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福永武彦研究会・例会報告(15)

第161回~第166回(2016年11月~2017年9月)


【第166回研究会例会】 2017年9月24日(日)
【第165回研究会例会】 2017年7月23日(日)
2017年度総会第164回研究会例会】 2017年5月28日(日)
【第163回研究会例会】 2017年3月26日(日)
【第162回研究会例会】 2017年1月22日(日)
【第161回研究会例会】 2016年11月20日(日)
  
 *直近の研究会例会報告は、本サイトのTOPページに掲載されています。

第166回例会
 日時:2017年9月24日(日) 13時~17時
 場所:川崎市平和館第2会議室
 参加:7名
 
【例会内容】 
 ① 8月27日、長野市川中島の櫻井群晃さん宅での様子の概略報告
 ② 福永武彦関連情報の伝達
 ③ 全体討論:萩原朔太郎詩集『氷島』の紹介と検討
 
【例会での発言要旨・感想】順不同
○Maさん: 福永武彦「『氷島』一説」から萩原朔太郎『氷島』を読む
 詩を読み味わうことは音楽や絵画と同様、自己の直感と好みが優先するだろう。読めない外国語の場合は別だが、など思いつつどこかにある萩原朔太郎詩集を捜すのはやめて、『氷島』は筑摩版の『萩原朔太郎全集 第二巻』(昭和61年 補訂版)をテクストとして図書館から借りてきた。
 月報(研究ノート)に「『氷島』一説」という文を福永が書いている。
 第一高等学校入学の年に初めて詩集らしい詩集として手にした『氷島』への思い入れ、デザインや装幀への細やかな描写は、一転して『氷島』を朔太郎の最高の作品とする主張に変わる。切迫感さえ感じられる強い主張である。
 その中で福永は、「『氷島』が朔太郎の昇りつめた絶頂であると思ひ」「『氷島』が意識的な言語を用ひ意識的な主題を展開した、意識的に構築された詩集であると考へている。」と述べている。さらに朔太郎自身が『氷島』について記した「明白に『退却』であった」(「『氷島』の詩語について」)、とか「著者の実生活の記録」「切実に書かれた心の日記であるのだらう」(自序)とかいうのを「煙幕の嫌ひ」があるとして退け、「詩的情熱の素朴純粋なる詠嘆を実験して見せたものだといふふうに考えたい。」と言い切っている。
 そして、その詩の簡潔さ、力強さ、絶叫、朗吟の情感などの特徴に、根底に流れている或る謎めいたものが一層深められてゐるという結果を「一種の欠落の美学とも言ふべきものに、『氷島』の象徴詩としての位置があるのではないだらうか 」と結ぶ。
 十七歳の少年時からに、晩年に至るまで「特別のもののやうに」親しみ自らも詩を書いてきた作家の言葉として深く受けとめる必要があると思った。

 『氷島』を小さいながら声に出して読んでみた。詩のスピード感、朗読の心地よさは読み手が体感すべきものだ。作者自身「読者は声に出して読むべきであり、決して、黙読すべきではない。これは歌ふための詩」(自序)なのだと書いている。
 福永の主張の前半に目が醒めるような興奮を感じたのだが、「遊園地にて」の解説はそこで対比的に取り上げられた篠田一士の説とともに腑に落ちなかった。

  今日の日曜を此所に来りて
  われら模擬飛行機の座席に乗れど
  側へに思惟するものは寂しきなり。

 単純化すれば遊園地で模擬飛行機に乗っているのを詩人一人だけとする篠田説と、女ひとりあるいは女と詩人の影(または幽霊)とする福永説となるが、一般的な受け取り方のように女と詩人の二人と単純に言い切れないのは、作品自体が、本文と対比される下段の小文字の別稿とで、登場人物の性別から組み合わせまで替わる可能性もあるからであった。「意識的な構築」とする理由の一つであろう。

 「欠落の美学」の意味は紙数の制限もあり「欠落のままで読者の想像力に任せ」られることになるが、美の極致を構築完成させるために、意識的に切り捨てたものがあるということか。意識的に欠落あるいは隠したということだろうか。では、何を?現在の私にはまだ見えない。
 
 月報は昭和51年3月刊の初版のために書かれたものなので、書かれたのは、昭和51年1、2月頃と推定される。福永五十八歳、1月に「内的独白」を「文芸」(翌年5月まで)に連載、八月父末次郎を亡くし九月に詩文集「櫟の木に寄せて」(書肆科野)を刊行した年である。
 理解できない部分があるとはいえ、私には『氷島』を読む一番の導きとなった。この一文の末尾に述べている「文体の問題」と「その欠落の多い謂はば空白の美」について語り残して欲しかった。(あるいはどこかで書いているだろうか)

付記
 前回の研究会で取り上げた福永の詩「櫟の木に寄せて」の中で、眠れぬ病人である主人公が一本の木の梢と化し見詰める地平線、「その地平線は右に傾き左に傾き天頂の星たちも/それにつれて右に傾き左に傾き幾万光年の彼方から」は、特攻隊の操縦士が最後に見た光景であろうと私は想像するのだが、朔太郎の「遊園地にて」の飛翔の表現も響いているように思われる。
「見よこの飛翔する空の向こうに/一つの地平は高く揚がり また傾き 低く沈み行かんとす。」状況は違うが胸のすくような格調高い飛翔感。やはりすごい詩人だといわねばならない。

○Haさん: 萩原朔太郎『氷島』について(福永の氷島論を軸として)
1.(1-1)7月の例会と同じく、福永の『ボードレールの世界〈新編〉』(講談社1982年)の序にある、福永の[ボードエールの]詩の読み方についての記述に従って『氷島』を読んでみた。
(A)「詩を読むために必要なことは、まず先入観なしに一編の詩を無心に味わい、その詩が直接我々の魂に訴えて来るものを感じ取ることである。」
(B)「さてまず原作の詩を味わったあとで、それに関する註釈や原作に関聯のある文章を参考にすることは勿論必要である。その時、一般的に重要さの度合いを測るならば、(一)原作者の他の詩 (二)原作者の他の散文、書簡 (三)[原作者が読んだ]他者の書いたもの、その多くは先輩や同時代者の書いたもの (四)諸家の註釈、という順になる。」

 上記の「詩」を『氷島』に、「原作者」を「萩原朔太郎」に読み替えれば、詩集『氷島』の読み方になると考えられる。具体的には、たとえば以下のようになると考えられる。:
(一)萩原朔太郎の他の詩集 、特に『月に吠える』,『青猫』,『宿命』
(二)『氷島』の詩語について1936年,自由詩のリズムに就て(『青猫』附録)1923年,アフォリズム:『新しき欲情』 1922年,
 詩論:『詩の原理』1928年,小説:『猫町』1935年,『郷愁の詩人与謝蕪村』1936年
(三) ボードレールの詩:山村暮鳥による翻訳,上田敏『海潮音』(1905年)所収のボードレール詩5編
(四)・福永武彦の氷島論:①萩原朔太郎の肖像(1968年、全集16巻184頁)、 ②「氷島」一説(1976年、全集15巻341頁)、
③解説(1964年、『萩原朔太郎詩集』大和書房)
・朔太郎に関する福永の他の文章:④「萩原朔太郎詩集」(1962年、全集15巻104頁)、⑤朔太郎の声(1975年、全集15巻385頁)、⑥朔太郎派または人工の音楽(1975年、全集15巻314頁)
・中村真一郎:『近代の詩人第7巻 萩原朔太郎』(1991年 、潮出版社)の中の『氷島』の解説 
・坂巻康司:萩原朔太郎とボードレール(2016年、『近代日本とフランス象徴主義』209-231頁、水声社)

(1-2) (二)で「『郷愁の詩人与謝蕪村』を取り上げたのは、加藤周一の『日本文学史序説』に、「朔太郎の散文としてもっとも見るべきものである。」とあるため。(『日本文学史』序説 下』431頁、筑摩学芸文庫1999年)
(三)でボードレールを取りあげた理由は、①福永の「朔太郎派または人工の音楽」に、「萩原朔太郎をフランスのボードレールに類えて、例えば日本のボードレールなどと呼ぶ呼び方があるらしい。[中略]確かにこの二人の間には色々の類似点があって、それを研究することは(相違点を数えることも含めて)面白い研究課題になりそうである。」とあるため。また②朔太郎の『新しい欲情』「作品番号54 シャルル・ボドレエル」に、「私のボドレエルに対する燃えるが如き愛がある。」とあるため。
 
2.福永の氷島論を軸として朔太郎の『氷島』を読むとは、(四)の諸家の註釈の中で、特に福永の氷島論に沿って(を重視して)読むことであると考えた。

3.萩原朔太郎の主な詩集
(3-1)萩原朔太郎(1886-1942)の詩集発行年 (『氷島』の朔太郎の詩集全体における時間的位置の確認)
①『月に吠える』1917年 ②『青猫』1923年 ③『蝶を夢む』1923年 ④『純情小曲集』1925年
⑤『萩原朔太郎詩集』1928年 ⑥『氷島』1934年 ⑦『定本青猫』1936年 ⑧『宿命』1939年

(3-2)補足
③『蝶を夢む』:前篇32篇(『青猫』の選にもれた詩) + 後篇24篇(『月に吠える』の拾遺の詩) + 散文詩4篇 (初出44篇)
④『純情小曲集』:愛憐詩篇18篇 + 郷土望景詩10篇 + 郷土望景詩の後に6篇:1篇を除き文語体詩
⑤『萩原朔太郎詩集』(第一書房)204篇:①~④の詩集の一冊本の全集 + 新しい詩21篇(青猫(以後))
⑧『宿命』:散文詩 (6篇を除きアフォリズム集から選出)+ 抒情詩(『青猫』『氷島』『定本青猫』から選出)

(3-3)朔太郎の詩の初出年と文体
朔太郎が詩集にまとめた全ての詩を制作順(雑誌発表順)に並べて口語体/文語体の区分をしてみると、朔太郎がどのように
して文語体詩→口語体詩→文語体詩に変化したか、その経過が分かる(区分表は省略)。
・朔太郎の詩の制作期間(雑誌発表期間):1904~38年(34年間)
・文語体詩の制作期間:①1904~15年 ②1925~38年
・口語体詩の制作期間:1914/15~27年(12~3年)
・1925~27年は口語体詩と文語体詩の両方を作っていたと思われる。
・口語体主体の詩集:①,②,③,⑤,⑦,⑧
・文語体主体の詩集:④,⑥
・朔太郎は口語体詩で有名で、口語体主体の詩集が6つあり、文語体主体の詩集は2つと少ない。しかし、文語体詩制作の期間の長さ(20数年)から考えて、制作した文語体詩もかなり多いことが推定される。実際、筑摩版の全集で詩集と拾遺詩編を調べると、散文詩を除く抒情詩数は口語体詩が200篇強、文語体詩が160篇強であった。

4.福永の氷島論の要点
(4-1) 「萩原朔太郎の肖像」と「「氷島」一説」によって、『氷島』,『月に吠える』,『青猫』の特徴と『氷島』に関する福永の見解をまとめると以下のようになる:
① 福永による朔太郎の3つの詩集の比較


②「私は「氷島」が朔太郎の昇りつめた絶頂であると思い、」(「「氷島」一説」、以下同じ、全集15巻342頁)
③「それ[氷島]は作者の精神内部の極北地帯に存在する「氷山の嶋々」であり、」(全集15巻343頁)
④「主人公は「影」であって作者自身ではない。」(全集15巻344頁)
⑤「二十五篇の詩は詩人の影が或いは都会を、或いは郷土を、さまよい歩くのを詩人その人が見詰め、歌い、嘆いた作品ということになるだろう。」(全集15巻346頁)

5.『氷島』
(5-1)構成
・全部で25篇の詩が含まれている。
・1925年2月の上京後の詩(郷土望景詩(A))と1929年7月の離婚後の詩に分けられる。
・1930/31年に発表された詩が14篇で、郷土望景詩以外の20篇の詩の7割を占め、この詩集の主な部分を構成し、これらの詩は離婚直後に制作されたと推定される。(朔太郎は1925年2月に上京、1929年7月に離婚,帰郷、1930年10月に再上京。)
・Aの詩篇は東京で故郷の前橋のことを歌い、Bの詩篇は故郷で東京の生活を歌い、Cの詩篇(「國定忠治の墓」)は故郷で故郷のことを、Dの詩篇(「虎」、「地下鉄道にて」)は東京で東京の生活を歌っていると考えることができる。また、「地下鉄道にて」は詩篇小解の恋愛詩四篇に1930-1932年制作とあり、分類Bに属するとも考えられる。

『氷島』の詩篇初出年と詩篇数

(5-2)主題
・福永:「二十五篇の詩は詩人の影が或いは都会を、或いは郷土を、さまよい歩くのを詩人その人が見詰め、歌い、嘆いた作品 ということになるだろう。」
・「永遠の漂泊者」の歌
・萩原葉子:「妻に裏切られ人生に敗北した朔太郎の絶叫」(「父への手紙」、『新潮日本文学アルバム』萩原朔太郎1984年)

〇主題に関連して、この詩集が私の魂に訴えてくるもの:
・いづこに家郷はあらざるべし。/汝の家郷は有らざるべし!(「漂泊者の歌」)
 強い言葉で、胸に迫る。

(5-3)『月に吠える』,『青猫』との比較
・『氷島』の詩を音読すると、『月に吠える』,『青猫』の詩と比べ非常に調子・心地がよい。文語体であるためか?

(5-4)私が最も感動した詩の1つは以下に示す「帰郷」で、郷土望景詩を除いた『氷島』はこの詩から始まったと考えられる。

わが故郷に帰れる日/汽車は烈風の中を突き行けり。/ひとり車窓に目醒むれば/汽笛は闇に吠え叫び/
火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。/まだ上州の山は見えずや。/夜汽車の仄暗き車燈の影に/母なき子供等は眠り泣き/
ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。/嗚呼また都を逃れ来て/何所の家郷に行かむとするぞ。/過去は寂寥の谷に連なり/
未来は絶望の岸に向へり。/砂礫のごとき人生かな!/われ既に勇気おとろへ/暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。/
いかんぞ故郷に独り帰り/さびしくまた利根川の岸に立たんや。/汽車は広野を走り行き/自然の荒寥たる意志の彼岸に/
人の憤怒(いきどおり)を烈しくせり。

6.補足 「蕭條」について
 前回の7月の例会で、福永の詩「櫟の木に寄せて」の中の「肅條として」は「蕭條として」の誤植であるように思われますと報告しました。9/24の例会で、Miさんが福永武彦・編『萩原朔太郎詩集』(1964年、大和書房)を回覧されました。この本の『氷島』「國定忠治の墓」を見ると、「冬の蕭條たる墓石の下に」と草冠付きの「蕭條」と記載されています。すなわち、『氷島』初版の「國定忠治の墓」の「肅條たる」の正しい表記が「蕭條たる」であるとことを、1964年時点で福永が認識していたことがわかります。従って、『文藝』1975年11月号と1976年刊行の『櫟の木に寄せて』で、「櫟の木に寄せて」のなかの「肅條として」という表記が、いずれも「蕭條として」の誤植であったことが確認されました。

○Miさん: 詩句を訂正することに関して、若干の感想。
 今回採り上げた『氷島』の書誌的事項は、既に当会HPのブログ「玩草亭日和」の「福永武彦本問答」第16回に、初版本・再刷本とも画像入りで記してありますし、また、第17、第18回にも、関連事項と『氷島』収録詩篇に対する簡単な感想を記してありますので、ここでは省略します。
 Haさんより提出された、詩篇「國定忠治の墓」の終りから2行目の「肅條」が「蕭條」の間違いであろうという推論に対しては、やはり当会HP「掲示板」上で多少Haさんとやり取りしましたので、まずはそちらを御覧ください。ひとつ付け加えておくと、Haさんがあげた、朔太郎の詩集『宿命』(創元社 1939.9)の「荒寥たる地方での會話」で「蕭條」が使用されているという他にも、同書の「墓」の最初と最後の節でやはり「蕭條」と記されています。
 例会当日は「國定忠治の墓」初出の朔太郎個人雑誌「生理1」の復刻本と、福永武彦編『萩原朔太郎詩集』(大和書房 1964.11)を持参し、前者では「肅條」、後者では「蕭條」と記されていることを確認しました。その福永の解説文中に「文字遣いは原文になるべく忠実にし、旧仮名を用い、ただ明らかな誤りと思われるところは訂正した。作者独自の文字遣いのうちあまりに極端と思われるものは、やはり訂正した」とあります。
 従って、Haさんの上記6の推論(「櫟の木に寄せて」に関して)に、ほぼ同意します。ただ、確定はできません。確定するためには、やはり最終的には「櫟の木に寄せて」の原稿を確認しなければならないと思います。
 むしろ私は、この「肅條」の件を離れて、朔太郎「独自の文字遣い」を、福永が編集過程で「訂正」したと記している点に注目します。
 朔太郎詩篇に於ける独自の文字遣いを訂正するというのは、容易ならざることでしょう。言うまでもなく、詩篇の一語のもつ重みは、小説の比ではありません。一語の選択・配置は、その詩篇全体に響き、その「訂正」により、ミクロコスモスが破壊、変質される懼れがあります。
 それをあえて行うのであれば、その前提として、福永が朔太郎詩篇の文字遣いを知悉していなければならず、更にその世界をよく知るばかりでなく、自らもその世界を体験し、生きねばなりません。その自覚なくして、詩句の「訂正」がなし得ぬことは、福永自身が最もよく知るところでしょう。
 おそらく、それをなさしめたのは、福永の朔太郎に対する深い敬愛の念と同時に、詩の実作者としての切実な体験の故でしょう。『福永武彦詩集』(1966)の掉尾を飾る詩篇「北風のしるべする病院」は、この朔太郎詩集の出た年の3月に発表されていますので(雑誌「本」)、この1964年で、福永の詩の創作は、ほぼ終っています(『櫟の木に寄せて』を除いて)。自己の確たる世界を築きあげた詩人の眼をもって、朔太郎詩集の編集はなされたのです。
 一方で、人文書院より福永単独編輯で刊行された『ボードレール全集』(全4巻 1963年5月~1964年6月)は、福永の学者としての厳しい眼がその隅々まで貫いていることはもちろんですが、その同じ厳しい眼で、この朔太郎詩集の編集をしている点も見逃してはならないでしょう。
 ただし、福永編集の朔太郎詩集は、現在の筑摩版全集などと比較して、詩句は底本により忠実で、手入れは多くはなく、全集版が「誤字・誤植」として訂正している詩句も、底本ソノママにしている詩句が多いこと、このことも同時に指摘しておきたいと思います(*文末「重箱の隅 6」を参照。)
 なんにせよ、詩の実作経験のない研究者は、朔太郎の詩句を「作者独自の文字遣いのうちあまりに極端と思われる」という理由で「訂正」することは、おそらくなし得ない。いや、してはいけない。私は、そう考えます。
むしろ、文字遣いのあまりに極端な詩句があれば、そこに注目し、そこに朔太郎詩の特質の一端を見出すべきでしょう。もちろん、このことは福永詩篇を検討する際にも当てはまることです。

 例会では最後に、朔太郎自身の自作朗読CDを流しました。1937(或は38 筑摩書房版全集「年譜」には記載無し)年に録音された、当時50代前半の朔太郎がやや早口で朗読する「乃木坂倶楽部」「火」「沼澤地方」の3篇を聴いていると(皆で、2度ずつ聴きました)、朔太郎の孤独が、寂寥が、真に胸に迫ってきたのは、私だけではないと思います。

 *会誌第10号、11号、12号に掲載した随筆集6冊各々の「人名索引」「作品名索引」は、集団討論の準備として、実に有用であることを強調しておきます。
 萩原朔太郎に関して、福永がいつ、どの随筆中で言及しているかがたちどころに判明します。題に朔太郎の名を掲げていない随筆でも、例えば「川上澄生さんのこと」、「高橋元吉の泉」、「犀星歿後十五年」そのほか、10編以上の随筆で触れられています。福永の朔太郎親炙の度合いを、このことひとつからでも窺うことが出来るでしょう。

【当日配付資料】
 ①「萩原朔太郎『氷島』(福永の氷島論を軸として)についてのメモ」A3片面1枚+A4片面1枚
 ②萩原朔太郎原稿複製「漂泊者の歌」 A4片面2枚
 ③ 同 「我れの持たざるものは一切なり」 A4片面1枚
 ④萩原朔太郎詩篇「我れの持たざるものは一切なり」・「虚無の鴉」のァ初出稿(1927「文藝春秋」)、ィ『現代詩人全集第九巻』収録稿(新潮社 1929)、ゥ『氷島』稿(1934)、ェ福永武彦編『萩原朔太郎詩集』(大和書房 1964)稿 A3 両面1枚
 ⑤萩原朔太郎朗読詩篇 「乃木坂倶楽部」「火」「沼沢地方」 B4片面1枚
  資料提供:①Ha ②~⑤Mi

【回覧・閲覧資料】
 ①『氷島』オリジナル再版本(第一書房 1936 阿部金剛装幀)
 ②『氷島』自筆草稿複製原稿(冬至書房 1968)
 ③萩原朔太郎『宿命』初刊本(創元社 1939)
 ④ 同 未来社新刊本(未来社 2013 解説 粟津則雄) 底本は創元文庫版(1951)
 ⑤ 同 ゴマブックス版オンデマンド本(ゴマブックス 2016)
 ⑥ 福永武彦編『萩原朔太郎詩集』(大和書房 1964)
 ⑦ 萩原朔太郎自筆歌集「ソライロノハナ」複製本(発行日本近代文学館 制作ほるぷ出版)
 ⑧ 萩原朔太郎自家版「生理」第1号、第4号、第5号(近代文藝復刻叢書 冬至書房 1979)
 ⑨ 萩原朔太郎、室生犀星、北原白秋、斉藤茂吉、釈迢空ほか自作朗読収録CD(日本コロンビア SP盤復刻 1998))
 ⑩ パンフレット「馬込文士村」
  資料提供:①~⑨Mi、⑩Ma
  

第165回例会
 日時:2017年7月23日(日) 13時~17時
 場所:川崎市平和館第2会議室
 参加:8名

【例会内容】 
 ① 池澤夏樹氏講演会/七夕古書大入札会のご報告。
 ② 北海道立文学館蔵、福永武彦資料発見の経緯、各個人を含めた当会の関わりを説明。
 ③『福永武彦詩集』/『櫟の木に寄せて』の小発表+討論。

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)

○Maさん:「櫟の木に寄せて」によせて
 八十五行の詩だが福永の詩としては長い。大きなスケールを持っていると思う。
 しかし、よくわからない部分がある。そこでこの一篇の詩に書かれた「ことば」をできるだけ正確に読みとり、また、作者がこの詩によって何を伝えようとしたのか、実感として受けとめたい。その上で出来れば福永詩全体の中でのこの詩の位置を考えたい、と考えた。てはじめに、
(1)櫟の木について、その落葉と芽吹きについて、ネット上の画像を参照、樹形また四季折々の姿、樹木としての性質をしらべた。
出典に拘らず作品理解の裏付けとなる情報のみ述べれば、
 櫟は、ブナ科コナラ属。
 落葉広葉樹、として進化してまもない櫟は落葉する際の離層という部分が未発達のため枯葉を着けっ放しの場合(個体)がある。とのことである。また、
 櫟は芽吹きとほぼ同時に花を咲かせる。花弁のない花穂を垂らせるだけなのだが、赤褐色に色づくその彩りは美しい。雌花は新葉の脇にほんの小さく着く。都会の公園でもソメイヨシノの花が散った四月中旬頃。という。

 枯葉の着いたままの櫟の木はいってみれば見苦しいので、それだけに芽吹きの力強さが鮮やかなのだろう。雑木林を形成する他の植物たちも調べたりしてなかなか楽しい。詩全体に難しい言葉はない使われ方つぎに

(2)詩全体の構成を考えた。
 1行から42行、全体の半分は櫟の木の紹介である。身近な生活空間にあってどんぐりの木として親しまれた櫟の木の枯葉をまとった晩秋から新緑、生きものが樹液を吸いに集まり子供たちが集う四季折々、そしてまためぐり来る冬が語られる。

 43行から64行で前半の描写が過去の記憶であり、病床にある詩人が眠れない冬の夜の眩暈の中に見た、宇宙空間の中の交信が語られる。一本の木と化した「私」「私たち」あるいは隠された「私」たちの視線も感じられる重層的で難解な箇所である。「門出を祝う小旗」とは何か。3箇所に出てくる「小旗」は多重の意味を含むと思われる。

 64行から74行 枯葉の合唱と願いである。「この冬もまたすべての命のははなるもの」「それを證するため我々の小旗を打ち振ってゐる」病床の詩人は啓示のようにその声を聞く。

 75行は「そして私は眩暈から醒め」と14字目から書き起こされる。啓示を右上に、目覚めの実感を視覚的に表現したものか。マラルメ、エロディアドの舞台を思わせる。
最終章は「私」もまた永遠の夜の中に立つ一本の木である事を自覚し、櫟の木に感謝を叫ぶのである。
 最終連は存在するものの生命と死についての悟りに近い受容の境地がうかがわれる。そして「門出を祝う小旗」がここで再度出てくるがここでの小旗はやがて迎えるであろう終末であると同時にめぐりくる春の芽吹きを予感させる明るみがある。
 私には福永武彦の公刊された最後の詩であるこの一篇は彼が到達した境地、生命の消滅を予感しつつも受け繋がれて行く希望、受け継いでゆくものたちへの励ましと遺言ではないかと思われた。
        
付記:「櫟の木に寄せて」は気になる木(詩)の一つでした。今回の再読でわずかながら理解が進んだような気がしたものの、更なる奥行きも感じました。メタファのことリルケとの関係?とか更なる宿題です。関心のある方のお話し伺いたいものです。

○Kuさん:「今はない海の歌」
 本論は、河田忠さんの論に沿うかたちで考えて、最後に筆者の見方を出したい。河田の『福永武彦ノート』第一部の5「心象と形象」について見てみる。
 河田は、その「海を主題とした詩篇」のなかでこの詩に触れ「マラルメを意識して書かれた」という。また、河田はマラルメの「海の微風」と福永の「今はない海の歌」の類似を指摘している。
 次は、福永の「今はない海の歌」である。
  今はない海の歌 肉体は悲しい ああ……(マラルメ)
  わたくしらは遠い昔からこの生を生きてきた
  そよ風ににほふ時間は音もなく過ぎて
  花片の散る丘に海は人を待つていた
  この丘に振りちぎつたハンカチィフの色のみは白くて
  知らぬ国へと船出をした希望の船はもう帰るまい
  わたくしらは大海の孤独の中を生きてきた
  神々の日を染める虹の矢はあつても
  心はいつも潮のやうに にがく 青く 澄んでいた
  そして海の深みにわたくしらの愛が沈んだ日から
  いのちの旗は二度と風にひるがえることはあるまい
  わたくしらはをさないままに生きてきた
  さびしがりやの心の破片のひとつにも
  夕べの潮にひびきあふ魂の声があつた
  それでも散らばった心の上に はるばるとした海の上にも
  真冬の雪はしつかに降りつもつて
  このきよらかな風景は記憶のほかにもうあるまい

 次にマラルメを引用する。
 海の微風
  肉体は悲しい、ああ既に読み終つた、すべての書物は
  逃れよう彼方へ!私は感じる、大空と未知の水疱
  湧く央に、海鳥は酔いしれているのを。
  何ものも、わだつみの底深くひたされたこの心を
  とどめるものはない、瞳に映る古いえんも、ああ
  いくたびの夜! 白は閉ざす空しい紙の上を
  守る洋灯の荒涼とした光も、
  また、みどり児に乳ふくませる新妻の姿も。
  私は立とう! 蒸汽船は風にその身を傾け
  異邦の風土へと錨を巻け!
  酷薄の希望に虐まれた倦怠は、なほ
  信じよう、ハンカチ―フ振る最後の別れを、
  恐らくはこの船も、宿命の嵐を呼ぶ海のゆくて、
  マストもなく、マストもなく、草茂る小島もなくて、
  風は絶望の破船の上を吹き過ぎるかもしれないものを・・・・・・
  しかし、おお私の心よ、聞け遠い水夫の歌を!

 これについて河田はいう。
 この詩に歌い上げられたものは何か。それは、題名によってあきらかのように、今はない青春の歌である。奇しくも、行数まで同じ十六行にまとめられている福永の「今はない海の歌」の世界は、マラルメの「海の微風」のそれとほとんど同じものである。たとえば同じ詩集のなかの「聖夜曲」について福永が<まるでマラルメ論のためのひとつのレポートのやうに何年もの間いじくりまわしていた>と記していることから分かるが、「今はない海の歌」は、「聖夜曲」以上にマラルメを意識して書かれたに違いない。(『福永武彦ノート』56~57頁)
 この詩の世界は、第二行、三行に見られるように、<大空と未知の水泡湧く央に、海鳥は酔いしれている>という世界である。それは<肉体と精神の倦怠から希望を彼岸に求める未来の世界>(鈴木信太郎「スティファヌ・マラルメ詩集考」)であり、福永の「海の旅」における憧憬の世界、理想の世界に通じるものである。(同右、53頁)

 たしかにこの詩は「今はない海の歌」に似ている。この「海」を河田は青年福永の「内部の海」とする。マラルメを下敷きにしたところもあったろう。
 他方、福永においては、「希望を彼岸に求める未来の世界」はあてはまるだろうか。あてはまらないと思う。
 福永は「知らぬ国へと船出した希望の船はもう帰るまい」とうたうのである。船が出ることは両方とも同じなのであるが、マラルメではどんなに小さくても希望が残るが、福永は、希望はないというのである。

 また、第二連で「海の深みにわたくしらの愛が沈んだ日から/いのちの旗は二度と風にひるがえることはあるまい」とうたう。福永の内部での絶望感を表現していることはあきらかである。それでは何ゆえの絶望か。

 ここまで来れば、「今はない海の歌」の前景は見えてきたであろう。この作品が、「海の微風」のパロディである可能性も見えてきたであろう。この詩は自由に読めそうであるということも。

○Haさん:「櫟の木に寄せて」について
1.詩を味わうこと、詩を論じることとはどういうことか?
(1-1)『ボードレールの世界〈新編〉』(講談社1982年)の序で、福永は[ボードエールの]詩の読み方について以下のように書いている。:(A)「詩を読むために必要なことは、まず先入観なしに一編の詩を無心に味わい、その詩が直接我々の魂に訴えて来るものを感じ取ることである。」
(B)「さてまず原作の詩を味わったあとで、それに関する註釈や原作に関聯のある文章を参考にすることは勿論必要である。その時、一般的に重要さの度合いを測るならば、(一)原作者の他の詩 (二)原作者の他の散文、書簡 (三)[原作者が読んだ]他者の書いたもの、その多くは先輩や同時代者の書いたもの (四)諸家の註釈、という順になる。」

〇今回、(A),(B)に従って、「櫟の木に寄せて」の詩を読んでみた。
上記(B)の「原作者」を「作者」に読み替えれば、日本語の詩の読み方になると考えられる。これを福永の「櫟の木に寄せて」に当てはめると、たとえば以下のようになると考えられる。:
(一)福永武彦詩集、特に「死と転生」Ⅰ~Ⅳ;「夢百首」
(二)①『櫟の木に寄せて』の「秋風日記」
② 自分の詩集についての福永の文章:「ある青春」ノート、マチネ・ポティック作品集第一解説、詩集に添へて
(三) 福永が詩作初期に読んだ詩集に限定:萩原朔太郎『氷島』、釈迢空『海やまのあひだ』、『マチネ・ポエティック詩集』の福永以外の人の詩、『象牙集』に収められたボードレール, マラルメ, ランボー, ロートレアモンの詩、ボードレール『悪の華』
(四) 菅野昭正 福永武彦詩集解説(岩波書店1984年)(「櫟の木に寄せて」の註釈ではないが、詩編「死と転生」についての解説が含まれている。)

(1-2)
(一) について特に「死と転生」を取り上げているのは、詩文集『櫟の木に寄せて』(1977年)の後記に、「昨昭和五十年の一夏をそれ[詩作]に割いて、この「櫟の木に寄せて」を書き上げた。「死と転生」といふ書きかけのまま中絶してゐる詩編のうちの一篇にしたいと思つてゐた」(全集13巻 、以下同じ、477頁) とあるため。
また、「夢百首」を取り上げているのは、「櫟の木に寄せて」と同じ頃に作られ、歌集『夢百首 雑百首』の夢百首序に「久しく詩作を廃してゐるので、歌または俳句が私の内部の詩的情緒の表現を代行するのだらう」(全集487頁)とあるため。
(三)についてこれらの詩集を取り上げているのは、
〇「ある青春」ノオト(1948年)に以下の記述があるため。:
① 「萩原朔太郎の「氷島」が出たのは1934年、僕の一高に入学した年だった。僕は初めて、共感を持って、一冊の詩集を読んだ。」(全集457頁)
② 「もし僕がボオドレエルやマラルメやランボオやロオトレアモンを知ることがなかったなら、僕は詩作を諦めたかもしれぬ。」(全集458頁)
③ 「ボオドレエルには最も多くを学んだ。一冊の「悪の華」ほど僕にとって貴重な書物はない。」(全集462頁)
〇 また「詩集に添えて」(1966年) に以下の記述があるため。:
  「その頃[1935年]釈迢空の「海やまのあひだ」を愛読してゐた」(全集465頁) 

2.福永武彦の詩の制作時期と詩集 (「櫟の木に寄せて」の福永の詩全体における時間的位置)
① 1930年代・40年代:ある青春(1935-1943)『ある青春』1948
 夜 及び その他のソネツト(1943-1944)『マチネ・ポエテイク詩集』1948
② 1950年代:死と転生(Ⅰ~Ⅲ:1952、Ⅳ:1954;Ⅰ~Ⅳ改作:1956)
③ 1960年代:仮面(1961), 高みからの眺め(1962), 北風のしるべする病院(1964) ①~③ 『福永武彦詩集』1966
④ 1970年代:夢百首(1974/9-1975/2) 『夢百首 雑百首』1977, 櫟の木に寄せて(1975/夏) 『櫟の木に寄せて』1976

3.「櫟の木に寄せて」
(3-1)構成・技法
①詩は行アキなしの全85行から成っている。
②行末での「て(で)ゐた」の多用(前半46行のうち、9行(20%)で使用)→リズムが発生
③第75行「そして私は眩暈から醒め」で、行の前半を空白にする→続く文章の強調
なお、行アキなしの詩で行の前半を空白にするというこの技法は、福永の創造ではなく、福永の訳したマラルメの詩エロディアド(舞台)で(マラルメのフランス語の原詩で)用いられている。(全集254頁)
④音を思い浮かばせる語句の使用:小鳥の囀り、子供たちのどんぐり拾いの歓声、櫟の木の無数の黄ばんだ葉が叫ぶ合唱
⑤映像を思い浮かばせる語句の使用:子供たちの甲蟲の幼蟲探し、どんぐり拾い

(3-2)主題
老年の智慧としての櫟の木の教え:
 第80行-81行「私は恐れつつ待つだらう或る夜突然葉といふ葉は落ち/しかもその同じ日に新しい生命の葉が一斉にそよぐのを」
(全集118頁)
〇主題に関連して、この詩が魂に訴えてくるもの :
櫟の木が一晩ですっかり枯葉を落とし新しい葉を身につけている描写が死と転生(この場合は再生)を暗示していて感動的。
第18行-19行「一晩ですつかり古い衣裳を拂ひ落し/上から下まで眩しいやうな緑を纏つて」(全集114頁)

(3-3)福永の他の詩歌との比較
①「夢百首」との比較
冬の日という表題の一首:「一本の櫟の枯葉散りもせで身をふるはせて風にさからう」(全集429頁)→「櫟の木に寄せて」に発展
  第7行-9行「櫟の木だけは天辺から裾まで一面に/黄ばんだ枯れ枯れとした葉を鎧つたまま/北風を物ともせずに反身になつて唸つてゐた」(全集113頁)
②「死と転生」との比較
・「死と転生」では転生については余りはっきり書かれていない。転生を示唆しているのは、Ⅰの第14行「ふたたび、ここにない生を生き(全集93頁)」とⅣの第25行「ものみなは四季とともに移り行く、人もまた。」(全集100頁)くらいか。
 ・それに比べて、「櫟の木に寄せて」ではもっとはっきりと転生(再生)について述べられているように思われる。
  第18行-19行「一晩ですつかり古い衣裳を拂ひ落し/上から下まで眩しいやうな緑を纏つて」 
  第80-81行「私は恐れつつ待つだらう或る夜突然葉といふ葉は落ち/しかもその同じ日に新しい生命の葉が一斉にそよぐのを」

4.補足1:「死と転生」との比較についての補足
(4-1)詩の行数と「死」、「生」の使用回数


(4-2)語句の繰返しのいくつかの例
・「死と転生」
Ⅰ 第1行「この心、誰が知らう、人は繰返して仮のいのちを眠り、」
  第4行「ひとり目覚め、天涯に手探る心を誰が知らう?」
Ⅱ 第1行「この心、何ものもとどめ得ぬ、おちて行く限り、」
  最終行「今 火花の如く! おちて行く僕の心、何ものもとどめ得ぬ。」
Ⅲ 第1行「思ひ出さう、遠い日に、僕は愛した生きる者を。」
  最終行「それなのに、遠い日に、僕は愛した生きる者を。」

Ⅳ 第1行「僕は愛した、幼い日に、無数の小さな生きものたちを。」

・「櫟の木に寄せて」
 第80行「私は恐れつつ待つだらう或夜突然葉といふ葉は落ち」
 最終行「私は恐れつつ待つだらうと」

5.補足2:「肅條として」について
・書肆科野版の「櫟の日に寄せて」の第6行「肅條として」は「蕭條として」の誤植である(あるいは原稿で草冠なしの「肅」と記載されていた場合は誤記の可能性がある)ように思われます。
・福永が間違った言葉を使っていても、福永の慣用的な言葉使いだと理解して、そのまま受け入れたらよいのでは、という意見が例会で出ましたが、以下の理由で、この場合は単なる誤植の可能性が大きいと考えます。:

①「粛條として」では詩の意味が通らない。
②枡型普及版の福永武彦詩集のあとがき(1973年)で、福永は1970年に発行した小型本福永武彦詩集(フランス装と鹿革装)について、「実は誤植が幾つかあつて思ひ出しただけでも汗が出て来る。あれほど念入りに校正をやつて尚この始末だから情ない。その上、ぜひ修正したい言葉も一つある。従つてここで紙型に手を入れて普及版を出せば、今度こそ誤植の無い本が出来るわけだから、」(全集475頁)と書いている。過去に出版された福永の詩集にも誤植があったこと、福永は誤植が見つかれば訂正していたことがわかる。
③蕭條という言葉を福永は「桃源」という詩で「さればこそや灰色の空低く垂れ、野に蕭條の慈雨あれども、」として使用している(岩波版福永武彦詩集168頁)。従って、福永が「蕭條として」の意味で「肅條として」という語句を使うとは考えにくい。
④ 蕭條」という言葉は、福永が愛読した萩原朔太郎の『氷島』の「国定忠治の墓」に「冬の蕭條たる墓石の下に」として、また「帰郷」の詩篇小解に「家に帰れば、父の病とみに重く、万景悉く蕭條たり」として使用されており、この言葉に福永はなじみがある。

○Miさん:
Ⅰ.詩篇(文学)研究の基盤に関して。
 福永武彦詩篇の初出誌には、手にすることが難しい多くの稀覯雑誌を含んでいる。ただ、現在では復刻本や電子媒体で読める雑誌もあり(「一高校友会雑誌」、「近代文学」、「高原」など)、オリジナル原本に拘らなければ、初出形を一応確認することはほぼ可能である。しかし、一高弓術部発行の雑誌「反求會々報」(「ひそかなるひとへのおもひ」)と東京療養所内で発行された「群青」(「死と轉生」Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ)の初出形を確認することは、今でも極めて難しい。ともに、国立国会図書館にも東京大学図書館その他にも所蔵されていないし、復刻もされていない。福永詩篇を全体として論じようとする研究者には、この2誌の閲覧が高い壁となっている。
源高根「岩波書店版『福永武彦詩集』後記への疑問」(「藝術論集」№1 1984.10)で示された「私見による校訂」を踏まえた論文が皆無なのも、上記の理由によるのだろう(源が、その校異作成に参照した福永武彦自筆ノオトは言うに及ばず)。
 詩句の厳密な対照(校異一覧作成)は、詩篇研究の基盤である。これは小説作品でも原則同様であるが、こと詩篇に関して、このことに異論はないだろう。従って、34年前に発表された上記源論文の校訂に対する検討からまず始めなければならないのだが、現状はあまり進んでいない。
 つまり、源論文の校異にしても、それを前提に鵜呑みにできるものではないのは、論中の<ノオト2>の作成年代を、岩波版「後記」の記述ソノママに1952年とした大きな誤りがあった(正しくは1942年)こと、これは和田能卓「『ある青春』以前に―詩集「MOURIR JEUNE」」(『時の形見に』 2005)に指摘された通りであり、当然その校異も修正されねばならない。また、私がザッと各初出誌を対照した範囲でも、源作成の校異には脱落が相当数ある。ただ、そのミスや抜けの認識はまだ研究者の間でも共有されておらず、依然として敲き台としての意義は有している。
またそれとは別に、源が上記論文で参照している文献のうち、福永武彦自筆詩稿<ノオト1>、<ノオト2>に関して研究しようとする者は、自ずから文学研究の範囲から逸脱した、法的な問題に逢着せざるをえない。その理由を説明することは、結局は詩篇研究の進展に寄与するところもあると思うので、私自身が把握している、その詩稿の所在の変遷に関する「事実」を、これからキチンと公開していくつもりである。源が2部だけ個人作成した<ノオト1>の写真版の1冊が、この夏、大阪の近代資料の特別市会に出品されて話題を呼んだことを、ここでは記しておく。
私は、もう20年以上前から(=当会設立当初から)、福永武彦研究の現状として「基本資料の蒐集と公開」が必須の状況であり、資料の探索そのものが、研究の重要な一側面であることを力説してきた。しかし、いまだにその「資料蒐集の重要性」が研究者の間でさえ共有されず、自ら資料探索に汗を流している研究者はごく僅かなこと、つまり、その結果として詩篇研究が根本的に進展していない現状に、自らの力不足を実感しており、ある種忸怩たる思いをも抱いている。ますます声を高めて「資料の蒐集と公開」を訴えていくことを決意している。

*今例会での、Saさんの小発表は、この源論文に啓発されて「福永武彦詩集」の幾つかの謎に関して、自らの推論を述べた実に興味深い内容であった(『時の形見に』掲載の自筆詩稿「鉄橋にて」の後の2ページが空きページであるのは何故かなど)。ただ、多くの初出雑誌や北海道立文学館所蔵の資料を実見していないため、資料の裏づけに欠け、論が中途半端に終ってしまった点が惜しまれる。ぜひともこの研究を継続していただきたい。

Ⅱ.「散文詩二題」について。
 「美術手帖」1951年10月号(美術出版社)には、「散文詩二題」として「その一 母と子」と「その二 果物の味」なる散文詩が掲載されている。題名の後に、夫々「Rattner, Mother and childに拠る」、「Borés,The savon of fruitに拠る」と明記され、絵画の白黒写真が同時に掲載されている。2篇の散文詩が、これらの絵をモチーフにしていることは明白である。(下図:ラットナー「母と子」)

 ところが、この「散文詩二題」は『福永武彦詩集』には収録されておらず(全ての麥書房版、高等学校時代の習作や小説中の詩篇まで収録した岩波書店版にも未収録)、何故か第一随筆集『別れの歌』(新潮社 1969)に収録されている。それも「~に拠る」という説明書きと、その絵画を省いて。同随筆集の「清瀬村にて」という過去の回想文中の1篇として収録されているのだが、しかしどう読んでも、この2篇は所謂随筆文ではない。
 推察するに、当時既に5年の長きに渡って療養所に起居していた福永が、自らの内面風景を正直に吐露した内容となっている一文ゆえに随筆集に収録したのだろうが、しかし、鋭い形式感覚を持ち、その著書を編む際にも、随筆集、評論集、全小説、或は推理小説と別々に著書を纏めた福永にしては不可解である。
 むしろ、福永の「随筆」というものは、単なる客観的事実の正確な報告文なのではなく、内面の真実の吐露という点に特色を認めるべきなのかもしれない。その意味で、2年前にその随筆集『別れの歌』を例会で採り上げた際にも言ったことだが、福永随筆を「事実ソノママ」と思って安易に引用すると、とんでもない間違いを犯すことになるだろう。
 それにしても、この「散文詩二題」は『福永武彦詩集』に収録してもよかったのではないのか。 【当日配付資料】
 ①『福永武彦詩集』メモ A4片面5枚
 ②「『櫟の木に寄せて』についてのメモ」 A3片面1枚
 ①Sa、②Ha

【回覧・閲覧資料】
①『福永武彦詩集』(麦書房 駒井哲郎銅版画入り限定50部3分冊本のうち2番本 1966)
②『リルケ全集 第4巻(ドゥイノ悲歌)』(弥生書房 富士川英郎訳 1961)
 *福永武彦宛、富士川英郎ペン署名入り。今年7月、けやき書林より入手。
 この種の資料が古書市場に多く出ていることさえ知らぬ、資料に無関心な研究者からのあらぬ疑いをさけるため、これからは福永武彦・中村真一郎宛署名本の類は、すべて入手先を明記する。
③『ある文人学者の肖像 評伝・富士川英郎』(新書館 富士川義之 2014)
 *上記②を贈られた福永が富士川に宛てた2枚続きのはがきが全文紹介されている。例会で、そのはがき文面を全文朗読して紹介。
④『リルケ』(新潮社 アンジェロス著、富士川英郎訳、菅野昭正 1957)
 *中村真一郎宛、富士川英郎ペン署名入り。ほぼ全頁に鉛筆や色鉛筆でラインや書き込みあり。田村書店より入手。
⑤『時の形見に 福永武彦研究論集』(白地社 2005)
 * 福永資料発見の経緯を説明した際に使用。
⑥『廃市』(小学館P+DBOOKS 2017)
 *底本を全集本ではなく、元版(初版本)としている点が特色。
⑦「美術手帖」1951年10月号
 *福永の散文詩2篇が掲載。何故か『福永武彦詩集』には収録されず、随筆集『別れの歌』に収められている。
⑧『葉っぱのフレディ いのちの旅』(童話屋 1998)
 *『櫟の木に寄せて』ソノママというベストセラー童話。
 ①~⑦:Mi、⑧:Ma


2017年度総会・第164回例会
 日時:2017年5月28日(日) 13時~17時
 場所:川崎市平和館第2会議室
 参加:10名
  
【総会内容】
1.2016年度会計報告
2.2017年度運営委員選出
3.今年度例会・特別企画の提案内容他
 
【例会内容】
 1.『ゴーギャンの世界』討議
 2.池澤夏樹氏講演会の準備について
  
【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)

○Kiさん『ゴーギャンの世界』感想
 絵画のために、それ以外のすべて(家族、仕事、裕福な生活、祖国)を犠牲にしたゴーギャンの精神遍歴に焦点を当てた力作。福永は他の画家以上になぜゴーギャンに惹かれたのか?
① ゴーギャンはマラルメと親交があり、象徴主義の影響を受けた絵画を描いた。また、象徴主義的な文学的、詩的なエッセイ「ノアノア」を書いている。福永は自身の芸術(福永にとっての純文学)に対する姿勢と一致する芸術家としてゴーギャンを捉えようとしたのだろう。
(本文からの引用)『ゴーギャンがマラルメに学んだ最大の教訓は、マラルメ的美学、あるいは象徴主義の教義である。「詩の中には常に謎があらねばならない。それが文学の目的なのだ。その他に目的はない。対象を喚起すること、これだ。」』
② ゴーギャンの芸術至上の生涯、とくに「希望する、それはほとんど生きることだ」の言葉が福永自身に大きなインパクトを与えたこと。「風土」でもこの言葉を引用している。清瀬の療養所で生と死の狭間で過ごした福永には、自分自身のこととして実感できた言葉に違いない。

○Haさん:『ゴーギャンの世界』について
1.構成・技法
(1-1) 構成
ゴーギャン(1848-1903)の生涯の主要部分を以下のように区分して記述している。:
1883株仲買店を辞め、職業画家になる。
1888 技術的開眼(総合主義)(ポン=タヴェン、2月-10月)、ゴッホとの共同生活(アルル、10月-12月)
1891-1893 タヒチ第一次滞在(受難劇第一幕)
1895-1901 タヒチ第二次滞在(自殺未遂1898年2月)  (受難劇第二幕)
1901-1903 ヒヴァ・オア島滞在  (受難劇第三幕)

(1-2)技法
aゴーギャンの生涯(伝記) b手紙と著書 c絵の解説 の3要素の繰返しで構成している。

2.主題 
「僕が主として語りたいのは彼(ゴーギャン)の内的世界の秘密である。」(元版『ゴーギャンの世界』74頁上段、新潮社1961年)
(2-1)ゴーギャンはなぜタヒチに行ったかを解明する。
①彼の芸術が遂に彼ひとりのためにしか存在せず、パリの画壇には身の置くべき場所もなかった」(『ゴーギャンの世界』192頁下段-193頁上段)
②フランス植民地の中で最も生活費の安いところとしてタヒチを選択。
③「彼は「芸術的中心は頭脳の中にある」ことを信じ、既に出来上がった内部世界にふさわしい土地としてタヒチを選んだ。」(「ゴーギャンとゴッホ」『意中の画家たち』125頁、人文書院1964年)
(2-2)ゴーギャンのタヒチ時代の絵が独自のものに変わった原因・理由は何か?
① 謎めいたもの:
・「彼の真の個性が発揮されたのは、1891年に初めてタヒチ島に渡った時から、そのあと死ぬまでの12年間にあると、僕は考えたい。」(『ゴーギャンの世界』13頁上段)
・「僕がタヒチ以後の作品にしかゴーギャンの真価を認めないのは、ブルターニュ作品には何かが欠け、タヒチ作品には何かがあるからだ。その何かとは、繰り返し言えば、一種の謎めいたものである。」(『ゴーギャンの世界』13頁上段-14頁上段)
・「この絵(NEVERMORE)の効果は、-----大鴉は裸婦との無言の対話による一種の謎めいたもの、原始的な何ものかである。」(『ゴーギャンの世界』16頁下段)
② タヒチ島の風土:「ゴーガンがほんとうのゴーガンになるのは、まさしく1891年以降のことなのである。」(高階秀爾『続名画を見る眼』72頁、岩波新書1971年)
③マラルメとの出会い(1890-91年の冬):「直接マラルメから話を聴き、マラルメ的美学の洗礼を受けたゴーギャンが、詩における象徴主義の方法を、絵画の上で実践しようとしたのは必然の成り行きであった。やがて来るタヒチ時代の作品が、それ以前のものと異なるのは、明らかにこの方法の獲得にあった。」(柏倉康夫『マラルメの火曜会』(147-148頁、丸善1994年)

3.考察
(3-1) 『ゴーギャンの世界』であって、『ゴーギャンの生涯』ではない、評伝(だけ)ではない。:
①ゴーギャンは「呪われた画家」であった。(『ゴーギャンの世界』8頁上段)
②ゴーギャンの悲劇:「ゴーギャンは画家としては野蛮な芸術に成功した、人間としては野蛮人たることに成功しなかった。その矛盾の中にゴーギャンの悲劇があった」(『ゴーギャンの世界』312頁上段) → 『風土』の中に同様の記述がある。:「本当の生が、文明の中にではなく未開の世界にあるという原理は、ゴーギャンにも分かっていただろう、しかしパリジャンの彼にタヒチの土人になりきることはできなかった筈だ。」(全集第1巻357頁)    
③ゴーギャンの世界の内容は、例会で渡邊さんが指摘されたように、「タヒチの女を古代神話の世界に再現すること。これが第一次タヒチ時代のみならず、1891年以降の彼の全作品に共通する主題となる。」(『ゴーギャンの世界』215頁上段)ということだと思われる。
(3-2)なぜ福永武彦はゴーギャンを取り上げたのか?『ゴーギャンの世界』を書いたのか?:
①『風土』を書く上でゴーギャンの世界を理解することが必要だった。
・『風土』 1941-1951年執筆、 1952省略版発売、1957年完全版発売。 
・『ゴーギャンの世界』 1955-1961年執筆 1961年7月発売。
ただし、福永のゴーギャンへの関心はすでに学生時代に始まり(『ゴーギャンの世界』後記)、『風土』執筆時期に先行する。
②『ゴーギャンの世界』執筆時の、福永武彦の日本の文壇に於ける地位がゴーギャンのそれに類似していた。:
「ゴーギャンの画壇に於ける地位は、その晩年まで、極めて貧弱だったに違いない。」(『ゴーギャンの世界』306頁下段)(“日曜画家”の経歴)
③ゴーギャンの求めていたものは純粋芸術(『ゴーギャンの世界』187頁上段)であり、福永武彦の求めていたものは純粋小説であり、ゴーギャンは福永にとって同志だと考えられていたのではないか。
④ゴーギャンの人生に福永の小説の主要なテーマの愛・孤独・死を見たため。それゆえゴーギャンに大きな関心があった。

○Waさん:『ゴーギャンの世界』発言要旨
 第一に、『ゴーギャンの世界』が著者渾身の力作であること。作品を原画でなく複製に頼らざるを得なかったことは、著者にとって不本意だったに違いありませんが、「我が家から一歩外へ出るのも億劫」(「追記」) な人が、海外から「当時の入手し得るゴーガン資料のほとんど総て」(丹治恆次郎) を取り寄せ、それらを積み上げるのでなく読み込んで、必要に応じて自ら訳し一巻を作るのですから、これは大変な力技です。巻末の年譜、文献目録も、各項目が型通りの記載でなく著者自身の文になっていて、この画家に対する著者の強い関心を窺わせます。

 第二に、実像との差異。『ゴーギャンの世界』は多数の書簡、草稿を引きながら、実証的、客観的に考察を展開します。しかし、さすがに刊行から半世紀余、現在では本書の描くゴーギャン像と実像との間に、若干の差異も認められる、そして、そのことはゴーギャン理解の限界というよりも、むしろ著者の関心の在り方を浮かび上がらせていると思います。
全体として、此処に提示されているゴーギャン像は、極めて清潔で整合的な、謂わば「きれいな」ゴーギャン像です。例えば晩年のゴーギャンには、唐突で不可解な言動がありました。昔はこれを、植民地統治の行政 (文明) と現地住民 (野蛮) との間で画家は苦悩した、と説明することが多く、『ゴーギャンの世界』も、ボードレールの「二重人」のような概念を持ち出して解釈を試みます。しかし現在では、画家の罹患していた感染症の進行に伴う記憶、意識の障害、錯乱をも一因に考慮することが、一般的だろうと思います。少なくとも画家晩年の不毛は、この身体的理由が大きい。こうした面の検討が『ゴーギャンの世界』に、全くない訣ではありませんが、極めて少ない。著者はこの画家に「官能の陶酔」でなく「理想の美の追求」を、人格の崩壊、破綻でなく「美の殉教者」を、見出そうとしているように見えますし、そのことは福永作品の理解に於て、極めて重要だろうと思います。
ちなみに例会当日に配布された「ゴッホとゴーギャン」に係わる「ノオト」翻刻は、興味深い資料ですが、この「自殺に失敗して生き延びた者」というあたりは、既に実在のゴーギャンというよりも、むしろ作者の想像力の作り出した「ゴーギャン」だろうと考えています。

 第三に、中期作品群の背景として。逆に中期の作品群を考える上で、『ゴーギャンの世界』は極めて多くの示唆を含み、その意味で重要です。もとより『ゴーギャンの世界』があったから中期の作品群が書かれた、という訣ではありませんが、恐らく背景として、重なる部分が多い。此処にはボードレールがいてマラルメがいる、象徴主義があり原始美術があって「仮面」がある。『ゴーギャンの世界』を、これは評論だから、として創作から切り離して考えるのは、誤りだろうと思います。中期の作品には「退屈な少年」や「告別」のように、さまざまな要素が盛り込まれながら、それらが主題として十分に展開されていないように見えるものがありますが、作者は何を考えていたのか、『ゴーギャンの世界』は、その意図を推測する手掛りの (総てではないにせよ) 一端を与えてくれているように思います。

 第四に、クレオール。日本での関心は限定的ですが、現代の文学研究に現われる主題の一つは、多言語、多民族、また文化的多元主義としての「クレオール」問題です (ちなみに近年、異なる社会的要素の混淆としての「クレオール化」に対し、この文脈で、文化的な混淆を「雑種化」、そのような文化を「雑種文化」と呼ぶ場合があります。此処で「雑種」は hybrid、「雑種化」は hybridization)。『ゴーギャンの世界』刊行の 1961 年に「クレオール」という視点は、まだ存在しなかった。しかるにゴーギャンは、ペルーに生まれたフランス人として、クレオールの画家であり、のみならず、福永作品の背景では、ロートレアモンもまた、ウルグアイに生まれたフランス人として、クレオールの詩人です。恐らく「クレオール」は、福永文学に本来内包されていながら今日まで検討されることのなかった問題であり、現代に於て福永作品を捉え直す一つの可能性となり得るのではないかと考えています。21 世紀に『ゴーギャンの世界』を読み返すことの意義もまた、そこにあるだろうと思います。

○Miさん:
 「ゴーギャン、私の1点」と題された単行本・全集未収録文(初出「週刊朝日百科 世界の美術13 ゴーギャン」朝日新聞社 1978.6)に加え、福永自筆創作ノートより「ゴッホとゴーギャンに関する補足的主題」なる翻刻文を配付しました。

 「私の1点」より。「その1点の油絵はゴーギャンの真髄を私に教えたばかりでなく、文学的な見地からも当時の私(註 1943年夏)に多くのことを示唆してくれた」「《かぐわしい大地》は私に感動と疑問とを同時に投げかけた。当時の私が「世界の謎」と名づけたものがそこにあった」。そして今でも「この1枚の絵を見ていると、確かに世界は滅びたが、しかし「世界の謎」は依然としてあると、つぶやきたくもなるのである」。
この謎は、もちろん福永が「問題」として選択したものですが、60歳の福永が書き記した言葉は、『小説風土』(執筆は1941-1951 福永23歳から33歳)で追求した問題を、晩年に至るまで一貫して保持していたことを示しています。

 「自筆ノート」より。「自殺という目的の前に、彼は遺書としての作品(我々は何処へ行くか)を描いた。それは自殺によってのみ美しくあるような作品である」「ゴーガンは自殺に失敗した。しかし本質的に彼は自殺者であり、自殺を予想することによって傑作を描くような芸術家だった。シュルヴィヴァンとして彼は死後の消息を描いた。それも亦傑作である」
この自筆創作ノートは『海市』(1968)のために執筆されたものの一部ですが、40代後半の福永が、ゴーギャンの芸術創造の秘儀に深い関心を抱き、自殺という鍵語を問題として選択し、解明を試みていたことを示しています。

 つまり、福永は青年時代から晩年に至るまで、持続的にゴーギャンに関心を持ち続け、少数の、しかし自らにとって切実な「問題」をそこから引き出し、それを小説(『小説風土』)であれ、今回の評伝であれ、定着しようと試み続けたということ、そのような種類の作家であることを、上記の資料でもハッキリと見て取ることができるでしょう。
 そのようなスタンスで執筆された『ゴーギャンの世界』(1961 執筆は1955-1960)は、たとえ学問的な部分では乗り越えられても、その詩篇や小説と並んで、決して古びることのない、福永独自の問題を含んだ「一つの作品」であると考えます。 【当日配付資料】
 ①2016年度会計報告(総会資料)  A4片面1枚
 ②ホームページアクセス者数の推移/会誌在庫数(総会資料) A4両面1枚
 ③2017年度例会内容・特別企画(案)(総会資料) A4片面1枚
 ④「『ゴーギャンの世界』についてのメモ」  A4片面1枚
 ⑤全集・単行本未収録文「ゴーギャン、私の1点」 A3片面1枚
 ⑥福永武彦自筆創作ノートより
  翻刻文「ゴッホとゴーギャンに関する補足的主題」 A3片面1枚
 ⑦池澤夏樹講演会チラシ A4片面1枚
 ①Sa ②Ki ③Mi ④Ha ⑤~⑦Mi
 *⑤・⑥は、以前例会で配付した資料を再配付したもの。

【回覧資料】
 ①『櫟の木に寄せて』普及版(書肆科野 1977)
  *次回例会時に採り上げる予定ですが、所蔵している者が少ないので回覧しました。
 ①Mi



第163回例会
  日時:2017年3月26日(日) 13時~17時
  場所:川崎市平和館第2会議室 参加:10名
   
【例会内容】
 1.「形見分け」を読む
 2.特別企画第1弾「池澤夏樹講演会」(6月11日)へ向けての相談
 3.「会報第23号」の内容・締切りの確認
  
【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
 
○Waさん:「形見分け」について
 主人公は、記憶を失った男。女は男が記憶を取り戻すことを恐れ、殆ど怯え、男はその「空白な内部」が次第に回復する経過を、恰も対象を観察するかのように、不安を抱きながらも静かに見守る。 一篇の背景を成すのは、こうした、日常を支配する不安と恐怖の感覚だろうと思います。この不安と恐怖の感覚は、恐らくは続く中篇「告別」の一つの主題をも成し(アフリカの「仮面」)、また(例会では述べませんでしたが)遡っては、「形見分け」に先立つ「退屈な少年」にも、運命の投げる不気味な影として認めることの出来るものです。その意味で、これは、作者中期を通底する文学的主題の一つだろうと考えています。
 Saさんの指摘された、短篇「未来都市」との類似、またKiさんの指摘された、ラジオ・ドラマのような語り口、いずれも以前から感じていたことで、大いに共感を覚えました。此処では主人公の独白を、句読点なしの文で表現してカナ書きにしていないので、読みやすいという発言が複数ありました。これは、読みやすさを考慮しての判断というより、むしろ技術的な問題ではなかったかと考えています。実際、物語の中盤(全集 6 巻 345 頁以降)、男の独白の中に、謂わば記憶の彼方から、心中を図った女の声が現われます(「あなたはいない あなたは出て行く」「君は誰だ どうしてそんなことを知っているのだ」)。こうした展開はラジオ・ドラマを想像しながら読むと、心躍る実に興味深いものですが、語り手が二人で、これをカナ書きで書き分けることは困難だったのではないでしょうか。
 この、男の意識に女の独白が現われて、次第に支配的になって行く進行は、後年の長篇『死の島』の終盤、萌木素子の人格の崩壊の場面を予告するものでしょう。また文体の実験として見れば、この作品の文体は、後に『幼年 その他の短篇』として纏められる後期短篇群のそれらの、原型のように思います。
不安と恐怖の感覚という主題に戻れば、作者最初の短篇「塔」の冒頭に、既にそれらは提示されています(「僕は階の途中で立ち止った。恐怖が僕を捕えたのだ。漠然とした不安の予感の中で、慥めるような足取で固い石の段を一段また一段と昇っていた僕に、恐怖は嘔気のようにこみ上げて来た」)。「愛と死と孤独」といった評言を離れて、改めてこの作者を定義するなら、こうした不安と恐怖の感覚を、抒情的に、さまざまな実験的手法を試みながら、語り続けた作家、とすることも出来るのではないか、と考えています。

○Fuさん:現況
 今年は、フランス語を勉強して来年卒業論文に入れるように努力中です。卒論は、アルチュール・ランボーについて研究する予定で関連資料等を3年前から準備しています。

○Haさん:「形見分け」について
1. 登場人物
 主人公の「男」:画家,「女」:画家の妻(さちこ),「男」の愛人,さちこの父親, 漁師の子供たち
2.構成・形式
 (2-1)表記法(寺田透「福永武彦と『告別』」1962による。)
 ・漢字混じり平仮名表記・句読点あり----主人公の「男」(画家)と「女」(さちこ)を描写している。 A
 ・漢字混じり平仮名表記・句読点なし----「男」の内的独白あるいは記憶を述べている。B
 (2-2) 叙述
 上記のA,BをA1B1A2B2-----------A16B16A17というように、描写Aと「男」の内的独白Bを繰り返しながら、時間順に記述されている。
3.主題    
 ・主人公の「男」の記憶喪失の原因とその回復過程
 ・夢の意味:記憶の回復に夢が大きな役割を果たしている。
4.考察
 (4-1)執筆意図
 発表時期
 ・「形見分け」 群像1961年3月号
 ・「告別」   群像1962年1月号
 ・「わが小説」 朝日新聞1962年3月13日朝刊-
 「形見分け」と「告別」を書いた直後に発表⇒「形見分け」と「告別」の福永の執筆意図がかなり具体的に記述されていると思われる。
「わが小説」で福永は「形見分け」について以下のように書いている。:
「形見分け」は平明な文体によって、内部風景と外部との接触による、意識の追いかけっこみたいなものを書きたかった。・・・(中略)主人公の空白な内部をゆっくり外側から追い詰めていき、そして主人公の意識は、それ自体の暗黒のうちに燭光を含んでいて、やがて外界と接触するに至る、そういう過程を書きたかった。
 以上をパラフレイズすると、例えば、以下のようになると思われる。:
 平明な文体:会話が多く用いられており、読みやすい。
 ・内部風景:「男」の見る夢
 ・外部との接触:妻(さちこ)との会話
 ・意識の追いかけっこ:記憶の回復の過程  ← 夢の果たす役割が大きい
 ・主人公の空白な内部:ある時(自殺未遂)からの記憶が失われている
 ・外側から追い詰めていき:「男」のかく絵の中に愛人の姿が現れてくる
 ・それ自体の暗黒のうち:記憶喪失
 ・燭光を含んでいて:夢により失われた記憶が少しずつ回復されていく
 ・外界と接触する:記憶を取り戻す
 (4-2) その他の興味深かった点
 ・「男」が子供たちと生簀に魚を取りに行くときの子供の描写が生き生きとしている。
 ・謎と鮮やかな謎解きが印象的
  ①主人公の「男」がなぜ記憶を失ったのか? 
   ガス自殺のショックのため。一緒に自殺した女が「男」から記憶を奪い、その代りに女の記憶を形見として「男」に残した。
  ②「男」の妻(さちこ)がなぜ「男」の記憶の回復をおそれているのか?
   記憶が戻ると、「男」が妻から再び去ってしまうのではないか、という恐れのため。
 ・泳げない「男」が、足を滑らせ生簀の中に落ち、死ぬと思った瞬間に記憶が戻ったという描写がよい。

○Miさん:「形見分け」について
 「形見分け」読解に当り、まず当時の書評より寺田透「過去の陽界の消息」(「図書新聞」1962.5.26)の一部を紹介しました。寺田にして「句読点の省略」や「過去(或は夢)と現在時の説明なしの転換」など、福永がしばしば用いる方法に関してかなり否定的なのが(=ひっかかって読み難い、いたずらに詩的に流れる)、今から見ると逆に不思議に思えます。寺田には、フランス文学は学ぶべき対象であるだけで、その学んだ手法を自ら実践することを本気で試みている後輩に対する想像力が欠如しているようです。
それに「形見分け」は、福永作品としてむしろ読みやすい方であり、ひとつの文体の試みではあっても、殊更な実験小説ではありません。
 一方で、山本健吉/平林たい子/北原武夫の鼎談(「群像」1961.4)の一部も朗読しました。こちらは、福永文学に対する半世紀以前の文壇的評価を垣間見ることが出来ます。
その中から、北原の、この画家には「生活人としての生活はない」「生活を付与されていない人間を描く文学というのは」「大事な点をはじめから逃げられる」ので「ちょっといやですね」、「結局こういう人間の心理のこまかい浮き沈みとか、変遷とか、陰翳などいくら描いてもしょうがない」「文学は生活の責任を持っている人間をもっと突っこんで描くべきじゃないかね」という批判を特に紹介しました。
 もちろん、散々言われた内容ですし、今更紹介するほどのこともない意見かもしれません。このような批判を一蹴することは、今はた易い。「文学的方法の持つ意味を丸でわかってない」「福永自身が既に『1946』で痛烈に批判している「特殊日本的小説」のことじゃないか。普遍的「人間」を描くのが文学だろう」などなど。私もそう思います。福永武彦も中村真一郎も、実作をもって、その批判に答えたことを私たちは知っています。
 ただ、北原の言葉は「自ら生計を立てている人間の、日常的な様々な葛藤を背景にしたその内面心理を描くべき」ということ、つまり社会関係の網目の中で、その結節点としての人間を描くのが本筋だということで、必ずしも私小説に直結するわけではありませんし、それ程おかしな言説ではありません。それを「形見分け」に求めるのはピント外れですが。
 この言葉から56年経った現在、例えば私小説作家を自認していた山口瞳の電子版文学全集が、全26巻予定で昨年末より刊行され始めています(小学館)。それは、一般市民(=生活の責任を持っている人間)の中に、多くの愛読者がいることを、出版社が見越しているからでしょう。実は、私自身、永年の山口文学愛読者でもあり、この電子版全集を1巻1巻愉しみつつ読み直しています。
 私たち福永愛読者・研究者は、例えば山口瞳の文学を「わかってない」で済ませてはいけない。或は、私小説一般を「趣味の違いだね」「いろいろあるのが文学さ」と突き放すだけでは勿体ない。もちろん、文学の有り態はいろいろですし、趣向もいろいろ。最終的には「肌に合うか合わないか」「好きか嫌いか」しかないのですが、しかし、福永文学の研究者としては――福永自身が大正の私小説を好んで読んでいたし、自宅の居間には同時代の『庄野潤三全集』が置かれていたという中村真一郎さんの言葉を思いだすにつけ――「趣味の異なる文学の有り態」にも眼を向けておきたいものと思うのです。私たちにも「私小説」は、少なくもその良質なものは、充分な愉しみを与えてくれる筈です。
 逆から言えば、私小説愛読者・研究者の眼に、福永文学がどのように映っているか、そのことに敏感でありたいと思います。福永、中村を初めとした豊かな文学的果実を手にしているのですから、もっと余裕をもって趣向の違う小説に対したいものです。

○Kiさん:「形見分け」について
 福永作品としては貴重なハッピーエンディングであり、叙述における時間の交錯もなく読みやすく、記憶喪失という謎がからんだミステリー風味も効果的で、死んだ女の形見分けが女の記憶であったという着想も秀逸。福永らしい情緒の点においても過不足なく、彼の短篇小説中の秀作だと思う。
 以下の点から、ラジオドラマのシナリオが想起される構成であると感じた。福永自身がドラマ化を意図していたのか、たまたまなのか。
 ・登場人物が少なく、場面が限定的。
 ・ラジオドラマであれば、男の内的独白、夢の描写も無理なくできる。女の歌の挿入も効果的だろう。
 ・ドラマの展開が時間の流れに沿っている。
 この作品に限らず、短篇から長篇に至るまで、福永作品におけるミステリー要素(「謎」の提示)の重要性を改めて感じた。読者の参加を促すためだけでなく、それと同等以上に福永の個人的嗜好の反映なのだろうと思う。

【当日配付資料】
①「「形見分け」についてのメモ」 前回配布済みの内容の増補版。 A4片面1枚
②元版『告別』書誌(献呈署名本2冊/短歌入り本1冊の画像付き) A4片面2枚
 短歌は「何ゆゑに移るをいそぐ入日雲/雲の旗手のしばらくの色」
③元版『告別』新刊紹介(「群像」1962.6) 笑顔の福永の顔写真付き。A4片面1枚(②の裏面使用)
④「池澤夏樹講演会(6月11日)へ向けての事前準備の件」 A4片面1枚
 資料提供:①Ha ②~④Mi

【回覧資料】
①「映画評論」合本(1937年11月号掲載「意欲の平行」が含まれる。映画「どん底」評。)
②山口瞳『江分利満氏の優雅で華麗な生活』(小学館P+DBOOKS)刊行記念、山口正介さんトークイベントの案内フライヤー2種⇒池澤さん講演会のちらし作成の参考にするため。
 資料提供:①A ②Mi



第162回例会
日時:2017年1月22日(日) 13時~17時
場所:川崎市多摩市民館第1学習室 参加:10名
内容:
 ①4月発行予定の「会報第23号」の内容検討  
 ②「福永武彦生誕100年へ向けての特別企画を提案、皆で検討  
 ③「告別」を読む 第2回
 ④科研費助成プロジェクトの一環として、文学館を調査した経過報告 【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
○Maさん:『告別』第2回 討論について
 『告別』は場面ごとの人物関係と時間の関係、意識の深度の差位など一行一行に注意力が必要なので、集中できる時間の確保が必要だが、今の私にはいずれも欠けている。
 第一回は欠席、継続論議となり嬉しくもあったが、本文の読解も章の区切りで内容を簡単にメモした程度で出席することになった。
 いつもながら『参考資料一覧』、『告別についてのメモ』、『自筆資料調査』、「講座福永武彦文学を愉しむ」(仮題)の提案など凄みある内容ばかり。より多くの参加者があって欲しいと思わずにはいられない。
テキスト理解にあたって原善氏「福永武彦「告別」の構造」を元にHさんが発表された『告別についてのメモ』が本文内容をスッキリ整理してくれた。
 また『参考資料一覧』の錚々たる論者の顔触れと多方面からの指摘の多彩さは、要旨をまとめられたKさんのお力がおおいに預かっていると思われるが、各論者の内なる意識を揺さぶった感のある『告別』の内包する力を考えさせられる。
 完成度でいえば荒削りな面、着せ替え人形めいた人物造形など欠点も目立つが、『告別』はまだまだ論じ尽くされていないと思う。
 最近、福永武彦は作家として生を全うしたその点において幸福な人であったと思っている。そしてそれこそが読者に生きることへの勇気を与えるのだと思う。
 蛇足だが、以前から気になっていることがある。語り手「私」と上條が音楽会の後にはいったバアから連れ立って出、地下鉄に乗車する。「私」は気分が悪くなりタクシーで帰ろうと「四谷見附」で降りる。地下鉄は丸の内線、現在の「四谷」駅と思われるが、地名とは別に「四谷見附」の駅名があったのか。音楽会は「日比谷公会堂」あたりか。バアは日比谷か銀座のあたりか、「私」の背後を走る電車は「都電」のことか。大きく変わらない地域でも背景は既に時代の変遷があるはず。先日ドックの検診帰りに散歩を思い立ったのはよいが勘違いし「四谷三丁目」で降りてしまいまだ確認できずにいる。

○Hさん:「告別」について
 「告別」は一読して内容をつかむのが難しかったので、読解の手掛りを得るため、過去の文献をいくつか読んでみた。その中で原善 「福永武彦「告別」の構造 1996」が「告別」を理解するのに参考になった。
1. 構成・形式
〇原善氏による「告別」の位相を図式的に示すと、次のようになる。
 A = 作品の基底となる語りの視座。
   現在時の〈私〉パート。次のBパートを〈その時〉と指し示す。
 B = 近過去の〈私〉パート。
 C = 上條に感情移入した〈私〉が想像する上條慎吾の大過去。〈彼〉パート。
 Cの中での片仮名表記部分:
  D = 上條慎吾(死者)の声。「己」パート。 Cの〈彼〉パートを相対化する。上條慎吾(死者)の独白。
  E = 夏子(死者)の声。
〇「告別」は3行の空白行で区切られた23の断章からなる。例えば、断章1を①と表記する。23個の断章を上記のA, B,Cの位相に実際に分類すると、以下のようになる:
 A:⑳,㉒(上條慎吾の一周忌の頃)
 B:①,③,④,⑥,⑦,⑨,⑪,⑬,⑮,⑱,㉑(⑪と⑬以外は上條慎吾の入院から告別式まで)
 C:②,⑤,⑧,⑩,⑫,⑭,⑯,⑰,⑲,㉓(㉓以外は上條慎吾の入院以前の大過去)
 ⇒
 以上のA, B, Cに属する断章を時間順に並べ換えると、以下のようになると思われる:
  ⑧,⑩,⑯,⑭,⑰,⑫, ⑪,⑬,⑤,②,⑲, ③,④,⑥,⑦,⑨,⑮,⑱,㉑,①=㉓, ⑳,㉒  ☆
       C       B    C         B        C   A
2.主題
 ・上條慎吾の、娘の夏子から、愛するマチルダから、家庭から、仕事からの訣別・告別。
 ・マーラーの「大地の歌」の歌詞を援用しながら、故郷を求めて彷徨する生を描くこと。
3.考察
(1)(a)元のテキストを読んだ場合と(b)時間順に並べ換えたテキストを読んだ場合との比較
 (a)元のテキストを読んだ場合
 ①,②,③,④,⑤,⑥,⑦,⑧,⑨,⑩,
 B・C・B・・・・C・B・・・・C・B・C・

 ⑪,⑫,⑬,⑭,⑮,⑯,⑰,⑱,⑲,⑳,㉑,㉒,㉓
 B・C・B・・C・B・C・・・B・C・・A B ・A・C
 ・起伏に富んだ物語になる。
 ・断章1と断章23は同時と読むことができ、断章23は上條慎吾の告別式で上條の魂が自分の人生を振り返り、皆に別れを告げていることを示すと考えられる。
 ・断章1で始めて断章23で終われば、上條慎吾の皆への告別から上條慎吾の告別式に繋がり、円環が閉じられて小説が終わった感じが得られる。
 (b) 時間順に並べ換えたテキスト(上記の☆印)を読んだ場合
 ・話の筋がわかりやすく、まとまりのあるものになる。
 ・話が単調になる。
 ・断章22は上條慎吾の一周忌の会に出席した〈私〉が途中で発作を起こす所で終わる(「・・・巨大なものが私を押し潰した。」)時間的には一番後になる断章22では話が終わった感じがしない。宙吊りの状態(それで、次はどうなるのか?)
〇話の構成は複雑になるが、やはり(a)の構成でないといけないと思う。

(2) 加藤周一の『続羊の歌』「死別」との比較(『続羊の歌』: 自伝的作品)
〇加藤周一の『続羊の歌』「死別」の友人(1967年発表)
 福永武彦 「告別」の上條慎吾(1962年発表)
 *「死別」の友人の描写と「告別」の上條慎吾の描写はよく似ている。

「死別」
 ひとりの友人が死ぬ。・・・(中略)
 死んだ男 ― 私は彼をほんとうに識っていたのだろうか。・・・(中略)
 私の女友だちの一人は、彼がおかしい、大変奇妙な人間だ、といったことがある。・・・(中略)しかし私の裡には、次第に空想が育っていった。その空想は、次のようなものであった。
 彼は欧州で彼女に会い、夢中になった。・・・(中略)しかし東京に残して来た家族を捨てるつもりはなかった。・・・(中略)そこで窮余の一策を・・・(中略)彼は案じたにちがいない。彼自身は、東京の家族の面倒をみる。彼女はひとりで暮す。相愛の男女は、共に暮すことをみずからあきらめ、その苦しさに堪えることによって、かえって強く心を通わし、次第に精神的な絆を強めながら遂に無上の友情に到るであろう。その友情は、お互いの仕事をたすけ、お互いの人間を豊かにするにちがいない・・・・・ 彼はそういうことを夢みて、その夢を実現することができなかったのであろう。

「告別」(断章3、全集384頁)
そして私は、私自身が上條慎吾についてどれだけのことを知っているか、いなどれほど多くのことを知らないかを、自ら確かめ得た。
 *福永と加藤に共通の友人の死は大きな衝撃であり、友人の心情を理解するため、「死別」と「告別」を書いたのではないか? この友人の死がやはり福永が「告別」を書いた動機ではないかと思われる。
以上

○Kuさん:「告別」からの連想。
 上條慎吾は、日本にようやく復員してきました。そして妻の悠子さんのいるところに行きました。そして家族に、東京の家が焼けてしまったことを告げます。
 僕が関心があったのは、上條の復員は、生々しく感じられなかったことです。 
 実は、僕の恩師のK先生は、復員学生でした。そして、戦争について、よく話していました。先生は、戦争末期、学徒兵として東南アジアにまわされました。そして敗戦後は捕虜生活を送られ、1年半くらいでようやく復員してきました。
 そして、復員船の中で、当時の日本で話題になった野間宏の『暗い絵』を読み、新しい文学がはじまったことを実感されたそうです。その頃の話として、「文藝」特集号『追悼野間宏』を読む機会があったのですが、その中で、中村眞一郎さんが鈴木貞美さんの「『暗い絵』を野間さんがお書きになっていた時に、もうすでに?」という質問に対して「出てきてすぐに知りあいになって。」とこたえておられました。そして「作品自体はどうだったですか。」という問いについてはつぎのようにこたえておられました。
 作品自体は、野間が書くだろうと思うものを書いていたから不思議はなくて、僕のほうも『死の影の下に』が雑誌に連載になっていて、やっぱり書くだろうと思うものを書いているというので、野間にも驚きとかそういうものはなかった。
 思えば、K先生は、野間宏に言及されることはあっても、福永や中村に言及されることはありませんでした。話を復員に戻せば、先生は戦争のことに触れるとき、「後世の歴史家は、君たちについてどう評価するだろうね。温室育ちでさあ!」と言われました。僕はそこに復員学生の図太さを感じました。悔しいけど、これも事実です。
 話を多方面に広げます。僕の姉は医学系の学校の出身ですが、授業で医学部の先生が若き日の経験を述べることもあったそうです。兵士が怪我をしたら治療し、一方マラリアなどの伝染病を意識したそうです。
 勿論、戦争中の自分の行動について語らない人もいました。南京などの激戦地では多くの日本人が命を失いました。その折、敵兵を殺した日本人が少なからずいたことも事実でしょう。
「やられたら、やり返す」のが戦争なのです。戦争が起こらないことを願うのみです。
 『告別』に話を戻します。上條が戦争について述べなかったのは、彼が加害者になったときがあったからかもしれません。そう考えれば、上條のかくされた態度がわかるかも知れません。

○Kiさん:「告別」について
 本作品は、福永が後日、『長篇小説を書くための準備として「告別」を書いた』(全小説第6巻・序)と書いているように小説技法上の工夫については評価できるものの、個人的な感想として、福永作品の中では読後の感銘度が少ない。なぜなのか、その要因を考えてみた。
 菅野昭正氏が『ここでは、「彼」にせよ「私」にせよ、作中人物の内面はそれほど深い奥行をもっていないし、複雑な陰翳を畳み込まれているとは言えない』(講談社文庫「告別」解説)と述べているように、上條が、いわゆる福永的暗黒意識を抱えた人物として描かれていないことが最大の要因と考えられる。内面描写が弱いのは「彼」(上條)と神経症を患う「私」(福永自身)とに焦点が分散していること、上條のモデルが実在したことがあるのだろう(福永は否定しているが)。上條とマチルダとの愛も不可能愛の次元にまで深まっていない。
 全体的に、マーラーの「告別」のテーマ「生は暗く、死もまた暗い」に寄りかかり過ぎた印象を受ける。「死の島」でのシベリウスにおける「カレワラ」と比肩できるくらい福永には格好の題材であり、傑作中篇となり得たかもしれず、実に惜しい。

○Miさん:Niさんの発表を聴いて。
 科研費助成プロジェクト「福永武彦における文化史的位相の研究」の一環として、全国各地の文学館・大学図書館を調査されている途中報告が、Niさんよりなされた。
 各種資料を調査されている中より「福永武彦自筆資料調査」として①砂町文化センター石田波郷記念館 ②日本近代文学館 ③萩原朔太郎記念館 ④山梨県立文学館 ⑤神奈川近代文学館の所蔵資料の概略が示され、特に⑤の所蔵状況に関して口頭で報告された。
 同館に所蔵されている井上靖、埴谷雄高、中野重治他宛書簡の概要が報告され、特に新潮社編集者の谷田昌平宛の書簡が多数あり、内容が興味深いだけでなく、福永の自筆(かなりラフな筆遣いで読み難いと)に慣れるためにも、一度同館を訪れることの有用性を力説された。
 私自身、既に数回同館所蔵資料を手にしている経験からしても、福永の自筆物に数多く触れておくことは、生身の福永を身近に感じる捷径だと思うので、やはりお勧めしたい。
 ただ、例会発表の際、神奈川近代文学館の了承を得ていないという理由から、例えば谷田昌平や埴谷雄高宛の書簡紹介をする際にソノママ朗読されず、要旨のみであった点は、やむを得ぬこととはいえ、残念であった。
 福永武彦の自筆物(草稿・ノート・書簡・色紙類)が全国の文学館・大学図書館に分散している現状に於て、一館一館に脚を運び、丁寧に調査することの重要性は言うまでもない。その地道な調査の積み重ねの上に研究は成り立つ。その調査そのものがひとつの研究であるが、それは、年譜・伝記作成や書誌研究のためばかりではなく、福永文学の正当な理解、解釈に新たな局面を開くためにも不可欠の作業であろう。その調査を継続されているNiさんに心底より賛意を表したい。
 一方で、福永自筆資料は全国の文学館・大学図書館に分散しているだけでなく、同時に、全国の愛書家の手許にも相当量の資料が眠っている事実を押えておきたい。これは、20年以前~10数年前に、福永自筆資料が大量に古書市場に流れた結果だが、その状況の一旦は「福永武彦研究第6号」(2001)にもご報告してある通り。
 つまり、文学館・大学図書館を丁寧に調査することは不可欠の前提としても、全国の愛書家の手許に所蔵されている福永自筆資料の調査を抜きにしては「福永武彦自筆資料調査」は、道半ばで終る(完遂出来ない)のが現状である。
 自筆草稿だけでも『死の島』(は56回連載がバラバラに)、『告別』、『夜の時間』(もバラバラに)、『世界の終り』、『廃市』、『海市』など、すぐ思い浮ぶだけでも重要な作品は愛書家(と一部の研究者)の手許にある。
 他にも大量の創作ノート、メモの類、書簡や色紙まで含めたら、恐らく全国の文学館・大学図書館に所蔵されている資料群に質・量ともに劣らぬ資料が眠っているはずである。
 これらの資料にどうアクセスしていくのか、単に愛書家の善意に俟つだけではなく、何らかの働きかけをしていくことが必須だと、以前より私は考えている。その働きかけに、来年度の特別企画(当号掲載)がひとつのキッカケとなってくれることを願っている。

【当日配付資料】
①Ⅰ「告別」についてのメモ/Ⅱ「形見分け」についてのメモ A3 1枚
② 新年度特別企画「福永武彦文学を愉しむ」に関する概略文 A4 1枚
③ 科研費プロジェクト経過報告書 「福永武彦自筆資料調査」 A4 1枚
 資料提供:①Ha ②Mi ③Ni 



第161回例会
 日時:2016年11月20日(日) 13時~17時
 場所:ミューザ川崎シンフォニーホール会議室2
 参加:8名
   
①新刊の「福永武彦研究 第12号」と「Nocturne No.2」の講評に続いて、②23日の「東京文学フリマ 第23回」への参加関連の相談、そして③中篇「告別」の討論を行いました。
   
【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
〇Niさん
 『福永武彦研究』第十二号で編集を担当しましたNiです。編集に携わったものとして、会員の皆さまに会誌を無事にお届けできたことを嬉しく思っております。今号、第十二号は、近桂一郎さんの多大な御協力の下に、かなり充実した内容になっているのではないかと思っております。近三四二郎の手になるスケッチや絵画を、表紙・裏表紙、また誌面に挿入されたカットにまで多分に使用できたことは福永武彦研究会の会誌ならではの特徴ではないかと思っています。特に表紙・裏表紙はサイズいっぱいに絵画が使われており、ビジュアル面でも目を引くものになっていると思います。内容については、近桂一郎さんの日本少年寮をめぐるお話は、福永武彦の個人史を考える上で大変貴重な側面史となっており、日本の教育史、支援制度の歴史を考える上でも得難いお話となっていると思います。また青木さんにご提供いただいた川上澄生宛の書簡は、福永の交友関係を知る資料として貴重なものですが、それとは別に福永武彦の肉筆を知る機会ともなっていると思います。(私の印象では、残された資料に見る福永の肉筆は、彼のせっかちな性格をよく表してると思うのですが、川上澄生宛の書面の文字はかなり丁寧に書かれていると感じました。川上澄生への敬意が感じられる点です。)
 編集を担当するものといたしましては、毎号力作の御論考を発表してくださる渡邊さまに感謝申し上げるとともに、ぜひ会員の皆さまからの文章も掲載したいと思っております。論文という形ではなくとも、福永をめぐる感想や随筆などぜひお寄せいただければと思っております。今後ともよろしくお願い致します。

〇Haさん
 近桂一郎さんの講演記録「日本少年寮と福永武彦」を通読しました。寮母の奥宮加壽の人柄と福永が深い影響を受けた少年寮の実態がよく理解できたように思います。昨年の研究会の皆さんと今さんとの偶然の出会いから実現した今回の講演会は非常に意味あるものとなりました。
 渡邊さんの「退屈な少年」についての作品論は今回も素晴らしいもので、興味深く読みました。渡邊さんの他の論文と同じく、私にはとても思い付かない独創的な解釈がなされています。〈福永後期の長編(『海市』と『死の島』と『風のかたみ』(?))に運命小説としての性格を指摘出来るなら短編「退屈な少年」は、そうした面をも予告するものだろう〉という指摘はさすがです。(今回の論文を読んで、「夢みる少年の晝と夜」,「夜の寂しい顔」についての渡邊さんの論文も再読したくなりました。
 青木さんの「福永武彦についての二つの思い出」を楽しく読ませていただきました。福永武彦の肖像画像書票を1998年と今年に専門家に作成依頼するという気の入れ様は素晴らしいですね。
またご紹介された福永の川上澄生への手紙と青木さんの説明によって、福永と川上に親密な交流があったことを知りました。
 小笹さん,西田さんの『夢のように』の索引作成は根気のいる作業でご苦労様でした。『夢のように』を読む際に活用させていただきます。

〇Naさん
 「告別」:「告別」について諸家からの多くの批評を見て、この作品に対して関心が高かったことを知りました。私は「告別」を初めて読んだときに、先にあった事件も知りませんでしたので、作品内だけでの主観的イメージを持ちました。
「告別は愛着がある作品」と氏は言っていますが、この小説にはどこか試みのような印象を受けます。「私」と「彼」の記述での時間が順序不同になっているところに技巧がみられ、人の回想にもこのようなところがあるので、自然に流れていくようであり好感がもてます。人は仮面を被って生きているような孤独な存在であるということが巧く描かれています。ただ「彼」がマチルダをどう愛しているのか、妻への気持ち、夏子がどうして死を選んだのかについては描写が少なく、愛について言及されていません。マーラの「大地の歌、第6曲」が聴こえる最後部の描写は秀逸です。

〇Miさん
Ⅰ雑司ヶ谷にて。
 11月22日(文学フリマの前日)、忙しい合間を縫って雑司ヶ谷の近桂一郎さん宅を訪問する。何度目の訪問だろうか。近さんに御講演をいただいた新刊会誌第12号をお届けすることと、お借りしていた父・近三四二郎さんの絵画を返却するためである。「郵送でも結構です」と言われていたのだが、万一絵画が紛失したら責任の取りようもないし、何しろお礼の気持ちを直接お伝えしたかった。
 「この日本少年寮に生れ、今まで生きてきたことが、皆さんに多少でもお役にたったなら良かったと思います」「専門とはまったく違う分野なので、わからないことは、はっきりとそう言おうと思いました」「私の作った資料など取るに足らないけれど、回覧日誌「努力」の一部でもお伝え出来たことはありがたいと思っています」と仰られる近さんのお顔はいつも通り穏やかだ。先月、80歳になられたという。対面していると、嘘や虚勢とは無縁に生きてこられた清潔な人柄が、こちらにソノママ伝わってくる。
奥様にも1冊お渡しすると、ゆっくりと表紙を擦って、近安枝さん(『幼年』のYさん)の遺影に向かい「こんなに立派な冊子が出来ました」と言われながら、その前に置かれた。「まずは、母に」。有リ難イ。ソシテ、福永ニ。近サンニ御講演ヲイタダイテ、本当ニヨカッタ。アツカマシイ、ゴ迷惑ナ出会イダッタカモシレナイガ、コレデヨカッタンダ。
 (御講演と質疑応答の間に挿入したペン画の住宅の場所を確認したところ)応接間の後にある小部屋の硝子戸を開けられて「ここの左手、あの建物(は建て替えられていますが)を見て、描いたものです」と教えてくれる。近サンニハゾウサモナイ小サナコトモ、アト20年経ツトワカラナクナル。歴史の無常な推移。しかし、忘れ去られるに任せては惜しい事実もある。ソノ事実ヲ、幾ラカデモ定着デキタダロウカ。いつも通り、美味しいクッキーと紅茶をいただき、しばらくお話しして辞去する。
 今回の御講演内容は、福永研究が広がり深まるにつれて、徐々にその価値が認識されていくに違いない。私が、ここでその意義を云々するには及ばないだろう。今は、黙って提出するのみ。
Ⅱ「Nocturne No.2」 について。
 小学館から復刊された『海市』を特集するという着眼が素晴らしい。そして、まず表紙・裏表紙の装幀、題字、本文の組みともに垢抜けていて、スッキリしていて眼に快い。編集のひとり木下さんが、会誌第12号よりも、こちらに一層心を籠めて作成しているのではないかと邪推したくなる出来栄え。予定された原稿が揃わなかったという点は残念だけれど、批評誌として巷間に訴える冊子になったことは、文学フリマでの販売成績を見ても証明されている。
ご本人たちの「批評誌です」という位置付けにも関わらず、巻末の「あらすじ表」、こういう一覧は、手間を厭って、そしてミスを恐れて公開しない研究者が多い中(労力の割に、基礎的作業として軽んじられる)、私は、ひとつの研究として認めたい。福永作品の本文照合を延々と続けている者として、この一覧を掲載することにした皆さんに賛意を表したい。
 ひとつ注文を付けるとすれば、このあらすじ表に時間軸を投入して欲しかった。例えば、P.145の高原でボートに乗る彼と彼女の箇所、ここは6年前の例会で、この2人が誰なのか意見が割れた箇所だけれど(私は菱沼と弓子だと解釈した)、この場面の時期はいったいいつ頃なのか。弓子結婚以前の大過去なのか、それとも直近の過去か。私は、それはハッキリしていると思う。各節ごとに、人物の特定をしているならば(記述から自ずと時期が特定できる節以外は)、同時にその時期を明記すると、さらに立体的な表に出来たと思う。
と、ここまでは賞賛の言葉。ところで、この表に類した一覧は、既に過去の例会で発表されているのを、ご存知だろうか? HP「例会案内」の第37回(1999.6)、河合吾郎氏の作成した一覧を見ていただきたい。その上で、再度問いたい。この一覧は、ご覧の通り簡単にネット上で確認できるものだけれど、この存在をまさか知らなかったということはありますまいね? もちろん、河合氏の一覧は単色であり、また「ゼロ節」に関する記述はないけれど(この節の意味付けに、今回の表のオリジナルな点を認めるとしても)、彼と彼女の特定や、内容に関する簡略な記述を含め、その骨格は、既にここに提出されており、かつHPに掲載されている。このことを万一見逃していたとしたならば、研究論文ではないと言っても、資料探索を怠り、安易に作成された一覧と言われても仕方ない。いや、知っていたというならば、何故「『海市』あらすじ表について」に於て、ひとこと言及しないのか。今は居ないとしても、当会のかつての会員の、公開されている労作である。あえて、このことを今ここで記す意味を、(他の皆さんにも)考えていただきたい。
 各論の底本として、小学館版(=全集・全小説版)を選択したのは、決定稿として正解。『海市』は、クリスポ・しゅーげさんが指摘したように、元版と全小説版では、章の区切りの表示に違いが見られる。その空白部分が、この小学館版では特に目立つようだし、その点に注目して安見子と結びつけた解釈はとても面白かった。ただし、その天空を駆ける勢いの良い文章からは刺激を受けるものの、ここでもしっかりと足許を確かめないと、転げてしまう危険を孕む。見本誌段階に至るまで「『海市』元版の各章は、空白で区切られている」と勘違いしていたことなどは、実際に元版を手にしていれば間違えようのないことだった筈。自ら確認しないことを基にして、決して論を立てぬという当然のことに、改めて留意して欲しい。ゆめ資料を侮るなかれ。
 雨でずふ濡れさんの論、むしろ会誌第12号に掲載したかった。つまり、本名で発表しては如何? さらに挑発的な文言を重ね、既存の福永研究を撃ち続けて欲しい。既存の研究を撃ち続けているのは、しかし、貴兄だけではない。私の書誌研究は(解釈とは土俵が違うので、ここで直接対照は出来ぬかもしれぬが)足許を疎かにする既存の研究に対して抱いている、大きな疑問と不満を背景にしており、本文異同表の作成という一見徒労に見える作業によって、実質的に挑発・挑戦している面がある。
 Cahierさんの一文、鋭い真摯な文章に打たれる。福永文学から若くして決定的な影響を受けた感性を持つ者、その故の愛憎。読んでいると、福永が『1946』で、自らの内面を見詰めて諄々と説いていたエッセイの文体を想う。ただ、福永文学を客観的に研究するには、余りにその世界に親密な感性だが、福永との距離感は、徐々に時間が解決(?)するだろう。焦らず、福永文学に息長く付き合って欲しい。
 私自身は、6年半前にmixiの福永武彦コミュ、『海市』トピックで幾らか議論めいたことをしたことがあるので、参加されている方は一読していただきたい。

〇Waさん
・「告別」について
 構成については、「私」と「彼」の断章が交互に配されていることが、生と死の主題を提示することに於て効果的だと思いました。ただ此処では、単に生と死が対比されているのでなく、病に倒れた「彼」のみならず、「私」自身も病を抱えて、時に死の淵を垣間見るということ、すなわち「死にゆく病者を健康な生者が見守る」という単純な構図ではないところが要点だろうと思います。そのため、一方で「私」は「彼」について何を知っていたか、と自問しながら (他者の理解の不可能性)、他方では「彼」にある共感を覚えているようにも見え、その微妙な距離の取り方が、さまざまな想像を誘います。
 内容については、例に拠ってと謂うべきか、中篇という枠組みにはやや過剰にも思われるほど、さまざまな要素の盛り込まれていることに、この作品が長篇への準備であったという作者の意欲を感じました。例えば「マチルダ」の挿話は、謂わば「鴎外」的な主題ですが、ただ『舞姫』を踏まえたというよりも、むしろ西欧近代に直面した日本人の反応という主題として捉えるべきではないかと思います。作者の周囲で見れば、加藤周一さんの初期の長篇『運命』が、そうした問題を扱うものでしたし、森有正さんの事例もあったはずです。
 また、あまり言及されないようですが、アフリカの仮面を通して死生観に及ぶ条り、いささか唐突に見えるものの、やはり作者は、国際小説とは言わないまでも、主題のある普遍的な拡がりを意図していたように思います。その意味では「マーラー」も、構成上、重要な要素であることは間違いないとしても、そこだけを見て音楽小説と捉えるのでなく、こうした拡がりの中で位置附けるべきではないかと考えています。ちなみに演奏会の帰路、「私」の気分が悪くなる場面で、地下鉄の通勤客を見ながら、人みなそれぞれに悩み、苦しみがあると考える条りに、『パリの憂愁』の一節を連想しました。
 討論での指摘に、また同時代の評でも、作中の人物が凡庸で深みに欠ける、というものがありました。確かにそうした面は否めないかも知れません。一つの「弁明」は、文庫本の解説で菅野先生も述べられている通り、中篇という枠組みゆえ、人物の造型をやや単純化することで主題を明確化した、ということでしょう。しかし、それだけかどうか。
 私自身の読み方を反省すれば、私は作者が一篇の作品に、何を意図して、どのような工夫を凝らしたかといったことに興味があり、初期から中期、中期から後期への展開を意識しながら読んでいるので、この作品も、作者が長篇の準備を意図したものとして、謂わば中期の終わり、後期の始まりに位置する作品として、作者のさまざまな工夫や試みを、その成功/不成功は措いて、面白く読みました。
 しかし一般に短篇や中篇が、一つの独立した作品として文芸誌に発表された場合、読者は予備知識なしに、それぞれの興味と期待で、つまりは作者の意図や抱負と別のところで読む訣ですから、作者は不本意かも知れませんが、それで面白くないとされても、仕方のない面はあるでしょう。所謂「モデル」問題も、作者の意図や工夫を考える前に、表面的な設定に眼を奪われた結果ではなかったかと思います (もっとも、どう見ても福永さん、中村さん、加藤さんとしか見えない三人が、病院の地下の喫茶室で相談する場面には、思わず笑ってしまいましたが)。
 これは私としては、小説を読むとはどういうことか、小説を論じるとは何をどうすることなのか、考え直さなければいけないような気がしていて、今回の例会での収穫の一つとなりました。
 なお、講談社文庫/文芸文庫に附された菅野先生の「解説」は、得るところ多く、参考になりました。お読みになった方も多かったようですが、菅野先生には別に『小説の現在』中央公論社 (1974) があり、そこに先生の小説観、批評家としての立場は、明確にされています。大岡昇平の『レイテ戦記』、野間宏の『青年の環』などを論じて、最後の章が『死の島』論 (中篇「告別」への言及も含みます) ですが、評論集というよりも、全体を一つの長篇評論として読むべきもののように思います。上記「解説」の背景を知る上でも興味深く、私自身は読んで大変勉強になりました。興味のある方は、是非ご一読を。
・Nocturne 2 号について
 初回は begineer's luck ということもあるでしょうが、Nocturne 2 号、充実した内容に驚き、感心しました。良いものが出来たと思います。全体の構成と装幀に、センスの良さを感じます。殊に表紙のデザインは、レイアウトや色調を含めて大いに気に入りました。敢えて注文を附けるなら、表紙でも目次でも何処かに「特集 『海市』再訪」くらいはあっても良かったとは思いますが。しかし、それにも増して書き手の三人の文が、いずれも良く書けている。1 号が企画で読ませたとすれば、2 号は、内容で読ませるものです。諸君、おめでとう。そして、お疲れさまでした。
 作品の書かれた時代の状況としては、戦後の社会の変化―伝統的価値の崩壊、工業化に伴う都市への集中、核家族化など―を背景とした「自由恋愛」ということが (少なくとも間接的には) あったと思いますが、それを所謂「ジェンダー論」を踏まえて「脱ロマン化」として捉え直す「雨でずぶ濡れ」君の視点を、新鮮に感じました。結論部分の <不可能性の恋愛> の可能性、という命題、また池澤さんの編集を評価して読みを批判するという条りも、全く同感です。
 その <不可能性の恋愛> の可能性を、別の視点から―「エッジ」の立った、というか―より鋭角的な議論で掘り下げるのが「Cahier」君の文でしょう。その、愛するほどに孤独を深め、善を求めるほどに罪を意識するという逆説に倦んで、「イロニーで読者を啓蒙しようとした虚無的の作家」という定義は斬新で、感心しました。そこに到るまでの話の進め方も適確で、複数の作品からの引用に敢えて附け加えるとすれば「遠方のパトス」か。あれも、謂わば封印された愛の物語です。この議論は『海市』のみならず、広く福永作品の本質に迫る射程を備えるものと思います。
 やや饒舌な語り口ながら、「読みやすいメロドラマ」の評価を退けて『海市』を「福永文学の最高傑作の一つ」とする「クスボリ・しゅーげ」君の議論もまた刺激的で、面白く読みました。前半の「誤読の誘発」についての考察は力作で、これはいずれ自分でも少し詳しく考えてみようと思います。後半のバッハをめぐる「迂回路」は、いささか冗長ながら、「アドルノ」から「バフチン」まで、書き手がよく知り尽くしていることを書いているという安定を感じました。まあ `polyphonic' でこれだけ『海市』を持ち上げてしまっては、『死の島』はどうするんだと「つっこみ」を入れたい気もしますが。
 ちなみに『死の島』の結末の近く、広島へ向かう列車の場面に、謎めいた赤い口の男の現われる場面があって、恐らくは悪魔、多分メフィストフェレスだろうと思うのですが、何故そこにメフィストフェレスが出てくるのか、気になっていました。この文で、トマス・マンの『ファウスト博士』に対応する部分が『海市』にあることを教えられ、なるほどと思いました。
 最後の「映画的モンタージュ」の節、福永さんでタルコフスキーを持ち出すのは、なかなか良い着眼ですが、それなら「惑星ソラリス」(1972) に一言、欲しかったですね、映画と小説は違いますが (「恐らく僕は映画じゃね、あの味は出ないと思うけどまだ見ていない。その小説の方は、いやもう実に僕好みの小説でねえ」『小説の愉しみ』p.56)。
 三人が三人とも、既に定着した「福永武彦」を鵜呑みにするのでなく、それぞれの抱く違和感から出発して、自身の「福永武彦」を模索しながら、謂わばそれに向って走っている、ないしは走り出そうとしている、その姿勢に好感を持ちました。粗削りなところは、あるでしょう。しかし、いまはまだ、その「粗削り」が「力」として通用する時期です。各自の「違和感」を大切にして、このまま疾走して欲しいと思います。
私自身については、それぞれに挑発的な文の、その刺激を大いに愉しみました。またそれらの文を通して、諸君との距離を測定することで、自分自身の位置を確認出来たようにも感じています。そのことに感謝します。ありがとう。

〇Fuさん
「福永武彦研究会会誌12号」について:
 大変すばらしい会誌で驚きました。第1は、表紙と裏表紙の絵と装丁が素晴らしいです。価値が2割アップしたと思います。やはりこういった装丁も読者に与える印象は大きいと思います。
 第2に内容も充実してきたと思います。いろいろ載せたいものを絞って載せたのが結果として良かったのだと思います。執筆者の皆さま、会長、事務局長、編集関係者のご努力に感謝します。
 第3に「福永武彦研究会」が若手活躍によって支えられ、更なる発展が期待出来ることを心より嬉しく思います。集合写真ですぐ分かりますね。
 最後に、年中休みがちな文学放浪会員の私の文も掲載していただき有難う御座いました。嬉しく思っております。今後とも宜しくお願いします。有難う御座いました。

【当日配付資料】
・「Nocturne第2号報告・文学フリマに向けての調整」A4 1枚(Si)
*冊子作成の諸経費の報告、文学フリマ当日の冊子運搬方法など。
・「告別」参考資料一覧 A4 4枚(Ki)
*「告別」に関わっての福永自身のコメント、時評、解説、研究の一覧(要旨付)
・朝日新聞1961.12.25 江藤淳「文芸辞表㊤」/朝日新聞1962.3.13「わが小説 93」福永武彦「『告別』『形見分け』」B4 1枚(Mi)
*福永が、『告別』新版(1970.9)で手入れしている箇所(私の妻が上條の訃報を聞いて「声を忍ばせて泣いてゐる」と初出と元版にはあったのを、「ひっそりと蹲っている」と手入れした箇所)は、実はこの江藤の時評中で「何のことかわから」ないと評された箇所であることが見て取れる。ただし、江藤がわからないと指摘した箇所は他にも複数あるが、その箇所は手入れされていないので、必ずしも福永がそれを気にして手入れをしたとは限らない。
・福永武彦自筆草稿「告別」より、文末164枚目の複写 B4 1枚
 *「告別」の末尾で引用される「大地の歌」の歌詞は、福永自らが日本語に訳したものであろうことが、原稿の書き直し跡によって判明する。この「告別」自筆草稿は、既に15年以上昔に古書市場に流れ、七夕古書大入札会へ出品されたもの。

【回覧資料】
・福永武彦自筆はがき(Mi)
A.会誌第12号に掲載のはがき
B.Aと同様、吾八書房主に当てたはがき(川上澄生の新刊を祝う会に参加できなかったことを残念がる内容)


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