES BLUMEN
    <モスラ関連>
    ・漫画 大怪獣モスラ(吉田きみまろ 「少年」附録)
    ・中一文庫 大怪獣モスラ
    ・コジラVSモスラ決戦史
    <旧蔵本 仏文関係>
    ・NOUVELLES ÉTUDES(nrf) 福永旧蔵本署名あり
    ・EXERCICES DE STYLE(nrf)  福永旧蔵本署名あり
    ・ÉTUDES(nrf) 福永旧蔵本署名あり
    ・SADE MON PROCHAIN 福永旧蔵本署名あり

    ③【葉書/書簡】
    ・福永武彦書簡 中村眞一郎宛(BearHouse)仏文
    ・福永武彦葉書 矢内原伊作宛 2枚
    ・福永武彦葉書 今村秀太郎宛
    ・福永武彦書簡 福永末次郎宛
    ・福永武彦葉書 福永末次郎宛
    ・福永武彦書簡 水曜荘文庫宛

    ④【草稿】(「死の島」以外完結揃い。「世界の終り」以外、途中抜けはなし)
    ・詩稿「海の旅」400字詰め×6枚
    ・長篇「死の島」第3回/第53回/第55回 計3回分
    ・中篇「告別」400字詰め
    ・中篇「世界の終り」200字詰め(緑鉛筆で151枚目欠)
    ・短篇「大空の眼」400字詰め
    ・短篇「野風」200字詰め *現全集未収録
    ・短歌「夢百首」システム手帖用紙
    ・随筆「ポーについての一問一答」(加田伶太郎名義)
    *加田名の草稿は稀少
    ・随筆「日の終りに」200字詰め
    ・随筆「私の一点」90字詰め 緑ペン *現全集未収録
    ・解説「江戸川乱歩集解説」200字詰め

    ⑤【構想ノート】 
    ・死の島 A4 34枚、B5 2枚 黄色ファイルに収納
    ・藝術の慰め/風のかたみ/小説・評論/詩篇  ファイルに収納、計74枚

    ⑥【日記】
    ・1945年9月1日~12月31日 ペン書き1冊
    *新潮社『福永武彦戦後日記』原本 

    ⑦【手帖、メモ(献呈先など)】
    ・1951年手帖日記(河出書房) 鉛筆書き 彩色ページあり
    ・1975年文藝手帖(文藝春秋) 鉛筆、緑ペン、ブルーブラックペン書き
    ・1976年文藝手帖(文藝春秋) 鉛筆、緑ペン、紫ペン書き
    *75、76年共、細字でビッシリ書き込み
    ・1978年9月~ 入院中メモ、ドイツ語日記 ブルーブラックペン書き
     *「秋風日記」寄贈先名簿など。
    ・1979年システム手帖  全文緑ペン 未記入の手帖用紙23枚附き
    *これからの仕事予定が具体的に記されている。
    ・初刊本塔 寄贈先名簿
    ・ボオドレエルの世界 寄贈先名簿
    ・ある青春 寄贈先名簿
    ・ゴーギャンの世界 寄贈先名簿カード 13枚  袋附き
    ・昭和53年度 学習院大学での講義題目・内容概略

    ⑧【絵画】
    ・草花のスケッチ1978年5月2枚、1979年4月1枚、7月10枚  計13枚
    ・絵画4点、額は無し。

    ⑨【色紙・書】
    ・色紙「大空を傾ける光はにほふ~」 額附き
    ・色紙「奥嵯峨直指庵にて 竹之道~」 額附き 

    ⑩【校正刷り】ファイルの途中抜けページはなし。
    ・死の島 *緑ペンが福永自筆 ファイル1冊収納 
    *連載第33回、第34回、第35回、第36回、第37回、第38回、第39回、第40回、第44回、第45回、第46回、第47回

    ⑪【遺品】
    ・パーカーインク 緑 1壜
    ・著書検印用の印 「福永」1個(草の花、冥府ほかに使用)

    ⑫【福永宛献呈本】
    ・リルケ全集第4巻(弥生書房 月報付)福永武彦宛 富士川英郎ペン署名入り
    ・ラブレー研究序説(渡邊一夫)福永武彦宛 ペン仏文識語入り

    Ⅱ中村眞一郎関連資料
    ①【単行本】
    ・火の娘 函・帯附き
    ・死の影の下に 特製本 神西清宛ペン識語署名入り
    ・中村眞一郎詩集 小林秀雄宛ペン識語署名入り「感謝ノ印シニ」
    ・ボヘミヤの小さな城(ネルヴァル著 中村訳) 神西清宛ペン署名入り
    ・黒い終点 函・帯附き
    <旧蔵本>
    ・ ŒUVRE ROMANESQUE 色鉛筆署名あり

    ②【台本・脚本】
    ・君死に給うことなかれ
    ・幻の国 十一景(文学座アトリエ台本)

    ③【草稿・書簡・葉書】
    ・中村眞一郎草稿「『薔薇物語』の回想」200字詰め
    ・中村眞一郎書簡 福永武彦宛(漢詩文)
    ・中村眞一郎葉書 福永武彦宛  2枚
    ・中村眞一郎葉書 帝国大学新聞編輯部 長谷川泉宛
    ・中村眞一郎葉書 長谷川泉/齊藤大志宛

    Ⅲ福永末次郎、加藤周一他、友人関連資料
    ・「校友会雑誌」第363号/第364号/第366号/第367号/第368号
    *加藤周一、白井健三郎執筆 計5冊
    ・「綜合文化」1948年1月号/48年2月号/48年3月号/48年4月号/48年7月号 計5冊
     *加藤周一、中村眞一郎、窪田啓作、原條あき子ほか
    ・加藤周一葉書 福永武彦宛仏文 
    ・加藤周一書簡 福永武彦宛  *パリより
    ・窪田啓作葉書 矢内原伊作宛  *福永「小説風土」に関して。
    ・堀田善衞葉書 福永武彦宛
    ・埴谷雄高葉書 福永武彦宛
    ・矢内原伊作草稿「『文学51』のころ」400字詰め(封筒附き)
    ・原條あき子詩集 原條のペン献呈署名入り

    【古書目録】
    ・浪速書林古書目録 第40号(平成17年11月)
     *福永自筆手帖4冊ほか掲載
    ・同 第43号(平成19年10月)
     *福永自筆「海市」創作ノートほか掲載
    ・扶桑書房古書目録(平成22年夏季号)
     *『ある青春』特製本 岩松貞子宛献呈詩篇署名入り本掲載

    次の1冊は、Aさん所蔵の資料です。
    ・Dix heures et demie du soir en été(nrf) 報告文附き
    *福永が学習院大学の授業で使用したテキストで、鉛筆やペンで多数の書き込みがある手澤本。挿入された渡邊啓史氏の報告文に詳しい来歴が記述されている。

     30年に渡って、覚悟を持って蒐集している資料の主要部分が、このような形でお役に立つことが出来たのは、大変に幸せでありがたいことです。展覧会をご覧になる皆さんに、「オリジナル資料の持つ力」を感じ取っていただけることを願っています。まだ展示されていない資料も多く、8月後半に展示替えを予定しているとのことです。
【当日配付資料】
 ①新刊「福永武彦研究第13号」 各1冊、執筆者には2冊
 ②高原文庫開催「新しい世界文学へ 加藤周一・中村真一郎・福永武彦展」チラシ
 ③上記展覧会と「高原文庫の会」(8月4日)への「ご招待券」
 ④「高原文庫33」を会に寄付(2冊)
 ⑤「『加田伶太郎全集』についてのメモ」A3.2枚
 ②~④:Mi、⑤:Ha
 
 

総会・第170回例会
日時:2018年5月27日(日) 14時15分~17時
場所:川崎市平和館第2会議室
参加:7名
   
【総会内容】
 ・昨年度会計報告
 ・今年度新運営委員の決定
 ・今年度例会内容
 ・今年度特別企画
 ・その他
 
【例会内容】
 ①『第二随筆集 遠くのこだま』の検討・討論
 ② 軽井沢高原文庫での夏季特別展他、連絡事項の伝達。
  
【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
  
 ・Waさん:福永武彦研究会 第170 回例会 発言要旨
  •  随筆・エッセイについての皆さんのさまざまな読み方、捉え方、読む側それぞれの興味と性格を見るようで面白く、勉強になりました。回想などには証言・記録の意味もあるかと思いますが、私自身は怠惰な読者で、研究のような難しいことは考えず、専ら楽しみとして読んでいます。
     こちらの知らないことについては、はあ、そうなんですか、と思いながら読みますが、観たもの、知っていることについては、いやあ、本当にそうですねえ、とか、あ、それはちょっと違うんですよ、とか。あまり意識してはいませんでしたが、考えて見れば、こちらにとっては通った中学・高校の遠い先輩ですから、何処か気安いところがあるのかも知れません (厚かましい話です)。殊に最近は映画、美術、音楽について、架空の会話を楽しむことが増えました。
     瑣末な伝記的事実よりも (それは誰でも、まあ大して変わらない)、例えば一枚の絵画に、一晩の音楽に、その人が何を感じ、何を考えるか、そうした反応に (その反応は人によって違う、謂わばそれが知性の働き、精神の運動でしょう)、その人の個性はよく現われるだろうと思います。
     昔に書かれたものには、さすがに古いと思われる面もあって、例えば映画批評について、「本来映画批評というのは観客に指針を与えることを目的としているから」とするのは、映画批評がまだ批評として独立しておらず、啓蒙的な役割を担っていた時代の名残りだろうと思います (「映画の限界と映画批評の限界」(1956) 全集 14 巻 p.197 上段)。
     しかし美術、音楽についての評価と感想は、私の考える限り、いま読んでも実に適確と思われることが多く、さまざまな意味で制約の多かった時代に、よくこれだけのことを、と思います。恐らく『ゴーギャンの世界』が典型でしょうが、大変な勉強をされたのだろうと思います。
     最近興味があって、絵画についてのエッセイ・随筆を、まとめられた本ではなく画家や時代で、謂わば本を横断して読んでいたものですから、改めて福永さんの好みや捉え方の傾向についても考えました。時代や場所はかなりの範囲に及びますが、通して読めば、やはり厚みに違いはあります。例えばフランスを中心とする近代絵画に厚く、ベルギー・オランダ、また 17 世紀に薄い。象徴主義に厚く、超現実主義に軽く触れて、古典主義には薄い。西洋絵画、次いで日本画に厚く、唐宋の山水画に薄い。論じたかった作品は、まだ多くあったはずです。
     それで、これは読者の特権でしょうが、絵画についての文を集め、組み換えて、架空の「美術論集」を編むことを、空想して楽しむことがあります (実は最近、小さな詩集を作る手伝いをして、味をしめました)。こういう構成はどうでしょう、とか、この画家については、この文を採りましょう、とか、この図版を色刷りで入れましょう、とか。私家版・特装版も必要ですよね、山崎さんに持ち掛けたら、僕はそういうの作らないって、あっさり却下されまして、とか。
     随筆・エッセイを読む楽しみは、結局のところ、作者との附き合い、その精神と感性に附き合うことの、楽しみに尽きるように思います。
 ・Miさん:「年報 福永武彦の世界」第4号(2017.3)の「資料解題①」に関して。
  •  上記の冊子を先日お贈りいただいたので、まず冒頭掲載の「『死の島』目次案」を楽しみつつ眺めました。カラー版なので色違いの字使いも明瞭で有用な画像です。
     「見慣れた福永の字に間違いない、グリーンペンや色鉛筆使用も、楽しみつつこの目次を作成したことを示してる。1枚目の右上の<上巻 約806枚、下巻 768枚 1574枚 画像参照>は、400字詰の枚数計算だろう。全体の構成は大略単行本と違わないし、まあ「文芸」連載後、単行本刊行(1971.9)直前に記されたものに違いない」とスグにわかりました。


  •  ところが「資料解題①」では、違う意見が記されています。
     「いつ書かれたものなのか確証がないが」「「『死の島』の連載を翌年から開始することになる一九六五年、または書き下ろし小説として執筆しようとした一九六二年に成立したものではないかと推測する」とあります。なんとも不可思議な解題です。
     いつ書かれたかは、上記の通りほぼ明確です。改めて理由を列挙してみましょう。
    ①<上巻 約806枚、下巻 768枚 1574枚>の1枚目右上の記載(画像参照)。
    ②「文芸」連載時、その第12回(1967.1)の「作者自身による幕間の口上」には「この小説がほぼ中間に達した点で、作者は新しい読者のために(また今迄附き合って下さった忍耐強い読者の記憶を整理するために)作品のこれまでの梗概を説明し(以下略)」とあること。
    ③「文芸」連載時、その第22回(1968.1)の「作者自身による幕間の口上」に「一年ほど前の新年号で作者は同じような口上を述べて、その中に「この小説がほぼ中間に達した点で」と書いた。それが正確ならもう終ってもいい筈なのだが(以下略)」とあること。
    ②、③の「口上」は<「死の島」前半連載中には、全体の構成が固まっていなかった>ことを端的に示すものでしょう。②の1967年1月号、つまり連載第12回で全体の「ほぼ中間に達した」のなら、全体は24回構想となりますが、③の1968年1月号、連載第22回で「それが正確ならもう終ってもいい筈なのだが」と福永自ら記しているところからも、その24回構想が崩れてしまった(=さらに延びている)ことを明らかに示しています。1968年の段階でも、全体の構成は揺れていることが②、③よりわかります。そして実際は、全56回の連載となったことは後存知のとおり。
     ところが「解題①」によると、連載以前の1965年、或いは1962年の段階で全体の構成がほぼ出来ていたことになります。
     実は①以外にも、この目次一覧が1965年や1962年に書かれる筈のない「決定的な証拠」がこの目次には記されているのですが、ここで挙げるのは控えます。ただ、私は、書かれた字体ソノモノを見て「1960年代後半以降に書かれた字であること(=60年代半ば以前ではないこと)」がわかります。

     解題筆者によると、福永は『死の島』執筆以前に全体の構成を、ほぼ現行と大差はない程度(=「若干の変更」と言う)に決定していた如くですが、しかし上記②・③のことは「初出誌を確認する」という初歩的手続きをしていれば、当然気付く点ですし、既に「福永武彦研究 第9号」(2013)所収の「小説『死の島』本文主要異同表」に、私が記しておいたことでもあります。
    もちろん、そのような探索以前に、最初に記したごとく、①が決定打でしょう。概略であれ、枚数計算は「作品が書かれた後」にしか出来ません。

     一見些細な点を指摘しているようですが、しかし、この「解題①」を読んで判明するのは、この目次の執筆時期の誤謬ばかりではありません。むしろ問題点は、長篇『死の島』の成立過程(全体の構成がいつごろ現行の形に定まったのか)に対して解題筆者がまったく誤った認識を持っているということであり、その原因のひとつが「初出誌をキチンと確認していない」という点にこそあります。
     私は前回3月例会報告文に於て次のように書きました。「<福永の書いた、各版の本文ソノモノ>を、ろくに対照・検討もせず、決定版本文のほかには、せいぜい初出文にあたるくらいでお茶を濁している(註 今回はそれもしていない)。<本文に大きな違いはない。いちいち対照しても意味がない>と先行独断し、杜撰な本文像を保持したまま「論考」(註 今回は「解題」)を仕上げ、研究と称している。私は、そのような現状を遺憾とする者である。」「既出論考の「杜撰な点」を具体的に指摘することによって、現状を少しずつでもあるべき方向に動かすことに、意を固めている。これから、例会を通して、ひとつひとつ、上記の観点より批判的検討を行っていきたい。」

     お贈りいただいた冊子のお礼の意味を込めて、今回はその批判的検討の第一弾として「解題①」を採り上げました。これからも「現状を少しずつでもあるべき方向に動かす」ために、既出論考の杜撰な点をドシドシ指摘して行く所存です。 
 ・Haさん:『遠くのこだま』について  
  •  第一随筆集『別れの歌』が「堅固なひとつの世界を構成している作品集です」という、第153回例会報告(2015年7月)のMiさんのことば、また『別れの歌』の後記の「時間が主役を演じるように全体を按排し」ということばを参考にして、第二随筆集『遠くのこだま』の世界はどういうものであるかを考えながら読んで見た。
     
    1.『遠くのこだま』
    ・8つの大項目に分かれており、そのうち5つの大項目が芸術(絵画と音楽(オペラを含む)と映画)に関するもの(分類Aとする)
    で、全頁の約半分を占める(眼・耳、四つの展覧会、四枚の絵、四つの映画、四つの音楽)。
    ・残りの半分は大学教授、小説家としての仕事以外の福永の日常と人生論ふうの感想(分類Bとする)を記述している(旅、心、日常茶飯)。

    2.芸術
    (1)・辞書の定義:「他人と分かち合えるような美的物体,環境,経験を作り出す人間の創造活動,あるいはその活動による成果をいう。」(ブリタニカ国際大百科事典電子版)
    ・分かりにくいので、私なりの定義を以下に示した。:
    芸術(品):視覚あるいは聴覚を通じて感じることのできる美によって、人の心(魂)にプラスの影響(楽しみ、喜び)を与える活動(もの)。
      (2)具体例(上記辞書による):文学、視覚芸術(絵画、映画、彫刻)、音楽(作曲)、舞台芸術(演劇、舞踏、音楽)、建築、装飾芸術(服飾、装身具、家具)、グラフィック・デザイン(広告、ポスター)(下線:『遠くのこだま』で取り上げているもの)
      (3)制作者と鑑賞者(芸術家と享受者) ⇒ 福永も含め、大抵の人間は芸術の鑑賞者になる。鑑賞者としての見解が『遠くのこだま』に述べられている。
      (4)オリジナルと複製(再生):眼(絵画:展覧会と画集)、耳(音楽:演奏会とCD)、眼と耳(映画:映画館とDVD)、眼と耳(舞台芸術(演劇・オペラ・バレエ):実演とDVD)

  • 3.『遠くのこだま』で取り上げられている芸術
     四つの音楽(『レコード芸術』に発表したもの)と眼・耳の一部の作品を除いて、福永はできるだけオリジナルの芸術を鑑賞した後にその見解を述べようとしている。

    4.『遠くのこだま』の中で印象に残った随筆と福永の言葉は以下の通り。:
    (分類A)
    〇「ギュスタヴ・モローと神話の女」
    ・「私は小さな時分から神話というものに興味を持っていた。」
    ・「私は一般に神話というものを好み、従って神話の画家とも言うべきギュスタヴ・モローを好んでいる。しかしまた、モローのような芸術家の生き方に、延いてはモローの描いたような女たちにも、関心があることは言うまでもない。」
    〇「音楽の魔術」
    音楽を聴く理由:「わたしの魂に水を撒いてやるだけである。」福永が戦後に結核のためサナトリウムに入所し、当時は結核の治療法としては「絶対安静にまさる療法はなかった。そこで私たち患者の唯一の愉しみは、レシーヴァで聞く枕もとのラジオにあり、」ラジオで音楽を真剣に貪り聴いていたという。このことに福永の音楽に対する思い入れが感じられる。
    (分類B)
    〇「私と外国語」:「(外国語を習うのは)結局は無駄である。しかし趣味としては高尚だし、損をしたとは思わない。」 ユーモアが好ましい。同感。
    〇「たかが金魚」:どうでもよい内容だが、何となく読まされてしまう。ほほえましい。

    5.『遠くのこだま』の世界
    ・ここに書かれていることが大学での仕事と小説を書くこと以外の福永武彦の主な生活ではないかと思われる。
    ・多くの随意筆で、最初の文章で明確にその随筆のテーマを提示されていて、その書き方が心地よい。
    ・エッセイと随筆の区別
    福永の小説、エッセイは集中して読まないと頭にはいらない、読むと肩が凝ることがあるが、福永の随筆は短いものが多く、気楽に読める。
    ・福永の随筆の中の虚構と事実の区別
    Miさんが第153回例会報告で書いている福永随筆の特質:「福永の随筆は、時に(意識的な)虚構が混在しており、(中略)、単に福永の人となりを知るための材料では決してなく、内容と文体が緊密にむすびつき、ひとつの世界を構成する(詩や小説と並ぶ)「独立したひとつの作品」である」ことをまだ十分に理解できていない(どこが虚構であるのかわからないため)。例会で三坂さんより、虚構の例としては時期,人名等が事実そのままではないことがあるという補足説明があり、幾分理解できた。
    ・福永武彦の友人たちの文章に基づく福永のイメージは《気難しい人、怖い人、良くしゃべる人》だが、このイメージと福永の随筆に基づくそれが一致しないことが、福永の随筆に虚構が含まれることを暗示するのかもしれない。
【当日配付資料】(総会配布文も含む)
 ①「2017年度会計報告書」A4 1枚
 ②「2018年度例会内容・特別企画(案)」A4 1枚
 ③「2018年度軽井沢高原文庫 夏季展オープニングイベント 福永武彦ミステリー劇場 名探偵・伊丹英典@睡鳩荘」A4 1枚
 ④「第二随筆集『遠くのこだま』書誌」A4 1枚
 ⑤「2003年9月14日 湖月館 福永武彦歌碑除幕式」A4 2枚に画像8点。
 ⑥「『遠くのこだま』についてのメモ」A3 1枚
 ①Sa、②~⑤Mi、⑥Ha
  
【回覧資料】
 ①福永武彦自筆手帳「金沢・能登旅行メモ 1964年」複写より2頁分。
  *「湖月館」の人々、そこでの出来事が絵入りで細かく記されている。
 ②『完全犯罪 加田伶太郎全集』(東京創元社 創元推理文庫 2018.4)
 ③「豊島区立 鈴木信太郎記念館」パンフレット3種(会の資料とする)
 ①~③Mi

 

第169回例会
 日時:2018年3月25日(日) 13時00分~17時
 場所:川崎市平和館第2会議室
 参加:8名
   
【例会内容】
 ①福永武彦関連企画(展覧会)・出版企画の報告
 ②福永識語入り署名本『ボオドレエルの世界』(源高根氏旧蔵 矢代書店 1947)と、戦前に福永訳「マルドロールの歌」が連載された稀覯雑誌「冬夏」(第1号~第6号)の複写を製本した合冊が回覧されました。
 ③長篇『忘却の河』の集団討論を約3時間行いました。
  
【例会での発言要旨・感想】順不同
   
 ・Haさん:『忘却の河』について(承前)―「心の中を流れる河」/『夢の輪』と短編「忘却の河」
       /長編『忘却の河』及び「カロンの艀」/『死の島』―
  • (ア)1月の第168回例会では「忘却の河」と長編『忘却の河』を比較検討しました。今回の第169回例会では短編及びその短編と同一の人物を登場人物とした長編小説の例として、「心の中を流れる河」/『夢の輪』と短編「忘却の河」/長編『忘却の河』及び「カロンの艀」/『死の島』の3組を取りあげ、視点人物, その表記, 主題等を検討しました。また、渡邊さんが第168回例会報告で提起された説(「一人物一主題」が長編『忘却の河』が成立し得た決定的な要因ではないか)に触発されて、『忘却の河』と『死の島』が完結したのに、なぜ『夢の輪』が未完に終わったかについて考察しました。
    (イ)『夢の輪』と『忘却の河』と『死の島』を三つの観点(①視点人物数/章、②位相、③主題数/章)から比較し、以下の結論を得ました。
    (A)福永の長編小説成立のための条件:
     福永の場合、『忘却の河』及びそれ以降の長編小説(今までのところ『死の島』でしか確認していませんが)が完成されるには次の三つの条件が必要であるように思われます。:
     条件1:「一章一視点人物」であること。
     条件2:主人公が存在し、主人公を中心に位相を考えることが出来ること(小説を構造化出来ること)。
     条件3:作者と異なる、一人称で表記される視点人物が導入されること。
    (B)『夢の輪』が未完に終わった理由に関する結論:
    ・『夢の輪』は、上記の条件1は満足していますが、条件2と条件3を満たしていないために未完に終わったと思われます。
    ・福永において長編小説が成立するための条件は、以下の表の条件1,条件2,条件3が〇(該当)となること。

    (ウ)「位相」について
     原善さんが 福永武彦「告別」の構造――響きあう声/告げあう別れ(文藝空間第10号、1996年)で「告別」と『死の島』に関して述べられた位相を、『忘却の河』でも考えましたが、例会時に「位相」ということが分かりにくいという意見が出ました。
     例えば『忘却の河』の場合では、位相(ことばの現れ方の違い)のイメージとして、三角形(あるいはピラミッド)の最上層にA、中間層にB、最下層にCがあり、A,B,Cが同一平面(レベル)にない状態を考えたらどうでしょうか。


     A = 現在時の藤代パート(〈私〉を主語とする現在形))
     B = 近過去の藤代パート(〈私〉を主語とする過去形)
     C =〈私〉(藤代)の大過去である〈彼〉パート
 ・Kiさん:感想 福永作品の中でもっとも好きな作品。惹かれる要素として以下が挙げられる。
  • ・福永作品には稀有な明るい結末(藤代と娘たちの和解、看護婦を死なせた罪悪感の整理、妻の死に伴い妻への愛の自覚が生まれる)
    ・個人的に好きな式子内親王の歌を効果的に配した「夢の通い路」の章
    ・キリスト教でも仏教でもない罪の意識と、魂のふるさととしての「妣の国」による罪の寛解
    ・それぞれ個性的な女性像の描写
    ・わらべ唄を絡めた謎の解決
 ・Miさん:福永武彦生誕100年に当っての誓い。  
  •  自らの文学研究として、福永の ①「伝記的・年譜的な事実追及」と同時に、②残された「作品の像(本文)をできる限り精確に把握すること」を課して、約30年がすぎた。そう決意したのは、新潮社版全集が刊行されていた時期である。
     ①の重要性、その意義に関しては、ほぼ共通の了解事項となっている。しかし、②に関しては、いまだ共通了解の見出せない状況が続いている。一人相撲が続いている感じだ。
     初出誌、初刊本から全集版までの各版の本文を、徹底的に一語一語、ソノママ読み取ることの意義が、いまだ理解されていない。文学研究といえば、文学理論による裁断めいた論考にしろ、或いは比較文学という名の鳥瞰図的見取り図風の論考にしろ、多くは「福永の書いた、各版の本文ソノモノ」を、ろくに対照・検討もせず、決定版本文のほかには、せいぜい初出文にあたるくらいでお茶を濁している。
     「本文に大きな違いはない。いちいち対照しても意味がない」と、先行独断し、杜撰な本文像を保持したまま「論考」を仕上げ、研究と称している。
     私は、そのような現状を、遺憾とする者である。
     そうした状況を、今までは「処置なし、ほっとけ」と思っていた。自らのなすべきことを淡々とやるのみ、と。
     が、福永武彦生誕100年に当る今年度より、自らの役割をより高い次元で認識し、この現状に公然と異を唱え、既出論考の「杜撰な点」を具体的に指摘することによって、現状を少しずつでもあるべき方向に動かすことに、意を固めている。
     これから、例会を通して、ひとつひとつ、上記の観点より批判的検討を行っていきたい。乞う、ご期待。
     例会内容追記: Maさんは、ご自身が福島出身ということもあり、『忘却の河』中の子守唄、わらべ歌を、父と娘の記憶をむすぶ重要なファクターとして注目し、歌詞だけでなく耳で聴きたいという思いからネット上を探索され、その音源を持参されました。おかげで、当日は「ほらねろ、ねんねろ ホラねろやあや」の歌を、皆で2度聴くことができました。これは、耳から作品を捉える、新しい試みです。拍手。
【当日配付資料】
  • ①『忘却の河』参考資料一覧 福永自身のコメント/同時代評/解説文/論文一覧 A4表裏5枚(10頁)。前回分の増補版。一覧をダウンロードできます。
    ②『忘却の河』についてメモ(承前)―『心の中を流れる河』/『夢の輪』と短篇「忘却の河」及び「カロンの艀」/『死の島』発表資料 A3 4枚(7頁)、別に「『死の島』の視点人物とその表記(詳細)」 A3 1枚。
    ③『忘却の河』をちこち(近況報告)A4 1枚。
    ④大林宣彦監督作品「花筐」の宣伝チラシ。
    ⑤「詩集に添へて」(駒井哲郎銅版画入『福永武彦詩集』麦書房 1966.6に別刷で添付されている小冊子)の複写。A4 6枚。
    ⑥福永武彦自筆草稿「ゴシップ」(仮題)の複写。A4 1枚。
     * 現新潮社版、現全集に未収録の短文。
    ⑦軽井沢高原文庫 2018展覧会&イベントスケジュール。A4 1枚。

     ①:Ki、②:Ha、③・④:Ma、⑤:A、⑥・⑦:Mi
【回覧資料】
  • ①『ボオドレエルの世界』(矢代書店 1947.10) ペン識語署名入り。
     *「この本は誤り多くして著者自ら好まざる旧作也 昭和四十年十一月六日 福永武彦」
    ②雑誌「冬夏」(十字屋書店 1940)第1号~第6号の複写を製本した冊子。
     *福永関連の稀覯資料のひとつ。「マルドオロルの歌」の翻訳が掲載されている。
    ③『文豪文士が愛した映画たち』(ちくま文庫 2018.1)
     *福永の「「怒りの葡萄」とアメリカ的楽天主義」、「映画の限界と映画批評の限界」の2篇が収録されている。

     
    ①・②:A、③:Mi

第168回例会
 日時:2018年1月28日(日) 13時00分~17時
 場所:川崎市平和館第2会議室
 参加:8名(内、初参加2名)
   
【例会内容】
  •  福永武彦生誕100年に当る今年、幾つかの文学館で、関連の企画が予定されています。① その概要を簡単にご報告し、②昨年の12月に古書市場(業者市 一般には未公開)に出現した源高根旧蔵の福永著訳書や自筆資料の内容に関して、目録を回覧しつつご報告、そして、③長篇『忘却の河』の集団討論を約3時間行いました。
【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
  
 ・Haさん:『忘却の河』について― 短編「忘却の河」 と長編『忘却の河』―
  • 二章以下がないものとして、初出の一章「忘却の河」のみで、小説の構成, 主題等を検討し、次に長編『忘却の河』のそれらと比較した。
    1.短編「忘却の河」と長編『忘却の河』(1964年5月刊)
    (1-1)初出(執筆時期は源 高根「編年体・評伝福永武彦」1980年による。)
    一章 忘却の河  『文藝』1963年3月(1962年秋-冬に執筆)
    二章 煙塵    『文學界』1963年8月(1963年6月に執筆)
    三章 舞台    『婦人之友』1963年9月(1963年7月に執筆)
    四章 夢の通い路 『小説中央公論』1963年12月(1963年7-8月に執筆)
    五章 硝子の城  『群像』1963年11月(1963年9月に執筆)
    六章 喪中の人  『小説新潮』1963年12月(1963年9-10月に執筆)
    七章 賽の河原  『文藝』1963年12月(1963年10月に執筆)
    ○「これ(初出の一章「忘却の河」)はこれで独立した短編である。しかし書き上げてからこの作品のノオト*やら資料やらを見ているうちに、どうもこの一作だけでは惜しいような気がして来た。」(全小説第七巻 序1973年) *創作ノートAとする。
    ⇒福永のこの言葉と一章執筆の4-5ヶ月後に二章が書かれ、以下七章までほぼ毎月一章ずつ書かれていることにより、一章「忘却の河」は独立した短編として書かれたことは確かだと思われる。独立した短編として書かれた一章「忘却の河」と七つの章からなる長編『忘却の河』の内容・読後感を比較した。

    (1-2)短編「忘却の河」
    (1-2-1)構成・技法
    ・文体:「会話のカギがないため会話と意識描写との区別がつかない。」(「忘却の河」創作ノート1977年:創作ノートBとする。)
    ・構成:主人公は藤代。藤代の過去(彼)で述べられた看護婦との恋の話と台風の日に助けた女との話を経糸している。
    ○「告別」(初出1962/1)について、原善「福永武彦「告別」の構造、文藝空間第10号、1996年」で用いられた位相を、短編「忘却の河」(初出1963/3)に適用すると以下のようになると思われる。
    A = 現在時の〈私〉パート(手記を書く私の物語)
    B = 近過去の〈私〉パート(台風の時に助けた女との物語)
    C =〈私〉の大過去である〈彼〉パート(看護婦との物語、戦友との物語)
    D = Aの中の〈私〉の内的独白  E = Bの中の〈私〉の内的独白   F = Cの中の〈彼〉の内的独白
    詳細は省略するが、上記の位相に分類しながら読むと、内容が理解しやすくなると思われる。

    (1-3)長編『忘却の河』
    (1-3-1)構成・技法
    ・視点人物(主人公)

    ・章ごとに視点人物を替えて叙述している。これは『夢の輪』(初出1960/10~1963/5)でも用いられた技法。
    ・そのため、章と次の章で話が直接つながらなくても不自然ではない。
    ・一章、四章、七章:作者が表面に出てこない(語り手が存在しない)。
    二章、三章、五章、六章:作者が視点人物を描写している(語り手が存在する)。
    ・視点人物が作者の分身としてではなく、すべて独立した個人として描かれている(ポリフォニック(多声音楽的)な物語)。
    ・文体:①四章でのひらがなの多用、文章・段落が長い。(高木徹:福永武彦における表現の特質 ―『忘却の河』の基礎的調査より ― 1999年 名古屋近代文学研究9号)
    ②短編「忘却の河」と同じく会話のカギはなし。

    (1-3-2)初出本文と元版本文の主な相違点(仮名遣いと漢字字体を除く)(以下では初出も新仮名遣いと新漢字で表記した。)
    各章は短編として独立しているか、長編にまとめる際に書き換え・追加をしているか、そのままの形で長編になっているかを確認した。その結果、六章の最後の段落(以下の六章①)を除いて、各章の最初の段落と最後の段落が初出と元版で同じであった。また、初出本文と元版本文の重要な相違点と変更による効果は以下の通り。

    三章 なし (①母親は七、八年来、脊髄の病気で倒れていて、(初出194頁) → 初出と同じ(元版119頁))
    ⇒この部分を元版で残すことにより、ゆきの病気が脊髄の病気であることが長編『忘却の河』ではっきりする。
    四章  ①「わたしのからだに触れようとしなかった」(初出38頁)の次に、元版では「しかしわたしたちにはもうためらっているだけの時間がなかった」が追加されている。(元版169頁)
    ⇒呉とゆきの間に肉体関係があっただろうことがより確実に推定される。

    六章   ①その代り涙がぽたぽたと垂れた。窓からの明るい日射しの中に、(初出104頁) →  その代り涙がぽたぽたと垂れた。あたしは何処かへ行ってしまいたい、ママ、あたしは何処か遠くへ行ってしまいたい、と彼女は心のなかで叫んでいた。窓からの明るい日射しの中に、(元版225頁)
    ⇒香代子のゆきへの思いが強調される。また、七章で香代子がゆきのお墓参りに行くとことの伏線となる。

    七章 ①「自分が生きていることの証とするのではないだろうか。」(初出32頁)の次に以下が追加:
        「寒いかぜの吹き抜けるプラットフォームに ~ 青年に向けて訴えていた。」(元版266頁17行目~269頁1行目)
    ⇒・昔の看護婦の恋人の言葉「わたしたちはみんな死んだら何処に行くんでしょうね。」(元版268頁4行目)は、この恋人がこの時点で自殺を考えていたのではないかということを暗示する。
    ・「僕は決して君のことを忘れないよ、と彼は言った。」(元版268頁11行目)は元版269頁10行目の「僕は決して忘れないよ、と彼は言った。」に呼応している。
    ・追加部分の直後の「でもあなたはわたしのことを決して忘れないわね。」(元版269頁8行目)は元版269頁11行目の「僕は決して忘れないよ、と私は言った。」に呼応している。

    ②「どうしてわたしがその子守唄を知っているんでしょうね。」(初出33頁)の次の文章から「A子が先に東京に帰ったあと、」(初出33頁)までの文章が大きく書き換えられている。(元版272頁2行目~273頁10行目)
    ⇒藤代と美佐子との和解のやり取りがより自然に感じられる。

    (1-4)主題
    (1-4-1)短編「忘却の河」:・或る女の変身の物語(昔の看護婦の恋人と台風の晩に助けた女)(「忘却の河」創作ノート 一章1977年)  ・恋人を裏切った罪
    (1-4-2)長編『忘却の河』:・「人は古里を忘れることは出来ない、人は古里に帰ることは出来ない。」(全小説第七巻 序1973年、「忘却の河」創作ノート 二章煙塵のノートに連作の全体的主題として記載1977年)
    2.考察
    (2-1)『忘却の河』二章から七章の創作ノートはいつ書かれたか?:
    一章の「忘却の河」が書かれた後と思われる。その根拠は一章の創作ノートではなく、二章の創作ノートに『忘却の河』連作の構想と連作の全体的主題が記載されているため。1977年に『国文学 解釈と鑑賞』に発表された「忘却の河」創作ノオト(創作ノートB)は創作オートAとは別のものと思われる(源 高根 編年体:評伝福永武彦1980年)。創作ノートBは長編『忘却の河』を書くために、創作ノートAを再整理したものと思われる。より正確には創作ノートAと創作ノートBの間に創作ノートMというものがあり、創作ノートMを短縮・整理したものが創作ノートBであると推定される。

    (2-2)短編「忘却の河」にはなく、長編『忘却の河』で叙述されている事項:
    ・藤代、ゆき、美佐子、香代子はそれぞれのふるさとを求めている。
    ・各章の主人公が何を考えているか、主人公の視点から多面的描写がなされている。
    ・家族全員がそれぞれ何を考えているか、何に悩んでいるかという内面が描写されている。
    ・特に妻ゆきの内面が詳細に叙述されている。(四章)
    ・藤代と妻・娘たちとの和解が叙述されている。(七章)
 ・Waさん:福永武彦研究会 第168 回例会によせて
  •  内容を検討する前に、新しい発見という訣ではありませんが、先ず『忘却の河』の成立の背景、殊に何故この作品が成立し得たかたということを、整理しておきたいと思います。

     周知の通り、作者には長篇を書こうと思いながら書けない時期が長く続きました。中期の作品の多くは、その試行錯誤の産物です。例えば「退屈な少年」は、既に見た通り、多くの作中人物を配して複雑な構成を持つ、長篇の模型のような作品です。最初の章で少年がひとつの観念を提示し、その観念に基づく少年の行動の引き起こす結果が続く章で展開される。これをひと組 (一単位) として同じ構成を持つ組が複数回繰り返される。そこにさまざまな主題が提示される訣ですが、分量の制約か構成の複雑さのためか、それぞれの主題は、必ずしも十分に展開されているようには見えません。最後の場面に「運命」を持ち出して話をまとめるものの、やや唐突の感は否めないように思います。恐らく作者自身も、この作品に満足してはいなかったのではないか、仮に何らかの手応えを感じていたのなら、次の長篇への準備としての「告別」は書かれなかったのではないか、という気さえします。
     その「告別」もまた、構成の粗さと主題の未消化の目立つ作品のように思います。そこでは語り手の「私」と死んだ友人の「彼」とを二つの極として、その間にさまざまな主題が織り込まれますが、「マーラー」の扱いにしても「彼」の留学時の恋人の鴎外的主題にしても、扱いが表面的で、深く展開されている訣ではない。「仮面」の主題にしても、別に同題の詩篇のあること、同時期に『ゴーギャンの世界』のあることを考えると、此処での扱いは如何にも不十分です。それを象徴主義的、つまり断定を避けて示唆、暗示に留めるとか、想像力に拠る読者の参加とかいえば尤もらしくも聞こえますが、どうも何か上手く行っていないという印象は拭い難い。
     では何が上手く行かなかったのか。逆に『忘却の河』では何が、何故上手く行ったのか。書きたい主題は多くあったはずです。形式と方法についても、さまざまな構想や工夫があったに違いない。では、人物についてはどうか。
    多くの人物の繰り返し現われる小説、前の章で脇役だった人物が続く章で主役になるような、そうした小説は、作者の構想のひとつにあっただろうと思います。実際「退屈な少年」がそうですし、遡れば初期には『独身者』のような作品もあります。
     しかし、例えば「退屈な少年」では、父親の再婚の主題―「エゴイズム」への示唆を含む幾らか漱石的な主題―が、父親と家庭教師の娘との間に展開され、そこに息子たちの、兄と弟の心情が絡む。人物が多く、それぞれが主役の面を持つので、話は複雑になります。一方「告別」では主要な人物は「私」と「彼」の二人ですが、それぞれの上に複数の主題が、未消化なまま盛られているように見えます。
     そこで、少し乱暴ですが、仮にこれを前者は、ひとつの主題に複数の主要な人物が絡んだために生じた無理、後者は、ひとりの人物に複数の主題を設定したことによる無理、と考えてみては、どうか。そうした視点から『忘却の河』を読み返せば、例えば最初の章に語られる「私」の過去は、「私」の主題として完結していて、看護師の娘は「遠くから」描かれるものの、後の章で主役として現われる訣ではないという意味で、主要な作中人物として設定されている訣ではありません。そこが「退屈な少年」の父親と家庭教師の娘との違いで、これは、最初の章が本来独立した短篇として書かれたものであれば、当然のことです。続く各章についても、基本的には同じ。すなわち各章で、ひとりの人物はひとつの主題を担う。謂わば「一人物一主題」。短篇連作として長篇『忘却の河』の成立し得た決定的な要因は、此処に在るのではないか、と考えています。

     以上は、ひとつの推測、それも結果から遡ってする説明に過ぎません。しかし従来の「長く長篇が書けなかったが、短篇連作にしてみたら書けた」といった認識よりは、幾らか理解を深めるもののように思います。
     最初の短篇を書いてみて手応えを感じたということであれば、作者自身、こうしたことを意識していた訣ではないでしょうが、ですから、書いたものが残っているとは思えませんが、現在整理の進められている手帖や草稿の中に何らかの手掛りが発見出来れば、面白いだろうと思います。
     反論、批判を含めて、忌憚のないご意見やご指摘をいただければ幸いです。
 ・Kiさん:『忘却の河』感想
  • ・主人公の藤代は福永作品に特徴的な芸術志向の人物ではなく、従って彼が苦しんでいる問題が芸術上の観念的なものでないため感情移入しやすい。また福永作品としては例外的に結末が明るくなっているのも好ましいが、全体的に叙情に流れているという感じは否めない。
    ・当時としては斬新な手法(章ごとに語り手が変わる、会話の「 」がなく、一人称「私」と三人称「彼」が入れ替わる..etc.)も小説の流れと調和しているように感じられ、違和感がない。
    ・主題は、「愛の不可能性」と「罪の意識」ということだろう。愛の不可能性については、可能性があるとすれば一方の死が前提となるということが示唆されている。藤代の自殺した恋人に対する愛、妻の戦没学生に対する愛はゆらがない。「罪の意識」という点では、宗教とは無縁の藤代にとっての罪の意識とはどういうものなのか、また、死にゆく妻を見守りながら抱いた罪の意識が愛ではないかという藤代の認識について考えてみたい。
 ・Miさん:<『忘却の河』創作ノオト>の概略報告
  • ア.下記、源高根旧蔵資料中に含まれる。
    イ.200字詰原稿用紙に、ブルーブラックの細字ペンで横書きに記されている。字は極めて小さい。
    ウ.表紙に、横にwork in progressと2行、縦に「ノオト切抜在中 連作「忘却の河」」とあり、その下に各章の題が明記されている(画像)。全体で11枚(表紙含まず)。第1章、第4章、第7章は2枚、他章は各1枚。他に「全体的plan」1枚。
    エ.第1章を除き、他は全て紀伊國屋製原稿用紙(200字詰 罫は薄いオレンジ)に記されている。ただし、第2章と第7章2枚目のみ、同じ紀伊國製でも罫は薄緑色。
    オ.第1章「忘却の河」1枚目のみ、新潮社の200字詰原稿用紙(罫は薄緑)に記されている。2枚目は同じ薄緑色だが、製造元の明記なし。また、この2枚のみインクの色が黒に近い。1枚目右端には、執筆年月日(1962年10月24日~1963年1月14日。途中、12月17日から20日にかけて書き直し45枚。63年1月初旬、京都にて執筆)が記されている。
    カ.当該原稿は、福永自身により「国文学 解釈と鑑賞」(1977.7)に、ほぼソノママ掲載されている。ただし、4章「夢の通い路」の2枚目(式子内親王の歌を列挙してある)、第7章「賽の河原」の2枚目(部屋、状況、病後、prologue,epilogueの構想)が省略されている。また、別に「全体的plan」と題する1枚(紀伊國屋製原稿用紙 200字詰 罫は薄いオレンジ)があり、登場人物の名前、年齢が時間軸と共に記され、連載された雑誌、題、枚数が明記されている。これは雑誌連載執筆後に(本として刊行前に)記されたものだろう。
    キ.各章とも、用紙右端に執筆年月日と執筆枚数(200字詰)が明記されている(雑誌掲載ではカット)。
    ク.第5章と第6章には、別の題が案として記されている。第5章は「氷の中の葉」/「一枚の葉」、第6章は「喪の春」。


  • 【感想】
     源高根は「3「解釈と鑑賞」の五二年七月号に「『忘却の河』創作ノオト」が発表されているが、短篇「忘却の河」を書き上げてからなお作者が見ていたノオトや資料というのは、これとは別のものである。右の「『忘却の河』創作ノオト」は、発表するために整理され圧縮された上で清書し直されており、作品が書かれる以前にあったノオトではない。」(『編年体評伝福永武彦』昭和38年の項)と記しているが、今回紹介した創作ノートは、どう見ても清書された字体ではなく、また上記カで記したように、掲載文には省略もあるので、源氏の言う「これとは別のもの」「作品が書かれる以前にあった」ノート、Haさんの言う「創作ノートM」に当るものと推定される。
    その場合、上記オから判断して、Haさん発表の2-1「考察」に於ける「創作ノートA」と「創作ノートM」の第1章は、同一のモノである可能性が高い。
【当日配付資料】
  • ①『忘却の河』参考資料一覧(途中稿) 福永自身のコメント/同時代評/解説文/論文一覧 A4表裏3枚
    ②『忘却の河』について―短篇「忘却の河」と長篇『忘却の河』発表資料 A3 3枚
    ③初出誌「文藝」(1963.12)より「賽の河原」本文末尾。 A3 1枚
    *特に末尾近く、元版本文では初出文に大幅な手入れが随所にあることが判明する。
    ④ 「朝日新聞」 1964年7月6日より「著者と一時間」欄、「愛が不在の現代 まだ残る戦争のキズ」(福永武彦インタヴュー 写真あり)
  •   
     ①Ki、②Ha、③・④Mi

【回覧・閲覧資料】
  • ①6章「喪中の人」自筆創作ノオト複写 200字詰原稿用紙 1枚
    ②7章「賽の河原」自筆創作ノオト複写 
    200詰原稿用紙 2枚
    ・ともに、細字ペンで横書き。「国文学 解釈と鑑賞」(至文堂 1977年7月)掲載の<「忘却の河」創作ノオト>第6章、第7章のオリジナル原稿。
    ・この資料は「源高根旧蔵資料」に含まれていたものである。
    ③ 源高根宛自筆はがき2枚 ァ1963.8.16 源作成の福永年譜に自筆手入れの件など ィ1979.5.10 北里研究所附属病院より「僕は毎日見舞に貰つた花や構内で採つた雑草などを十二色の色鉛筆でスケツチして消閑してゐる」(一部)
    ④ インタヴュー用の「死の島」要点自筆ペン書きメモ(小紙片)
    ⑤ 源高根宛 依頼事を列挙したペン書きメモ(小紙片)
    ⑥ 自筆絵画4葉(水彩で著書『冥府』表紙絵を3案/パステルで抽象画1葉)
    ⑦ 「新興会 創立70周年記念大市会」目録(源高根旧蔵福永関連資料が写真版で掲載。各品の落札価格記入あり)
    ⑧ 2001年9月例会発表資料(「第6章 喪中の人」)
     ①~⑧:Mi



第167回例会
 
日時:2017年11月26日(日) 14時~17時
 場所:川崎市国際交流センター第5会議室
 参加:8名

 【例会内容】
  •  装丁家の田中淑恵さんに「信濃追分「玩草亭」と福永武彦からの五通の絵葉書」という題で、3時間(質疑応答含めて)お話しをいただきました。
     福永からのはがき5通(すべて絵はがき)の文面コピーほかの資料が配付され、また福永と一緒の写真や福永が撮った田中さんの写真(ともに福永自筆の裏書あり)、自筆の地図(成城学園前駅から自宅まで)などの、極貴重な資料が回覧されました。
     例会後、「精養軒ソレイユ」にて懇親会を行いました。この席には、小山正見さん(感泣亭例会・句会主催)にも御参加いただきました。
 【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
  ・Kiさん:【田中淑惠さんの講演について】
  •  福永が亡くなる4年前1975年の夏に、美大の学生だった田中さんが信州旅行の際に玩草亭 に福永を訪ね、その後、福永に乞われて玩草亭、成城の自宅に幾度か訪れ、福永夫妻と接した際のエピソードについて、福永からの葉書や夫妻と一緒の写真などの貴重な資料を引用しながらのお話しを通して、晩年の福永の生活の一端を知ることができ、興味の尽きることがなかった。
     最も印象に残ったのは、初対面の福永に追分の草花の水彩スケッチを見せた際、「これはいいね。僕も描いてみよう」と言い、数日後には福永にとって最初の草花水彩スケッチが生まれたということだった。
     病で臥せり勝ちの晩年の福永にとって、手軽にできた草花の水彩スケッチは大きな慰めとなったに違いなく、福永ファンにとっても当時の福永の心境や身辺のあり様が窺える資料として貴重な「百花譜」誕生の経緯を当事者である田中さんから伺えたことは大きな収穫だった。
     懇親会の席上において、福永に関する極私的なエピソードや、田中さんの敬愛する作家、結城信一についてのお話しも大変興味深かった。
  ・Kuさん:【田中淑恵さんのご発表を拝聴して】
  •  一番印象に残ったのは、村上龍さんのことでした。田中さんによると、福永さんは「力はある」と評価されたそうですが、僕も同意見です。村上龍さんのような小説は、アメリカにもあるそうですが、ただ、日本人では初めてだったのでしょう。
     尊敬する十重田裕一さんは、こう述べられます。
     「谷崎潤一郎・横光利一・川端康成ら往年のモダニストたちが、一時はその製作にまで携わり、そして離れていった映画と、積極的にかかわりながら新しい表現を生み出していこうとする小説家・村上龍からは、これからも目を離すことができない。」(「村上龍・遅れてきたモダニスト」『國文學』學燈社、1997年3月号)
    村上龍は、様々な可能性を持った作家なのでしょう。
     本来であれば、田中さんのお仕事について、そして福永さんとのかかわりについて、もっと紙数を割くべきですが、自分の勉強不足なようで、美しい絵を前にしてもこのような印象しか書けませんでした。
  ・Miさん:【冒頭御挨拶 概略】
  •  当日、田中さんにお話しいただく前に、参加者の集まりが悪いことの弁明を含めた挨拶を行いました。御紹介部分を除いて、概略のみ箇条書きで示しておきます。
  • 1.当会の立ち位置について。愛読者と研究者の自由な集まりであり、拘束はない。
     例)今年開催された東京外国語大学(学生多数参加)と日仏会館(年配者少数参加)での、福永関連研究発表時に於ける、参加者(聴講者)の違い。
  • 2.福永武彦の1974年度の印税収入、教授としての収入は(「文藝手帖 1975」より示す)、現在とは、文学の社会的位置が大きく異なっていた(高かった)ことの証明である。
  • 3.現在、趣味の拡散に伴う文学的趣向の低下と関連して、福永研究に於ては、特に人物・年譜的研究、書誌研究が低調であること。鴎外漱石は言うに及ばず、龍之介、辰雄、賢治、中也、道造、治、由紀夫、春樹などに比しても、福永の年譜的事実討究が等閑に付されたままの状況が続いていること。「それは、50年以前の旧い研究手法」という固定観念から、抜け出せていない面も見逃せない。
  • 4.本文研究にいたっては、ほとんど手を付けられていない現状。
  • 5.その現状に於て、確実な資料に基づいた年譜的事実の精査を積み重ねるべきことと同時に、福永を直接知る方々からの具体的逸話を含めた聞き取りが不可欠であること。福永没後38年、すでに時は限られている。
  • 6.今回の田中さんのお話しは、そのような意味で、大きな意義を持つものであること。
  • 7.田中さんのスケッチを見たことが、福永が草花を描く切っ掛けになったのだろうという点は、Kiさんも書かれている通り、わたしも一番印象に残りました。
     同時に、福永の田中さんと接する際のスタンスに、つまり福永の知人・友人に対する態度に改めて興味を惹かれました。例えば、就職の世話をしようと自ら電話をかけて来て「急がないと間に合わないよ。この出版社が、君には合っているね」と薦めるという点などに(もちろん、学習院以外の学生だからでしょうが)、人間関係を表面的、その場だけに終らせることのできない、謂わば実存的人間関係とでもいうものを志向する、福永の対人関係の一端を窺うことができるように思いました。この態度は、所謂「先生らしい態度」とは、また別個のものだと考えます。 
 【当日配付資料】
  • ①福永武彦自筆絵葉書、白黒複写5枚(田中淑恵宛) A3片面
    ②福永武彦自筆手帳(1975.7.28-8.3)カラー複写、草花スケッチ「野あざみ」カラー複写、田中淑恵スケッチブックより、1975.7.31/8.1の草花写生カラー複写、写真集『しなのおいわけ』(1975)、『おいわけふゆものがたり』(1975)カラー複写 A3片面
    ③田中淑恵日記(1974.8.31/同8.1)白黒複写 A3片面
    ④田中淑恵氏略歴 A4片面
    ⑤「るうぁん 第20号」(誌名「う」に濁点)1冊

    ①~③田中さん、④Mi、⑤Ku

【回覧・閲覧資料】

①福永武彦撮影写真(「Miss Yoshie 3/8 1977 信濃追分 photo by Fukunaga」の自筆裏書あり)、福永武彦・貞子夫人その他と一緒の写真(自筆裏書きあり)
②福永武彦自筆地図(小田急線「成城学園前駅」より自宅まで。ペン)2枚
③田中淑恵スケッチブック大判1冊
④田中淑恵著書『本の夢 小さな夢の本』(芸術新聞社 2015.7)、『私だけの一冊を作る』(文化出版局 2004.7)、『自分で作る小さな本』(文化出版局 2002.4)、『水絵具の村』(新書館)
⑤福永武彦自筆絵画オリジナル 「野あざみ」(1975.8.6)、「きくいも」(1975.9.28)、「八風山(仮)」(本陣宿より 1975.10.29)
⑥福永武彦自筆手帳(1975.1.1~12.31 巻末メモ含)白黒複写 ファイル1冊
①~③田中さん、④~⑥Mi



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