福永武彦電子全集
全20巻完結、配信中
 当サイトは1995年に設立された福永武彦研究会の公式ホームページです。
福永作品を愛する方、福永武彦について深く知りたい方は、どなたでも入会できます。


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◇研究会の会誌「福永武彦研究 第18号」が発行されました(2024年11月)。New!
 版型:B5判・2段組、117頁、1500円(送料430円)
 購入希望の方は、会誌紹介ページより申し込みください。

【特集】戦後日記、新生日記の時代
・『福永武彦戦後日記』『福永武彦新生日記』書名・作家名索引
・日記から辿る『小説 風土』執筆経緯
・『福永武彦新生日記』について
・『戦後日記』『新生日記』と福永文学
・福永武彦自筆日記1945 初読時の感想
・初刊本・特製本「塔」献呈名簿
・「青春」掲載誌「ひろば」と註釈
・『福永武彦戦後日記』註への補足
・「塔」とその周辺―『福永武彦戦後日記』の余白に
【作品研究】福永武彦と時間―「河」における象徴に焦点を当てて―
【エッセイ・随筆】
・福永武彦の作品における時間の停止および死生観の分析
・その言葉を、他の多くの言葉と共に
・『風土』と奏鳴曲「月光」に関する思い出など
【資料紹介】全集未収録の小文の発見
*画像クリックで表紙・目次の拡大画像にリンクします。

◇第212回例会案内 New!

日時:2025年7月27日(日)13時〜17時 Zoom開催
内容:発表と討論 『夢百首 雜百首』(中央公論社 1977.4)

例会には、どなたでも参加できます。
オンライン例会の場合の参加費は無料です。
オンライン例会初参加を御希望の方は、お報せください。手順をお伝えします。  
問い合わせ先:福永武彦研究会 三坂 剛 メール: Fax:044-946-0172

2025年度総会、第211回例会(2025.5.25開催)報告を掲載しました。New!

書影付き著作データに「福永武彦詩集」写真版2部本を追加しました。

福永武彦研究会 令和7年(2025年)度の会員(2026年5月末まで)を募集中です。
 年内途中いつでも入会可です(途中入会割引あり)
 入会についての資格は特になく、福永武彦の人と作品に興味をお持ちであれば、どなたにも開かれています。数々の会員特典があります。詳細案内

◇「福永武彦資料の価格推移一覧1970~2020」(PDFファイル)公開 New!

 研究会会員が手元の古書目録に拠って作成した資料を会員限定で公開しました。
 稀覯本、署名本、そして自筆資料(草稿、手紙、日記、絵画、色紙など)を中心とする905点の福永武彦関連古書目録資料(397点については資料画像付)が掲載されています。

◇研究会のX(旧ツイッター)アカウントを開設しました。
 アドレス:https://twitter.com/fukunaga_ken
 例会告知、福永関連情報の発信ほか、作品への感想などで一般愛読者とも繋がっていくことを目的とします。

◇新刊『忘れがたき日々、いま一度、語りたきこと』(2023)/山崎剛太郎 New!
 本書は、詩人、小説家、翻訳家で、700本以上のフランス映画の字幕翻訳を手がけ(フランス政府より芸術文化勲章を受勲)、2021年に103歳の生涯を閉じた山崎さんの文学と映画についての評論、随筆他を集成したもので、福永武彦研究会会員の渡邊啓史氏が山崎さんの依頼を受けて全体の編集を行っています。
 字幕翻訳の裏話が興味深く、文学関連では、とくに親しかった中村真一郎との交友や堀辰雄、立原道造との思い出などとともに2003年10月に開催された福永武彦研究会の特別例会講演記録「亡き友 福永武彦と私の思い出」も収録されています。


◇2023年3月30日に、池澤夏樹さんの注目作『また会う日まで』が刊行されました。
池澤夏樹さんの大伯父(すなわち福永武彦の伯父)である秋吉利雄が、海軍軍人、天文学者、クリスチャンとして明治から戦後までを生きた軌跡と日本の近代史を融合した超弩級の歴史小説です。
 福永武彦の出生の背景についても明らかにされています。


◇池澤夏樹さんと春菜さんの父娘対談『ぜんぶ本の話』(毎日新聞出版)が刊行されました。
 「読書家三代 父たちの本」と題して、福永武彦についても1章が割かれています。一読をお薦めします。
 また、池澤夏樹さんが、福永の伯父秋吉利雄を主人公とする小説を、8月より朝日新聞に連載されます。実に興味深いです。


◇福永武彦電子全集 全20巻(小学館)の紹介ページを開設しました。
 最終第20巻は、2020年6月に刊行されました。

書影付き著作データ・小説に「小説風土」(完全版)(決定版)(新潮文庫版)を追加しました。
 
◇池澤夏樹氏に当研究会の顧問に就任していただくことになりました。
 
cafe impala 池澤夏樹氏の公式サイト
 
◇福永武彦生誕100年特別企画の第1回として池澤夏樹氏講演会「福永武彦 人と文学」が、2017年6月11日(日)に神田神保町東京堂ホールにて開催されました。予約で満席となる盛況でした。日本経済新聞(4月29日朝刊)文化欄に福永武彦が大きく取り上げられ、池澤夏樹氏、当会会長のコメント記事とともに講演会についても紹介されました。

 

福永武彦「廃市」が復刊されました! 小学館(P+D BOOKS)
 

福永武彦「加田怜太郎 作品集」が復刊されました! 小学館(P+D BOOKS)
 

福永武彦「夢見る少年の昼と夜」が復刊されました! 小学館(P+D BOOKS)
 

福永武彦「夜の三部作」が復刊されました! 小学館(P+D BOOKS)
 池澤夏樹氏が解説を特別寄稿。池澤夏樹氏による解説文が掲載されています。
 
      
福永武彦「風土」が復刊されました! 小学館(P+D BOOKS)
 池澤夏樹氏が解説を特別寄稿。池澤夏樹氏による解説文が掲載されています。
 
福永武彦「海市」が復刊されました! 小学館(P+D BOOKS)
 池澤夏樹氏が解説を特別寄稿。池澤夏樹氏による解説文が掲載されています。
 
 
福永武彦「未来都市」が刊行されました(2016年12月)
 ・36年余り永きに亘り眠っていた幻の大型絵本が、装いも新たに今、甦みがえりました。


◇福永武彦関連 新刊2点(2015/3/26)
 ・堀辰雄/福永武彦/中村真一郎(池澤夏樹編集 日本文学全集17)
    福永武彦:「深淵」「世界の終り」「廃市」
    堀辰雄:「かげろうの日記」「ほととぎす」
    中村真一郎:「雲のゆき来」を収録

 ・「草の花」の成立―福永武彦の履歴/田口 耕平







 
書影付き著作データに以下の資料を追加しました。

◇「福永武彦詩集」写真版2部本 :掲載ページ New!
 先日、懇意の古書店より連絡を受け、市場に福永武彦の面白い資料が出ていることを知りました。「福永武彦詩集」自筆ノオトの白黒コピーを大学ノートに1ページごとに張り付け、巻末には印刷した奥付が添附され、源高根宛の福永自筆識語が入っている2部本とのこと。存在は以前より知っていましたので入札を依頼したところ幸いに落札できました。
 元となっている福永自筆の詩集というのは、『時の形見に』(白地社 2005.11)に写真版で紹介されているノートとはまた別の中判の大学ノートに記されたもので(1943年に清書されたもの)、収録詩篇も多少増えています。
 奥付と福永識語により、このノートを作製したのは源高根氏であることがわかります。源氏はたえずこの写真版を参照し、岩波書店版『福永武彦詩集』校異への疑問を熱の籠った論文として纏めた際に参照したのもこの2部本です。
 表紙、本文、奥付画像を掲載します。書影クリックで拡大画像にリンクします。


◇「小説風土」(完全版)(決定版)(新潮文庫版):掲載ページ
  書影クリックで拡大画像にリンクします。

 
(完全版 表紙)

限定1000部 
1957.6.15 東京創元社 1000円
扶桑印刷・A5判変型・丸背紺布装・函・番号入・453頁 旧かな・旧字
「風土後記」57年5月(2頁)、「著作目録」(2頁)、「目次」(2頁)

*私家版30部本あり(1~30) 1000部版と同判、同装幀
*省略版に、過去を扱う第二章を増補しただけでなく、本文全体に大幅な手入れ。
 
(完全版 扉)

第2部が増補され、はじめてロマンとして完全な姿で読者に提供した本書扉に『小説風土』と明記した意味は大きい。
奥付にも「小説風土」とある。
 
(決定版 表紙)

1968.12.10 新潮社  700円
二光印刷・46判・丸背深緑布装・函・帯・417頁 新かな・新字
「解説」丸谷才一、装幀 岡鹿之助

*完全版本文に、更に全体に渡って手入れがあるので「決定版」と呼ぶ。奥付に決定版との表記がある。
 
(新潮文庫版)

1972.6.15  新潮社  220円
光邦・文庫判・紙装・カヴァ・429頁 新かな・新字
「解説」丸谷才一(決定版と同文)、カヴァ装幀 岡鹿之助

*表紙は決定版の函と同一




◇2025年度総会
日時:2025年5月25日(日)13時~14時
場所:川崎市平和館 
【総会内容】
・2024年度会計報告
・ホームページ閲覧者数の推移報告
・2025年度新運営委員決定
・7月以降の例会課題図書を以下に決定した。
 7月:歌集『夢百首 雜百首』、9月:池澤夏樹・池澤春菜対談集『ぜんぶ本の話』、11月:訳詩集『象牙集』、2026年1月:「小品四種」(「晩春記」「旅への誘い」「鴉のゐる風景」「夕焼雲」)、3月:『福永武彦対談集』
 *例会は、原則zoomでの開催とし、年に1回は対面開催をする予定です。
・「福永武彦研究」第19号発行時期と内容
 発行:2025年11月予定
 内容:特集:<福永武彦と中村真一郎>(仮題) 中村真一郎講演翻刻(1997年8月、当会で実施。未発表)他

◇第211回例会
日時:2025年5月25日(日) 14時~17時
場所:川崎市平和館、zoom同時開催
内容:発表と討論 『意中の文士たち』 上下

【発言要旨】順不同
Ka氏
 第211回例会で、初めて参加させていただきました。
 みなさんの発表を伺っていると、『意中の文士たち』の初出について言及されることが多いことに気づきました。
 その文章を書くときに、どういう媒体に掲載され、誰が読者なのかを考えながら執筆する。雑誌であれば、他の作家の文章と一緒に掲載され、広範な読者に読まれることを前提としなければならない。また、全集の月報や解説であれば、その全集の読者が読むわけですから、その読者が望むものでなければならない。
 そして、それを自著に収録する際には、今度は福永武彦の愛読者が購入するわけですから、それに合わせて文章を手入れしたり、書籍の装幀、構成を考える。
 そのように考えますと、福永武彦という作家は、作家論を通して自分の文学観を鍛え、作品を磨いていった、という側面と、絶えず読者と真摯に向かい合い、読者との関係性の中で自分の作品を磨いていった、という二つの側面があるように思いました。
 今回の例会で感じたことを踏まえて、再度『意中の文士たち』を繙いてみようと思います。
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 これは感想ではありませんが、例会のなかで、Miさんが小学館版の「風土」の池澤夏樹さんの解説に誤字がある(*三坂註 おそらく筆者が簡略化して書いた人名その他を、編集者が確認の手間を取らず、そのまま載せている)ことをおっしゃったので、書店でみてみました。2023年発行の5刷でしたが、解説中の人物名の誤字は、そのままで修正されていませんでした。通常重版時に誤字は修正できますし、すべきと思っています。小学館側に指摘したとのことですが、対応されていないのは、せっかく復刊された「風土」にも、解説を書かれた池澤夏樹さんにも、失礼だとは感じました。
*Mi註:小学館版「風土」に関しては、当時、担当編集者に直接お尋ねしたところ「原稿をそのままに掲載したまでです」とのお返事で、つまり校正はしていないということで驚き呆れました。明らかに編集部の手落ちです。

Su氏:「川端康成集解説」感想
例会で述べたことを踏まえつつ、その後に考えたことを少々纏めてみました。
1
 一般に福永に影響を与えた作家とはみなされていない川端康成だが、福永が川端作品を取り上げた文章は意外に多い。随筆集を瞥見しただけでも、『書物の心』に、「川端康成のノーベル賞受賞」「雪国読後」「川端康成の文芸時評」「「川端康成『美しさと哀しみと』」、『秋風日記』に「『雪国』他界説」の五作が掲載されている。さらに「批評B」中に「川端康成・福永武彦集解説」「川端康成『高原』解説」「川端康成『伊豆の踊子』解説」が、『意中の文士たち』には「川端康成集解説」と「末世の人」がある。計全十作、それらは皆註文に応じて書かれた文章ではあるが、註文されても書きたくないものは書かない主義の福永がこれだけ多くの文章を残しているというのは、福永が好んで川端作品を読んでいたことの証左でもあろう。
 実際、1972年6月「新潮」臨時増刊号での「川端康成 人と文学」と題された河盛好藏、中里恒子との対談で、川端との出会いについて以下のような発言をしている。

 「ぼくなんかは世代がまるで違いますから、ご本人を知る前に、作品の方で親しんでいました。『雪国』が雑誌に載り出した前後のころからです。ですからぼくは、学生のときに『花のワルツ』とか『童謡』とか、『雪国』の連作とかいったものを、雑誌を買って読んだ。要するに好きな作家だったわけですね。(略)だからぼくは大いに影響を受けたんだろうと思います。(以下略)」

 『雪国』の雑誌分載開始は昭和十年、福永十七歳第一高等学校二年時である。後に『草の花』となって結実する少年愛事件当時のことである。人生に於て最も多感鋭敏な時期からリアルタイムで川端文学を読み継いできているわけだ。当然のことながら福永文学に影響を及ぼさないはずはない。

2
 Miさんも指摘される福永のエッセイの特徴は、自らの文学とのつながりの中で、作家、各作品を論ずるというところにある。対象となる作家を論ずることで、自らの文学の現在を確認し、今後の文学の糧としているようなところが、福永のエッセイにはしばしばみられる。
 『意中の文士たち』所載の「川端康成集解説」は「新潮日本文学」シリーズの一冊として昭和四十三年出版、解説執筆は十月とされる。ここで福永は自ら作品を選び、配列したうえで解説を執筆している。
 この昭和四十三年という時期を福永作品の制作時で確認すれば、『忘却の河』各章執筆三十八年、『幼年』三十九年、『風のかたみ』四十一年から四十二年、『海市』出版が四十三年、『死の島』は現在進行形で執筆中というところである。主要作品の出版間もない時期または執筆中にあたる。当然、福永は『忘却の河』や『海市』を完成した眼で川端文学を解説している。つまり、この「川端康成集解説」を読み解くことで、福永文学における川端文学の影響もほの見えてくるように思われる。

3
 福永は先ず、川端の人と為りの印象を「譬えるなら一枚の鏡のようなもの」と紹介し、その作品も「謂わばその作品は読者の心の中の湖に投げ込まれた小石であり、その波紋はゆるやかに広がりやがて消えてしまうだろうが、その湖に漣が立つのを見るたびに、読者は湖に落ちた寂しい小石の音を思い出さずにはいられないのである。」と解説する。
 これは福永作品にも通じるのではなかろうか。福永作品を読んだ者は、皆そのメインテーマである「愛と孤独」の問題に向き合わざるを得ない。読者各々のうちにある各々の「愛と孤独」、日常の繁忙の中でなおざりにされていたものに改めて向き合い、自らの心のうちに測深器を下す。そのさまは、川端文学と近似値にあるだろう。
 解説は続いて各作品分析に入り、『雪国』を論じる。この作品が別々の題名でいろいろの雑誌に分載されたことを紹介し、「独立した題名を持っているから、果たして『雪国』の一篇なのかどうか、またたとえそうでもどこがどう続くのか、よく分からないところがあった。しかしこの連作が、短編として読んでも深い余韻を備えていることは疑いを容れない。」と書く。この発表形式と作品構造は『忘却の河』を連想せずにはおれない。川端のこのスタイルを踏襲しながら、更に短編どうしが緊密に連携しあい交響して長編となる『忘却の河』を構想していったのではないだろうか。
 また、『雪国』の特徴として、「主人公の島村が影の薄い人物である」ことをあげる。そのうえで次のような説明をする。

 「島村という男は一種の幽霊のような存在で、駒子を映し出す鏡の役割を果すに過ぎない。駒子の悲しみが嶋村の心を吹きすぎる時に、嶋村も共に悲しむだろうが、それは駒子の心がそこに移ったというまでである。(略)そう考えると、この小説の発端の、つまり雑誌発表の時の『夕景色の鏡』という部分での、鏡の使いかたは心にくいまでに象徴的である。汽車の窓ガラスに夕焼の風景が見えるが、それはまた鏡の作用をして娘の顔を映し出す。娘の顔の裏を夕景色が流れ、野山にともし火がともると、それは娘の眼と重なり合って目にともしびをつけているように見える。この部分の巧みな描写は後々まで読者の印象に残るが、それは同時に読者が嶋村を鏡として、この雪国の世界を見ていることでもある。その鏡には、嶋村の眼に入る風景と、駒子の「虚しい徒労とも思われる」生き方とが、二重写しになって映っている。」

 この部分を読みながら、私は『海市』の冒頭部分を連想してしまうのだ。
 「私はこの話を、私が蜃気楼を見に行ったところから始めたいと思う。」という一文から始まる『海市』は、冒頭、南伊豆の夕景の幻想的風景が描かれる。そして、それは夕景の中に立つ一人の女、ヒロイン安見子の登場シーンに続く。この極めて印象的なシーンは読者を一気に物語世界に引き込み、主人公澁が出会った謎の女の魅力に引き込まれていく。この心象は全編を貫いて作品の基調となる。『海市』は蜃気楼のことであり、エピグラフに掲げられた漢文、漢詩にあるように、極言すれば、すべてが主人公澁太吉の眼に映った「幻影」、ヒロイン安見子は「幻の女」とも考えられなくもない。生身の安見子は、澁の眼に映る安見子との相克の中で、次第に身動きできなくなり、「運命の定めた偶然の方へ、或いは彼女の死の方へ。」引き寄せられていく。

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 次に、福永が『眠れる美女』を解説した部分を抜く。

 「『眠れる美女』に於ては、主題の奇抜さが手法を超越しているが、ここに見るエロティスムは現代の西洋文学と相通じるものを多分に持っている。しかしまたこの主題は、美女への思慕という形で、初期作品以来しばしば扱われて来た。ただこのように大胆に、殆ど「究極の美」と呼ぶにふさわしい怪しい輝きをもって、虚構の上に築きあげられたことは一度もなかった。これこそ深層心理を鮮やかに映像化したものであり、主観的リアリズムというよりも、さらに進んで幻想的リアリズムとも呼ぶべきものであろう。」

 たいへんな褒めようである。確かに川端晩年の傑作である。世界文学にも影響を与えており、南米コロンビアのノーベル賞作家G・マルケスが晩年の二千年代初頭に書いた『わが悲しき娼婦たちの思い出』は、この作品へのオマージュとして書かれた作品であることはよく知られている。
 この『眠れる美女』が書かれたのは昭和三十五年。昭和三十年代以降、日本文学の性表現のオープン化の流れの中で書かれたものである。室生犀星にも昭和三十四年作の『蜜のあはれ』という傑作がある。福永もこの流れの中で、川端とは多少異なる、もう少し成熟した女性の「究極の美」を提示して見せようとしたのが、『海市』の安見子ではなかったか。
 安見子との逢瀬を描いた部分で、裸で眠る安見子の描写は、『眠れる美女』で描かれる美少女たちに負けず劣らず、美しく魅惑的だ。

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 さらに、福永は川端文学の特徴をこのように述べる。

 「あるがままに受け入れて、一切の甘さを拒否しようとする態度、しかもそれは峻烈とか悲愴とかの感じを伴わない。私はそこに於て川端康成氏の文学の特徴を、「受身」の文学というふうに取りたいと思う。受身は文法で言う受動態である。自分の方は積極的に動こうとしないが、来るものは受け入れる。但し必ずしも無条件に、清濁併せ呑むといったふうに受け入れるのではない。醜いもの、野蛮なもの、荒荒しいものは、天性の篩に掛けられて零れ落ちてしまう。」

 母や弟をはやくに亡くし、自らも長い闘病生活を経て作家として漸く認められたという経緯の中で生み出される福永文学に低通するのは、一種の「受身」、或いは運命観であるように思える。
 そして、「醜いもの、野蛮なもの、荒荒しいものは、天性の篩に掛けられて零れ落ちてしま」った後の、純粋な世界の提示であるように思われる。ここにも川端文学との共通項があるようだ。
 川端の優れた短編「反橋」。同じ「あなたはどこにおいでなのでしょうか。」という一文で冒頭と掉尾が呼応する三つの短編の一つだが、梁塵秘抄や古歌が随所に散りばめられつつ展開する、内的独白形式で書かれたこの作品は、福永の『忘却の河』の四章「夢の通い路」をどこか彷彿とさせる。作品内容はまるで異なるのだが、内的独白形式の中での古歌の散りばめ方といい、運命を受容する主人公の姿といい、共通する味わいを持っている。

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 以上、「川端康成集解説」に拠りながら、福永文学、特に『海市』と『忘却の河』に見られる川端文学の影響を検討してみた。福永自ら弟子を公言し、また、「私にとっての堀辰雄」ほか多くの文章を残している堀辰雄と違い、川端文学の福永への影響が言及されることは少ないように見える。しかし、冒頭に紹介したように福永自らが「好きな作家」「大いに影響を受けた」と発言しているのであるから、その影響関係を詳らかにする必要はあるのではないか。
 ここでの読みは甚だ粗く、印象批評の感は否めないので、今後、福永、川端の各作品を精読しつつ、比較検討する機会を持ちたいと思う。

Mi氏:『意中の文士たち』について
① 初刊本
初刊本 『意中の文士たち』 上・下 人文書院1973年6月刊
各エッセイは、文学全集解説や月報、講座などの各誌に発表された。
<上巻>
発表期間:1958年から1972年。
対象:森鷗外、夏目漱石、永井荷風、芥川龍之介、谷崎潤一郎、梶井基次郎、中島敦、川端康成の8名、11篇。
<下巻>
発表期間:1958年から1968年。
対象:堀辰雄、萩原朔太郎、室生犀星の3名、6篇。
 福永40歳から54歳にかけての仕事であるが、『意中の文士たち』と題して上・下巻2冊に纏められたのは、長篇『死の島』完結(1971・8)後、自らの文業を『福永武彦全小説』として新潮社より刊行し始めた時期に当る。

② 随筆とエッセイ
 上巻「序」に「私のエッセイはとかく随筆的になりやすい」と記しているが、福永はエッセイと随筆を明確に区別していた。この点は、電子全集第10巻、11巻、15巻「解題」でも、この例会報告文でもいままで繰り返し述べている。要点を記せば、
>「僕」を全面に押し出し、虚構を混えながら自らの真実を描くのが福永随筆、それに対して福永エッセイは、小説の実作者としての立場から切実な問いかけをもって対象に迫り、多様な資料を駆使しつつも、対象を自らの文学観と切り結ぶ線上で一刀両断に論じていく点に特色がある。『ボオドレエルの世界』も『ゴーギャンの世界』も、そのような姿勢に貫かれている。(電子全集第11巻「解題」)
 評論『ボオドレエルの世界』(執筆は1946年秋)は、これから本格的に象徴主義小説の創造を始めるつもりの自らの理論的基盤を固めるため、『ゴーギャンの世界』(1955年~1960年に主要部分執筆)は、『小説 風土』以来の生涯の主題である「ゴーギャンの謎」を一層深く、年譜的事実を絡めながら追究するために執筆されたが、この「切実な問いかけをもって対象に迫る」姿勢は、『意中の文士たち』収録のエッセイにも貫かれている。

③ 森鷗外
 「実作者としての立場から」書かれているという点が要点である。例えば、上巻の鷗外に関してのエッセイ。
この鷗外に関する2篇のエッセイが執筆された1962年は、長篇『死の島』の構想を幾度も練り直し、その年1月からいよいよ執筆にかかっていた時期である。鷗外の未完の長篇「灰燼」の挫折の因を究明しようとする福永の熱情は、長篇小説を書きあぐねている実作者としての自らの切実な問いかけに基づいている。
 「灰燼」の挫折を、「自己の深層を語ることに苦痛を見出すような人間」だった古典主義者鷗外、「一種のポーズなしに自己を告白することは出来なかった」鷗外、つまり「小説家としての立場よりも人間としての立場を固執しすぎた」鷗外に、福永は見て取っている。

④ 堀辰雄
 下巻では、「本当を言えば、堀さんだけで一巻を編むことが望ましかった」(「序」)という「堀辰雄の作品」他、堀論3篇が柱である。
 「堀辰雄の作品」は、新潮社普及版全集全6巻(1958年)を福永が単独編輯した際、その月報に掲載された文章であるが、堀辰雄の作品一つ一つ、その初出を具体的に記し、他作品との関連、ノートを含めた生成過程、そしてその作品の意義を、堀の年譜的事実とも関連させつつ論じ、その文業全体に渡って真摯に対峙した力作である。
 特に「菜穂子」を論じた箇所では、実現された作品だけでなく、堀の意図した「大・菜穂子」の姿を、残されたノートから創造(想像)しているのは、ロマンの創作を生涯の目的とした先師・堀辰雄への小説家としてのオマージュとなっている。
 ただ、見逃せないのは、この「解説」は、やはり実作者としての姿勢が貫かれているので、福永文学の特質を考察する上でも多くの示唆を与えるという点である。例えば、その「堀辰雄の作品」Ⅴ「堀辰雄の小品と特殊性」の要点は、ほぼソノママ福永自身の小品(「四つの古い小品」として纏められた「晩春記」、「旅への誘い」、「鴉のいる風景」、「夕焼け雲」)の特質に当てはまる。このことは、電子全集第1巻の解題で触れた。
 *上記、堀辰雄普及版全集月報の文章は、『意中の文士たち』に収められるに際して、不要なところは削除され(途中、入院していたことなど)、また細かな語句がかなり書き換えられている。

⑤ 「末世の人」
 この『意中の文士たち』上・下の刊行は、前述したとおり『死の島』刊行以後になるが、収録の各文が書かれたのはそれ以前であり、鷗外や堀辰雄以外のエッセイも、福永の「実作者としての姿勢」はよく示されている。
 しかし、上巻末の川端康成の死に際して書かれた「末世の人」だけは、別の特質を示している。つまり、1972年のこのエッセイは、福永自らの意見を打ち出すというより、生前の川端との日常的付き合いで得た印象や発言を多く取り入れ、種々の具体的事実や、川端作品そのものに<語らせよう>とする姿勢が顕著であり、福永自らはその引用者、解題者の立場から読者に語りかけている。江戸以来の考証随筆の流れを引く随筆的エッセイと言える。この姿勢は、以降『内的獨白』や『異邦の薫り」に引き継がれて、大きく展開されていく。
 付き合いの様子や引用文自体に語らせるという手法は、川端への追悼文であることの自然な反映でもあるが、何より、前年に『死の島』を完成した福永自身のエッセイに対する姿勢が転換しつつあることの顕れである。この点に関しての詳細は電子全集第11巻「解題」を参照いただきたい。

⑥ 愛書家、福永武彦
 この『意中文士たち』上下は、家蔵の鷗外「小紺珠」自筆ノートや川端康成からの書簡、自ら撮影した犀星写真などを挿入し、造本も手になじむ判型、紙面の余白もたっぷり取って読みやすく、小豆色の表紙も好ましい本で、文人趣味が露わになっている。
 翌年2月には限定250部の総革本も刊行し、愛書家としての一面を示している。  「堀辰雄の「荷風抄」」冒頭、竹中郁の書棚一杯の荷風初刊本にボッとなった思い出にも愛書趣味は明らかだが、高校時代より、泉鏡花や永井荷風の初刊本を熱心に蒐集していた福永は、戦中、療養所時代には一時中断したものの、生涯に渡って「意中の文士たち」に収録された作家たちの初刊本や自筆ものを蒐集していた(いま、日本人以外には言及しない)。もちろん、福永意中の日本人文士は、収録作家・詩人だけに限らないので、例えば内田百閒の著作なども、『冥途』以来の初刊本を熱心に蒐集し、その文学にも通暁していたことは、自身随筆にも記している通りである。

<回覧資料>
岩波書店の宇田健宛の書簡とはがきを回覧した。ともに『意中の文士たち』に間接的に関連する。
・宇田健宛 福永自筆書簡(1963) 朱毛筆
 同封されていた「荷風全集」月報の稿(「堀辰雄の「荷風抄」」)に関する注意書き。200字詰原稿用紙1枚(罫は無視して書かれている)。
 荷風全集担当者であった宇田宛の、月報文に関する注意書き。「つゆのあとさきに就て」の言及あり。
・宇田健宛 福永自筆はがき(1963.4) ペン
 後半に、漱石「明暗」反故原稿を先日購入したことが記されている。
 ※右画像参照(画像クリックで拡大画像表示)。


Ki氏:「意中の文士たち」及び随筆から窺う福永にとっての堀辰雄
 今回、堀辰雄の「菜穂子」と関連する「楡の家」「ふるさとびと」を読み返し、菜穂子と明、生と死に向き合う対照的な姿に改めて感銘を受けたこともあり、福永の堀文学に対する思いを「意中の文士たち」及び随筆から探ってみた。
1.「意中の文士たち 下」より堀辰雄に関する文章からの引用
①堀辰雄の作品 人文書院刊本p9~p146、初出:新潮社版「普及版『堀辰雄全集』全6巻月報1958年5月~12月刊
 初期の習作から晩年に至る堀作品全般の福永の分析も含めた解説であり、堀作品ガイドとして価値あり。「前置」に福永の堀文学に対峙する姿勢が述べられている。

 堀辰雄の世界について、僕は今までに正面からのものを書いたことがない。それには幾つかの理由がある。僕がその世界の近くに位置していたこと、言い換えればその影響、或いは呪縛から逃れるのに時間がかかったこと、(中略)ところでこの初めの方の問題、つまり影響ということを客観的に捉えるのは僕自身には難かしいので、よしんば僕が、今ではその影響から逃れ得た、僕は僕である、というような生意気なことを口にしても、無意識の影響は僕の中に抜きがたく沁み込んでいるかもしれない。「呪縛から逃れ」て、僕は出来る限り客観的に書きたいとは思うが、嘗て観密であったその世界に完全に批判的になり切ることは出来ないだろう。従って僕は、堀辰雄の世界に僕なりの見取図を引いて、堀辰雄の成熟して行く跡を追い、彼の完成したものと、完成しようとして果さなかったものとを、区別するにとどまるだろう。

 福永が掘文学全体を通じての最も重要な作品として捉えている「菜穂子」について、立原道造がモデルと覚しき都築明の役割についての福永の解説。

 都築明が、ぐんと比重を増して考えられるに及び、作品は著しくロマンに近づいた。一つの小説の中に二人の、等分に重要な主人公たちがいて、一人一人は内部からの光線を漂わせているが、それが互いに他に対する照明にもなるような方法。しかもこの明という人物は、菜穂子が作者にとってまったくの他人であるのに対して、立原道造をモデルらしく使ったとはいえ、作者自身にも甚だ近いのである。勿論、一般に言って作品の中心人物は作者の分身に違いないが、明という青年が表面的に立原道造から借りられていることは間違いない。しかしその立原は、内面的に甚だ堀に近い気質を持っていた。そして「風立ちぬ」が婚約者への鎮魂歌であったように、「菜穂子」もまた最も親しかった年少の友人への鎮魂歌であろう。このような堀の得意とする主題を捉え得たことから、逆に菜穂子なる女主人公の生きかたが、作者の裡に生き生きと浮び上って来たのであろう。(中略)
 「創作ノオト」によれば、「大・菜穂子」では明は療養所で死ぬ。その部分に作者は次の如く書く。
 「彼の生き方は、彼の死によつて、一層完成す。夭折者の運命。」
 また、ノオトの最後には、菜穂子について次の一行がある。
 「彼女の生は、彼女の耐えた生によつて、一層完成す。生者の運命。」
 これが本来意図された主題であり、堀はこの二つの対照のうちに人間の運命を書こうとしたもののようである。

②堀辰雄と外国文学との多少の関係について 人文書院刊本p147~p172、初出:角川書店版「近代文学鑑賞講座14堀辰雄」1958年10月刊
 堀が多少なりとも影響を受けた海外作家として、スタンダール、メリメ、コクトー、ラディゲ、リヴエール、ドストエフスキー、ゲーテが挙げられ、解説が加えられている。さらに取り上げる予定をしていた作家として、プルースト、モーリアック、カロッサ、リルケの名が挙げられている。
 以下は「前置」よりの引用。

 従って彼の作品は真にオリジナルな部分と、他からの影響を意識した部分とからなる。しかし多くの場合に、影響と見られる部分も、一種の彼の偽装にすぎない、或いは一種の装飾にすぎないと、言えるのではないだろうか。コクトーもブルーストもリルケも、一時的な彼の方法にすぎず、その芯に於て堀は最も頑固に自己を守った作家である。僕は用意が足りなくて充分にそれを証明することは出来ないが、 堀が自己を守るために纏ったきらびやかな衣裳に、読者が惑わされることのないようにと思う。

③堀辰雄の「荷風抄」人文書院刊本p173~p195、初出:岩波書店版「荷風全集第13巻、第23巻、第7巻」月報
堀が遺したノートの一冊で、荷風の作品中の海外作家に関する文章の引用を記したもの。

 私はこのノオトを読んで、一つには荷風がいかにフランス文学を会得していたかに驚嘆した。小説や随筆を読んでいるうちはつい気がつかないが、こうした抜書を改めて見るとなると、その博覧強記にもその深い愛情にも感嘆の他はない。と同時に、そのノオトを作った堀さんにも共感と敬意とを新にした。趣味的であると一概に言っても、真の影響というものはこういうところから徐々に沁み込んで行くのであろう。これは永井荷風にとっても堀辰雄にとっても、幸福なことであったと思われる。

2.随筆より窺う福永にとっての堀辰雄
①『秋風日記』所収「私にとつての堀辰雄」より引用 初出:「国文学」1977年7月号

 堀辰雄は芥川龍之介によつて眼を開かれはしたが、その眼は彼の固有の眼であり、また芥川の「死そのもの」によつて開かれた以上それは死を内蔵する眼と呼んでも間違ひではなかつた。堀辰雄は生活の上でも文学の上でも、 細心の注意を籠めて芥川龍之介の踏んだ道の上を歩くまいと努めたやうに見える。

 私が堀辰雄から学んだものは、根本に於てこの堀辰雄が芥川龍之介に対して持つた態度と同じである。如何にして堀辰雄の踏んだ道とは違った道を歩むか。そしてかういふ態度は、私と共に堀辰雄の周辺にゐた中村眞一郎や加藤周一などにも共通してゐただらうと思ふ。少くとも戦後に新しく小説を書き始めた新人たちにとつて、堀辰雄の作品は通過すべきものであつて到達すべきものではなかつた。「その仕事の終つたところ」は堀辰雄の場合「菜穂子」がそれに相当するだらうから、私たちは「菜穂子」の先へ行かうと決心してゐた。文体といふ点に関しても、堀さんの柔軟で屈折した、謂はば非芥川的な文体で小説を書かうとは思はなかつた。勿論芥川龍之介の文体に就かうと考へた訣ではない。しかし堀辰雄があれほど芥川龍之介の文学に親炙し、最も近しい弟子として出発しながら、見事に芥川の影響を感じさせない文章を書いたといふその点に、私たちは敬服したと言ふことが出来る。影響といふものは無意識のうちに沁み込んで来るのだから、真似をしないことは簡単でも影響を受けないで済ますことは決してた易くはない。そのためには明智な意志を常に保ち續けなければならない。
 しかし私の場合に、堀辰雄の影響を進んで受け入れた点が幾つかあり、私はそれによつて自分が堀辰雄の弟子の一人とみなされることを容認する。しかしかういふことを自分で麗々しく書くのは気が引けるから、共感した点を大ざっぱに、箇条書ふうに書きとめておかう。だいいち自分でもあまりよく考へたことはないし、これはつまり締切日に追はれての思ひつきである。
一、堀辰雄の文学的立場が、出発に当つて、フランス現代文学の影響の下にあつたために、彼はハイカラだとして後々まで貶められた。既に昭和五年頃に、「小説を書くには」「もつと複雑な精神作用が、百パアセントの虚構が必要だ。」と書き、「小説に特有でないあらゆる要素を、小説から取除く。」といふジイドの純粋小説の理論を紹介してゐる。昭和五年は一九三○年で、ジイドの「價金つくり」は一九二五年の出版だから、その摂取のしかたは実に早い。しかし大事なことはその機敏さではなく、このやうな方法論を彼が一生貫き通した点である。
一、堀辰雄の眼は、先程も述べたやうに外界の見えないものが見えて来るやうに馴致された眼である。それは当然内面にも及ぶ。自己と他者との別なく、その見えない部分に或る種の照明を当てて浮び上らせようとする。その照明は人工的、技巧的であり、死者の眼と呼んでもいいやうなところがある。早くも「聖家族」に於て、死んだ九鬼の眼はこの小説の世界をあまねく支配してゐる。「風立ちぬ」に於て、女主人公は死ぬ以前から死者の眼で周囲を見詰め、その眼は同時に主人公の眼と重なる。私が堀の小説の特徴として認め、そこから学ばうと思つたのはかういふ点である。
一、堀の持つ視点が形而上的に死者の眼によるものとすれば、日常的にはそれは病者の眼であつたと言へる。病者である以上は健康な人間とは違った生活の價値観といふものがあり、幸福があり、夢想がある。死を内在するやうに苦しみを内在して生きて行く時に、その生活態度は明るく、思ひやりに充ち、赦しを持ち、たとひ信仰的でないとしても宗教的にならざるを得ない。恐らく人があまり口にしないゲーテの影響なども、そこにあるのかもしれない。私は嘗て生きることの達人だといふふうに評したことがある。
一、従って人生が藝術に優先する。堀はその文学的な道程で藝術のための藝術を早くから選んでゐたやうに見えるが、彼がその藝術のために人生を蔑ろにしたことはない。人生は常に藝術よりも尊い。芥川は「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」と言つたが、堀は決して諾はなかつただらう。私もまた人生は常により重要であるといふ観点に立つて藝術を創る。
一、人生は本質的に悲劇的であり、藝術はそのやうに人生を見る。しかし堀は人生をペシミスチックに見てゐたわけではない。彼は生きることを、無盡の泉から汲み取ることの出来る冷たく澄んだ水として、愉しみつつ味はつた。恰もディレッタントのやうに見えるが、その愉しみはすべて仕事の上に収斂して行くので単なる遊びとは違ふ。充実して生きたといふ意味では、病苦に苦しめられつつ生きた五十年の生涯は決して短くはない。
一、直接的な教訓として、私は堀辰雄からなるべく數すくない作品を、吟味し彫琢しつつ入念に書くことを学んだ。如何にして少しだけ書くか。また書いた作品に対して、如何にして責任を持つか。堀辰雄は病身だつたから作品が少いのではなく、書きたくないものは書かなかつたから少かつたのである。そして作品といふのは小説に限らず、エッセイも随筆も翻訳も、手紙にいたるまで、彼にとつてはすべて作品であつたやうに思はれる。その意味では堀辰雄は紛れもなく自己を律することの厳しい藝術家だつたし、青年の時期にさういふ藝術家と親しく交はることが出来たのは、私にとつて得がたい幸福だつたのだといふふうに、歿後二十四年の今にして考へるのである。

②『枕頭の書』所収「堀辰雄に学んだこと」より引用 
初出:旺文社文庫「風立ちぬ」附録1965年11月刊

 堀さんから私が学んだのは、一種の魂のリアリズムといったものである。私はそれを自分の小説の中心に据えて小説を書き始めた。昭和十六年の夏、私は「風土」という長篇小説の発端に取りかかったが、それを決心したのには、恐らく同じ夏に堀さんを識ったことが、作用していたのだろう。堀さんの方向に沿って、堀さんとは違ったものを書くこと。それは容易ではない課題だったし、私が完成するまで尚も十年の歳月を要した。



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