福永武彦電子全集
全20巻完結、配信中
 当サイトは1995年に設立された福永武彦研究会の公式ホームページです。
福永作品を愛する方、福永武彦について深く知りたい方は、どなたでも入会できます。


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◇第204回例会案内 New!
Zoomによるオンライン開催(聴講希望の方はメールでお問い合わせ下さい)
日時:2024年3月24日(日)13時~17時
【内容】
①発表と討論:『玩草亭百花譜』/福永武彦 上・中・下
*電子全集第20巻収録。

例会には、どなたでも参加できます。
オンライン例会の場合の参加費は無料です。
オンライン例会初参加を御希望の方は、お報せください。手順をお伝えします。  
問い合わせ先:福永武彦研究会 三坂 剛 メール: Fax:044-946-0172

第203回例会(2024.1.28開催)報告を掲載しました。

書影付き著作データに「福永武彦詩集」写真版2部本を追加しました。

福永武彦研究会 令和5年(2023年)度の会員(2024年5月末まで)を募集中です。
 年内途中いつでも入会可です(途中入会割引あり)
 入会についての資格は特になく、福永武彦の人と作品に興味をお持ちであれば、どなたにも開かれています。数々の会員特典があります。詳細案内 

◇研究会の会誌「福永武彦研究 第17号」が発行されました(2023年11月)。New!
 版型:B5判・2段組、71頁、1500円(送料250円)
 購入希望の方は、会誌紹介ページより申し込みください。

(内容)
【特集】池澤夏樹 最新長篇『また会う日まで』
・『また会う日まで』、質問と文書回答(池澤夏樹)
・会員エッセイ
 『また会う日まで』を読んで考えたこと
 秋吉利雄氏の「人生」について思ったこと
【報告・随筆】
 読者増を願う一愛読者としての分析
 今、福永武彦に惹かれた理由
 巡る文学に寄せて
【資料紹介・解題】
 新潮社版・小学館版全集未収録文4篇紹介
 プレス・ビブリオマーヌ版「幼年」著者校正刷 初校紹介
その他「例会活動履歴」「会員短信」

*画像クリックで表紙の拡大画像にリンクします。


◇「福永武彦資料の価格推移一覧1970~2020」(PDFファイル)公開 New!

 研究会会員が手元の古書目録に拠って作成した資料を会員限定で公開しました。
 稀覯本、署名本、そして自筆資料(草稿、手紙、日記、絵画、色紙など)を中心とする905点の福永武彦関連古書目録資料(397点については資料画像付)が掲載されています。

◇研究会のX(旧ツイッター)アカウントを開設しました。
 アドレス:https://twitter.com/fukunaga_ken
 例会告知、福永関連情報の発信ほか、作品への感想などで一般愛読者とも繋がっていくことを目的とします。

◇新刊『忘れがたき日々、いま一度、語りたきこと』(2023)/山崎剛太郎 New!
 本書は、詩人、小説家、翻訳家で、700本以上のフランス映画の字幕翻訳を手がけ(フランス政府より芸術文化勲章を受勲)、2021年に103歳の生涯を閉じた山崎さんの文学と映画についての評論、随筆他を集成したもので、福永武彦研究会会員の渡邊啓史氏が山崎さんの依頼を受けて全体の編集を行っています。
 字幕翻訳の裏話が興味深く、文学関連では、とくに親しかった中村真一郎との交友や堀辰雄、立原道造との思い出などとともに2003年10月に開催された福永武彦研究会の特別例会講演記録「亡き友 福永武彦と私の思い出」も収録されています。


◇2023年3月30日に、池澤夏樹さんの注目作『また会う日まで』が刊行されました。
池澤夏樹さんの大伯父(すなわち福永武彦の伯父)である秋吉利雄が、海軍軍人、天文学者、クリスチャンとして明治から戦後までを生きた軌跡と日本の近代史を融合した超弩級の歴史小説です。
 福永武彦の出生の背景についても明らかにされています。


◇池澤夏樹さんと春菜さんの父娘対談『ぜんぶ本の話』(毎日新聞出版)が刊行されました。
 「読書家三代 父たちの本」と題して、福永武彦についても1章が割かれています。一読をお薦めします。
 また、池澤夏樹さんが、福永の伯父秋吉利雄を主人公とする小説を、8月より朝日新聞に連載されます。実に興味深いです。


◇福永武彦電子全集 全20巻(小学館)の紹介ページを開設しました。
 最終第20巻は、2020年6月に刊行されました。

書影付き著作データ・小説に「小説風土」(完全版)(決定版)(新潮文庫版)を追加しました。
 
◇池澤夏樹氏に当研究会の顧問に就任していただくことになりました。
 
cafe impala 池澤夏樹氏の公式サイト
 
◇福永武彦生誕100年特別企画の第1回として池澤夏樹氏講演会「福永武彦 人と文学」が、2017年6月11日(日)に神田神保町東京堂ホールにて開催されました。予約で満席となる盛況でした。日本経済新聞(4月29日朝刊)文化欄に福永武彦が大きく取り上げられ、池澤夏樹氏、当会会長のコメント記事とともに講演会についても紹介されました。

 

福永武彦「廃市」が復刊されました! 小学館(P+D BOOKS)
 

福永武彦「加田怜太郎 作品集」が復刊されました! 小学館(P+D BOOKS)
 

福永武彦「夢見る少年の昼と夜」が復刊されました! 小学館(P+D BOOKS)
 

福永武彦「夜の三部作」が復刊されました! 小学館(P+D BOOKS)
 池澤夏樹氏が解説を特別寄稿。池澤夏樹氏による解説文が掲載されています。
 
      
福永武彦「風土」が復刊されました! 小学館(P+D BOOKS)
 池澤夏樹氏が解説を特別寄稿。池澤夏樹氏による解説文が掲載されています。
 
福永武彦「海市」が復刊されました! 小学館(P+D BOOKS)
 池澤夏樹氏が解説を特別寄稿。池澤夏樹氏による解説文が掲載されています。
 
 
福永武彦「未来都市」が刊行されました(2016年12月)
 ・36年余り永きに亘り眠っていた幻の大型絵本が、装いも新たに今、甦みがえりました。


◇福永武彦関連 新刊2点(2015/3/26)
 ・堀辰雄/福永武彦/中村真一郎(池澤夏樹編集 日本文学全集17)
    福永武彦:「深淵」「世界の終り」「廃市」
    堀辰雄:「かげろうの日記」「ほととぎす」
    中村真一郎:「雲のゆき来」を収録

 ・「草の花」の成立―福永武彦の履歴/田口 耕平







 
書影付き著作データに以下の資料を追加しました。

◇「福永武彦詩集」写真版2部本 :掲載ページ New!
 先日、懇意の古書店より連絡を受け、市場に福永武彦の面白い資料が出ていることを知りました。「福永武彦詩集」自筆ノオトの白黒コピーを大学ノートに1ページごとに張り付け、巻末には印刷した奥付が添附され、源高根宛の福永自筆識語が入っている2部本とのこと。存在は以前より知っていましたので入札を依頼したところ幸いに落札できました。
 元となっている福永自筆の詩集というのは、『時の形見に』(白地社 2005.11)に写真版で紹介されているノートとはまた別の中判の大学ノートに記されたもので(1943年に清書されたもの)、収録詩篇も多少増えています。
 奥付と福永識語により、このノートを作製したのは源高根氏であることがわかります。源氏はたえずこの写真版を参照し、岩波書店版『福永武彦詩集』校異への疑問を熱の籠った論文として纏めた際に参照したのもこの2部本です。
 表紙、本文、奥付画像を掲載します。書影クリックで拡大画像にリンクします。


◇「小説風土」(完全版)(決定版)(新潮文庫版):掲載ページ
  書影クリックで拡大画像にリンクします。

 
(完全版 表紙)

限定1000部 
1957.6.15 東京創元社 1000円
扶桑印刷・A5判変型・丸背紺布装・函・番号入・453頁 旧かな・旧字
「風土後記」57年5月(2頁)、「著作目録」(2頁)、「目次」(2頁)

*私家版30部本あり(1~30) 1000部版と同判、同装幀
*省略版に、過去を扱う第二章を増補しただけでなく、本文全体に大幅な手入れ。
 
(完全版 扉)

第2部が増補され、はじめてロマンとして完全な姿で読者に提供した本書扉に『小説風土』と明記した意味は大きい。
奥付にも「小説風土」とある。
 
(決定版 表紙)

1968.12.10 新潮社  700円
二光印刷・46判・丸背深緑布装・函・帯・417頁 新かな・新字
「解説」丸谷才一、装幀 岡鹿之助

*完全版本文に、更に全体に渡って手入れがあるので「決定版」と呼ぶ。奥付に決定版との表記がある。
 
(新潮文庫版)

1972.6.15  新潮社  220円
光邦・文庫判・紙装・カヴァ・429頁 新かな・新字
「解説」丸谷才一(決定版と同文)、カヴァ装幀 岡鹿之助

*表紙は決定版の函と同一




第203回例会
日時:2024年1月28日(日)13時~17時20分
場所:リモート(Zoomによる)開催
【例会内容】『福永武彦新生日記』(2012 新潮社)/『病中日録』(2010 鼎書房)
*『新生日記』は電子全集第20巻収録。『病中日録』は現在でも入手可能。

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
Kiさん:
Ⅰ.「福永武彦新生日記」(1949.1.1~7.15、1951.12.10~1953.3.3)について
1.概要
 本書に収められた二つの日記は、福永が都下清瀬村国立東京療養所に在所中(1947年11月(29歳)~1953年4月の約5年半)に書かれたもの。
①1949年日記(1949.1.1/30歳~7.15/31歳の約半年)
 福永は、入所後間もない1947年12月に胸郭成形手術を受け、肋骨8本切除している。本日記は、在所1年2ヶ月が経過し、ある程度体力、精神が恢復しつつあった時期の記録である。福永は、所内で静養しながら読書、小説の構想、執筆(『風土』や所内同人誌向け短文など)を行っている。 
【心境】
・2/26の日記より:「土肥君来り、孤独について話す。真の孤独とは何か。彼の言ふ孤独とは、心の空白、充ち足りないもの、悲哀、求めて得られず、愛して愛され得ず、他人を理解し得ず他人に理解されないところの諦念にすぎぬ。僕の言ふ孤独は、真に自我の宿命に沈潜省察して得たところの自由の意識、泉の如くに自己を生に導くもの、充ち足りた、可能性をもつた、幸福とさへ言へる、全人類の破片としての自我、即ち実存的自我である。従つて僕の孤独は社会的責任をもつ。意識に於て行動的である。彼の孤独はムウドであるが、僕のはロゴスによつて貫かれてゐる。彼の精神は、僕をして言はせれば病んでゐる。僕の精神は健康である。真の孤独は健康なものだ。(僕はこの二月の間に、自己のétatd'âme〔気持、感情〕がこれほど変つたのを意外に思ふ。これこそ真に病気よりの恢復ではなかつたか、「死に至る病」よりの。)」 
・3/1の日記より:「芸術家の運命といふやうなものについて考へる。芸術家はfoyer〔家庭、家族〕に関する一切の希望を自ら捨て去らなければならないのかもしれない。ナツキのこと。」
・「文学と生と」(1949年6月)より:「そこで書くという行為が不可能になれば、後は見るという行為があるだけですが、ベッドに寝たきりの病者にとって何を見ることが出来るでしょうか。結局その対象は自己しかなく、それも肉体と共に精神までも蝕まれた、死に憑かれた自己なのです。人は死の雰囲気に包まれている時に限りなく生を思うものですが、僕も生を、――この瞬間に於ける生と、死に至る迄の持続としての生とを、如何にして強く結びつけることが出来るかについて頭を悩ましていました。その場合、僕が何によってこの生を支えているかと自問することは極めて自然でありましょう。この生を支えているのは何であるか。文学という答えが、その時ただ一つ与えられました。」(「近代文学」1949年10月号掲載)
【文学動向】
・「風土」:1945年より書き始めた。1月にノオト作成、6月に集中的に執筆(1章から3章)。「方舟」創刊号(1948年7月)に掲載の1・2章、同年9月に掲載の3章の書き直しか。
・所内同人誌「ロマネスク」(同人100人以上)への関わり(短文寄稿、同人達との交流)
・ヘミングウエイの短篇・長篇を多く読み感銘を受ける。
・1/21の日記より:「既に五つ読んだが何れも独自のよさを持つてゐる。誰でも書ける(筈の)文体。一短篇に於ける世界の構成(現実の再現ではない、再構成されたもの)。明かな主題。常に抑圧された感情と批判。可視的。もしこれで今一層内部世界が描かれたら完璧だと思ふ、またそこに後から来る者に残された道がある。H.とフランス心理小説との綜合(F.に多少その方向を見る)。意識面もまたH.の外部世界と同じやうに物として描かれることが出来る筈だと思ふ。」
・2/8の日記より:「小説についての構想。習作としてヘミングウエイ的なsyort-storyを二つばかり書いてみたい」
・ヘミングウエイ作品への言及が圧倒的に多く、次いでボードレール、フォクナー、サルトル。
・「草の花」関連:3/23の日記には、汐見の術死に繋がるエピソードの記述がある。:「手術中に医師が止めようと言つたのに無理に続行してもらつたとのこと。某医師は個人的にこの手術に反対でさう忠告したさうだが、きかなかつたとのこと。何よりも癒るためでなく、合法的な自殺として手術を受けたらしいこと。」
【クラシック音楽(ラジオ放送)への傾倒】
・横臥の状態の中で、ラジオの音楽番組聴取の記述が多い。1952年以降のNHKラジオのクラシック番組台本執筆に生かされている。
【妻(澄子)との関係】
・澄子は精神不安定であるが、日記からは武彦との関係悪化は窺えない。

②1951年日記(1951.12.10/33歳~1953.3.3/34歳、約1年3ヶ月)
 入所して約3年経過後から退所直前まで約1年4ヶ月の記録。所用のため、度々所外に出ていて行動面では健康人とさほど変わらない印象を受ける。旺盛な執筆活動(創作・翻訳)、「小説 風土」省略版を出版(1952年7月)。
【心境】
・1951年12/31の日記より:「かうして一年が過ぎた。かうして歳月が過ぎて行く。この一年にしたことは僅しかない。「風土」の完成。短篇が一つ、散文詩が二篇、やりかけでサボつたままのボードレールの訳。貧しい。常に誰かを愛してゐなければならない気持、そして孤独。ある時は強く、ある時は弱く。苦しみの間の僅の悦び、ニヒルな自嘲、冷たい眼、冷たい心。そして尚生きてゐる。悦びも悲しみも強く心を打つこともなく。何時まで?」
・「病者の心」(1952年5月)より:「しばしば心は救いのない絶望に鎖され、死はほしいままに魂の中にうごめいている。しかし僕は恐れずにそれを見詰め、一瞬も見過ごすまいと思う。物を見ることは小説家の宿命であろうけれど、僕は人間として心の内部を見据えたいと思うのだ。(中略)運命の手に操られる傀儡として生きるのではなく、自らの運命を知る人間として生きていく。――僕が英雄の孤独と呼んだものは、必ずや、僕のような惨めな、つまらない人間にも、無縁ではないだろうと思う。心の暗く沈んだ時に、切に、僕はそう願う。」(「保健同人」1952年7月号に掲載)
【文学動向】
・「風土」:初版(省略版)が日記執筆期間中の1952年7月に新潮社から出されたこともあり、本書に関する記載が圧倒的に多い。
1952年8/13の日記より:「僕にとって芸術は何のささえでもない。桂昌三と今の僕とはあまりに違う。しかし誰でもが、「風土」を現在の僕の位置で受け取るだろう。僕は民衆の方へ一歩あゆみ出したいと思うのだが、僕の内容は生活を欠いているようだ。次の作品は、題も、登場人物たちの生活も、きまらない。僕自身が、今、善意をもち、生きたいと願っても、嘗て「風土」の主題を信じた僕は、この芸術至上主義から逃れることは出来ないのか。議論の後のこの空しさ。意志さえも弱く。」
「風土」初版後記(1952.5)より:「この小説は、本来、三部に分れていたし、昨年の7月には第一稿が完成していた。しかし出版社の方で長すぎるからという註文があり、不本意ながら秋ごろ改作にかかった。全体を少しずつ縮めることは僕には出来なかったので、第二部を全然はぶき、前後に手を入れて現在の時間で統一した。」
・その他の著作:短篇「遠方のパトス」「河」「雨」「時計」、詩「詩と転生」Ⅰ~Ⅳ 他
・1952年3/2の日記より:「なし終へたことを思へば暗然とする。長篇「風土」七五〇枚のうち二五〇枚をのぞいても未だに出版のことは未定である。短篇集「塔」のうち「雨」と「めたもるふおおず」は再び見たくもない。「河」と「遠方のパトス」との二短篇。詩集「ある青春」。「一九四六」に含まれる幾つかの評論。書き直さなければ気の済まない「ボードレールの世界」。それから幾篇かのボードレール訳詩。それらの他に活字になつてゐない「独身者」の発端三〇〇枚と「慰霊歌」一九〇枚。これが過去の約十五年間になし終へた「わづかばかりのこと」だ、何といふ空しい収穫だらう。未来にかかる構想がいくつあらうと、その未来に果して希望があるのかどうか。昔は文学を、芸術を、信じてゐたが、今は明かなクレド〔信条〕さへもない。そして昔は「愛する」ことを信じてゐたが、今はそれさへも信じられぬ。それならば何のために生きてゐるのか。」
・翻訳:翻訳中の「モイラ」/J.グリーンに関する記述が多い。
・NHKラジオ音楽番組原稿:「ベートーヴェン」「ヘンデル」「セザール・フランク」
・旺盛な読書:ジュリアン・グリーン(手紙を書いている)、ボードレール、ボーヴォワール、サルトル、フォクナー、永井荷風、横光利一、森鴎外など
【女性関係】
・1950年12月に澄子と協議離婚。澄子からはその後も金策を要求されている。福永は、院内で付添婦として働く献身的な岩松貞子(テレーズ、T)と、入院患者で芸術家肌の谷静子(シルヴイ、S)の二人への思いに揺れるが、退所後まもない1953年6月に貞子と結婚する。
・1952年11/4の日記より: 「夕、谷静子の許に行き、シャンソン「枯葉」を教わる。彼女における二人の男性と僕に於ける二人の女性。芸術家のエゴイズム。自分の中の孤独の部分は誰にも手をふれられたくない。それにも拘らずテレーズのような女性が僕に必要なわけは何だろうか。シルヴィの場合にそれはとぎすまされた孤独と孤独との戦いなのだ。全く相反する二つのもの。」
・「草の花」の千枝子のモデルと目されている来嶋静子と再会している(1952.8/17の日記より:「静ちゃんは学習院女子部を教えているという。帰りに彼女は取めるのもきかずに原宿駅まで送ってくれた。道を歩きながら、それまで快活にしていた彼女はそっと指の先で眼の涙を拭った。この一しずくの涙。何故に、かくも遅く。」)
・1952年8/18の日記より:「この二日の間に、僕の知っている、また嘗て知った、多くの女性に会った。人はみな幸福になろうと思って人生の道を歩いて行くのだろう。しかし果して幸福でいるとは何であろう、誰が幸福だと言えるのだろう。人は人生にさまざまの過ちを冒し、おそく後悔し、求めなかった道を歩き、そして孤独だろう。誰しもが、心の中に一しずくの涙を持って、それを忘れることに一日の生活を築いて行くのだろう。」
その他、入院患者の藤井重子や女優の丹阿弥谷津子など多彩。

2.感想
・5年半に及ぶ清瀬療養所での自己と他者の死を見詰めた福永の心境が、本日記や在所時に書かれた随筆「文学と生と」「病者の心」などに窺える。療養所における体験と自由を奪われた中での旺盛な読書が、小説家としての福永を形成するのに果たした役割は大きく、療養所体験を経なかったなら、福永文学の様相は変わっていたであろうと思われる。
・「小説 風土」執筆経緯:「新生日記」では、執筆を進めるも新潮社の意向で第二部を省いて出版にこぎつけた経緯と出版後の評判が窺えて興味深い。
・日記中の個人名では、中村真一郎が突出して多い。ほとんどが手紙、葉書授受の記述だが、福永にとっての辛い時期を乗り越えるのに彼の精神的支えが果たした役割は大きかったと思われる。
・二人の女性、岩松貞子と谷静子との交際記述が多い。福永の思いは静子に傾いていたようだが、福永と感性の近い静子とは、いずれ澄子との関係の二の舞になることが想像できたのでないか。

Ⅱ.「病中日録」(1978.7.17~10.15/60歳)について
1.概要
 6月から信濃追分に滞在中の7月に胃出血、症状が悪化し9月6日から10月27日まで軽井沢病院に入院。体調が悪い中での記述であり、入院生活と追分での日常生活の記録となっている。その後、退院してから半年後の翌年4月20日から5月20日まで北里病院に入院、7月5日に佐久総合病院に再入院し8月13日に死去している。書かれた時期は「玩草亭百花譜 下」に収録された「信濃追分 草花帖」(1978.6.15~10.13)と重なり、本目録にも草木のスケッチが挿入されている。
【心境】
・7/31の日録より:「胃出血はこれで実に十度目だが七回目と今度の十度目は入院せずに済みさうだ 調子は今のところ悪くないからこのまま大過なく行けばよいが」
【文学動向】
・自作で言及されているのは、「秋風日記」(校正)、「内的獨白」(後記執筆他)、「別れの歌」(サインの依頼)、「夢みる少年の昼と夜」(初校ゲラ)であり、書きかけの著作についての記述はない。
・読書に関する記述も少ないが、J.オースティン「高慢と偏見」を読んで感心し、感想を記している。(8/17の日録より:「オースチンの「高慢と偏見」を読み了つた。これは日常性の中にある時間の本質のやうなものを巧みに取り出して描き出したものと思ふ 会話を主としながら時間がここでは過不足にない重さ(或は軽さ)によつて流れて行く 作者がこれを書く時に感じてゐた愉しさが読者に伝わつて来るのも心地よい 作品は自分の愉しみのためでありまた自分の知る少数の読者(家族)のためである かういふふうな単純素朴のために小説を書くことはその後なくなつた ハツピイエンドのそのエンドのために一篇の布曲を案ずるなどといふのは現代では望み得ないことなのだらう」)
2. 感想
・近くの別荘に住む源高根一家、原卓也、堀夫人との親交がよくわかる。とくに源高根の献身ぶりが印象的。
・度重なる胃出血に慣れ、入院に至っても本人は深刻な症状とは捉えていないようだ。
・福永は、約1年前の1977年10月27日に病床受洗しているが、本日録では8月3日に旧道の教会に日曜礼拝に出かけたとの記述がある。

Koさん

『地圖の話』のことなど。
 第202回例会報告所載の福永武彦戦後日記文芸作品・作家・索引に,武藤勝彦『地圖の話』を見つけ驚きました。
 この本は岩波書店から出ていた「少国民のために」という当時の国民学校高学年、中学校低学年の少年向きの科学シリーズの一つです。このシリーズは戦後もおそらく60年代初めまで刊行されていたようです。中谷宇吉郎『雷の電気はどうして起るか』(この題名の記憶不正確)、有馬宏『トンネルを掘る話』、内田清之助『渡り鳥』などがありました。
 小生は国民学校2年生のとき『トンネル』を親から与えられ、その後中学生にかけて、このシリーズに親しみました。とくに『雷』からは,自然科学の研究が人間のどういう活動であるかを漠然と学んだように思います。寺田寅彦の名を知ったのもこの本によります。また、索引とその使い方を教えられたのもこのシリーズです。『地圖』は中学生になってから古本で買ったように記憶します。
 すでに大人であった福永さんがどのようにして『地圖の話』に出合ったか関心があります。知人に「理科」に属する方々が多かったようですし、秋吉利雄氏との関連も想像されます。このシリーズが一部の大人たちの間で評価されていたのかもしれません。

*前回例会報告文をご覧になった近さんより『地圖の話』(武藤勝彦著 岩波書店 1942)には想い出あるとのお返事を頂きましたので、お願いして一文を草していただきました。
 『地圖の話』を武彦が読んだのは1945年12月17日、敗戦直後に岡山の秋吉利雄宅へ父末次郎と共に立寄った帰り、近くの宿に於てですので、利雄宅から持ち帰った蔵書(子供たちのために利雄が購入した本)、或いはその宿にあった本かと推定します。
 以前入手した本がいま手許に見つからないので、画質は悪いですがネット上の画像を載せておきます(ヤフオクより)。
 現在、国立国会図書館のデジタルコレクション画像で全体を読むことが出来ます。Koさんが記されているように、索引がしっかりしています。(三坂)

Miさん
① 『福永武彦新生日記』について
 Kiさん、K.Mさんが日記の全体的、本質的な点に触れていますので、あえて細かな具体的な次項に絞ります。
 1952年12月19日の日記で、福永武彦が文学座女優丹阿弥谷津子を相手に、後日周りの者から冷やかされるような醜態を演じた(本人は酔っているので覚えていない)様子が記されていますが、これは中村真一郎長篇五部作完成の祝賀会でのことです。日記には、翌々日の21日に福永がお詫びの手紙を丹阿弥さんに出したことも記されています。
 例会当日は、その祝賀会における福永と丹阿弥の様子を中村真一郎が語っている音声(1997年8月 当会でのご講演)を参加者皆で聴きました。福永が初対面の丹阿弥谷津子を独占して(ヒザの上に乗っけて)1時間も云々₋₋₋₋₋。当時、お話をはじめに聴いた際は、中村さん一流の誇張(むしろ幻想)だろうと思っていたのですが、『新生日記』の福永記述と併せて改めて聴いてみると、どうやらかなり根も葉もあることのようです。その場に居た(丹阿弥にご執心だった)高見順が、その後福永を指して「あの悪者(わるもの)は元気か」などと福永と言わなくなったというお話しなど現実味があります。少なくとも、丹阿弥さんに手紙を書かねばならぬと福永自身が思ったような行いをしたらしいし、中村さんによればこの後も2人は会っていた様子です。事実、日記にもその後手紙のやり取りをし、舞台を観に行き、ラジオを聴き、『小説風土』を贈ったことなどが記されています(当時、丹阿弥は新婚)。
 「(福永には)そういう極度に自己中心的な所があって、それが彼の根本的な才能と結びついていて、作品の中では非常に上手く行ってると思うんだけど、日常生活では非常に破滅的になっちゃうんで。」というのが中村真一郎の見解です。
*この中村さんの話の件は、これだけでは参加者を含めて何のことやら理解しかねるかもしれませんので、このお話は別途全体を公表することを予定しています。
 また小さなこととして、福永が療養所でも煙草を日に5、6本吸っているのが時代を感じさせます。
 
② 『病中日録』について                                                     
 『戦後日記』や『新生日記』同様、この『病中日録』の原本も2006年に古書市場に流れた品です。AさんがKiさんの協力で作成した目録②の618番、2006年の七夕大市に出品され(50万円以上)、落札されました。
 電子全集には『未来都市』(桜華書林 2016.12)を収録しなかったのと同様の理由で収録を見合わせた日記ですが、1978年夏から秋にかけての福永の日常と文学活動が具体的に記され、自筆絵(風景、特に草花)が多数挿入されています。本文が白黒なのは惜しい点ですが、体調の優れぬ日々、身の周りの草花を自らの手技(てわざ)で丁寧に写し取ることにより、生命の息吹を感じ取り、生きるエネルギーにしている様子がわかります。
 同時に堀夫人への記述にも見えるように、親しい人々には感情を隠さずに、むしろ我が儘に振る舞うことで、自らの狭い生活空間に刺激を与えています。ドイツ語を新たに独習し始めていることと併せ、諦観をせぬ、そのような積極的心の持ちようが文学活動への促しにも繋がっていたのでしょう。

K.Mさん
①『福永武彦新生日記』、1949年1月1日~同年7月15日までの日記について
 池澤夏樹氏の『福永武彦新生日記』の「序 あるいは『新生』にいたる経緯」の7頁には、「『自殺を思ふ、孤独感痛烈』というのがこの時期の精神状況だ。」と記されている。
 たしかに、1月2日の日記には、「自殺を思ふ、孤独感痛烈。」という言葉がある。 けれども、この時期全体を通して見るならば、「自殺を思ふ、孤独感痛烈」という程には福永武彦氏(以下、敬称略)の精神は蝕まれてはいないように、私には思われる。
 彼は、この時期(1月1日~7月15日)、原稿を書いたり(例えば、2月6日の日記には、「安静時間後夕食までに小品完成。『晩春記』九枚。」とある)、ボードレールの詩を訳したり、ヘミングウェイやロマン・ロランの小説を初めとしていろいろな小説を読んだり、時々療養所の患者仲間や澄子と一緒に梅林に散歩に行ったり、ラジオでシューベルトやラフマニノフなどのクラシック音楽の曲を聴いたりしている。また、患者仲間の今井君と碁を打ったり、飯原栄という女性のところを訪ねて彼女としばしばおしゃべりをしたり、様々な人と手紙や葉書きのやりとりをしている。
 このような状況を見ると、福永の精神はそれ程蝕まれてはいないように思われる(そして、それはよいことである)。しかし、このように述べると、外面的な状況と本人の内面的・心理的孤独感とは別である、という反論があるかもしれない。たしかに、外面的な状況と本人の内面的・心理的孤独感とは、必ずしも一致しないことがあると思う。
 しかし、精神がひどく蝕まれていたとしたならば、福永は上に記したような様々な行為はすることができなかったであろうと思われるのである。例えば、孤独とはある程度ニュアンスがあるが、うつ病患者で精神がひどく蝕まれている場合には、普段楽しいと思っていること (趣味など)も少しも楽しいとは思わなくなるし、欲しくて仕方がなかった物も欲しいとは思わなくなる。一切の欲望が消失するという事態が生ずる。行動は極めて不活発で、何をするのも億劫で、昼間全く何もせず、何時間もじっと寝ている状態になる。これは、明らかに、精神がひどく蝕まれた状態である。また、世の中には、全くの独り暮らしで、話し相手が一人もなく、一日中誰とも話すことができず、最期は誰にも看取られずに孤独死するような人が、現に存在する。このような人も、精神が著しく蝕まれていると想像される。
 福永は、一つに、結核という当時としては最も恐れられていた病気に罹患していることの不安があったし、また、経済的にも貧苦の状態にあった、と言える。さらに、妻の澄子との間の軋轢もあった。それらの状況が、彼に重くのしかかっていたことは疑う余地がないと思う。けれども、それにもかかわらず、上述したような福永の行動を見ると、彼の心は著しく蝕まれているというようなことはなかったと思われるのである。彼の精神が孤独にひどく蝕まれていたとは言えないことの証左として、2月26日の日記の次の文章を挙げることもできるのではないだろうか。
 「僕の言ふ孤独は、真に自我の宿命に沈潜省察して得たところの自由の意識、泉の如く自己の生を導くもの、充ち足りた、可能性をもつた、幸福とさへ言へる、全人類の破片としての自我、即ち実存的自我である。従って僕の孤独は社会的責任をもつ。意識に於て行動的である。彼〔土肥君〕の孤独はムウドであるが、僕のはロゴスによって貫かれてゐる。彼の精神は、僕をして言はせれば病んでゐる。僕の精神は健康である。真の孤独は健康なものだ。」
 ここでは、彼は、孤独にマイナスの価値を付与しているというよりも、むしろそれにプラスの意義を認めている、と考えられる。そして、福永がこの時期〔1月1日~7月15日〕、結核のため東京療養所に入っていながら、精神がひどく蝕まれてはいなかったことは、私には、嬉しく救われる思いがするのである。

②『福永武彦新生日記』、1951年12月10日~1953年3月3日までの日記について
 この時期の日記を読んで心に残ったことを、思いつくままに記しておきたい。
 まず、福永が「フランス語」に非常に堪能であることが推察される。彼がフランス語に堪能であることは今さら言うまでもないことかもしれないが、私はジュリアン・グリーンの『運命(モイラ)』の彼の翻訳に関する日記の記述を読んで、特にそのように感じた。彼は、「モイラ」の下訳を池田一朗氏 (1955~1961年 中央大学助教授)と川村克己氏 (立教大学名誉教授 日本フランス語フランス文学会会長を歴任) に依頼したが、その下訳を見て次のように言っている。
 「池田君の下訳した部分を見ているが、殆ど原文の痕をとどめない位手を入れるので、ひどく時間がかかる。予期に反してがっかりする。」(1952年11月21日) 「殆ど下訳をたのんだ意味をなさない。」(同 12月15日) 「自分で訳した方がはるかに早い。」(同 12月30日) 「後に行くに従い、下訳があまりにも下手くそで舌打ちばかり。」(1953年1月20日)
 池田氏と川村氏の下訳がどの程度のものであったのかはわかり得ないが、福永のフランス語の翻訳についての能力も、彼の翻訳に対する要求水準も、おそらく非常に高いものであったのであろうと思われる。
 また、福永は「音楽」について造詣が深いことがわかる。
 彼は、室内楽曲の最高峰と称されるベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲や ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番 (1952年8月27日の日記には、「この曲を自分のものとする。」と記されている) を初め、様々なクラシック音楽の曲を聴いている。しかも、彼はただ個人的な趣味で曲を聴くに留まらず、NHKのラジオの音楽番組のために、ベートーヴェンやヘンデル、セザール・フランク、(フランクの高弟の) デュパルクについての原稿も執筆しているのである。
 さらに、福永は「絵画」についての造詣も深い。
 1952年の9月29日には、岩松貞子と上野の博物館にブラック展を見に行っている。また、同年10月23日の日記には、紀伊國屋に行って「モヂリアーニの画集を思い切って買う。」とある。そして、同年11月4日の日記には、「先日買ったモヂリアーニの画集が素晴らしくて飽きず眺めている。」と記されている。彼の絵画についての造詣は、その鑑賞に留まるものではない。
 美術手帳の緑川仁子に、ブラック展を見てリトグラフイについての原稿を書いてほしいと頼まれているのである (1952年9月26日の日記)。先のブラック展の鑑賞はそのためのものであり、鑑賞した日の8時過ぎから美術手帳の原稿を書き始め、「ブラックの版画ーー壺と音楽」六枚を11時までに書き終えている (同年 9月29日の日記)。
 さらに、彼は自ら絵を描いている。
 例えば、1952年8月24日の日記には、「一日がかりでクレパス『ピアノを弾く女』を描く。僕の描くものがすべて明るい、明皙な色調を持っていることに気が附く。不思議なような気がする。」と記されている。
 上記のクラシック音楽や絵画で培われた審美眼や美的センスは、彼の小説や詩の創作にも流れ込んでいると考えられる。
この時期、彼は、永井荷風、横光利一、ボードレール、フォークナー 等々、小説も多く読んでいる。そして、洋書を含め、本をしばしば購入している。この旺盛な読書も、後の彼の創作に大いに資するものであったと考えられる。
 また、この時期(1951年12月10日~1953年3月3日)には、福永と様々な女性との交流が目を惹く。彼は、谷静子、谷孝子、岩松貞子、藤井重子、木嶋静子、山下(池澤)澄子、山下延子、方岡輝子、丹阿弥谷津子などと会い、会話を交わしている。
 その中でも、谷静子と岩松貞子は、彼にとって特に重要な位置を占めていると言えよう。
 1952年6月10日の彼の日記には、「心はつとに T(テレーズ、岩松貞子)を離れてゐた。」とあるが、福永は、澄子との間で 経験した「孤独を有する感受性の鋭い人間同士の、火花のような関係」は避けるべきだと考え、配偶者としては、谷静子ではなく、「昼食、洗濯 いろいろやってもらう」(1953年1月15日の日記) 岩松貞子の方を選んだものと思われる。1952年11月4日の日記において、福永は、「自分の孤独の部分は誰にも手をふれられたくない。」と述べているが、彼は、「自分の孤独の世界を守る」ためにも、「精神生活の安定」は絶対必要であると考えたのではないだろうか。谷静子のような芸術的造詣は深くとも感受性の鋭すぎる女性では、「精神生活の安定」は得られなくなる可能性がある、と恐れたのではなかろうか。
 恋人や女友達としてよい女性と、生活を共にする妻(配偶者)としてよい女性とでは、一般に、「よい」とされるための条件が (微妙に) 異なると思われる。(それは、ある野球選手が、現役のプレイヤーとして「よい」のと、監督として「よい」のとでは、「よい」とされるための条件が異なるのと同様である。) 福永は自分の文学的才能(能力)の実現を自分にとって第一義的なものと考え、それが可能となる「精神的環境」を求めたものと思われる。(『福永武彦新生日記』の池澤夏樹氏の「序」の中に、「自分の文学的才能とその実現のための執筆のこと。文学という王国の輝きはよくわかっている。それに自分がどれほどの寄与ができるか。それは彼にとって病む日々の困難を超えた人生最大の課題である。」という文章がある (『福永武彦新生日記』8ページ4~6行目)。)
 福永は、自分の文学的才能(能力)の実現が得られなければ、「もはや、自分は福永武彦ではない」と考えたかもしれない。彼は、夫婦生活がたとえ感情の高揚のあまりない平凡な愛情に終わろうとも、自分のアイデンティティーだけは、すなわち自分の「天職」の実現だけは、何としても喪失したくはなかったのではないかと思われる。
 そのことに関係して、私は、黒澤明監督の最後の監督作品である「まあだだよ」という映画を思い出す。これは、小説家・随筆家で法政大学教授でもあった内田百閒 (1889~1971年) とその教え子たちとの師弟愛を描いた作品である。
 その映画の終りの方に、主人公の内田百閒 (松村達雄が演じている) の喜寿〔七十七歳〕のお祝いのパーティーの場面がある。内田百閒は、彼の教え子の孫たちである子供たち (小学1年生~5年生位の7人の男の子と女の子) を前にして、こう言う。
 私は、このケーキと一緒に、君たちにあげたいものがある。
  言いたいことがある。
  皆〔みんな〕、自分が本当に好きなものを見つけてください。
  自分にとって、本当に大切なものを見つけるといい。
  見つかったら、その大切なもののために努力しなさい。
  君たちは、その時、努力したい何かを持っているはずだから。
  きっと、それは、君たちの心の籠った立派な仕事になるでしょう。
 この言葉は「天職」の大切さを言ったものだと解することができるが、私は、この言葉(場面)がとても好きであった。そのため、その映画の DVD が発売された時、その場面を見るためだけに、私はその DVD を購入した。実際、DVD でその映画の全編を通して見たのはせいぜい2回か3回位であったが、その場面だけは50回以上見た。もしかしたら、100回以上見たかもしれない。そして、その場面を見る度に、私は、自分の選んだ道は間違っていなかったと確信したものだった。
 私は「秋吉利雄氏の『人生』について思ったこと」(『福永武彦研究 第十七号』) という題の拙文の中で、「人生で一番幸せなことは、『天職』を見つけて、それを職業として人生を生きることができることである。」という福沢諭吉 (か誰か) の文を引用したが、上記の内田百閒の言葉はその文の内容と軌を一にしていると思う。
 福永武彦にとって、自己の「天職」の実現は、代わりに他のどんなものが得られようとも、けっして譲ることのできぬものであった、と考えられるのである。
私は、学生時代、ある本の中で「姿を変えた幸福」という言葉を見たことがある。それは、不幸な外観を纏っていながら、後から見ると、実は幸福 (あるいは、幸運) だったのだと思われる出来事のことである。福永は、二十代の末から三十代の半ばにかけて、結核で療養所での生活を余儀なくされた。しかし、そこでの生活は、彼を自己の内界へと沈潜させるとともに、書物や芸術に接する多くの時間を与え、彼により一層鋭敏・繊細で詩情豊かな精神を授けたと考えられる。約5年半の療養所での辛く苦しい生活がなかったならば、以後の彼の創作はもっと貧しいものになっていたのではなかろうか。彼の結核療養所での生活は「姿を変えた幸福」であったと思われる。
 最後に、1952年7月29日の日記の一節を引用して結語としたい。彼は7月29日の日記の中で、こう述べている。
 「青春が、疑ふことと信じること、愛することと苦しむこと、常に真実に生きることをその本質としてゐる以上、またそれが生への冒険と、不正への闘ひとを要求する以上、僕たちは如何に年齢を重ねても、この青春を『終つた』と言ひ去ることは出来ないだらう。」
 この言葉は、福永武彦の全作品を貫くモチーフとなっていると思われる。

③『病中日録』(1978年7月17日~同年10月15日)について
 この日記を読んで、福永武彦氏 (以下、敬称略) の素直な性格、気さくな性格が、特に印象的であった。信濃追分の自分の別荘の近くの「山崎建材」、「亀田屋」、「本陣」、「土屋さん」などの人々とも気安く交流している。
 7月31日や8月3日に、モーツァルトの喜遊曲とセレナードや、マーラーの曲を聴いているとの記述があるが、福永は本当にクラシック音楽が好きなのがわかる。(因みに、私もモーツァルトの「ディヴェルティメント(喜遊曲)」の第17番 (K.334) (ウィーン八重奏団員 演奏) の「第6楽章 ロンド」が大好きである。ここには、モーツァルトの「粋」があると思う。)
 また、この日記では、福永武彦研究家で大阪芸術大学教授でもあった源高根さんが、福永のために至れり尽くせりの献身ぶりを示していて、感動的であった。
 この本の中のあちらこちらに見られる福永の草花のスケッチも趣がある。池澤夏樹氏が、『病中日録』の本の帯に、「福永武彦の文学を愛する者は、この日記に現れた彼の人柄をも愛するだろう。」と記しているが、私も同感であった。

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