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福永武彦研究会・例会報告(14)

第154回~第160回 (2015年9月~2016年11月)


 【第160回研究会例会】 2016年9月25日(日)
 【第159回研究会例会】 2016年7月24日(日)
 【平成28年度総会・第158回例会】 2016年5月22日(日)
 【第157回研究会特別例会】 2016年3月27日(日)
 【第156回研究会例会】 2016年1月24日(日)
 【第155回研究会例会】 2015年11月22日(日)
 【第154回研究会例会】 2015年9月27日(日)
  
 *直近の研究会例会報告は、本サイトのTOPページに掲載されています。
 

第160回例会
 日時:2016年9月25日(日) 13時~17時
 場所:川崎市平和館第2会議室
 参加:9名
 
 Nocturne第2号作成進捗状況を簡単に報告後、夏目漱石『門』(朝日新聞1910.3.1~6.12連載/1911.1春陽堂刊)を採り上げて討論しました。以下、発言者自身による要旨・感想を掲載します。

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
① Maさん:夏目漱石『門』を読む
 『門』は以前にも読んでいたはずだがそう強烈な印象は残っていなかった。
 私にとっては悔しさが伴うのだが漱石を再発見したようなものだ。淡々と描かれた静かな日常にぼつぼつと隙間の空いた、空白の多い作品だと歯がゆいように思ったが、それらが自ずから生きて何事かを語っているようだ。土塀に映った頭部を傘に隠された影が象徴する主人公二人のその後の運命。<愛>と名付けるしか名付けようのない運命を受け入れたとき、不安を払拭しえない男よりも女は漸くやって来た春を寿ぎ「晴れ晴れしい眉」を張る。それは知らない故だけではない天真の行動であるだろう。

 *参加者各位の忌憚のない意見とそれぞれまとめて下さったレジュメがとても参考になりました。
 *福永の『夜の三部作』(『冥府』『深淵』『夜の時間』)との対比、ぜひ論を深められますことを。

② Haさん:夏目漱石の『門』について。
 福永武彦研究会の例会で、福永の周辺作家として漱石を取り上げるということはどういうことかを考えた。その結果、福永の漱石三部作の読みに関係づけて、すなわち福永が漱石の『門』をどう読んだかを念頭に置いて、『門』を読んでみた。

1.漱石の三部作と福永の夜の三部作についての福永の見解
・福永の漱石三部作についての見解:「私にはこの三作が、相互に連結することによって一つの長編小説を形づくっているように思われる」(「漱石三部作について」1966年、全集16巻52頁)
・また、福永は自作の夜の三部作について、「この三つの小説(冥府、深淵、夜の時間)は、私にとって「夜の三部作」という一つの作品なのである。」と夜の三部作初版の序文(1969年)で書いている。
・そこで、今回、漱石の三部作と福永の夜の三部作をそれぞれ一つの作品であるとして通読した。

2.漱石の三部作と福永の夜の三部作
・漱石の三部作と福永の夜の三部作の発表年と(女)主人公をまとめると表のようになる。


・福永は「漱石三部作について」に以下のように述べている(「漱石三部作について」):
漱石三部作:運命小説/運命と人間との絡まり合い
〇三四郎:主人公が運命を遠くに瞥見する、運命に触れていない。レオナルドの桃を食べていない。
〇それから:主人公が運命に対等に接触、運命に賭ける、人が運命を試みる。レオナルドの桃を食おうとする。
〇門:運命が全的に人物(主人公、女主人公)を所有、残酷な運命が気紛れに二人の不意を打った、運命が人を試みる。運命は既に決定している。レオナルドの桃は既に食われている。
・一方、池澤夏樹は、小学館のP+D BOOKSの「夜の三部作」の解説(2016年)でその主題について以下のよう述べている(いずれも運命がキーワードの一つ):
〇冥府:死者たちの運命
〇深淵:二人(わたし、愛生園の元女事務員と己、愛生園の元賄夫)の運命;暴力的な愛
〇夜の時間:運命の悪意;暴力的な愛;暗黒意識

3 6作品の読後の感想
・実際に6作品を読んでみると、漱石の「三部作」と福永の「夜の三部作」については、それぞれ三つの作品を一つの作品として、いずれも運命小説(運命を主題とした小説)として読むことができるのではないかと思った。
・『三四郎』では、三四郎が美禰子に求愛する前に、野々宮の友人と結婚してしまい、三四郎は運命に触れていない。『それから』では、代助と三千代の関係は、三四郎と結婚後の美禰子とのあり得たかも知れない関係と解釈可能であり、『門』では、宗助と御米の関係は、友人平岡の妻の三千代を奪った後の代助と三千代の関係と考えられる。
・福永が漱石三部作を一つの長編小説、運命小説として読んだのは、福永が夜の三部作を一つの作品、運命小説として書いたからではないか?

4 『門』と運命
・『門』で運命という言葉が十数箇所で使われているが、これらを読むと、『門』は確かに運命小説であることが納得できた。
・多くの苦難を経てきたが、宗助と御米の現在の日常生活の記述を読むと、『それから』の代助と三千代が結婚できないでいる状態よりも、宗助と御米はずっとは幸せではないかと思える。

〇漱石の三部作の福永への影響(の一つ):二つの三角関係(文枝を基軸とする雅之・次郎との三角関係及び雅之を基軸とする文枝・冴子との三角関係)を描く夜の時間を書かせた。あるいは運命小説として夜の三部作を書かせた。 以上
③ Waさん
 第一に、漱石について個人的には、実験的な作家の印象があります。以前、思い立って漱石の作品を読み直そうと考え、先ず『文学論』を、少し時間をかけて読み、続けて『猫』から始めて順に読みました。残念ながら諸般の事情で、半分くらいまで来たところで中断したままになっていますが、その前半を読んで感じたこと、それも新鮮な驚きを以って感じたことは、初期の作品は殆ど実験小説ではないか、というものでした。文体から構成、視点の交代まで。これは、こちらが福永さんや中村さんの作品を、少し注意深く読むようにしているので、余計そう感じたのかも知れません。しかし福永さんや中村さんは、それ以前の日本文学とは違うものを書こうとして、あれこれ工夫した訣ですが、鴎外や漱石の場合は「それ以前の日本文学」が存在しなかったのですから、考えてみれば、試行錯誤は当然のことです。独創的な見解ではありませんが、いずれ後半の作品も読んで、自分なりの考えを整理したいと考えています。

 第二に、長篇『門』について、福永さんには『意中の文士たち 上』に「漱石三部作について」(1965) の一文があります (全集 16 巻)。これは岩波から刊行中の漱石全集の月報に文を求められて、改めて三作を読み返しての感想ですが、そこで福永さんは、三作を連作として読めば、これは人間と運命との係わりを三つの段階に描いた、特異な運命小説ではないか、としています。『三四郎』では運命は遠方にあり、『それから』の主人公は運命の干渉に自ら挑むが、『門』に於ては運命は既に決定している。なるほど、と思いました。実は今回の例会の準備に『門』を読み返していた間、会誌 12 号のために、短篇「退屈な少年」(1960) についての文を作っていたのですが、そこでも、やはり「運命」はある暗い影を投げているように思います。短篇「退屈な少年」は、中期の短篇から後期の長篇への移行期の作品の一つで、この後「夢の輪」や「告別」を経て、60 年代の『忘却の河』以下、一連の長篇が書かれることになります。思えば、それら後期の長篇に描かれる人物も、多くは過去の呪縛から逃れることが出来ず、内面に深い孤独と絶望の闇を抱く人々、過酷な運命を背負って、その重圧に耐えながら生きる人々です。それらの作品を構想し、書きすすめていた 1965 年という時点で三部作を読み返した福永さんが、これを「運命小説」として捉えたということを、面白く感じました。
 確かに『門』は「運命小説」だろうと思います。つまり、自らの意志で運命を切り開く「近代的個人」といった感覚でなく、あの時代の社会規範、倫理観の中で、主人公の行動を考える必要がある。主人公は、単に流されるままの無為無策の男ではないだろう、ということです。

 第三に、その『門』で印象に残った、重要と思われる場面を二つ。一つは「十四」の終わり、二人の過去を語る部分。多くを語らず、間接的に、極めて象徴的に描かれているところが印象に残りました。もう一つは「二十一」の終わり、山中の寺に籠った主人公が、結局、得るところなく山門を出る条り。やや呆気なく、物足りなくも感じましたが、これは計算の上でのことか、判断に迷うところです。

 以上三点が、個人的な感想として最初に述べたことの要約です。

 例会では皆さんの意見、感想を大いに愉しみ、刺激を受けました。Haさんの『夜の三部作』との周到な比較は力作で、面白く伺いました。Aさんの「何処が面白いんだ」発言には、確かにそういう面はあり、思わず笑いました。またKiさんやIさんの、主人公の、起伏のない灰色の日常を淡々と描くところが眼目だろうという感想に、共感を覚えました。さらに討論で出た、新聞小説ということの意味の確認も収穫でした。
 それぞれ発言要旨にまとめられることと思いますので、いま繰り返しませんが、異なる感想に教えられ、また結論としては同じ感想でも人によって切り口、入り方が違う訣で、結論に到るまでの議論の運びで気附かされたことも多く、勉強になりました。参加出来たことを嬉しく思っています。 以上

 
④ Miさん:夏目漱石『門』に就いて。
 福永武彦作品と夏目漱石作品を関連付けて論ずるには、福永の「現代小説に於ける詩的なもの」(1958 全集第17巻収録)なるエッセイが必読資料となる。「漱石三部作について」(1966 全集第16巻収録)は、表題からして誰でも気がつくが、こちらの一文に触れる論者はいない。しかし、この極めて示唆的な論を参照することで、考察の視野が一層拡がり、深まる筈である。

・「(*註 小学生時代に中期・後期の三部作を耽読したことに関して)僕は恐らく、漱石がその作品の中に描き出した内密な雰囲気に引摺り込まれて、主人公たちと、自分の現実の世界(特に夢みがちな少年にとって)との区別がつかなくなっていたのではないか」「入ってしまえば、もう出られないような魅惑的な内密さ、謂わば作者と読者との、直接の魂の取引のようなものを含んでいる。そしてこの内密さというものが恐らく夏目漱石が常に、誰にでも、読まれていることの鍵のような気がする」
・「作品の世界は十分に確立しているが、その中には空白な部分、読者の想像力が働いて、それを埋めようと努力せざるを得ない部分がある」「ドストイェフスキイは何でもは書かなかったし、夏目漱石もまた、書かないことで、より効果的になる方法を知っていた」。(共に、上記福永エッセイからの引用)

 前者は「内密な雰囲気」、後者は「空白な部分(への読者の参加)」に関わっての言辞だが、これらに加えて、「時間的感動」ということを、福永は「現代小説に於ける私的な方法の可能性」として挙げている。
 『門』の文章の内密さについては、正宗白鳥が「はじめから、腰弁夫婦の平凡な人生を、平坦な筆致で諄々と叙して行くところに、私は親しみをもつて随いて行かれた」(「中央公論」1928・6)と賞賛したような叙述のなかに求めることができるだろう。
 ただ、「空白な部分」のあることが、一般には『門』に対する不評の原因のようだが、福永の論からすれば、空白部分があるからこそ、小説としての魅力が増すということになる---、例会で、この空白の効果について議論したかったが、残念ながら出来なかった。
 
 そこで、以下、上記の福永エッセイとは関連させず、小説『門』冒頭の「近来の近の字はどう書いたっけね」(一の一)とお米に訊ねる宗助の言葉から、この一篇を読み解いたことの概略を記す。

 「近来」の「近」、「今日」の「今」という漢字への宗助の奇妙な感覚を解釈して「<いま/ここ>に生きる感覚が失われていることの証であろう」(石原千秋「神経衰弱の記号学」『漱石研究 第3号』1994)と捉える論者が多い。しかし、今に生きる感覚が失われていると言っても、宗助の身体は現に存在し、日常生活を送っている。今を生きる感覚を失った身体、その精神をどう捉えるべきか。

Ⅰ.宗助は、何者として生きているのか。
宗助は、親友安井からお米を奪ったという過去への罪障感から、過去と未来を含みこんだ「現在」を求めず、現前するイマココに生きることを希求し、お米との6年という時間をかけて、いまやその境地で暮らしている。この宗助は、一体何者か。他者(人・物・事)に対して徹底的に無関心を貫く(例 弟、小六の至急解決を要する学資問題に対する無関心、無行動。或いは、伊藤博文暗殺事件に対する表情、しぐさその他)
 宗助を、ここでは「タダ、ココニアル」、自らアンジッヒな存在として捉えてみよう。
 そして小説は、そのような宗助とお米(には今回言及しない)の2人を中心に、小六(は学資問題に悩む高校性)、大家の坂井(は悠々自適の生活)、各々の家庭での彼等の日常生活が、冬の寂しい景色を背景に、坦々とした筆致で描かれていく。新聞小説らしく、アチラコチラに「仄めかし」を散りばめながら(この仄めかしよりも、私は冬の光景の叙述に心を惹かれた)。
 ただひとつ、日曜日のひとり散歩の情景は、そのような宗助ではない。「別の世界に来た様な心持ち」(二の一)で、周囲の事物、人を詳細に観察する。この時の宗助は、過去を背負い、未来を見通す眼が備わり、過去と未来を含みこんだ現在を生きている。
 小説の冒頭近くで、この街中の光景を挿入した狙いはどこにあるのだろうか。
電車内や街中で眼にする瓦斯竈広告や店先の金時計(→坂井)にしろ、傘(→お米)にしろ、織物の名前(→織屋/お米)にしろ、そして30歳位の達磨のゴム風船売り(→宗助?)の光景にしろ、これからこの小説の中で、宗助の過去、現在、未来に渡って展開していく出来ごとの予兆として記述されていると考えられる。

Ⅱ.「冒険者(アドベンチャラー)」という言葉の衝撃。
 坂井宅の、子供たちを交えた賑やかな様子に惹かれ、崖上のその邸宅に何度か通ううち、正月明けのある日、彼から「冒険者(アドベンチャラー)」の弟と一緒に、安井というその友達もやって来るという話を、宗助は聞かされる(十六の五)。安井からお米を奪った宗助には、その名は忌わしい過去を呼び覚ます一方で、恐ろしい未来を照らし出すことになる。宗助の日常に、裂け目が生じる。もはやこのままでは「タダ、ココニアル」だけの坦々とした日常に安住しては居られなくなる。
 役所では仕事が手につかなくなり、夜、帰宅した家庭に「例の様な御米」と「例の様な小六」と「例の様な茶の間と座敷と洋燈と箪笥を見て、自分丈が例にない状態」にいることを自覚する宗助(十七の六)。夜も寝られなくなったその宗助の耳に、深夜、時を打つ音が高く響く。過去からの呼びかけ、そして未来への誘い。宗助は「もつと鷹揚に生きて行く分別をしなければならないと云ふ決心丈をした」(十七の六)。

Ⅲ.「タダ、ココニ」あり続けること。
 そのような決心をした宗助は、禅修業に赴く。余念を交えることなく、只坐ること。それは時間を放擲し「タダ、ココニアル」ことである。それを今までの如く、時に委ねるのではなく、自覚的に身体ごと体得すること。そこに望みをつなぐ宗助。老師から出された公案「父母未生以前本来の面目」への見解を得ようと日夜悩む。しかし、読書をしたほうが捷径ではないかなどと考える宗助(十八の六)の公案への見解は、当然老師から一蹴され、試みは失敗に終る。
 「ぎろりとした所」のない「少し学問をしたものなら誰でも云える」宗助の見解とはどのようなものだったのか、それは空白のままに残される(十九の二)。

Ⅳ.脱皮。
 禅修行に失敗したということは「タダ、ココニ」にあり続けることに失敗したということだろう。つまり、安井が呼び起こした過去からの呼びかけを遮断して「タダ、ココニ」あり続けることに失敗したということである。帰宅後、宗助は坂井の家を訪ね、安井の現況を確かめようとする。既に4、5日前に帰ったと告げられ、一時の難を逃れた気になるものの「是に似た不安は是から先何度でも、色々な程度に於て、繰返さなければ済まない様な、虫の知らせ」を抱きつつ、坂井の「門」を後にする(二十二の三)。

Ⅴ.そして、これから。
 春になり、晴れ晴れとした顔で「本当に難有いわね」と言うお米にも「然し又ぢき冬になるよ」と答え(二十三)、下を向いたまま爪を剪る宗助の姿勢は「タダ、ココニアル」存在で居続けることがもはや叶わず、過去に追われ、未知の未来へ踏み出さざるを得ぬ不安の端的な表現である。宗助は何者になるのか、その姿は、私たち読者の胸中にある。
二十四章を書くのは、私たち自身なのである。宗助がお米と暮らすこととなった事情を含め、空白(=読者の想像力の参加を求める箇所)がアチラコチラに有る点に、福永武彦がこの『門』を高く買う理由があるのだろう。

 作中の人、物、事が何を象徴するのか、漱石がそれらに付与した意味は、それぞれ説明は色々と附くだろうが、多くは、既出論考で触れられているだろう。
 また、福永作品との関連の省察は意識的に省き、冒頭に記した如く「宗助の心、いまここにあらず」という多くの論者の視点を逆転させて「タダ、ココニアル」宗助という角度から、小説全体を一貫して解釈してみた。

【その他の視点】
・独自の文体、語彙の力。久米明朗読のCDを何度か聴いたが、坂井が、その弟に言及する際の言葉「アドベンチャラー」(十六の四)には、吹き出し、ドキッとした。「冒険者」にわざわざ振られたこのルビは、漱石の意図をよく表している。宗助にも、その音は「耳に高く響き渡つた」(十七の四)。宗助に与えた衝撃の大きさが、このひと言で表現出来てしまう。

・「手入れしない」漱石と「版ごとに手入れする」武彦。
漱石は、単行本にする際に手入れがほとんどない。版ごとに多くの手入れを行う福永との相違を検討することには、大きな意義がある。
しかし、漱石も、客観的事実の誤りは手入れをしている。
一例・初出朝日新聞「此時、堂上の僧は一聲に合掌して、大燈国師の遺誡を誦し始めた」→元版「此時、堂上の僧は一聲に合掌して、夢窓国師の遺誡を誦し始めた」(二十の二)
これに伴って、その後文でも適宜手入れが施されている。
この他にも、単行本の印刷工程で、文選工や植字工のミスによる本文の異同(例 十三の三冒頭で、一文がスッポリ抜けていたり、十四の五では「安井」とあるべき箇所が「宗井」となっていたり)や、刷りむらによる欠字が、幾つか見られる。
上記を含め、漱石の手入れ箇所と文選工などのミス箇所は、現岩波版『漱石全集 第六巻』(1994)の「校異表」に記されている。ただし、「校異表」に記されているのは、原稿⇔初出⇔元版までであり、漱石生前に刊行されている縮刷本『三四郎 それから 門』(1914.4 春陽堂)、縮刷本『門』(1915.12 春陽堂)との対照は、何故か抜けている。同全集第27巻の「単行本書誌」の「解説」によれば、両著は元版の総ルビからパラルビに変更されており、それに伴う送り仮名や用字に多くの異同があり、また漢字をかなに直している箇所も多いということなので、その種の違いを逐一載せている「校異表」には、ぜひとも取り入れて欲しかった。何故なら、(増刷数の多さからして)この縮刷本で『門』本文に触れた者が圧倒的に多いだろうからである。 以上

⑤ Kiさん:「門」についての雑感
・「それから」後日談としての「門」
 「それから」が朝日新聞に連載されたのが1909年6 - 10月、次作の「門」は1910年3月‐6月に連載。2作の主人公の設定は異なっているが、多くの新聞の読者(自分を含む現代の読  者も)は、「門」を「それから」の宙ぶらりんのラストの後日談(代助と三千代のそれから)として読みたがったのではないか。漱石は「それから」の読者の欲求不満の解消を意識していたのではないか。
・物語背景の季節描写
 秋から冬(大みそか、正月)~初春までの季節感が随所に盛り込まれ、季節の移り変わりが宗助と御米の境遇と心象の移ろいに添っているようだ。
・寄り添って生きる夫婦の細やかな情感の描写
 しょぼくれた中年夫婦の話ではなく(宗助は30代前半)、かつて激しい情熱で二人や周囲を焼き尽くしたそのくすぶりが時々顔を出し、それが二人の心を一層近づけている。御米は情感豊かな女性、おそらくは漱石の理想の女性像として描かれている。
 また、崖の上に住んでいる大家の坂井と、崖の下に住む宗助夫婦の上と下、動と静の対比により、宗助夫婦の静かさが一層強調されている。世間から孤絶した夫婦に理不尽に襲ってくる災難(小六のこと、安井のこと)に積極的に立ち向かうことなく、なんとなく事態が収束して元の静かな生活に戻っていく。これから先もずっと二人寄り添って暮らしていくんだろうなという情緒が感じられる。

⑥ Fuさん(不参加)
「夏目狂せり」の電文、『土井晩翠と夏目漱石と鏡子夫人』
 昨年12月に仙台近くの作並温泉に行ったときに、仙台市内を観光することになり、最初に尋ねたのが『土井晩翠旧宅(晩翠草堂)』だった。男性の案内人が出てきていろいろ説明してくれた。その中で「夏目漱石がロンドンで病気になり、本国へ『漱石狂す』という電報を打ったのが、土井晩翠と誤解されたが、実際は、晩翠は漱石の世話をしていて、電報を打ったのは岡倉由三郎だった」と語られた。
 帰宅後、『荒城の月』(恒文社、山田野理夫著昭和62年5月25日第1版第1刷)を読むと415~416ページに、そのことが出ていた。以下の通りである。

 晩翠は昭和八年五月十五日の日記に、漱石を思い泛べてしるした。文部省宛「夏目狂セリ」の電文を打った張本人と疑われた。文部省から、「夏目精神ニ以上アリ、藤代へ保護帰朝スベキ旨伝達スベシ」の訓令がイギリス公使館に届いた事件だ。晩翠より四歳上で東京帝国大学文科英文科を四年早く卒業後、東京高等師範学校、愛媛県尋常中学校、第五高等学校教授になり、文部省留学生として明治三十三年十月、ロンドンに滞在していた漱石を天才に相違ないと信じている。それ故に狂的分子も可なり多いのだろう。晩翠はロンドンで漱石と逢った。その漱石は交際嫌いでクラバム・コンモン姉妹の下宿に籠り読書生活を送っていた。
 漱石は、強烈な精神病の被害妄想狂になって、「この婆が僕を探偵している」と言いはじめた。症状が険悪になった。そこへ、ドイツ留学を終り帰朝すべくロンドンについた芳賀矢一が、漱石の様子は棄ててはおけぬ、文部省に報じすぐ帰朝させるがいい、と姉崎正治、岡倉由三郎などと相談して夏目狂せりの電文となった。そのころベルリンの下宿舎に放火した植物学のSがいた。芳賀矢一にそのことが脳裏にあったのだろう。漱石は後年、これを悪意に採り、自著『文学論』の序で嫌味としるした。晩翠は漱石を気の毒にもなったが、おかしさもおぼえた。あのときの自分が神経病であったことを忘れたのだろうか。漱石は病死後、文名はあがった。未亡人鏡子が昭和三年『改造』正月号に「漱石の思い出」を口述した。その一節が晩翠に衝撃を与えた。
 英文学の研究で留学を命じられ彼方へ行ってゐた某氏が落合って様子を見ると、ただ事ではない・・・・三日ばかり某方が側についてゐて下さったさうですが、みるほど益々怪しい、そこで文部省とかへ夏目がロンドンで発狂したといふ電報を打たれたといふことです。
 晩翠は当時、英文学の研究を目的のロンドン滞在者は己の独りと合点し、反論を『中央公論』に寄稿した。これに漱石の娘婿松岡譲が謝罪文で答えた。それから、一、二年して、漱石の門下野口真綱が第二高等学校に晩翠を訪ねてきて言った。「電文を打ったのは、英語研究にロンドンにきていた岡倉由三郎さんでした」「岡倉くんでしたか。私は英文学研究は私ひとりなので、私を指したものと思っていました。これで口アングリですね」「わたしは、私費留学生でしたよ。夏目さんの『文学論』は努力されたものとおもっていますが、序の一部はいまでも嫌いですね。しかし、夏目さんの本領と真面目はありますね。狂気と天才のチャンポンだが、ドストエフスキーは夏目さんと同質なのかも知れない」
 晩翠は己の性格が、せっかちであることを承知しているのだが。(註 引用ココマデ)

 今、丁度NHKのドラマ『夏目漱石の妻』が始まっていて、今回「福永武彦研究会」で『門』を取り上げたときいて、思い出して書いた。
  
⑦ Siさん(冒頭30分のみ参加)
 今回の例会では、"Nocturne"の表紙案及び予算報告などをさせていただきました。
 原稿は未だ集まっておりませんが、11月1日には完成原稿が揃うよう編集長として責任を持ち、いいものを作ろうと頑張りますのでよろしくお願いいたします。
   
⑧ Kuさん(不参加)
 『門』を一読して思うのは、金銭に関しての記述が多いことです。
4章では、宗助という主人公が、遺産を叔父にいいように使われるということ、9章では宗助が売った屏風は35円の値段で、坂井が買った同じ屏風が80円の値段になっていたこと、最終章では宗助の月給が5円あがったことなど、随分よく見られるということです。

 それに関しての先行研究として、三好行雄編『夏目漱石事典』(學燈社、平成2年)の「金銭感覚」(132~133ページ)という項目で、上田正行氏がつぎのように述べたことが注目されます。(ただ、上田氏は『門』について、直接にいったわけではない)。
 「漱石が金銭について強く拘泥わった作家であったことはよく知られている。あるいは漱石ほど<金>というものを見据え、その魔力について語った作家は明治以降、他にいないといっても過言ではない。(略)((『硝子戸の中』の―ここは倉持が補った)三十八話の「自分の所有でない金銭を多額に消費してしまつ」て悪夢にうなされるエピソードと(『夢十夜』の―ここも倉持が補った)「第八夜」の立膝のまま札束を勘定している女のイメージは、ともに少年時代のものであり、少年の金に対する強迫観念を見事に表現している。(略)漱石は二年間の留学で近代社会の根幹をなす金銭についてあらためて合理的な認識を得るに至ったわけであり、彼の金銭観の基本が出来上がったのである。そして、以後、金を文明批評の原理に据えていくのである。(略)『こころ』の先生は「金を見ると、どんな君子でもすぐに悪人になるのさ」と述べ、もはや知識人の優位性を信じていない。(以下略))」
 お金の問題で言えば、福永さんもこだわっていませんね。何故でしょうか? 今後の課題にしたいと思います。 
  
【当日配付資料】
①「Nocturne第2号 進捗報告」書 A4 1枚
②「夏目漱石『門』についてのメモ」A3 1枚
③「『門』雑感」 A4 1枚
④「漱石自身が最も好んだ作品とされ、漱石が到達した諦観を反映しているか?」A4 1枚
⑤ 会報『門』第二十一号、二十二号掲載の松下浩幸氏、漱石作品論考「『門』を読む(一)、(二)」コピー 作品の時代的背景に焦点を当てた論考。
⑥「夏目漱石『門』に就いて」 A4 2枚
 ①Si、②Ha、③Ki、④I、⑤Ma、⑥Mi
  
【回覧資料】
①鎌倉漱石の會・会報『門』第二十一号(平成25年7月)、第二十二号(同11月)
②くまもと漱石倶楽部・会報『草枕』第12号(平成25年3月発行)
③『「草枕の里」を彩った人々ー桃源郷・小天』天水町(熊本県)企画・発行(平成8年)
④『漱石山房秋冬ー漱石をめぐる人々ー』新宿区地域文化部文化観光国際課編集・発行
  (平成23年)
⑤『門』オリジナル元版第4刷本(1911.1初刷、1913.2第4刷発行 春陽堂) 
⑥『門』元版の複刻本(名著複刻漱石文学館 1975.11 ほるぷ)元版初刷の復刻本。
⑦縮刷版『三四郎 それから 門』(1914.4初刷、1925.3第85刷発行 春陽堂)
⑧『漱石新聞小説復刻全集 5 門』(1999.9 ゆまに書房)
 「門」連載の朝日新聞東京版の原寸大複写を本にしたもの。大阪版との「対校表」付き。
⑨『漱石全集 第六巻 それから 門』(1929.7 岩波書店) 
小学生の福永武彦が耽読した版。総ルビ。
⑩同上「内容見本」 上記普及版『漱石全集』が1冊1円であったこと、全20冊一時払いならば19円であったこと他、書誌事項がわかる。
⑪『漱石の印税帖』(松岡譲著 1955.8 朝日新聞社) 
⑫『漱石文学全註釈 9 門』(小森陽一、五味渕典嗣、内藤千珠子 2001.3 若草書房)
興味深い全註釈シリーズだが、このほか『それから』・『彼岸過迄』・『心』の4冊で中断している。
 ①~④Ma、⑤~⑫Mi
   
【関連情報】
・「漱石―絵はがきの小宇宙展」と講演会
9月24日より11月26日まで、駒場の日本近代文学館で「漱石―絵はがきの小宇宙展」が開催されています。
岩波書店所蔵の漱石宛絵はがきを中心に、他の図書館・文学館のものを合わせて300通の絵はがきが展示され、その面白さを紹介しています。関連講演会も予定されている様子です。http://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/cat-exh_current/7690/


第159回例会
 【日時】2016年7月24日(日) 13時~17時
 【場所】川崎市平和館 第2会議室  参加:10名
 【内容】
  会誌第12号の内容検討後、短篇集『廢市』(新潮社 1960.9)より、「廢市」(1959.7-9)を採り上げて討論しました。以下、発言者自身による要旨・感想を掲載します。

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
  • ① Haさん
  • 『廃市』(1959年発表)について
     この小説は、語り手(A)が10年前の貝原家での滞在の内容を現在思い出しているという構成になっています。10年前の出来事は時系列に記述されています。
    この小説を読んでいて一番興味が惹かれたのは、いくつかの謎あるいは疑問点が出てきて、その謎がすぐには解消しないということです。謎を見つけ出し、その回答を探し出すことに重点を置いて読みました。主な謎とその回答は以下の通りです。

    謎1) 全集第六巻(以下同じ)121頁
     その時、僕は遠くで女の泣声らしいものを聞いたのだ。
     ①誰の? ②そう推定するその根拠は?
      →①安子の泣声。 ②143頁, 1行目 (郁代が)ずっとお寺に引籠っている。
    謎2)144頁
     僕(語り手)は後になるまで、この別居生活の隠された意味が何であるかを、そしてそれが真の悲劇にまで発展する可能性を持っていたことを、少しも暁ることが出来なかったのだ。
     ①隠された意味は? ②真の悲劇とは?
      →①はっきり書かれていない?  ②直之と秀の心中事件。
    謎3)158頁
    (語り手)「直之さんは何でまた死ぬ気になったんでしょうね?」
      →①直之が妻の郁代を愛していると言っていることを郁代が最後まで信じてくれなかったことに絶望 した?  あるいは②会社経営の失敗?等が考えられますが、はっきり書かれていません。
    謎4) 162頁
    (郁代)直之の柩に向かって、「あなたが、あなたが好きだったのは、一体誰だったのです?」
      →これに関して、直之, 郁代, 安子, 語り手の4人言葉があります。
    (1)149頁9行目
    (直之)「今でも私は、郁代を誰よりも愛しています。」
    (2)160頁11行目
    (郁代、安子に)「直之はあなたが好きだったのよ。」
    (3)161頁9行目
    (安子、郁代に)「兄さんが好きだったのはあなたで、わたしじゃないのよ。」
    (4)166頁15行目
    (語り手)「直之さんが愛していたのは、やはり、この安子さんではなかったのだろうか?」

     直之, 郁代, 安子, 語り手の4人の見解は異なっていますが、安子の母親の命日の法要があった夜に、語り手が大河の縁で聞いた安子と直之の以下の会話(135頁)を考慮すると、二人は恋愛関係にあったと推定されます。

    (直之)「私にはどうにもならないんだよ。」
    (安子)「どうして?あんまりだとお思いにならないの?」
    (直之)「けれどどうにもならないということもあるものだよ。意志だけでは動かしがたいような、つまりもう初めからそうきまりきっているような、そういうものもあるんだよ。」
    (安子)「意志ですって?初めからきまりきっていれば、意志なんて言えないでしょう。-わたしには耐えられないわ。」
    (直之)「しかたがないじゃないか、安ちゃん。」(中略)
    (安子)「もしもお姉さんが------。」

     謎の回答が明確にかかれていないのは、複数の解釈ができるように作者が意図的に書いているのではないでしょうか。これは小説に関する福永の以下の見解のためと思われます。
    (A)「私が、小説は読者の想像力の中で完結するという信條に基づいて書く」(わが小説、1962年)。
    (B)「小説が読者の想像力に参加を求めて、その想像力との協調に於て、小説の描き出そうと試みた世界 が完結するというふうにありたいと願う。」(私の小説作法、1964年)

     ② Siさん
     研究会の若いものがまとめた冊子『Nocturne』第2号の特集が決定いたしました。『海市 Revisited』と題しまして、先日小学館より復刊された『海市』のガイドとなるような冊子を作りたいと考えております。
    会員になっているもののみで執筆製作し、極力費用をかけずにやっていく所存であります。今秋11月23日に去年と同じく、文学フリマで頒布予定です。よろしくお願いいたします。

     例会における先行研究の扱いにつきましては、私は敢えて「一愛読者」として会に参加し、そこで先行研究を学ばせていただいているという意識があります。大学のゼミではないので、もちろん学究的側面も必要ですが、徹底的に作品そのものを読み込むというスタンスが最も必要なことと考えております。
       
    ③ Maさん
     Kiさんの「『廢市』のミステリー要素について」のメモ(A4版1枚)をたたき台に、Miさんが紹介された西田一豊さんの2009年の論文「墓のある町ー福永武彦『廢市論』」の話を導入に深まり広がる話にいつもながらわくわくしました。
     小説全体の謎と閉鎖空間(Ki氏)「母の墓」「異界訪問譚」「サーガの系譜」(西田氏論の話より)出来事をめぐる時間の問題や、登場人物の心理の変化まで、様々な感想が呈され、私たち読者の側にもよみ直すことによって成長変化が起こることの再認識。
     「廢市」は何度もやっている、と油断したら予期せぬ出来事の出来続きで作品もよく読めぬまま出席、あらためて『廢市』の魅力を再認識し、反省して会誌に載った論文を読んでおります。
     若い会員の皆さんの自主的な活動も愉しみにしております。
       
    ④ Kiさん
     例会では、ミステリー作品としての視点から捉えた「廃市」について私見を述べました。要点は、
    ・福永の小説のミステリー風味は、読者参加という福永の考える20世紀小説としての要請ということもあるが、彼の個人的嗜好でもあるだろう。
    ・「廃市」の発表時期(1959年7月~9月号「婦人之友」)には、ミステリー・エッセイ「深夜の散歩」(1958年7月号~1960年 EQMM掲載)や加田怜太郎シリーズ(最初の「完全犯罪」が1956年初出)も発表されている。
    ・本作のミステリー要素が強いのは、発表媒体が「婦人之友」という一般向け雑誌であることも関係しているだろう。
    ・「廃市」で最大の謎として提示されているのは「直之が本当に愛していたのは誰なのか」であり、「僕」がたどり着いた結論は「安子」だった。主要登場人物の中で、いちばん犯人でなさそうな人間が犯人であるというミステリーの常道を踏襲している。秀と郁代は共に美人だが、安子は大して美人でなく、深刻な恋愛に似合わない性格として描かれている。さらに安子は探偵役である僕に一番近い人間(いわゆるワトソン役)であった・・・読者をミスリードさせるミステリーの典型的手法。
    ・一番作品の雰囲気に近いと思われるミステリー作家は、知る限りではロス・マクドナルド。彼の代表作とされる中期の「ウィチャリー家の女」、「さむけ」などでは人生の哀歓が濃く漂っていて読後感が重い。「深夜の散歩」チャンドラーについての項(EQMM 1959年1月号)の最後の文章:「・・・近頃の僕はロス・マクドナルドの大の御贔屓で、『ギャルトン事件』『ファーガソン事件』『ウィチャリー家の女』など、いずれも傑作と信じている」とある。
       
    ⑤ Kuさん
     Kiさんから「『廃市』のミステリー要素について」というプリントを頂戴しました。その中でKiさんは「舞台設定としてミステリー的な閉鎖空間が選ばれている」と述べられました。僕もかなり前から、『廃市』から、「竜宮城へ行った浦島太郎伝説」というテーマを連想していました。
     また森鷗外の『舞姫』なども連想していました。Kiさんの御意見とほぼ一致しそうなので、同感とも言えましょう。
     森鷗外の方は、実は恩師・竹盛先生が講義のなかで、『舞姫』に関して「仙境伝説」に近いように述べられました。人間の発想は、共通すると思いました。
      
    ⑥ Miさん
    Ⅰ.「廢市」(1959.7-9 「婦人之友」連載 初出は新かな・旧字)の「本文主要異同表」を配付しました。
    【異同表を作成して】:まず気付く点は、元版『廢市』収録の他の作品同様、元版(1959)→文庫版(1971)で手入れを行ったにも関らず、全小説版(1974)で元に戻されている箇所(=元版と同文)がざっと22箇所と、多数あることです。このことは、文庫版に於て、やはり編集者が勝手に手入れを施しているだろうことを推定させます。
    また、元版の本文中、後版たる文庫版刊行(1971.6)以前の後刷で、既に手入れを施している箇所があります。例えば、元版43頁2行目の「水蓮」→「睡蓮」は元版9刷(1970.8)から手入れされています。ただ、全体としては「足音」→「跫音」(13頁5行目)のように、文庫・全小説版刊行後の刷でも―例えば第17刷(1975.2)―、元版初刷の字使いソノママを踏襲して修正していない語句がほとんどです。どちらにせよ、各版の後刷の精査も疎かにはできません。
    Ⅱ.会員によって執筆された論考を紹介し、それに対する意見を交換しました。
    まず、Kiさんが当日配付されたMEMO中の「舞台設定としてミステリー的な閉鎖空間が選ばれている」という、この「閉鎖空間」なる言葉をキッカケにして、西田一豊さんの論文「墓のある町 ―福永武彦「廃市」論―」(近代文学研究第25号 2009.4)を採り上げ「「廢市」という小説が異界訪問譚(ユートピア小説)であり、その中心には母親の墓がある」という要点を説明し、その後討論しました。参加者の多くは、論文を読んでいないので、以下のようにやや丁寧に紹介しました。
    ①白秋のエピグラフを引いたことからもわかる通り、福永にとって水城(=故郷福岡)とは、母親の墓のある土地として記憶されている場所、母親の墓への思い入れのある土地である。「廃市」における「母」を想わせる描写(姉妹の母親の法要、秀と直之の母子のような関係、「弁慶上使」の母娘の別れなど)、なかんずく安子がしばしば訪ねる母親の小さなお墓が単独のものである点などから、「廃市」全体が母への想いに染められていることを指摘する。しかし、この舞台は柳川ではなくnowhere として読まれることを作者は求めており、「廃市」という町そのものが物語の主要な要素になっている。そして、土地や場所そのものがクローズアップされる作品群の中で、②Ⅰ.異界訪問譚(「冥府」・「未来都市」など)とⅡ.サーガ系列の作品群(「心の中を流れる河」・「夢の輪」)が区分されるとし、前者はこの後も書き継がれ『忘却の河』の「古里」・「妣の国」、そして『死の島』の「常世の国」などに展開されて行くことになるが、Ⅱは、「夢の輪」の中絶に如実に現れているように、数年後には挫折する。
    「廃市」がⅠの系列に属するのは見やすい(隔絶した場所、時間の停止、歴史博物館の趣き、2度とは訪れえぬ場所などが特徴)が、ⅠとⅡの分岐点と言える時期に執筆された小説として注目される作品と言える。大略このような紹介をしました。

    上記の論に対して、私自身は、
    ア.冒頭に既出論文の大要を記し、自らの論文の位置付けが明確に出来ている。全体として、福永の小説の発展を見据えた、構えの大きな論となっており、文章自体も明快で訴えてくるものがある。①の視点は、この「廃市」を読み解くための欠かせぬ視点だろう。
    イ.ただし、②のⅡの系列が「夢の輪」以降挫折した理由は何か、記述の範囲では不明瞭である(自身の先行論文に既にその記述があるとのことですが)。結局のところ、福永の北海道という土地に対する「想い」の欠如ではないだろうか。そうであるならば、Ⅱの系列は、そもそも母への想いを持って創作されたⅠに対応するほどの切実さを持って書かれてはいないことになり、福永の小説として、サーガ系の小説群として纏めることに意味があるのか疑問である。
    この北海道への思い入れの少なさは、福永の芸術的北方志向と齟齬をきたすわけではなく、具体的な北海道という土地(歴史)への愛着が、母の眠る福岡ほど強くはないということだろう。
    このような感想を持ちました。他に出た意見としては、
    ウ.①の視点は頷けるが、②の視点は「論のための論」という感じがする。つまり、「異界訪問譚」という通りやすい言葉を用いて、(研究者)仲間内へ向けた論に仕上げている。
    エ.①は納得できる。ただ、②のⅠの系列は理解できるが、Ⅱの系列は、作品群として指摘できるほどの内実は備えていないのではないか。
    というものでした。ウ、エは、論文の概略を聞いたのみでの参加者の意見です。
    総じて、①の見解には賛同する声が多く、②に関して疑問を呈する意見が多かったようです。

     今回、既出論文を詳しく紹介した理由は、せっかくの討論を、その場の思い付きに終らせること無く、各参加者が一層深く、広い視点から作品を読み込むための参考資料としていただきたいからです。
    つまり、ことさらに研究者と愛読者を峻別せず、既出論文に於て提出されている視点・論点を各人が柔軟に取り込み、自らの解釈(視点)を確立するための一つの資料としていただきたい、そのような参加者が増えることが、実りのある討論につながる、とう思いからです。虚心坦懐に作品に向き合うこと、徹底的に読み込むことは今更言うまでもない前提条件であり、その了解の上で「深く読み込むためにも、他者の視点を取り入れることもまた重要だろう」ということです。もちろん、そのことは安易に論者の意見に追随することを意味しません。しかし同時に、学ぶものは徹底的に学ぶことも、また真にオリジナルな視点を構築するためには、不可欠のことなのは、言うまでもありません。
     既に、15年前の第52回例会(2001.1)に於て「研究機関に所属していない者が、近代文学研究をする際の資料蒐集手段」を詳しく解説し、また5年前の第129回例会(2011.7)に於ても「論文検索方法」として、1.国文学研究資料館目録データベース 2.CiNii(国立情報学研究所の論文情報ナビ)の目録へのアクセス方法、その特徴などを解説したことがあるのですが(共にHP上でも報告掲載されています)、それらの情報が充分に活用されている様子が見えず「愛読者であることが、読みの怠惰につながってはいないか」という危惧をここ何年か「討論」を継続してきた中で強く感じるので、改めてこの当然のことを今強調しておきたいのです。
    これからも、討論する作品の既発表論文を―その中の1篇か2篇、読み応えのある論文を厳選し―皆で共有して行く予定です。既に取り上げた作品に関する論文一覧は、木澤さんがHPに掲載されているデータベースの「主要文献」を参照してください。
     新たに採り上げる作品関連の論文は、CiNii (http://ci.nii.ac.jp/) で検索してみてください。
       
    【当日配付資料】
    ① 辻邦生「春の戴冠・嵯峨野明月記展」目録(2016.7 学習院大学史料館)、「山梨勝之進、安倍能成 戦後学習院の出発展」目録(2016.6 学習院大学、同史料館) 希望者に。
    ②「MEMO:「廃市」のミステリー要素について」 A4片面1枚
    Kiさんが「廢市」討論の際に使用するために準備した覚書き。
    ③「福永武彦研究 第12号」(案)  A4片面 1枚
    ④元版『廢市』書誌  初刷~第17刷までの発行年月日・定価・印刷所・製本所等の一覧。画像として表紙(8刷)、奥付、扉にペンで石川淳宛献呈署名、扉にペンで短歌(たんぽぽのほほけたる野をひとり行けばものみなかなし遠山に雪) A4片面 2枚
    ⑤「浪速書林古書目録 第36号」(2003年9月)より、福永武彦自筆草稿「廢市」(ペン2 00字詰158枚完 65万円)を画像付で紹介。 A4片面 1枚 
    * この自筆草稿は、即座に売れた。現所蔵者は不明。
    ⑥「廢市」本文主要異同表 A3表裏2枚。
    ⑦「一枚の蔵書票 福永武彦の肖像画書票」 A4片面1枚
    日本書票協会通信第115号(2001.4)に掲載された、青木康彦さんの滋味溢れる短文。
    ⑧「Nocturne」第2号企画書 A4片面1枚
      今回は、復刊された『海市』を特集する。創刊号はA4判だったが、今号は会誌同様のB5判とする。
    資料提供者:①Ma、②Ki、③-⑥Mi、⑦A、⑧Si
        
    【回覧資料】
    ・希望者に配付した資料①

  • 【近刊情報】
     8月8日に、『夜の三部作』が小学館よりペーパーバックで、同12日には同社より電子書籍としても刊行されます。この6月には『海市』、7月には『風土』が同様の形態で刊行されており、3作品連続となります。解説は、すべて池澤夏樹氏。


平成28年度総会・第158回例会
【【日時】2016年5月22日(日) 13時~17時
 【場所】川崎市平和館 第2会議室  参加:13名(高校生1名、大学生3名)
 【内容】
  1.総会
   ① 平成28年度会計報告 ② 新運営委員の決定
   ③ 今年度例会内容と文学フリマ参加などの企画案、福永武彦生誕100年に向けての企画案他
  2.例会
   短篇集『廃市』(新潮社 1960.9)より、「沼」と「飛ぶ男」の2作品を採り上げて討論しました。
  
【発言要旨・感想】順不同(敬称略)
  ① Kiさん
  • 「飛ぶ男」について
    ・マラルメの詩「窓」のイメージ(病院、死、思い出、天使、翼、墜落など)に触発された短篇であることは確かだと考えられる。黄昏と世界の終りが結びついたイメージはいかにも福永的。
    ・ベッドで死を待つ男と、病院から外に出る彼の分身(意識)との空間的な対比と、時間的な流れの対比と、現実・非現実の対比が際立っている。
    ・とくに印象的なのは、時間的な流れがベッドの男と分身の男とで全く異なっている点。ベッドの男にとっては、夕方6時半~深夜~朝~黄昏という丸1日の時間が流れている。一方で、分身の男が病院を出て橋にたどり着くまでの時間は夕暮れのほんのひと時。ところがラストで現実世界のベッドの男が、いきなり非現実の「世界の終り」に投げ込まれ、同じ黄昏の時間に橋で待つ自らの分身に向かって飛ぶイメージは極めて詩的で鮮烈。
    ・福永は「20世紀小説」の中で、20世紀小説手法の一つとして時間的感動を挙げ、時間の分割・逆転・拡大・分散・停止等を示しているが、そうした手法によって福永が意図する小説的な感動を実現した作品として高く評価できる.
 ② Iさん
  • 「飛ぶ男」について
     意識の分裂、或いは大衆文学的文脈ではドッペルゲンガー?、ないし精神医学で言う解離性障害というテーマは、この時代以降、他の作家を含めた文学作品にも複数例があるようにも思う。福永は仏文学の専門家でもあり、解離性障害という精神疾患を19世紀末に最初に発見した仏の医師ジュネの書を読んでいたかもしれないし、20世紀に入って一旦忘れられていた解離性障害が1950年代に北米で再発見されて、この時代に医学の世界では一種のブームにもなっていたらしいので、この辺の事情をヒントにして作品を構想したのかもしれない。
     何れにしても、作品としてはイマジネーション豊かに良くまとまっている印象で、個人的には嫌いではない。(例会の後、渡辺氏から「福永が入院中の病床でジュネの書いた専門書を読んでいた形跡がある」と教えられました。)
 ③ Kuさん
  • 「沼」について、述べさせていただきます。芥川龍之介にも、「沼」という小品があります。しかし、福永武彦の作品とは全然違います。すなわち、芥川の方が空想的なのです。たとえば、「そう思っている内に、何やら細い茎が一すじ、おれの死骸の口の中から、すらすらと長く伸び始めた」のように。
     それに比べれば、福永の作品の方が現実的です。子供が池の中に入ってしまうことは、現実でも十分考えられます。福永の作品は、「飛ぶ男」のような空想的なものもありますが、現実的な作品も多くあります。勿論、芥川の作品にも現実的な作品が多くありますが。しかし、「沼」を主題とした作品は、福永の方が、どこでも起こりうるシーンが多いと指摘したい、というだけのことです。
     原因はよくわかりませんが、芥川は精神病に陥りやすかったかもしれません。この問題は、芥川文学を考える場合、大事な問題かもしれません。面白そうな課題です。
 ④ Waさん
  • 短篇「沼」(1955) には主人公の子供の内面の瑞々しい描写があり、一読、写実的な作品のように見えるが、果たしてそうだろうか。注意深く読めば、例会でも複数の指摘の出たように、例えば沼の中央の島の樹の、こちらの岸へ届くまでに伸びた枝といった、やや不自然と思われる設定も目立つ。此処ではむしろ、その沼について「向う岸だと思ったのは小さな島で、沼はその澱んだ水をめぐらしてぐるっと島を囲んでいる」という描写に注目するべきではないだろうか。神話に出る「忘却の河」は死者の国を取り巻いて―ぐるっと囲んで―流れる。この沼にその暗示があるとすれば、沼の中央の島は「死」ないしは「死者の世界」を象徴するものに外ならず、またそうであれば、子供をそこに誘う (「向う岸に渡してやろう」) 謎めいた人物 (「小父ちゃん」) の正体もまた、明らかだろう。
     子供は夜、眼を覚まし、蚊帳を抜け出して一人、招き寄せられるかのように―「死」に魅せられたかのように?―沼に向かう。その構図は、短編「夢みる少年の昼と夜」で、深夜、少年が墓場に向かうそれと軌を一にするものであり、遡っては Mallarméの未完の短編「イジチュール」Igitur (1925) のそれを反映する (さらに後年の短篇「伝説」では、やはり深夜にふと眼覚めた女が夫を探して川原を彷徨い、ある破局的な場面に遭遇する)。
     短篇「沼」は、恐らくはこれもまた作者の実験的な一篇、抽象的な、謂わば象徴主義的な短篇の、一つの試みではないだろうか。此処では人物が固有名詞を与えられず、子供、母親、父親とのみ記述される。同じ手法は「伝説」から「大空の眼」に到る後期の一連の短篇に、男、女として用いられるだろう。
     短篇「沼」を自然主義の、写実的な作品として読む読者は、途惑うに違いない。作者は―仮にそうも読める部分があるとしても―自身の幼少期の記憶や、家庭生活を語ろうとしているのではない。一篇の眼目は、謂わば幼い子供の前にふと兆す「死の影」ないしは「死の誘惑」、その象徴的な表現といったところにあるように思われる。作者は、そうした構図を提出しておいて、さて、それでは具体的に、例えばこの父親と母親の関係は如何なるものか、母親は何故これほど子供に執着するのか、子供の出生に何らかの事情があるのか、といったところから、「読者の想像力による参加」が始まるのではないだろうか。
      
     短篇「飛ぶ男」(1959) には、作者の実験的な手法への興味ないしは好みが、強く出ている。一篇は男の意識の分裂を、その現実と幻想とを交錯させながら、語る。男の意識が幾つに分裂するのか、その分裂した魂と肉体、意識との関係は如何、といった問題は興味を惹くものだが、畢竟、一篇の少なくとも半面を支配するのは、現実の物理的時間ではなく、意識の、謂わば夢の時間であり、此処でもあまり細部の整合性に拘れば足をすくわれることになるだろう。細部を措いて大枠の理解を優先すれば、物語の冒頭「エレヴェーター」の降下する場面で男の意識は、魂の意識と肉体のそれとに二分される。前者は動かず空中に(「八階の高さ」)、その病室のベッドの上に留まり、後者は病院の外に歩み出る。それぞれの意識が断片的に並行して語られるが、前者ではさらに「天使の記憶」が挿入される。それは作者による聖書の、創世神話の読み換えに外ならず、その意味で物語終盤に語られる破局的な崩壊の感覚は、黙示録への示唆を含むだろう。一篇の構成には現実と幻想の、また魂の静と肉体の動との対比が、よく現われていると思う。
     既に複数の指摘のある通り、一篇は、恐らくはMallarméの詩篇「窓」Les Fenêtres に想を得たものと思われる。しかし、Mallarméですべてが説明されるものでなく、例えば「明るい空だったが、透明な、澄みきった空ではなかった。その空は曇っていた。一面に雲が覆い、ぼんやりした明るみが空間をふくらませているだけだった」といった中篇「冥府」を連想させる描写や、物語の最後、男が手擦りに凭れて病院を眺める場面の、その男の佇む「橋」や「橋」の下を流れる「河」に注意すれば、此処にもまた作者の世界を構成する基本的な要素や象徴が、周到に配置されていることがわかる。その意味で一篇は、作者の実験的な作品世界の特徴を、よく反映するものでもあるだろう。
    例会では出なかったが、この一篇が、抽象的、観念的であると同時に、また極めて視覚的であり、構成も含めて謂わば「映画的」でもあることも、此処で附け加えておきたい。
     短篇「飛ぶ男」について論ずべき問題は多く、いずれ改めて詳しく検討したいと思う。
      
     先に読んだ短篇「樹」や「風花」と合わせ、作者中期の短篇では、一見、写実的で抒情的な、時には私小説的と思われるような作品でさえも、実は多くが―恐らくは、これまで考えられていた以上に多くが―、ある手法上の試み、新たな表現形式の実験であると思われる。作者の興味は、日本的な、謂わば湿り気を帯びた情緒を語ることにではなく、むしろ乾いた、抽象的に構成された形式の美ともいうべきものを表現することの可能性に、向かっていたのではないだろうか。
 ⑤ Miさん
  • 今回も、「沼」・「飛ぶ男」両短篇ともに「本文主要異同表」を作成、配付しました。「飛ぶ男」に関してのみ、簡単に記します。
    ・「飛ぶ男」(1959.9「群像」) 初出と元版は、旧かな・正字。
    【異同表を作成して】:まず気付く点は、この1月例会で採り上げた「樹」(60.2)と同様、元版(1959)→文庫版(1971)で手入れを行ったにも関らず、全小説版(1974)で元に戻されている箇所(=元版と同文)がざっと13箇所もある点です。このことは、文庫版に於て、編集者が勝手に手入れを施しているだろうことを推定させます。
    また、本文ミスらしき箇所をひとつ見つけました。全小説版第6巻(=全集版)189頁の18行目「浪ハ絶エ間ナク岩ヲ洗イ」の文中で「岩」となっていますが、ここは、初出~文庫版までは「岸」となっています。この場面は、少年が海に面した「砂丘」で空を飛ぶ練習をする場面ですから、「岩」は校正ミスの可能性が高いでしょう(「岩」とすべき理由は見つかりません)。全集版でも「岩」を踏襲していますので、現在のところ、決定版本文(研究上の底本とすべき本文)に間違いがあるということになります。このようなミスと推定される箇所は、残念ながら、全小説版(=全集版)本文に稀に見られますので、将来の決定版全集では、訂正される必要があります。
      
    【感想】:プラトン以来の2元論とキリスト教の終末観を念頭におけば、解釈自体は特に難しい作品ではない筈です。
     ここでは「魂」という言葉に注目してみます。それは、「意識」と同じものではない。「意識が二分される。一つは彼の魂、それは動かない、それは落ちない」というのですから、「魂」とは、二分された意識の内「八階の高さ」にある方。「僕ハ魂ヲアソコニ置イテ来タ、と彼は呟く」。意識のもう一方は、彼の肉体と共に落下する。それは、魂に対照されるべき内実をもつ筈です。ここで、作者が「意識」と「肉体」だけでなく、わざわざ「魂」なる語を出してきた点から、この一篇を解釈することが可能でしょう。
     会誌第11号の菅野昭正氏のご講演中で、福永の小説や随筆には、「魂」という言葉がよく出てくること、それに比して「精神」という言葉はあまり出てこないと指摘された後、その背景として、パスカルの「幾何学的精神」と「繊細さの精神」という区別があること、それらは各々「理詰めで物事を考える思考の方法」(=「合理主義・論理主義」)と「感情の機微を捉える精神」(=「非常に細かな点を感覚的に捉えたことを深く極めるという精神」)と説明されています(17頁)。そして「福永さんが言う「精神」と「魂」をこれに当てはめると「幾何学的精神」を支えるのは「精神」――フランス語で言うespritということになり、一方、「繊細さの精神」を重視すると「魂」という言葉がそれに結びついてくる」とあります。
     その言葉をヒントにするならば、八階の高さに留まる意識=魂=「繊細さの精神」であり、一方で、「十全でなければならない」意識の片割れ、それは「幾何学的精神」でしょうが、それは肉体と共に落下し、地上を這い回る。地上の意識の片割れは、合理主義の精神、論理主義の精神を体現する。
    つまり、地上を這い回る幾何学的精神は、時間・空間内に閉じ込められており「肉体という牢獄」(プラトン)に囚われている。そして、肉体に囚われた精神に映し出される地上のものはすべて、街角、河、夕陽など、どれをとってもmortelな、死を内に孕んだ存在であり「イマ、ココニアル」存在に過ぎない。永遠の相の許にはないゆえに、それら地上の自然や街角の情景は、静かで美しい。
     一方、繊細さの精神を繋ぎ止めておくような牢獄は何もない。ベッド上の空想はどこまでも拡散していく。想念に任せて、自由に時間・空間を超越して飛びまわる。小学生時代の体験から永遠の未来へまでその視線は注がれる。彼の空想・想念は、肉体を離れているだけに、余計なベタ付きはない。カラッと乾いている。それは、カタカナのかつ情緒を排した乾燥した文体で綴られる。論理的時空間を無視して自在に飛びまわること、それが繊細さの精神の本質とすれば、万物が浮遊していく状況の中で「コレダ、コレガ僕ノ待ツテヰタ未来ダ」(元版 103頁)と彼は呟くのも、当然です。
     このような視点から作品を見るならば、八階のベッド上の時間と地上に流れる時間に齟齬があるのも、また、何等不思議ではありません。
    この作品の一側面への感想を記してみました。
【当日配付資料】
 ① 2015年度 会計報告書 A4 1枚
 ② HPへの1日平均アクセス者数の推移/研究会誌在庫数一覧 A4 1枚
 ③ 2016年度例会内容(案)/特別企画内容(案)A4表裏1枚
 ④ 福永武彦研究 第12号(案)A4 1枚
 ⑤ 短篇「沼」本文主要異同表 A3表裏1枚
 ⑥ 短篇「飛ぶ男」本分主要異同表  A3表裏1枚
 ①Sa、②Ki、③~⑥Mi氏提供
【回覧資料】
 ①『世界の終り』イタリア語版
 ② 神奈川近代文学館漱石没後100年展図録「100年目に出会う 夏目漱石」
 ③ 小山正孝宛 福永武彦葉書複写1枚(表裏 46.3.9)、加藤周一葉書複写1枚(表裏)
 ①Ha、②Mi、③Wa氏提供


第157回特別例会
【【日時】2016年3月27日(日) 14:00~17:00
 【場所】川崎市産業振興会館 第6会議室 参加:19名 
 【内容】
  近三四二郎氏御子息による御講演「日本少年寮と福永武彦」+質疑応答。
  近氏作成の資料は、余人には書けぬ貴重な内容満載で、福永武彦研究上での必須資料となるものです。
  講演+質疑内容は、会誌第12号に掲載予定です。
  終了後、中華レストランで近氏を囲む懇親会(18名出席)が行われました。



第156回例会
 【日時】2016年1月24日(日)13時~17時
 【場所】川崎市中原市民館第4会議室、参加:15名(初参加1名)
 【内容】
  ① 討論『廃市』第1回、短篇「風花」/「樹」
  ② 会誌第11号講評、第12号への要望
  ③ 「近三四二郎について」(附:日本少年寮/小野アンナ)
  ④ 伝達事項(文学フリマ報告/3月例会会場)

 【発言要旨・感想】順不同(敬称略)

 ① Iさん
  •  「風花」は、極めて自伝的性格の強い短編と言うのが第一印象だが、次の2点も印象に残る。後の長編で多用される時間的前後関係を巧みに配置する、言わば音楽作品的構造が非常に短い作品であるのもかかわらず採用されている事と、何回か風花が曇り空の中に僅かにあらわれた青空を背景に描写され、また最後に「父親は今でも遠くで彼を愛しているだろう」「風花のようにはかなくても、人は自分の選んだ道を踏んで生きていくほかはないだろう」という端然としたほのかな明るさが全体のトーンを決定づけて、彼が以前から関心を寄せ、晩年には入信することになる、キリスト教的観念をテーマにしているようにも見える。
     ただ、Waさんが指摘されたような、最初の看護婦たちの合唱練習が、クリスマスの讃美歌、即ち天使の歌声として描写されていると言う事までは、言われるまで全く気が付かなかった。それを合わせて考えれば、ますます宗教的想念に縁どられた小品、いわばクリスマスキャロル的作品との印象が強まった。
 ② Naさん
  • 「風花」:
     私小説のようであり自伝的な感じもします。主人公は教師をしていましたが、長い療養生活をしていて、孤独のなか歌を詠んでいます。
     天使はどこからか現れて人に希望や前途を示す使者なのでしょうか。風花も晴れた空に白い雪片が風に乗って舞い下りて来る儚いものです。そして、そこには現実とは違う仄かに光射す未来が暗示されています。短篇でありながら確固とした構成になっています。
    「樹」:
     短篇集「廃市」のなかで私の好きな小説のひとつです。
     自己の絵画に向かう、画家のひたむきな姿、全体に拡がる静逸な雰囲気に安堵を憶えます。整然とした、音楽的ともいえる構成のためでしょう。彼の今の絵は妻に解ってもらえず、世間からも注目されません。そのうえに情熱を注いで一枚の絵を完成させ展示した個展の後、妻は遠ざかっていきます。人からは理解されないがゆえに、そこに芸術家や人間の真の純粋な魂をみることができます。
 ③Kuさん
  •  今回は「樹」について、のべさせていただきます。
     「樹」について、Koさんは堀辰雄の「窓」の影響があるように述べられました。確かに、福永作品について、堀の影響があったということはありえるでしょう。たとえば、以前Waさんは、「水中花」について堀の「曠野」の影響があるとされました。僕も同感でした。Koさんも、それなりの根拠があって述べられたのでしょう。ここでは僕も、「樹」に「窓」の影響があるということを大前提として、述べてみたいと思います。
     まず、第一として、「芸術家小説」として、「樹」の画家も「窓」に出てくる画家もくくれるということがあるでしょう。第二として、絵画で結ばれた男女という問題があるでしょう。「樹」の画家の妻の信子は、絵画に関して理解があり、それで結婚して子供までもうけました。「窓」のO夫人は、Aさんを好きだったようです。Aさんは「かつてこの夫人を深く愛していたことがあるのではないか、そして夫人もそれをひそかに受け容れていたのではないか」と地の文にあるとおりです。第三に、「抽象画への理解」があげられます。「樹」に出てくる画家も、「窓」に出てくる画家も、抽象画を描きます。信子もO夫人も、他人にはわかってもらえないような作品とはわかっていても、理解があります。それを、愛と言い換えてもいいでしょう。
     もう一言言い添えておきます。福永にしても、堀にしても、(生前)それほど有名な作家というわけではありませんでした。それでも、「人は尚生きて行くのだ」という思いで創作を続行していきました。そして、後世に名を残しました。Koさんがどういう理由で「樹」と「窓」の影響について述べたかわかりませんが、「樹」に「窓」の影響があると仮定すれば、このようになると思います。
 ④ Haさん(初参加)
  • Ⅰ.風花」/「樹」についての討論
     今回が初めての例会参加(聴講)でしたが、予想以上に興味深い内容でした。自分ひとりで読んでいてはなかなか思い至らない読み方が皆さんから出され驚きました。
     福永武彦の本を読む機会・理由を作るために、またより深く読むために研究会に参加していきたいという私の願いにぴったりの研究会ではないかと思いました。
    Ⅱ.近三四二郎さん関係の情報報告について
     3月27日例会の近桂一郎さん御講演に向けての下準備として、近三四二郎さん関係の基礎的事項の説明がMiさんよりありました。
     Miさんが作成された近三四二郎略年譜に沿って近三四二郎の生涯を簡単にたどりました。近三四二郎が才能ゆたかで、ユニークな経歴、優れた人格者であったことが想像されました。この人の生き方に若い福永が大きな影響を受け、近三四二郎没後すぐに作成された『近さん 歩んだ道』の編者の1人に福永がなったのがわかるような気がします。
     また、近三四二郎の周辺に多くの才能のある人がいたことも興味深いことです。Miさんが配布された資料と紹介された文献をできるだけたくさん読んで、3月27日の近さん御講演を聞きたいと思います。今回の報告資料のおかげで講演がより理解しやすくなると思います。
 ⑤Waさん
  •  短篇「樹」(1960) と「風花」(1960) は、いま読めば、どちらも作者身辺の事情に多く材を取ることは明らかですから、これは私小説ではないか、「メッセージ」ではないか、という疑問の出るのは自然なことです。一方、作者は作中に安易に「モデル」を持ち込むことに否定的でした。では作者の意図は、何処にあったのか。
     これらの作品の発表された時期に、作者の個人的な事情について、知られていることは多くはなかったはずです。また少し下って 1968 年の文には「作家にとって作品がすべてである」(「プライヴァシィと孤独」)、1969 年の回想には「私は一人の藝術家の作品を知るためには、その作品のみがあれば足りる、作者の私生活の面まで詳しく知るには及ばないという主義である」とあります (「日の終りに」)。
     さらに作者は小説について、中村眞一郎や Sartre のような、すべてを書き込む「全体小説」は自分には向かず、むしろ断片を組み合わせることで全体を表現したい、空白を残し、その空白を読者が想像力で埋めることで、物語をふくらませ、作者と読者の共同作業として一つの作品が完結するというようにありたい、という趣旨のことを、複数の機会に繰り返し述べています (「小説は読者の想像力の中で完結する」「わが小説」(1962)、「私個人の意見としては、小説が読者の想像力に参加を求めて、その想像力との協調に於て、小説の描き出そうと試みた世界が完結するというふうにありたいと願う」「私の小説作法」(1964))。
     これらを考慮すれば、私小説的な意図がなかったと断定は出来ないものの、むしろ此処でも作者は、身辺の事情に材を取りながら、新しい小説の方法を模索していたのではないかと考える方が、より自然であるように見えます (「私は一つの作品が自分の仕事の延長上に於ける常に新しい実験であることを望んでいる」「私の小説作法」)。
    作者が読者に共同作業を期待して、ある状況を設定し、提出している時に、それっとばかりに飛び附いて、これは誰それが「モデル」だとか、これは何年のことだとか、そうした詮索にのみ走るのは、如何にも日本人的な発想だろうとは思いますが、福永作品の読者としては、いささか情けない。もとより関係者が、これは自分のことを書いたのではないかと考えて腹を立てる、ということは、あり得るでしょう。しかし関係者は必ずしも作者の想定する「読者」でなく、それは些末なことに過ぎません。
     その手法に注目すれば、短篇「樹」に於ける「象徴」としての幹、枝、根などの使い方、またその「枝々」の image に重ねて、さらに短篇「風花」では遡行的な回想として、提示される主人公の生涯の複数の断片から、これらの作品は、謂わば象徴主義的な小説の試みであったのではないか、と考えられます。仮にそうであれば、これら二篇は、先立つ短篇「飛ぶ男」(1959)と合わせ、一見、異質に見えるものの、いずれもMallarméに触発されたと思われる象徴主義的な主題と方法を強く反映する一連の作品として、位置附けることが出来るはずです。
    続く短篇「退屈な少年」(1960) は、多くの人物と挿話を配した長篇の縮図のような作品で、夙に「長篇を準備する作品」との指摘がありますが (宮嶌公夫氏)、短篇「樹」や「風花」が既に、断片の組み合わせという象徴主義的な手法に拠る、短篇の枠内でより大きな作品を書くための実験であったとすれば、長篇への準備は「退屈な少年」に始まるものでなく、またその先に『夢の輪』(1960―61)、『忘却の河』(1963) などの作品を置くことで、作者の長篇小説制作への布石も、すなわち中期に試みられた小説技法の集成されて行く過程も、さらに明確になるだろうと思います。
     ちなみに、福永さんに於ける象徴主義を考える上で自然に浮かぶ、ある海外の作家には、短篇「風花」とよく似た設定の作品があります。そこでも死を前にした病床の主人公の半生が、病人の幻覚として、断片的に提示されます。福永さんが意識したかどうかはわかりませんが、その作者の手法については一文もあり、意識したと考えても不都合でないように思います。偶然の一致であれ、仮に短篇「風花」が象徴主義的な小説の試みであったとすれば、この一致は興味深い。誰の何という作品か、考えてみるのも一興でしょう。
     福永作品に於て問われるのは、読者の知識でなく、その文学的想像力です。これまでの福永研究の限界は、福永作品を日本語の枠内で、日本人的な発想のみで読んで来たことにあるのではないかと考えています。
 ⑥Kiさん
  • 「風花」について
    ・福永自身の療養所暮らしや親子3人での日常生活を窺える作品として参考になる。
    ・現在の療養所から過去に遡行する場面転換の構成がよく考えられている。冒頭の療養所での風花、子供の時のエピソードでの風花、自らの心情を風花に託して綴った短歌などを巧みにまとめている。短篇の佳作だと思う。
    ・どん底の状態にありながら「人は自分の選んだ道を踏んで生きて行く他はないだろう」という前向きの姿勢は、福永が終生抱いていた真情であったように思う。
    「樹」について
    ・樹木、雨、夜のイメージと「彼」の暗鬱な心象風景が相まって、いかにも暗い内容の小説であるが、福永作品の中でも独特の静謐な小説世界を造形していて個人的には好きな短篇。
    ・同時期に発表された「風花」同様、「最早得るものはない、失うばかりだ」という諦念から、「しかし失い続けても人は尚生きて行くのだ」というプラスの力へ転換する強い意志を感じた。
    12号への要望
    ・主要掲載内容(講演・年表・論稿など)を表紙に記載したほうが良いと思う。
 ⑦Miさん
  • ・「樹」について 
     本文照合をして気付いた点を挙げます。以下のことは「風花」でも同様ですし、今まで検討してきた『心の中を流れる河』、『世界の終り』の各篇についても言えることなのですが、特に「樹」に於ては、元版(1960.7)⇒文庫版(1971.6)で一旦手入れされた語句が、文庫版⇒全小説版(1974.4)に於て、元版と「同一語句に戻されている」箇所が多数あることを指摘できます(10数箇所)。例えば「一日と限って異っている」(元・全)⇔「一日と限って違っている」(文)、「その考えが私に取り憑いて」(元・全)⇔「その考えがわたしに取り憑いて」(文)、「昔はどうだっただろう」(元・全)⇔「昔はどうだったのか」(文)、「二人の間の沈黙が抵抗できないもののように壁をつくるのを感じていた」(元・全)⇔「沈黙が抵抗できないもののように二人の間に壁をつくるのを感じていた」。
     全小説版では、福永自ら丁寧に手入れしたことは第一巻「序」にも明らかな通りですから(「私は自分の作品については版を改める度に手入れもすれば校正もする」「病気にもめげずこの仕事に掛り切っているのである」)、文庫版の意に満たない箇所を直したのでしょうが、それにしても、「樹」では、文庫本文への手入れの3分の1近くが「元版に戻す」作業だったことがわかります。恐らく、文庫版本文には(漢字の読み仮名、送り仮名以外にも)編集者(=編集部の意向)によって、手が勝手に入っているのではないかと推測されます。もしそうであるなら、厳密に言えば、文庫版「樹」では、私たちは「(他人の手の入った)福永作品に似かよった小説を読んでいる」ということになります。そして、このように「文庫⇒全小説で、元版と同一語句に戻されている」のは、「樹」に限りません(他の新版の際には「元に戻す」ことは、単純ミスを除いてありません)。
     詩篇ならばともかく、小説に対しては、余りに厳格に作品の細部に拘ることはないと思われる方がいるかもしれませんが、しかし、表現の違いで、主人公の印象も変ってきます。漢字ひとつ、テニヲハひとつが忽せに出来ぬ問題だと思います。若い頃から象徴主義を研究し、その小説創造に対しても、極めて厳格な姿勢で臨んだ福永の作品に対しては、内容偏重主義に陥らぬためにも、このような読書態度が必要かと思います。そしてそれは、作品を一文一文味わうことの愉しみへと、私たちを導いてくれるでしょう(しばしば私は朗読します)。そのような読書の一助になればと願って、毎回「本文主要異同表」を配付しています。
    ・近三四二郎さんについて
     3月27日の近さんのご講演に向けての準備として、『近さん 歩んだ道』より、寮母奥宮加寿さんや友人たちの思い出・追悼文を適宜引用・朗読しつつ、近三四二郎さんの生涯を年譜に沿いながら概説しました。13歳で少年寮に入って以来、38歳で(結核で)亡くなるまで、ほんの一時期を除いて、その体調の故に、生活圏がほぼ少年寮内に限定されていた三四二郎は、奥宮さんが理想とした人間(人格)として成長し、多くの友人にも恵まれましたが、純粋で多彩な才能ゆえの悩み(=社会的役割への自覚と現状との葛藤)も亦、多かったに違いありません。
     病床についてからも、アンデルセン童話を翻訳し、日記を記し、歌や句を創り、或いは幼い子へ自作の絵本(絵とお話し)を贈ることに慰めを見出す日々。その中でも、少年寮出身者たちの親睦を図る目的の「記念の家だより」発行に、全精力を傾けます。そこには、三四二郎が志しながらも実行できなかった、社会的活動への思いが凝縮されているようです。
     3月例会では、この三四二郎筆「記念の家だより」ほかをご持参いただき、近さんより、日本少年寮と福永武彦について語っていただきます。1月例会で配付したプリント(下記「当日配付資料」、②~⑥)を、3月講演時までにお読みいただければ、基本的事項の整理に役立つと思います。また、配付資料一覧の内『近さん 歩んだ道』を必読文献として、雑誌「トスキナア 第20号」(2014 皓星社 1500円+税)を基本文献として挙げておきましたが、前者は、国立国会図書館で閲覧・複写が可能ですし、後者はネット通販で購入できます。参加者は、時間がなければ雑誌だけでも手に取っていただければと思います。学生・院生の方々は、出来る限り国会図書館まで脚を運び、両著を一読して参加されることを望みます。
【当日配付資料】
 ① 「風花」本文主要異同表、「樹」本文主要異同表
 ② 「近三四二郎について」発表レジェメ(資料一覧、音楽会と御墓の画像付)
 ③ 近三四二郎略年譜(『近さん 歩んだ道』所収 1940 日本少年寮記念ノ家)
 ④ 日本少年寮関連の読売新聞記事+「彷書月刊」記事
 ⑤ 小野アンナ関連の読売新聞記事+「週刊新潮」写真+ルリロ音楽部コンサートプログラム
 ⑥ ワルワーラ・ブブノワ「年若き友の思ひ出に」(福永武彦訳『近さん 歩んだ道』所収)
 ⑦ 2015年文学フリマ部会報告書
 ①~⑥:Mi、⑦:Si

【当日回覧資料】
 ① 中島田鶴子提琴独奏会プログラム(1926.11.6 主催 ルリロ音楽部) 
 ② 『ある青春』普及本 1948年12月発行の奥付
 ①:Mi、②:A


第155回例会
 【日時】2015年11月22日(日) 13時~17時
 【場所】川崎市平和館第2会議室、参加:12名
 【発言要旨・感想】順不同(敬称略)
 ①Niさん
  •  11月例会にて、加田伶太郞に関する発表をさせていただきました。まだ調査が途中ということもあり、結論までうまくまとめることが出来ず、参加者の方には申し訳なかったと思います。今回の発表はそのためこれまで調査した結果に基づいた基礎調査の発表ということになったのですが、当日戴いた質問に、当時の福永の知名度に関するものがありました。これは、福永が「加田伶太郞」という筆名をわざわざ用いる意味に関するものだと理解したのですが、確かに名前を隠すほど大衆・中間雑誌で福永の名前が有名だったとは思えません。そうすると、敢えて筆名を用いた理由は1つは探偵小説を書くという「遊び心」がパロディーとしての探偵小説作家を自身の中で作り上げることになったということが考えられます。またもう一つの可能性としては、大衆・中間雑誌に掲載するに当たり、純文学作家としての福永武彦の名前を用いたくなかったという作家の矜恃の問題かとも思えます。
     とにかく、今回の発表で足りなかったことを早急に補いながら論文化を目指したいと思います。当日はお聞き戴き有り難うございました。
 ②Siさん
  ・Ni氏発表に関して
  •  日本文学研究の発表では、単なる自己の解釈を根拠も無く語る作品論研究ばかりを見てきたが、Ni氏の今回の発表は、日本文学研究者たるものこのように発表すべきなのだというような素晴らしい内容であった。福永武彦を新しい視点で解剖するこの研究は、加田伶太郎を中心として行われる。その手法はあくまで堅実。氏の戦後文芸雑誌に関する卓越した知識・調査に裏付けされた各資料の説得力は素晴らしく、「あの」純文学の最右翼とでもいうべき福永が加田伶太郎としてなぜ書かなければならなかった/書こうとしたのか(それは探偵小説ブームや出版社の想いの交錯する中でうまれたというのがNi氏の見解だ)、またいつ加田伶太郎が福永であることがバレたのかなどという詳細な研究、および松本清張との「共闘」など、目からウロコの実に勉強になる内容であった。このような研究成果を共有していただいたNi氏に感謝したいとともに、研究者としての成功をお祈りするばかりである。
  ・会誌11号に関して
  •  私も携わった菅野先生のご講演の特集であるが、大変満足な出来で、写真の配分も直前に直したのだが、かえってよくなっていたため喜ばしい。また、三坂氏渾身の年譜であるが、これこそ決定版であり、すべての福永関連の研究者は必携であるように思う。それゆえ、当会誌がCiNiiに登録されていないことは、私にほぞを噛むような想いを起こさせる。来年度より真剣にそのことについて考えなければならないだろうと感じている。これほどのものを「同人誌」扱いされるのは心外であり不当であることは明白だ。
  ・文学フリマ用冊子”Nocturne”の配布に関して
  •  11月23日東京都大田区の流通センターで行われる「第21回文学フリマ東京」に会として参加した。前回の反省を生かし、会の周知はもとより、福永の魅力を同世代に向けて発信するため編集した、Nocturneという冊子を会の「文フリ部会」をバックとして発行、例会にて配布した。かなりの難産の末に生まれた冊子であり、編集作業・印刷工程などもギリギリであったため搬入手続きが間に合わず、23日には研究会の有志の方々に10冊づつ運んでいただくという状態となってしまった。ボランティアとして搬送の手伝いをしていただいた会の皆様には、平身低頭感謝するのみである。(文フリでの報告は次回、私からさせていただきます。)
 ③Kuさん
  •  Niさんの御発表は、福永武彦の探偵小説を、ただ単に、ポオの探偵小説のパロディと思ってきた僕にとって、新鮮に思えました。松本清張と中間小説雑誌で競合していたことは、確かに「福永武彦研究においてより検証されてよい問題である」と思いましたし、僕にとっても勉強になりました。
     次に、会誌第11号についてのべさせて頂きます。
     僕は、三坂 剛さんの作られた「福永武彦年譜」をとても面白く拝読しました。僕はかつて、科学研究費補助金プロジェクトチームのシンポジウムを聴く機会がありました。そのシンポジウムの後で、「アンケート」を書く機会を得ました。その時「一高弁論部と福永の関係について教えて下さい」といった内容のことを書きました。しかし、なしのつぶてでした。確かにそれはそれで仕方ないことだと思いました。それだけに、三坂さんの年譜には、感心しました。特に、1935年5月の「15日,新入生歓迎弁論大会開催、委員として閉会の辞を述べる。」の個所を読みながら「三坂さんは、自腹を切って資料を集めているのかな」と思うと、頭が下がる思いがしました。福永は、弁論部でも責任ある位置にいたことがわかったわけです。当然、部内でも人望があったわけです。これまでは空白であった部分が明らかにされたわけです。
     この年譜は、読み応えがある年譜だと思いました。三坂さんはいつも、前人未到の部分を歩んでおられると思いました。
     Nocturneについて:この雑誌は、若さがよくあらわれていて清々しく読めました。特に、二重否定や三重否定のようなあいまいな文章が見られなかったので、すっきりと読めました。
 ④ Fuさん
  1.Nocturne創刊号の感想
  •  Nocturne創刊号おめでとうございます。執筆者にとっては何よりも思い出深いのが創刊号だと思います。その時の思いは号を重ねるごとに輝きを増すことになると思います。私は文学修行のため数多くの会に所属していますが、その多くが若手への継承がうまくいっていません。
     マチネ・ポエティック時代の人たちの研究家は、高齢化が進み大学を引退し、文学を引退してきています。若手の研究家が少なく、会そのものの活気が失われている中にあって、福永研究会では、会長のMiさん、事務局長のKiさん、毎回執筆されているWaさん等中心的な人が、若手の入会、教育に熱心に取り組んできたおかげで、このように若手だけの同人誌が出せるようになったと思います。
     ふり返ってみれば、「山の樹」もこのような若者の熱意から発したものだと思います。スタートしたNocturneが発展し続けることを期待しています。頑張って下さい。
  2.福永武彦研究誌第11号の感想
  •  菅野昭正先生の「福永武彦の人と文学」の講演について、素晴らしく良い内容の講演でありました。また正確な講演記録に感謝しています。菅野先生とは、日本詩人クラブや中村真一郎の会で何回もお会いしていますが正直、御高名さと権威に近寄りがたく、今まで一度もお話し出来ないでいました。今回の講演をお聞きし、とても親切で、学識が高く、温かい優しい先生であると感じました。私は学習院大学出身ですが、福永武彦先生が学習院仏文科の教授であった時期に同大学で、菅野先生が初めて教鞭をとったと、知り驚きました。福永武彦の文学上のこと人間的な側面のご紹介もあり、勉強になりました。今後の文学の勉強に生かしていきたいと思いました。
     三坂 剛さんの福永武彦年譜についてのまとめは、現在抱えている村次郎の年譜作成と解題を書く上で大変参考になり、感謝しています。長く使える年譜を作ることを目標に、努力を重ねていきたいと思っています。
 ⑤ Miさん
  •  会誌第11号とNocturne創刊号に関しては、他の方々が書かれますし、両冊ともに始めから終りまで作成に関った身として、ここで講評を述べるよりも、皆さんには、丁寧に御覧いただくことをお願いしておきます。
    ただひと言だけ記しますと、Nocturne創刊号は、20代半ばの会員とその友人たちの協力によって、ほぼ当初予定していた内容・装丁の冊子が刊行できたことは、執筆者皆さんにとってはもとより、会としても慶賀すべき、実に大きな意義を持ちます。また、工程後半でのSiさんの奮闘がなければ、おそらくこの冊子は陽の目を見なかったことも付け加えておきたいと思います。

     以下、11月例会でのNiさんの発表に関して思うところを記します。
     今回の発表は、全集に未収録の資料までよく探索されたものでした。また、全体の論の組み立てはとても勉強になり「論にまとめる際の資料の使いかた」を教わりました。同時に、聴いていても楽しい内容でした。
    まだ調査の途中ということですが、何かの参考になればと思い、以下、気付いた点を幾つか記します。

    Ⅰ.プリント1枚目の「加田伶太郎テクスト初出」の部分では、抜けがあります。加田伶太郎名義としては、他に
    ・「ポーについての一問一答」 これは、全集第17巻に収録されていますので、初出は、そ ちらを参照してください。亦、散文ではありませんが、
    ・「よく似たる人をふりむく春の宵」 これは『夢百首・雜百首』(中央公論社 1977)の「雜百首」に「加田伶太郎全集」と題して収録されている句ですが、同全集の限定50部本(桃源社 1970)の扉に漏れなく毛筆で記されている句ですので、ここに含めるべきか と思います。同全集の超特装限定5部本のなかには、その扉にさらに別の加田らしい句(単行本・全集未収録)が記されている本がありますが、それは機会をみて、改めて紹介します。
    ・「大川にあと白浪の春立ちて名探偵もねぶたかりけり」 この歌は、「完全犯罪」と題して、やはり『夢百首・雜百首』の「雜百首」に収録されています。この歌を、福永はしばしば戯画を添えて色紙に記しています。

    Ⅱ.やはり1枚目、「以下のテクストも存在している」と新出資料として紹介されている加田名義の資料の内、③「某月某日」ですが、この一文は、ソノママ『別れの歌』(新潮社 1969)に既に収録されています(ただし、初出が加田名義だったことは、巻末の「掲載紙誌一覧」にも記されていませんし、全集第14巻巻末の「初出と書誌」も同様です)。初出誌で加田名義だった一文を、ソノママ随筆集に掲載している事実は、この7月例会で採り上げた『別れの歌』(をはじめとした6冊の随筆集)は、その場でも力説した通り、やはり単なる身辺雑記・心境吐露の文章ではなく、小説と並んで「一つの作品である」ということを裏付けるものと言えるでしょう。

    Ⅲ.プリント2枚目、加田名義の初出誌に挿絵が入っている点をもって「他の福永テクストとは異なる特徴がある」と記されていますが、これは端的に間違いです。私は、本文対照表を作成するために、ほとんどの福永名義の作品(小説・詩)の初出誌を見ていますが、挿絵の入った作品はかなりあります。すぐ思いつくだけでも、・「鬼」/「鏡の中の少女」/「未来都市」/「廃市」/「夢の輪」/「風のかたみ」などです。サッと点検したところ、例えば「鏡の中の少女」(1956.7「若い女性」)の絵は下高原健二、「鬼」(1957.8「キング」)の絵は阿部竜応、連載「夢の輪」(1960.10~61.12未完「婦人之友」)の絵は福沢一郎など、冒頭に福永と併記してあります。つまり、加田名義の探偵小説にのみ挿絵が入っているのではなく、本名で発表した所謂純文学作品でも「キング」や「若い女性」、「婦人之友」などの大衆・婦人雑誌では挿絵が入っていますので、「発表媒体によって、挿絵の有無が異なる」ということだろうと考えます。

    Ⅳ.プリント3枚目のEQMMに関して。所蔵しているEQMMの創刊号~第115号をパラパラ捲っていたところ、松本清張が(新聞記事を材料とした)エッセイ「黒いノート」を同誌第29号(1958年11月号)~第40号(1959年10月号)に12回連載していることを知りましたが、この期間は、丁度福永武彦の「深夜の散歩」が同誌に連載されている最中です。プリント5枚目で明記されている清張と伶太郎の並列が、ここでは松本清張と福永武彦として、EQMM紙面で実現していること、そしてこちらでは、福永の連載が、松本清張より長期間続いていることをお伝えしておきます。

    Ⅴ.プリント4枚目。論の展開として、3枚目末からここがミソのひとつかと思うのですが「福永武彦が純文学作家でありながら探偵小説を書いたという話題性を持ったのである」と記されていますが、(例会でもどなたかが質問した通り)「そもそも福永武彦は当時どれくらい知られていたのか」を検討しておかないと、「話題性を持った」という部分の説得力が薄れるのではないでしょうか。つまり、「週刊新潮」や「小説新潮」の読者範囲は文芸誌の読者より広いと想定できますから、福永武彦の文学を知らぬ読者が先に加田作品に触れるということ、要するに加田伶太郎⇒福永武彦の順でその存在を知った者も多かったのではないでしょうか。そのような読者にとっては「加田伶太郎は、実は、あの福永武彦である」と種明かししてみても、あまりインパクトはなく「週刊新潮」や「小説新潮」の思惑とはズレが生じる。出版社、或いは福永個人の意志がどうあれ、読者の側から見ると、そういうことになると思います。「私の印象では「忘却の河」が出る昭和三九年までは、どの新刊書店でも店員が福永武彦の名を知らなかったような気がする」と記した源高根氏(『編年体・評伝福永武彦』昭和34年の項)の発言は、やはり無視できないと思います。

     以上、思いつくまま書き並べてみましたが、これらはことさらに作成途中の資料や論の粗探しをしたわけではないこと、Niさんが、この論をしかるべき学会誌に発表される(当会の会誌に発表いただければありがたいのですが、以前言及のあったプロジェクトの一環として調査した資料を使用するのでしょうから、致し方ないのだと推測します)際の参考にしていただければと思い、また、当例会でその前に発表していただいたことに感謝を込めて、忌憚のない意見を記したことを御諒解ください。年譜作成中の私にとっても、4枚目の「文学クイズ」は未知で、大いにありがたい資料ですし「役立つ文学研究は、広範で深い資料探索からしか生れない」という私の信念を再確認させてくれた素晴らしい発表でした。
 ⑥ Waさん
  •  会誌 11 号 およびNocturne 1 号 についての感想若干
     先般 11 月の例会、会誌 11 号と Nocturne 1 号について皆さんと意見交換の出来なかったことを、残念に思っています。既に多くの意見の出たことと思いますが、以下、感想の若干を簡単に述べます。
  Ⅰ.会誌 11 号について
  •  装幀、殊に表紙は見事な仕上がりで、良いものが出来たと思います。先の二冊のそれらも味わいのあるものでしたが、こうした資料的なものには自ずから別の意義があります。またこのような貴重なものの出せるということが、この会の強みでもあろうと思います。
     内容については先ず、御高齢にも拘らず、遠路お越しいただき、懇親会までお附き合い下さった山崎剛太郎先生に、改めて感謝したいと思います。「マチネ・ポエティク」の同人として福永さんと同じ時代を生きて来られた先生の謦咳に接し、親しくお話を伺うことが出来たことは、得難い経験として、それぞれの参加者の記憶に残ったことと思います。
     菅野昭正先生の講演は、御自身の回想、挿話を交えながら、初期の短篇「塔」から大作「死の島」まで、福永作品の全体を俯瞰する実に見事なもので、示唆に富み、刺激に溢れ、大いに勉強させていただきました。例会では、知的な高揚に息を呑む思いで拝聴しましたが、いまこうして活字化されたものを読み返しても、名手の離れ業を見るようで、高揚の甦るのを感じます。個々の論点については長くなるので感想を控えますが、此処で得たものは、いずれ作品についての考察として形にしたく考えています。個人的な興味として、福永さんの象徴主義、またマラルメの理解について、御意見のいただけたことは収穫の一つでした。
    なお、この講演記録は単に会の活動報告に留まらず、今後、福永作品の理解についての貴重な資料の一つになることと思います。この機会に、企画、準備にあたられたMiさん、Kiさん、また煩雑な文字起しを担当して下さったTeさん、Siくん、Koくんに感謝します。お疲れさまでした。
     「満を持して」の感もある三坂さんの「年譜」、実に興味深く、繰り返し眺めて愉しんでいます。内容も然ることながら「年譜前言」にある、作品としての年譜という考え方に、大いに共感を覚えます。私自身も福永さんの作品についての考えを文に作る際には、同じことを考え、また出来ることならそれが「常に新しい実験」であって欲しいと願っています。その場合、私自身心掛けていることの一つは、作品の作者としての「私」を如何に消すか、ということにあります。あまり「私」が前面に出ては論考の客観性が損なわれますから。年譜となれば作品論より、さらに資料としての性格が強い訣で、そのあたりを三坂さんがどう捌くか、その手際も見どころの一つと考えています。
     細かいことでは文中の引用、「・」よりも「」で括る方が見易いように感じますが、他の皆さんの反応は如何でしょうか。技術的なことについては表記や「レイアウト」なども含め、なお工夫の余地があろうかと思います。年譜の制作では、性質は違いますが、こちらも先般『小山正孝全詩集』で、編集の専門家の方々を相手に多少の経験を積みました。その意味でも興味深く、後半と合わせて大いに期待しています。
     西田さんの「書評」、さすがに表面的な紹介でなく、御自身の意見も踏まえて内容があり、面白く拝見しました。
     私自身の作文については、疑問、反論を含めて忌憚のない御意見をいただきたく、お願いします。ただ論考として作品論が一篇というのは、「研究会」を名乗る会の、それも年一回刊行の会誌として、少し寂しい気がしました。頁数の制約などもあるでしょうが。
  Ⅱ.Nocturne 1号について
  •  どんなものが出て来るのか、不安が半分、期待が半分 (怖いもの見たさ?) というところでしたが、実際に手にして良く出来ていることに驚き、感心しました。諸君、おめでとう。
     確かに、粗削りなところはある。疑問を呈したいところ、註釈を挟みたいところも。しかし共感を覚えるところ、顧みて身につまされる (?) ところも多々あり、楽しく読ませてもらいました。ともかく独力でこれだけのものを作ったという実行力を、大いに買いたいと思います。
     殊に細部は措くとして、全体の構成が素晴らしい。先ず巻頭言 (めいた序文)があり、概論 (めいた案内) があり、創作 (めいた書簡体の文) を挟んで作品論 (めいたエッセイ) が三篇。最後に読書案内までついて、およそ「研究会」として出す冊子に必要なものが「フル・コース」で揃っています。これは発案者、編集担当者の手柄であり、会としての収穫でしょう。それに比べれば会誌 (シニア組?) の方は、講演記録と年譜が資料として圧倒的な存在感を誇るものの、作品論が一篇で、いささか旗色が悪い (皆さん、頑張りましょう!)。
     ついでに言えば、会誌を大学の教室、ゼミ室とすれば、こちらは院生、学生の溜まり場 (学生室?) のような趣があって、よろしい。何やらこちらの方が、居心地が良さそうな (会誌に書く場合には『トーマの心臓』なんて、ちょっと引用出来ませんね、いくら私でも)。
     諸君に望むのは、この冊子を当面、大切に育てて欲しいということです。『草の花』一作で力を使い果たした、ということはないでしょう。材料はいろいろあると思いますし、仮に材料が尽きたかに見える場合にも、どう繋げていくか、ということが勉強です。Nocturne 2号、楽しみにしています。
 ⑦ Taさん
  • 西田様
  •  丁寧な読みによるご書評、有り難うございます。励みになります。ところで「あとがき」の「少し福永から離れ」の部分ですが、毎日福永武彦という文字を何度も何度も書き付ける状態から「少し」「離れ」ることを言ったつもりです。やるべきことは、今後も続けて参ります。安心してください。書いてますよ。…ともあれ、有り難うございます。
 ⑧ Teさん
  •  まず、11号表紙は9.10号とは違う趣ですが、貴重な資料の一つですし、とてもよかったと思います。Nocturneの表紙も、その反響の大きさなどが示す通り、大成功でした。若い方たちの人脈のなせる業でしょうか。
    渡邊さんの作品論は、いつもながら論旨が明確で、「夢見る少年の昼と夜」との比較や着眼点が非常に面白く、興味深く拝読しました。
     福永年譜については、これまで様々な資料や書籍を蒐集されていらした三坂さんならではの研究成果と思い感動しました。確かにこの年譜は、「独立した作品」であり、後半の年譜が楽しみです。
    先日お話させて頂きましたが、一つの読み物として、表という形でなく、個人的には縦書きの書籍として読みたいと思いました。福永の系図も添付されているとよりわかりやすいのではないでしょうか。
     Nocturneの内容については、またの機会にさせて頂きますが、「おすすめ作品リスト」はコンパクトに、的確に、面白くまとめられていて、こちらも感動しました。(ただし、「風土」二つ星というのは、「風土」愛読者としては同意しかねますけれども……)
 ⑨ Aさん
  •  会報に関しては、ご高齢の菅野先生に、あそこまでご準備されて、長時間のご講演を実現し、そして質疑応答に臨む・・・並々ならぬエネルギーだったと思われますが、よくぞ引き出されたと感心いたしました。これは主催する側の思いが伝わらないと中々実現できるレベルではありません。特に福永の小説群にある、「内的独白」という方法、それが世代を超えて定着しつつあるという指摘などはハッとおもいました。
     ノクターンはどうも世代が異なるせいか、今一歩しっくりきませんでした。装丁のせいでしょうか・・・今後を見てみたいと思っています。
 ⑩ Maさん
  福永武彦研究第11号とNocturne 創刊号発刊によせて
  • 両誌を手にした最初の印象は、フレッシュ、若々しさでした。手許に並べると思わず笑みがこぼれました。
  Ⅰ.Nocturne 創刊号
  •  若手メンバーと仲間たちの手になる『Nocturne』創刊おめでとうございます。
     青を基調にした月明の海を漂う船上の二人の漫画タッチの表紙は「草の花」特集を印象的に表現して、装幀全体が創刊号にふさわしい美しさです。手に取って楽譜のような軽やかさながら、内容はそれぞれ個性的で、ひとはだれひとり同じ人は存在しないことを実証してバラエティがあります。
     序を始めに、手応えある論あり私語あり手紙あり雑文あり部分的年譜もあり、巻末には「福永武彦おすすめ作品リスト」文庫で読める作品と全集その他の、簡にして要を得た親切な作品ガイドがついております。目配りの良さはなかなかのものです。
     全集購入後文庫本を買わなくなった私も貞子夫人のエッセイ付きの『ボードレールの世界』(講談社文芸文庫)を求めることにしました。欲をいえばほんの少し、見出しの活字の見やすさや文章の工夫をして貰えればと思います。
    それぞれ楽しみながら読ませて頂きました。未来の愛読者への水先案内人としてこれからも力となるでしょう。お仲間をどうぞ大切にしてしてくださいね。
  Ⅱ.福永武彦研究第十一号
  •  シンプルな寄せ書きのサインの表紙は、一高弓術部の競射会における部員たちの署名です。
     福永武彦はじめいずれも当時十代の若々しい素直な筆跡には、福永研究には馴染ある幾人かの名前が散見されます。今号に戴く菅野昭正先生の特別例会講演記録「福永武彦の人と文学」を飾るに相応わしい横綱級の表紙(資料)ではありますまいか。

     2014年12月14日の菅野先生のご講演をお聞きしてからまもなく一年が経とうとしております。「マチネポエチック」の仲間でもあられた映画字幕の翻訳家として名高い、山崎剛太郎先生も足を運んで下さり質疑応答の時間に和やかに歓談されたことなど、貴重な素晴らしい時間でした。こうして活字になった講演記録を読ませて頂いて、あらためて先生のお話の内容の豊かさ、深さ、広がりに感銘をうけております。
     あの日緊張して一所懸命お話しに耳を傾け、心躍らせ、感動しました。でもその場でほんとうに理解出来たわけではなかったのです。活字になった記録を再読して、我身の理解の浅薄さがよくわかりました。
     福永武彦と大学の学部学科を同じくする一回り下の後輩であり、教師となられた学習院大学では同僚の立場で親しいお付き合いをされた菅野先生ならではの、まさに、多方面から捉えられた福永武彦とその文学なのです。
     菅野先生の多面的な福永文学への洞察は、福永の人間性から作品のテーマと方法、作品中の重要なイメージ、諸外国文学の作家と作品との関係と絶えざる方法への挑戦、作品の女性像、日本の古典とのかかわりから戦後文学への影響まで、わかりやすい言葉で、忌憚なく語られ広大な海につながっているようでした。圧倒され少しうっとり聞いていたかもしれません。
     メモには、ボードレール、マラルメの真髄。ダンテの本質。「精神」よりも「魂」に添いパスカルの「繊細さの精神」に至る小径。福永が「戦争」をどれだけ深く考えていた作家であったか考えること、等々がのこっています。
     先生は、病気と時代の制約の中で作品に心血を注いだ福永武彦の全体を時にユーモアを交え親しみ深く話され、隠された道への沢山のヒントを指し示して下さったように思われます。折々に菅野先生のお言葉に立ち戻って、福永作品を読み続けようと思います。

     覚え書きシリーズを愉しみにしている渡邊啓史さんの作品論は、前号の「夢見る少年」と対をなす「夜の寂しい顔」の「少年」がテーマです。渡邊さんの丁寧で緻密な考察によるとこの作品もまた福永の「常に新しい実験」の一面を持つとのことです。渡邊さんの緻密な分析を得て、私は少し安心して謎めいた不可解な「夜の寂しい(女であり少年の)顔」に少年とともに向き合うのです。そして、あれは、「神なき人間のマリア」ではないだろうか。など妄想するのです。

     西田一豊さんの骨太の書評、田口耕平著『「草の花」の成立 福永武彦の履歴』も説得力あるタイムリーな力作です。お恥ずかしいですが、これを読み力が沸き注文しました。死にものぐるいの年なのです、どうぞ悪しからず。
    準備が整わずこれのみですが、この原稿提出が遅れたため、田口さんから西田さんへの本講評のコメントを拝見して大変嬉しく思いました。

     さらに、三坂剛さん制作の画期的な「福永武彦年譜」の発表がありました。
     三坂さんが長年に渡って丹念に集められた貴重な原資料をもとに組み上げられた労作。作品中心の履歴と生活中心の事項に大別され、それぞれの履歴や事項を裏付ける直接の資料を明らかにし適所に組み込むことで福永武彦の姿を生き生きと甦らせています。稀覯本、草稿、書簡等のカラー版画像を適所にちりばめ、今までにない「作品」以上の「作品」といってよい読む年譜です。友人や、家族と交わした書簡、ノート、文字を介したあらゆる資料から「肝要な事実を優先」して選ばれた生活の記録は、作品関連の履歴と併行して、自然体の人間福永の生涯を描き出す予感に満ちています。後半を首を長くして待っております。(11号の年譜は前半1918年から1948年30歳まで)

     たくさんの労苦をになって発刊に漕ぎ着けて下さった皆様、本当にありがとうございました。

    誌面のレイアウトについて
     菅野先生の講演記録がゆったりと見やすくてよかったです。
     「年譜」については縦書きの方が見やすいのではという意見がありましたが、私も同様に感じました。いづれ一冊に纏めて出版されるのを期待しております。なお、随筆集総合索引をまとめられる際の活字や枠組みについて、(私は目が弱く索引に馴染まないのですが)現索引のコントラストは相当きつく感じられます。読者にとって見やすい誌面であるように最適なレイアウトを再考して頂けないでしょうか。
 【当日配付資料】
  • ①プリント「加田伶太郎と福永武彦―雑誌メディアとの交錯点をめぐって」 A3片面5枚。単行本・全集未収録資料満載のプリント。
    ②翌23日の「文学フリマ東京」にて配付する、当会会誌の紹介文+会員募集広告文。A4表裏2枚。
    ③同「文学フリマ東京」のブース配置図+諸注意。A3表裏1枚。
    ④「日本経済新聞」2015年2月14日(土)「こころの玉手箱」より、ピアニスト伊藤恵さん「音楽のような小説に憧れ」。福永武彦の本を紹介。A4片面1枚。
    ①Ni、②Ki、③Ko、④I
 【その他】
  •  11月3日(日)の企画「文学散歩」の折(画像)、皆で雑司が谷墓地に参った後「日本少年寮」の跡地を確認しに向ったところ、偶然にも、Kさん(近三四二郎さんのご子息)と出合い、お話しすることができました。
     そのKさんに特に御願いして、以下の日時で「福永武彦と日本少年寮」に関するお話し・座談会を催すことになりました。
     日時:2016年3月27日(日)13時~17時
     場所:検討中(都内或いは川崎市内)
     内容:御講演「福永武彦と日本少年寮」(仮題)の後、質疑応答。
     *会員外の参加も歓迎ですので、お誘いあわせの上御参加ください。

第154回例会
 【日時】2015年9月27日(日) 13時~17時
 【場所】川崎市平和館第2会議室、参加:9名
  • はじめに、11月に発行予定の会誌第11号の内容を確認しました。菅野昭正先生のご講演を柱に、論考、書評、年譜、随筆集索引など多彩な原稿を予定しています。表紙は、一高弓術部雑誌「反求會々報第18号」に綴じこまれている寄せ書き(人名簿)より採ることとしました。
    休憩の後、池澤夏樹『夏の朝の成層圏』を討論しました。その際、『沖へむかって泳ぐ 池澤夏樹ロング・インタヴュー』(文藝春秋 1994)からの抜粋を、討論の叩き台としました。最後に、宮古島の歌手、下地勇さんの「おばぁ」をYouTube で愉しみました。

 【発言要旨・感想】順不同
 ① Maさん:池澤夏樹著『夏の朝の成層圏』を読む。
  •  池澤氏のデビュー作を取りあげるにあたって、最近作に近い5,6冊を図書館から借りてきた。そして読み易いものから読んでいった。心地よい波にたゆたうようにその世界にひたり、癒しの時間を愉しんだ特筆する3冊をここに記したい。 
     (1)『この世界のぜんぶ』(スイッチ・パブリッシング 2001)(2)『熊になった少年』(中央公論新社 2009)そして(3)『現代世界の十大小説』(NHK出版 2014)。私は池澤さんの作品をたくさん読んでいないので、新しい作品を読んでみたかった。
     (1)は早川良雄氏のグラフィカルなパステルカラーの画をちりばめた平易な言葉で書かれた詩集、(2)は民話の枠組みで書かれた創作童話である。坂川栄治氏の繊細で力強いペン画は物語と見事なコラボレーションを成している。どちらの本も手に取って軽く目にやさしい。私は視力が低下して、字の小さな本厚い重い本は読み難くなったが、(1)も(2)も繰り返し読んで飽きなかった。ユーモアとかろやかな自在なやさしさ。魂に触れる生きものの哀しみ。そう、老若をとわず、後に記憶は薄れても読んだことの痕跡はどこかに残るにちがいない、こんな詩や物語を読みたかった。未読だが新聞連載された(4)『アトミック・ボックス』(毎日新聞社 2014)も面白そうだ。

    『夏の朝の成層圏』は大急ぎで読むことになった。
     本との出会いは、現実の時間と切り離せない。30代の終りに読んだときも、それからさらに30年を経た現在も現実の時間はちぐはぐなままで、私は男子の成長物語に落ち着いて付き合うことができない。でも、書くことで生きることを選んだ作家誕生の書の意味を間違えはしなかったと思う。

     嬉しかったのは、(3)の『現代世界の十大小説』(NHK出版新書 2014)に巡り合えたことだ。「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」から選んだ8冊に「とても大事な二冊」を加えて「十大小説」と銘打ったセレクションは水際立っている。平易な文章でありながら深い意味を伝え納得させられる。作者と物語の関係についても丁寧に紹介し、註も読み易い。
     幅広い視野と体験、膨大な仕事の裏付けがなければなし得ないことだろう。
     現在の『世界文学』について的確に学べる人や環境を失って久しく、この本に採り上げられた物語を何一つ読んでいないのは恥ずかしいショックだったが、この1冊を導き手に、新らしい1冊を読みはじめよう。

 ② Kuさん:『夏の朝の成層圏』
  • この小説は、現在の日本についての問題を取り上げているとも読めます。最後の方で、次の個所があります。
     (1)「ぼく」は、恐ろしい夢を見ます。
     (2)何と迷彩服を着用しているのです。そして仲間が何人かいます。
     (3)「ぼく」は、島民を自動小銃で撃つのです。
     (4)「ぼく」はヘリに乗っています、濃紺の軍用ヘリです。
     (5)「ぼく」は銃を手にした一人、犯罪者だと気が付きます。
     (6)いろいろなところを経由して、明日迎えに来るアメリカのヘリが濃紺のではなく白い
       方であることを「ぼく」はのぞむのです。(白い方は、芸能人《非戦闘員》が乗っている)。
     これは、アメリカ人の戦いに、日本人も加わることを暗示しています。まるで「集団的自衛権」を思わせるじゃありませんか。この作品が世に出たのは、1984年です。しかし、2015年現在の問題を取り扱っています。
     池澤さんは、まるで、時代を超えたテーマを取り上げました。驚くばかりです。
 ③ Kiさん:『夏の朝の成層圏』
  •  エピグラフに掲げられたカレン・ブリクセンの文章は、デンマーク人の彼女が17年間暮らしたアフリカについて述べたものだろう。自分にとって彼女の「アフリカの日々」、「バベットの晩餐会」など繰り返し読むに値する大切な作品だが、この池澤作品についても同様で、両者の共通項として、語り口のうまさ、清涼感ある詩的な文章、自然に対する畏怖、論理的な実証精神などが挙げられると思う。
     池澤氏には先行する詩作があるにせよ、完成度の高い本長篇が処女小説というのは驚異だ。この小説では通常のロビンソンものと異なり、主人公は原始生活を終りにして以前の生活に戻る機会が訪れたにもかかわらず、あえて島にとどまろうとする。文明批判ではなく、精霊の声に耳を傾けたいという思いの故だろう。デビュー小説において、規律化した社会より自然の解放性を志向する作者の精神の本質的な要素が十全に示されている点が興味深い。

 ④ Miさん
 Ⅰ.『夏の朝の成層圏』
  • ・池澤氏は、ロング・インタヴュー『沖にむかって泳ぐ』(文藝春秋 1994)で、野呂邦暢を「ぼくが好きな作家の一人です」と述べ、その短篇「世界の終り」を核戦争後について書かれた「いい短篇」として言及していますが、『夏の朝の成層圏』がこの野呂の短篇から刺戟を受けているのは確かでしょう。
     池澤氏は、『海図と航海日誌』(スイッチパブリッシング 1995)でも、自らが出会った本、様々に影響を受けた本を「寄港地」として多数列挙していますが、このように文学的閲歴を韜晦することなく披歴する池澤氏は、実に正直な作家です。
    ・主人公ヤスシ・キムラは、この無人島での自らの体験を言葉に定着するために、そのためにだけ、一人この島に残ります。書くことを目的に生きる。それは容易なことではありませんが、どうしても成さねばならないこと。そして、書いてしまったものは取り返しがつかない。それは恐ろしいこと、書き記した過去を変える力は自分にはない。「過去は自らを語ったのであって、ぼくはそれを媒介しただけのように思える」。この言葉に、池澤氏の作家としてのスタンスが顕わになっているようです。作家とは、言葉によって生の自然を別の世界に創りかえる媒介者。
     上記インタヴューで「本当の世界というのは厳しい、そこで生きていくのは容易ではない。それに対してもう一つ言葉で別の世界をつくって、暮らしやすくする。それが言葉の一番基本的な機能だと思う。」「家を建てて暖かく暮らすのと同じように、言葉で別な世界像をつくる。自分に都合のいい世界・環境を用意する」と池澤氏は述べていますが、キムラももう一つ別の世界を自らの言葉で作り上げた後に、ようやく島を去る。この構成は、池澤氏の作家としての出発にあたっての、覚悟を示すものでしょう。
     同時に、(インタヴューで)「いっそ言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と刻した田村隆一の詩(「帰途」)の一行を挙げて、「実に強烈な意味を含んでいる」「ぼくは結局、言葉以外の道具を持っていない。ぼくたちは与えられた言葉を全部使いきって、黙るしかないのかもしれない」と述懐している点に、打たれます。そこに池澤氏の諦念を読み取るのではなく、「言葉を全部使い切る」という作家としての熱情を読み取れるように思います。
 Ⅱ.配付・回覧資料「反求會々報第18号」
  •  次号、福永武彦研究第11号の表紙には、反求會々報第18号に綴り込まれている弓術部の部員・先輩寄せ書きを使用しますので、会誌の内容に関して御報告したついでに、同誌を皆さんに回覧して口頭で簡略に説明しましたが、ここに多少補足しておきます。
     反求會々報は、「一高弓術部関係者ノ相互ノ親睦ヲ目的」(反求會会則)として、1923年8月に設立された反求會の会報として創刊されました。福永が関係する頃にはガリ版刷りの冊子、非売品で、発行部数は100部に満たないものだったでしょう。
    内容は、弓術部の対外試合の報告文、部長や先輩、現部員から寄せられた随想や詩や書簡、懇親会などの記事、会員の情勢、会計報告などです。当時の一高弓術部の具体的活動を知るには、第一級の貴重な資料と言えますが、極め付きの稀靚雑誌なので、今まで研究論文などに使用されている例は知りません。
     亦、同誌に掲載の「一高現部員」の複写を配布しました。3年生には福永の他に、高橋健人、平野和夫、山本浩他7名が、2年生には来嶋就信、矢内原伊作の他12名が記されています。機会を見て、例会で同誌に関して小発表をする予定です。
 【当日配付資料】
  • ① 福永武彦研究第11号の判型、装幀、内容の概略を記したプリント。A4片面1枚。
    ② 「反求會々報 第18号」より、一高現部員名簿(1936年10月現在)。A4片面1枚。
    ③ 昨年に引き続いて、11月に参加予定の「文学フリマ」で販売する小冊子の表紙絵用のスケッチ(作:うさきこう)。 A4片面1枚。
    ④ 目白駅、護国寺近辺地図。A4片面1枚。
    ⑤ 『沖にむかって泳ぐ 池澤夏樹ロング・インタヴュー』(文藝春秋 1994)より抜粋。A4片面3枚(田村隆一詩「帰途」、友川カズキ歌詞「先行一車」含む)
    ⑥ 下地勇歌詞「おばぁ」(宮古言葉+標準語)。A4片面1枚。
    資料提供:①・②・⑤・⑥ Mi、③ Ko、④Ma
 【回覧資料】
  • ① 「反求會々報 第18号」(1936年10月発行 反求會) ガリ版刷りの冊子。一高弓術部“先輩対部員 懇親競射会”参加者の寄せ書きが綴りこまれている(自筆)。福永武彦、矢内原伊作、高橋健人、向坊隆などの名が見える。
    ② 『夏の朝の成層圏』(中央公論社 1984)初刷・帯付と、同再刷(1988 芥川賞受賞後の帯付)本。「芥川賞受賞作家の予感を秘めたデビュー作」「若者の脱文明への願望」(再刷帯文)。
    ③ 『沖にむかって泳ぐ 池澤夏樹ロング・インタヴュー』(文藝春秋 1994)。小説家、詩人池澤夏樹理解のために必須のインタヴュー集。
    ④ 詩集『塩の道』(書肆山田 1978) ペン献呈署名本。小冊子推薦文は、詩人の安藤元雄。その安藤の第一詩集『秋の鎮魂』(位置社 1957)の巻頭序文として福永武彦が推薦文を寄せていることは周知の通り。
    ⑤ 『池澤夏樹詩集成』(書肆山田 1996) ペン署名本。『塩の道』、『最も長い河に関する省察』(書肆山田 1982)、未刊の『満天の感情』に拾遺詩篇を纏めた詩集。
    ⑥ 『サーカムナヴィゲイション』(イザラ書房 1980)。帯推薦文、辻邦生。
    ⑦ 野呂邦暢『鳥たちの河口』(文藝春秋 1973)。毛筆献呈識語署名入り。『夏の朝の成層圏』成立に刺激を与えた短篇「世界の終り」収録。近年、野呂の再評価は著しい。
    ⑧ 雑誌「新潮」(1979.10)
    ⑨ 雑誌「文芸」(1979.10)
    ⑩ 『玩草亭百花譜』上(中央公論社 1981)と同内容見本。
    ⑪ 浪速書林古書目録第34号(2002) 『玩草亭百花譜』上巻の原画、計68葉(別に表題2葉)が、カラーと白黒写真で掲載されている。売価40万円。
    資料提供:①~⑤・⑦ Mi、⑥ Sa、⑧~⑪ A
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