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福永武彦研究会・例会報告 第201回(2023年9月)~第204回(2024年3月) |
第204回研究会例会 2024年3月24日(日) 第203回研究会例会 2024年1月28日(日) 第202回研究会例会 2023年11月26日(日) 第201回研究会例会 2023年9月24日(日) 第200回例会以前の例会報告 ◇第204回例会 日時:2024年3月24日(日)13時~17時 場所:リモート(Zoom)開催 【例会内容】 画文集「玩草亭百花譜」 【例会での発言要旨・感想】 順不同(敬称略) Kiさん: 画文集「玩草亭百花譜」(1975年から1979年に亘る草花写生帳と随筆)について 1.書誌 「玩草亭百花譜」参考資料一覧(PDF)、 1-0「玩草亭百花譜」書誌に示す。 2.構成 以下の説明文章は、「玩草亭百花譜」より引用 「玩草亭百花譜」(上)収録 ①信濃追分 風物写生帖(1975) 11.0×8.5cm 68葉 最初の草花帖、「なつ」「秋のはじめ」の2冊、黒インクのペンを用いて輪郭をとり、日本絵具で彩色。 ②草花写生(1976/77) 14.2×9.5cm 22葉、22.0×15.4cm 4葉 1976年より草花の名を植物図鑑で調べて、学名を記入した。絵日記ともいうべき草花図鑑の始まり。 ③信濃追分 草花写生帖(1977) 17.5×10.5cm 40葉 1977年よりカンソンのスケッチブックを使用。ニュートンの水彩絵の具で彩色を施した草花40葉が4冊に収められている。 「玩草亭百花譜」(中)収録 ①草花同定帖(1977) 12.5×8.9cm 66葉、17.5×10.5cm 5葉 1977年より草花の同定を学び、野草の観察や分類に一日の大半の時間を費やして丹念に記録したスケッチ帖3冊。それまでの単なる写生ではなく、別の角度から野草に接して、造化の妙など、より深い興味をもって草花を友とした。 ②色鉛筆による草花写生帖(1978) 17.5×10.5cm 28葉、草花スケッチ帖 12.5×9cm 35葉 北里研究所附属病院入院前後のスケッチ帖2冊。色鉛筆を使用した写生のため「花の鮮やかさを出すのが難しい」と言いながら、自然の草花、又カボチャなども病の床の中で写生した。 「玩草亭百花譜」(下)収録 ①信濃追分 草花帖(1978) 17.5×10.5cm 40葉 1977年秋より入院退院を繰り返して、体力の衰えを自覚せざるを得ない状態にあった。しかし、スケッチ帖の絵は次第に佳境に入り、見舞に来られた方々の眼をも愉しませていた。草花40葉が4冊のスケッチ帖に収められている。 ②草花写生帖(1979) 17.5×10.5cm 29葉、草花スケッチ帖 12.5×8.5cm 10葉 最後の夢を託すかのように、情熱を傾け写生した最晩年の草花帖。水彩絵具と色鉛筆の写生帖4冊に収められている。6月30日以降のスケッチは病の床の中で描き、学名が記入されていない。 ③風景・静物写生(1962・1964・1970) 9.2×14.0cm 12葉、15.0×10.0cm 13葉 ・1962年の秋 京都-松江-岩見大田-宍道湖-出雲-倉敷-広島へ旅行した折のスケッチ3葉。この時初めてニュートンの小型携帯用水彩絵具を購入し携えた。 ・1964年の秋 信濃追分-金沢-千里浜-能登一宮-富木-増穂浦-小松飛行場-羽田のコースを旅行した折のスケッチ9葉。 ・1970年の秋 長野県小布施新生病院でのスケッチ7葉。 ④御馳走帳(1970~19794) 12.2×17.0cm 内田百閒先生の御馳走帳を愛読していた武彦が、昭和45年より正月のお節料理を念入りにしたため、色彩豊かな御馳走帳を作成して愉しむようになった。 3.関連参考画像(画像クリックで拡大画像にリンク) ・信濃追分 風物写生帖(1975)より野草スケッチの第一作「野アザミ」(左) ・草花同定帖(1977)より「クサノオウ」(中) ・草花写生帖(1979)より「立葵」(右) 絶筆となった7月28日のスケッチ。このあと8月8日に胃の手術を受けたが(*)、永年低血圧、低体温だった武彦が、8月12日に突然脳出血で意識を失い、13日の暁方天に召された。(福永貞子 記) (*)追分の主治医だった小井土昭二医師の証言では、11日に手術 ・病中日録(1978)より「あけび」 病中日録が書かれた時期は、「玩草亭百花譜」(下)に収録された「信濃追分 草花帖」の期間(1978/6/15~10/13)に収まっている。(左) ・木下杢太郎「百花譜」(1979)よりアマヅル(中) 1943/3/10より1945/7/27まで総計872点からなる植物図譜。絶筆より2ヶ月半後の10/15病死。20.2×16.7cmの枠付き洋罫紙にほぼ原寸大で描いている。 ・当時、武蔵美大生だった田中淑恵氏が、1975.8.1に玩草亭を訪ね、福永に見せたクサフフジやホタルブクロのスケッチ。(右) 福永は、8月6日に野草スケッチ第1作「野アザミ」を描いた。 4.「玩草亭百花譜」執筆の経緯 福永は若い頃から絵画に関心があり、自身でも絵(油絵、パステル画、水彩画など)を描くことがあった(参考資料一覧1-1)。「玩草亭百花譜」(下)には1962年の水彩スケッチ他が収録されている。 1975年8月1日に玩草亭を訪問した美大生、田中淑恵さんが前日に追分で描いた草花のスケッチを見た福永は、8月6日に草花スケッチ第一作を描いた(参考資料一覧2-2、2-3)。木下杢太郎「百花譜」に倣い1976年からは草花の名を植物図鑑で調べて、学名を記入した。1977年より草花の同定を学び、野草の観察や分類に一日の大半の時間を費やして丹念に記録した。1979年6月30日以降のスケッチは病の床の中で描き、7月28日のスケッチが絶筆となった。8月8日に胃の手術を受け(資料2-4によれば8月11日)、8月13日永眠。 4.感想 「玩草亭百花譜」あとがきに貞子夫人が記した以下の文章や1978年から死去まで追分での福永の主治医だった小井土昭二医師の証言がスケッチを描きはじめた晩年の福永の心境を表しているように思える。
Iさん: 『玩草亭 百花譜』の研究会を通して思うこと 文字が小さくて読みにくかった部分も、研究会で読んでいただいたおかげで、ふむふむとうなづきながら聞かせていただきました。また、いつもは例会で時間と空間を共有してきたのですが、今回は、Zoomで録音したものを、後日拝聴しました。いつもとは違う空間での研究会視聴は楽しかったです。 Haさんの発表では、福永の「ご馳走帳」が内田百閒との関連性があるということ、Kiさんの発表では、作家ならではの苦しみを感じたからこその絵、「玩草亭」という雅号の話など、例会ならではの刺激を頂戴しました。 福永は、スケッチする際にも、きっといろいろな方向から観察し、どの角度から書けば一番特徴を出せるのかなど、さまざまなことを考えながら描いたのかもしれない、と思いながらも、同時に、福永の小説の一節が思い浮かんだり、様々に思いを馳せる時間を持てました。 そして、Miさんからは、福永が表装の装丁の案など、色々なタッチや淡い色合いのものを見せていただきました。そして、電子全集では描かれた順に掲載を並べ替えたこと、諸般の事情で文言の削除箇所がある点などについて伺いました。 いろいろな人の影響を受けて、そこから学ぼうとする福永の姿勢は晩年まで変わらなかったことを知り、「習うは一生」という思いを持ち続ける意志の強さを感じました。 Miさん: 『玩草亭百花譜』の問題点と感想 ①描かれた順に掲載されていない点 歿後刊行でもあり、この点は編集上のミスと捉えて電子全集第20巻には以下のように収録した。 上巻:「一九七六年」末尾2点(「エゴの花」と「薔薇」)は、1977年2月、3月に描かれているので、同書「一九七七年 Ⅰ」に移した。「エゴの花」は、冒頭「かたくりの花」の前に挿入、「薔薇」はその後に挿入した。 同「一九七七年 Ⅰ」の末尾4点(「ヤエヤマブキ」「カキドオシ」「アケビ」「ナルコユリ」)は、1978年5月末、6月の筆なので、中巻の「一九七八年 Ⅰ」の末尾に挿入した(「宝鐸草」の後に追加)。 中巻:「一九七七年 Ⅱ」「草花同定帖」の末尾(右上に六十六と記してある後)の「ダイコンソウ」から最後の「ナベナ」までは、描かれた月日から言えば本来「一九七七年 Ⅱ」の冒頭に移すべきであるが、この「同定帖」には、冒頭1番から66番まで右上に番号が記されているので(福永自筆)、ここは初刊本のままにしておいた。 下巻:「一九七九年」第15点目から第21点目までの七枚(「クリスマス・ローズ」、「芍薬」3枚、「スズラン」「宝鐸草」「イノモト草」)は、「一九七九年」冒頭「クリスマス・ローズ」の直後にすべて移した。 「風景・静物写生」の冒頭の1点を、3点目「宍道湖晩景」の直後に移した。また、同10点目「林檎の木」から末尾までの絵を、制作月日に従って入れ替えた。 *掲載順とは別に、草花の横のキャプション(説明文)が必ずしも同日に記されているわけではない点に注意したい。 ②説明文の一部が編集過程で消されている点 以下は福永武彦オリジナル絵画2点(画像クリックで拡大画像にリンク) この2点を『玩草亭百花譜』下巻77頁、78頁(普及本、文庫本も同一)の絵と対照していただきたい。 刊本では小井土昭二医師関連の記載が削除されている。削除すること自体は、様々な理由が推測されるのであり得ることとしても、「文言が一部削除してあることが読者に知らされていない」という点はまずい。この本の信頼性に関わる。 つまり、他の絵にも同様の手入れが施されている可能性を否定できない。絵の一部は古書市場に流れ、既に散逸しているので(HPの古書目録・会員限定)②の539、564、589、628、638)、すべての絵のオリジナルを確認することは極めて困難である。 福永歿後刊行の『夢の輪』(槐書房 1981)は、雑誌連載稿への福永手入れ箇所を取り入れていながらその説明がなく、また『絵のある本』(文化出版局 1982)では、初出稿にあった文章が勝手に削除されており、その事実を読者に明示していないのだが、今回の『玩草亭百花譜』を含め、「著者歿後の作品を刊行する際に編集部或いは編者の判断で手入れした箇所は読者に明確に説明する」ことが不可欠だろう。特に今回のような絵に附された文言の一部だけを削除する場合、なんの断りもないというのはいけない。 *また、文庫本下巻、冒頭から15頁までノンブルが無かったり(途中12頁だけ付されている)、中央公論社の校閲が杜撰。私が関わった小学館電子全集のミスの多さは冷や汗ものだが(第20巻末に記したように、正確に記した年号などを校閲担当者に毎回複数個所―横書きの年号を縦にする際―誤記された)、新潮社以外の各社の校閲のいい加減さに―さあなんと言おう、大きな危惧を覚える。 以上の指摘を「些末なことを」としか理解できない出版関係者には、福永文学とは無縁であって欲しい。 感想:(前回『病中日録』報告文とも重なる) これら草花の絵は、消閑のために戯れに描かれたものではない。これらは、「詩書画」をよくする文人としての姿勢がグッと強まってきた時期に描かれたものであり、体調の都合で自由に出歩くこともままならなくなっていた福永が、紙面に可憐な草花の姿を出来る限り精確に写さんとする手業(てわざ)を通して、生の息吹を感じ取り、草花と自らの生をひとつの世界として定着した作品である。謂わば生の証(あかし)と言える。草花の姿を描くだけでは足りず、「草花同定帖」のような、各種の植物図鑑と首っ引きで時間のかかる絵に集中し得たのも、見た眼だけでなく、草花の生の実相に迫りたいという衝迫があったからだろう。 この絵を描き始めた後、杢太郎の『百花譜』(岩波書店1979年3月)を眼にした際「その校正刷を見て意気とみに沮喪したことを告白する」(上巻収録「草花を描く」)と嘆いているが―画家を目指したこともある杢太郎の技量が玩草亭主人を上回ったにせよ―医師太田正雄としての激務の中で、そして壊滅的な戦争の進行する深夜、黙々と草花を描き続けた杢太郎の心情は、福永にも惻々として伝わって来ただろう。 ◇第203回例会 日時:2024年1月28日(日)13時~17時20分 場所:リモート(Zoom)開催 【例会内容】 『福永武彦新生日記』(2012 新潮社)/『病中日録』(2010 鼎書房) *『新生日記』は電子全集第20巻収録。『病中日録』は現在でも入手可能。 【例会での発言要旨・感想】 順不同(敬称略) Kiさん: Ⅰ.「福永武彦新生日記」(1949.1.1~7.15、1951.12.10~1953.3.3)について 1.概要 本書に収められた二つの日記は、福永が都下清瀬村国立東京療養所に在所中(1947年11月(29歳)~1953年4月の約5年半)に書かれたもの。 ①1949年日記(1949.1.1/30歳~7.15/31歳の約半年) 福永は、入所後間もない1947年12月に胸郭成形手術を受け、肋骨8本切除している。本日記は、在所1年2ヶ月が経過し、ある程度体力、精神が恢復しつつあった時期の記録である。福永は、所内で静養しながら読書、小説の構想、執筆(『風土』や所内同人誌向け短文など)を行っている。 【心境】 ・2/26の日記より:「土肥君来り、孤独について話す。真の孤独とは何か。彼の言ふ孤独とは、心の空白、充ち足りないもの、悲哀、求めて得られず、愛して愛され得ず、他人を理解し得ず他人に理解されないところの諦念にすぎぬ。僕の言ふ孤独は、真に自我の宿命に沈潜省察して得たところの自由の意識、泉の如くに自己を生に導くもの、充ち足りた、可能性をもつた、幸福とさへ言へる、全人類の破片としての自我、即ち実存的自我である。従つて僕の孤独は社会的責任をもつ。意識に於て行動的である。彼の孤独はムウドであるが、僕のはロゴスによつて貫かれてゐる。彼の精神は、僕をして言はせれば病んでゐる。僕の精神は健康である。真の孤独は健康なものだ。(僕はこの二月の間に、自己のétatd'âme〔気持、感情〕がこれほど変つたのを意外に思ふ。これこそ真に病気よりの恢復ではなかつたか、「死に至る病」よりの。)」 ・3/1の日記より:「芸術家の運命といふやうなものについて考へる。芸術家はfoyer〔家庭、家族〕に関する一切の希望を自ら捨て去らなければならないのかもしれない。ナツキのこと。」 ・「文学と生と」(1949年6月)より:「そこで書くという行為が不可能になれば、後は見るという行為があるだけですが、ベッドに寝たきりの病者にとって何を見ることが出来るでしょうか。結局その対象は自己しかなく、それも肉体と共に精神までも蝕まれた、死に憑かれた自己なのです。人は死の雰囲気に包まれている時に限りなく生を思うものですが、僕も生を、――この瞬間に於ける生と、死に至る迄の持続としての生とを、如何にして強く結びつけることが出来るかについて頭を悩ましていました。その場合、僕が何によってこの生を支えているかと自問することは極めて自然でありましょう。この生を支えているのは何であるか。文学という答えが、その時ただ一つ与えられました。」(「近代文学」1949年10月号掲載) 【文学動向】 ・「風土」:1945年より書き始めた。1月にノオト作成、6月に集中的に執筆(1章から3章)。「方舟」創刊号(1948年7月)に掲載の1・2章、同年9月に掲載の3章の書き直しか。 ・所内同人誌「ロマネスク」(同人100人以上)への関わり(短文寄稿、同人達との交流) ・ヘミングウエイの短篇・長篇を多く読み感銘を受ける。 ・1/21の日記より:「既に五つ読んだが何れも独自のよさを持つてゐる。誰でも書ける(筈の)文体。一短篇に於ける世界の構成(現実の再現ではない、再構成されたもの)。明かな主題。常に抑圧された感情と批判。可視的。もしこれで今一層内部世界が描かれたら完璧だと思ふ、またそこに後から来る者に残された道がある。H.とフランス心理小説との綜合(F.に多少その方向を見る)。意識面もまたH.の外部世界と同じやうに物として描かれることが出来る筈だと思ふ。」 ・2/8の日記より:「小説についての構想。習作としてヘミングウエイ的なsyort-storyを二つばかり書いてみたい」 ・ヘミングウエイ作品への言及が圧倒的に多く、次いでボードレール、フォクナー、サルトル。 ・「草の花」関連:3/23の日記には、汐見の術死に繋がるエピソードの記述がある。:「手術中に医師が止めようと言つたのに無理に続行してもらつたとのこと。某医師は個人的にこの手術に反対でさう忠告したさうだが、きかなかつたとのこと。何よりも癒るためでなく、合法的な自殺として手術を受けたらしいこと。」 【クラシック音楽(ラジオ放送)への傾倒】 ・横臥の状態の中で、ラジオの音楽番組聴取の記述が多い。1952年以降のNHKラジオのクラシック番組台本執筆に生かされている。 【妻(澄子)との関係】 ・澄子は精神不安定であるが、日記からは武彦との関係悪化は窺えない。 ②1951年日記(1951.12.10/33歳~1953.3.3/34歳、約1年3ヶ月) 入所して約3年経過後から退所直前まで約1年4ヶ月の記録。所用のため、度々所外に出ていて行動面では健康人とさほど変わらない印象を受ける。旺盛な執筆活動(創作・翻訳)、「小説 風土」省略版を出版(1952年7月)。 【心境】 ・1951年12/31の日記より:「かうして一年が過ぎた。かうして歳月が過ぎて行く。この一年にしたことは僅しかない。「風土」の完成。短篇が一つ、散文詩が二篇、やりかけでサボつたままのボードレールの訳。貧しい。常に誰かを愛してゐなければならない気持、そして孤独。ある時は強く、ある時は弱く。苦しみの間の僅の悦び、ニヒルな自嘲、冷たい眼、冷たい心。そして尚生きてゐる。悦びも悲しみも強く心を打つこともなく。何時まで?」 ・「病者の心」(1952年5月)より:「しばしば心は救いのない絶望に鎖され、死はほしいままに魂の中にうごめいている。しかし僕は恐れずにそれを見詰め、一瞬も見過ごすまいと思う。物を見ることは小説家の宿命であろうけれど、僕は人間として心の内部を見据えたいと思うのだ。(中略)運命の手に操られる傀儡として生きるのではなく、自らの運命を知る人間として生きていく。――僕が英雄の孤独と呼んだものは、必ずや、僕のような惨めな、つまらない人間にも、無縁ではないだろうと思う。心の暗く沈んだ時に、切に、僕はそう願う。」(「保健同人」1952年7月号に掲載) 【文学動向】 ・「風土」:初版(省略版)が日記執筆期間中の1952年7月に新潮社から出されたこともあり、本書に関する記載が圧倒的に多い。 1952年8/13の日記より:「僕にとって芸術は何のささえでもない。桂昌三と今の僕とはあまりに違う。しかし誰でもが、「風土」を現在の僕の位置で受け取るだろう。僕は民衆の方へ一歩あゆみ出したいと思うのだが、僕の内容は生活を欠いているようだ。次の作品は、題も、登場人物たちの生活も、きまらない。僕自身が、今、善意をもち、生きたいと願っても、嘗て「風土」の主題を信じた僕は、この芸術至上主義から逃れることは出来ないのか。議論の後のこの空しさ。意志さえも弱く。」 「風土」初版後記(1952.5)より:「この小説は、本来、三部に分れていたし、昨年の7月には第一稿が完成していた。しかし出版社の方で長すぎるからという註文があり、不本意ながら秋ごろ改作にかかった。全体を少しずつ縮めることは僕には出来なかったので、第二部を全然はぶき、前後に手を入れて現在の時間で統一した。」 ・その他の著作:短篇「遠方のパトス」「河」「雨」「時計」、詩「詩と転生」Ⅰ~Ⅳ 他 ・1952年3/2の日記より:「なし終へたことを思へば暗然とする。長篇「風土」七五〇枚のうち二五〇枚をのぞいても未だに出版のことは未定である。短篇集「塔」のうち「雨」と「めたもるふおおず」は再び見たくもない。「河」と「遠方のパトス」との二短篇。詩集「ある青春」。「一九四六」に含まれる幾つかの評論。書き直さなければ気の済まない「ボードレールの世界」。それから幾篇かのボードレール訳詩。それらの他に活字になつてゐない「独身者」の発端三〇〇枚と「慰霊歌」一九〇枚。これが過去の約十五年間になし終へた「わづかばかりのこと」だ、何といふ空しい収穫だらう。未来にかかる構想がいくつあらうと、その未来に果して希望があるのかどうか。昔は文学を、芸術を、信じてゐたが、今は明かなクレド〔信条〕さへもない。そして昔は「愛する」ことを信じてゐたが、今はそれさへも信じられぬ。それならば何のために生きてゐるのか。」 ・翻訳:翻訳中の「モイラ」/J.グリーンに関する記述が多い。 ・NHKラジオ音楽番組原稿:「ベートーヴェン」「ヘンデル」「セザール・フランク」 ・旺盛な読書:ジュリアン・グリーン(手紙を書いている)、ボードレール、ボーヴォワール、サルトル、フォクナー、永井荷風、横光利一、森鴎外など 【女性関係】 ・1950年12月に澄子と協議離婚。澄子からはその後も金策を要求されている。福永は、院内で付添婦として働く献身的な岩松貞子(テレーズ、T)と、入院患者で芸術家肌の谷静子(シルヴイ、S)の二人への思いに揺れるが、退所後まもない1953年6月に貞子と結婚する。 ・1952年11/4の日記より: 「夕、谷静子の許に行き、シャンソン「枯葉」を教わる。彼女における二人の男性と僕に於ける二人の女性。芸術家のエゴイズム。自分の中の孤独の部分は誰にも手をふれられたくない。それにも拘らずテレーズのような女性が僕に必要なわけは何だろうか。シルヴィの場合にそれはとぎすまされた孤独と孤独との戦いなのだ。全く相反する二つのもの。」 ・「草の花」の千枝子のモデルと目されている来嶋静子と再会している(1952.8/17の日記より:「静ちゃんは学習院女子部を教えているという。帰りに彼女は取めるのもきかずに原宿駅まで送ってくれた。道を歩きながら、それまで快活にしていた彼女はそっと指の先で眼の涙を拭った。この一しずくの涙。何故に、かくも遅く。」) ・1952年8/18の日記より:「この二日の間に、僕の知っている、また嘗て知った、多くの女性に会った。人はみな幸福になろうと思って人生の道を歩いて行くのだろう。しかし果して幸福でいるとは何であろう、誰が幸福だと言えるのだろう。人は人生にさまざまの過ちを冒し、おそく後悔し、求めなかった道を歩き、そして孤独だろう。誰しもが、心の中に一しずくの涙を持って、それを忘れることに一日の生活を築いて行くのだろう。」 その他、入院患者の藤井重子や女優の丹阿弥谷津子など多彩。 2.感想 ・5年半に及ぶ清瀬療養所での自己と他者の死を見詰めた福永の心境が、本日記や在所時に書かれた随筆「文学と生と」「病者の心」などに窺える。療養所における体験と自由を奪われた中での旺盛な読書が、小説家としての福永を形成するのに果たした役割は大きく、療養所体験を経なかったなら、福永文学の様相は変わっていたであろうと思われる。 ・「小説 風土」執筆経緯:「新生日記」では、執筆を進めるも新潮社の意向で第二部を省いて出版にこぎつけた経緯と出版後の評判が窺えて興味深い。 ・日記中の個人名では、中村真一郎が突出して多い。ほとんどが手紙、葉書授受の記述だが、福永にとっての辛い時期を乗り越えるのに彼の精神的支えが果たした役割は大きかったと思われる。 ・二人の女性、岩松貞子と谷静子との交際記述が多い。福永の思いは静子に傾いていたようだが、福永と感性の近い静子とは、いずれ澄子との関係の二の舞になることが想像できたのでないか。 Ⅱ.「病中日録」(1978.7.17~10.15/60歳)について 1.概要 6月から信濃追分に滞在中の7月に胃出血、症状が悪化し9月6日から10月27日まで軽井沢病院に入院。体調が悪い中での記述であり、入院生活と追分での日常生活の記録となっている。その後、退院してから半年後の翌年4月20日から5月20日まで北里病院に入院、7月5日に佐久総合病院に再入院し8月13日に死去している。書かれた時期は「玩草亭百花譜 下」に収録された「信濃追分 草花帖」(1978.6.15~10.13)と重なり、本目録にも草木のスケッチが挿入されている。 【心境】 ・7/31の日録より:「胃出血はこれで実に十度目だが七回目と今度の十度目は入院せずに済みさうだ 調子は今のところ悪くないからこのまま大過なく行けばよいが」 【文学動向】 ・自作で言及されているのは、「秋風日記」(校正)、「内的獨白」(後記執筆他)、「別れの歌」(サインの依頼)、「夢みる少年の昼と夜」(初校ゲラ)であり、書きかけの著作についての記述はない。 読書に関する記述も少ないが、J.オースティン「高慢と偏見」を読んで感心し、感想を記している。(8/17の日録より:「オースチンの「高慢と偏見」を読み了つた。これは日常性の中にある時間の本質のやうなものを巧みに取り出して描き出したものと思ふ 会話を主としながら時間がここでは過不足にない重さ(或は軽さ)によつて流れて行く 作者がこれを書く時に感じてゐた愉しさが読者に伝わつて来るのも心地よい 作品は自分の愉しみのためでありまた自分の知る少数の読者(家族)のためである かういふふうな単純素朴のために小説を書くことはその後なくなつた ハツピイエンドのそのエンドのために一篇の布曲を案ずるなどといふのは現代では望み得ないことなのだらう」) 2. 感想 ・近くの別荘に住む源高根一家、原卓也、堀夫人との親交がよくわかる。とくに源高根の献身ぶりが印象的。 ・度重なる胃出血に慣れ、入院に至っても本人は深刻な症状とは捉えていないようだ。 ・福永は、約1年前の1977年10月27日に病床受洗しているが、本日録では8月3日に旧道の教会に日曜礼拝に出かけたとの記述がある。 K.Kさん: 『地圖の話』のことなど。 第202回例会報告所載の福永武彦戦後日記文芸作品・作家・索引に,武藤勝彦『地圖の話』を見つけ驚きました。 この本は岩波書店から出ていた「少国民のために」という当時の国民学校高学年、中学校低学年の少年向きの科学シリーズの一つです。このシリーズは戦後もおそらく60年代初めまで刊行されていたようです。中谷宇吉郎『雷の電気はどうして起るか』(この題名の記憶不正確)、有馬宏『トンネルを掘る話』、内田清之助『渡り鳥』などがありました。 小生は国民学校2年生のとき『トンネル』を親から与えられ、その後中学生にかけて、このシリーズに親しみました。とくに『雷』からは,自然科学の研究が人間のどういう活動であるかを漠然と学んだように思います。寺田寅彦の名を知ったのもこの本によります。また、索引とその使い方を教えられたのもこのシリーズです。『地圖』は中学生になってから古本で買ったように記憶します。 すでに大人であった福永さんがどのようにして『地圖の話』に出合ったか関心があります。知人に「理科」に属する方々が多かったようですし、秋吉利雄氏との関連も想像されます。このシリーズが一部の大人たちの間で評価されていたのかもしれません。 *前回例会報告文をご覧になった近さんより『地圖の話』(武藤勝彦著 岩波書店 1942)には想い出あるとのお返事を頂きましたので、お願いして一文を草していただきました。 『地圖の話』を武彦が読んだのは1945年12月17日、敗戦直後に岡山の秋吉利雄宅へ父末次郎と共に立寄った帰り、近くの宿に於てですので、利雄宅から持ち帰った蔵書(子供たちのために利雄が購入した本)、或いはその宿にあった本かと推定します。 以前入手した本がいま手許に見つからないので、画質は悪いですがネット上の画像を載せておきます(ヤフオクより)。 現在、国立国会図書館のデジタルコレクション画像で全体を読むことが出来ます。Koさんが記されているように、索引がしっかりしています。(三坂) Miさん: ① 『福永武彦新生日記』について Kiさん、K.Mさんが日記の全体的、本質的な点に触れていますので、あえて細かな具体的な次項に絞ります。 1952年12月19日の日記で、福永武彦が文学座女優丹阿弥谷津子を相手に、後日周りの者から冷やかされるような醜態を演じた(本人は酔っているので覚えていない)様子が記されていますが、これは中村真一郎長篇五部作完成の祝賀会でのことです。日記には、翌々日の21日に福永がお詫びの手紙を丹阿弥さんに出したことも記されています。 例会当日は、その祝賀会における福永と丹阿弥の様子を中村真一郎が語っている音声(1997年8月 当会でのご講演)を参加者皆で聴きました。福永が初対面の丹阿弥谷津子を独占して(ヒザの上に乗っけて)1時間も云々₋₋₋₋₋。当時、お話をはじめに聴いた際は、中村さん一流の誇張(むしろ幻想)だろうと思っていたのですが、『新生日記』の福永記述と併せて改めて聴いてみると、どうやらかなり根も葉もあることのようです。その場に居た(丹阿弥にご執心だった)高見順が、その後福永を指して「あの悪者(わるもの)は元気か」などと福永と言わなくなったというお話しなど現実味があります。少なくとも、丹阿弥さんに手紙を書かねばならぬと福永自身が思ったような行いをしたらしいし、中村さんによればこの後も2人は会っていた様子です。事実、日記にもその後手紙のやり取りをし、舞台を観に行き、ラジオを聴き、『小説風土』を贈ったことなどが記されています(当時、丹阿弥は新婚)。 「(福永には)そういう極度に自己中心的な所があって、それが彼の根本的な才能と結びついていて、作品の中では非常に上手く行ってると思うんだけど、日常生活では非常に破滅的になっちゃうんで。」というのが中村真一郎の見解です。 *この中村さんの話の件は、これだけでは参加者を含めて何のことやら理解しかねるかもしれませんので、このお話は別途全体を公表することを予定しています。 また小さなこととして、福永が療養所でも煙草を日に5、6本吸っているのが時代を感じさせます。 ② 『病中日録』について 『戦後日記』や『新生日記』同様、この『病中日録』の原本も2006年に古書市場に流れた品です。AさんがKiさんの協力で作成した目録②の618番、2006年の七夕大市に出品され(50万円以上)、落札されました。 電子全集には『未来都市』(桜華書林 2016.12)を収録しなかったのと同様の理由で収録を見合わせた日記ですが、1978年夏から秋にかけての福永の日常と文学活動が具体的に記され、自筆絵(風景、特に草花)が多数挿入されています。本文が白黒なのは惜しい点ですが、体調の優れぬ日々、身の周りの草花を自らの手技(てわざ)で丁寧に写し取ることにより、生命の息吹を感じ取り、生きるエネルギーにしている様子がわかります。 同時に堀夫人への記述にも見えるように、親しい人々には感情を隠さずに、むしろ我が儘に振る舞うことで、自らの狭い生活空間に刺激を与えています。ドイツ語を新たに独習し始めていることと併せ、諦観をせぬ、そのような積極的心の持ちようが文学活動への促しにも繋がっていたのでしょう。 K.Mさん: ①『福永武彦新生日記』、1949年1月1日~同年7月15日までの日記について 池澤夏樹氏の『福永武彦新生日記』の「序 あるいは『新生』にいたる経緯」の7頁には、「『自殺を思ふ、孤独感痛烈』というのがこの時期の精神状況だ。」と記されている。 たしかに、1月2日の日記には、「自殺を思ふ、孤独感痛烈。」という言葉がある。 けれども、この時期全体を通して見るならば、「自殺を思ふ、孤独感痛烈」という程には福永武彦氏(以下、敬称略)の精神は蝕まれてはいないように、私には思われる。 彼は、この時期(1月1日~7月15日)、原稿を書いたり(例えば、2月6日の日記には、「安静時間後夕食までに小品完成。『晩春記』九枚。」とある)、ボードレールの詩を訳したり、ヘミングウェイやロマン・ロランの小説を初めとしていろいろな小説を読んだり、時々療養所の患者仲間や澄子と一緒に梅林に散歩に行ったり、ラジオでシューベルトやラフマニノフなどのクラシック音楽の曲を聴いたりしている。また、患者仲間の今井君と碁を打ったり、飯原栄という女性のところを訪ねて彼女としばしばおしゃべりをしたり、様々な人と手紙や葉書きのやりとりをしている。 このような状況を見ると、福永の精神はそれ程蝕まれてはいないように思われる(そして、それはよいことである)。しかし、このように述べると、外面的な状況と本人の内面的・心理的孤独感とは別である、という反論があるかもしれない。たしかに、外面的な状況と本人の内面的・心理的孤独感とは、必ずしも一致しないことがあると思う。 しかし、精神がひどく蝕まれていたとしたならば、福永は上に記したような様々な行為はすることができなかったであろうと思われるのである。例えば、孤独とはある程度ニュアンスがあるが、うつ病患者で精神がひどく蝕まれている場合には、普段楽しいと思っていること (趣味など)も少しも楽しいとは思わなくなるし、欲しくて仕方がなかった物も欲しいとは思わなくなる。一切の欲望が消失するという事態が生ずる。行動は極めて不活発で、何をするのも億劫で、昼間全く何もせず、何時間もじっと寝ている状態になる。これは、明らかに、精神がひどく蝕まれた状態である。また、世の中には、全くの独り暮らしで、話し相手が一人もなく、一日中誰とも話すことができず、最期は誰にも看取られずに孤独死するような人が、現に存在する。このような人も、精神が著しく蝕まれていると想像される。 福永は、一つに、結核という当時としては最も恐れられていた病気に罹患していることの不安があったし、また、経済的にも貧苦の状態にあった、と言える。さらに、妻の澄子との間の軋轢もあった。それらの状況が、彼に重くのしかかっていたことは疑う余地がないと思う。けれども、それにもかかわらず、上述したような福永の行動を見ると、彼の心は著しく蝕まれているというようなことはなかったと思われるのである。彼の精神が孤独にひどく蝕まれていたとは言えないことの証左として、2月26日の日記の次の文章を挙げることもできるのではないだろうか。 「僕の言ふ孤独は、真に自我の宿命に沈潜省察して得たところの自由の意識、泉の如く自己の生を導くもの、充ち足りた、可能性をもつた、幸福とさへ言へる、全人類の破片としての自我、即ち実存的自我である。従って僕の孤独は社会的責任をもつ。意識に於て行動的である。彼〔土肥君〕の孤独はムウドであるが、僕のはロゴスによって貫かれてゐる。彼の精神は、僕をして言はせれば病んでゐる。僕の精神は健康である。真の孤独は健康なものだ。」 ここでは、彼は、孤独にマイナスの価値を付与しているというよりも、むしろそれにプラスの意義を認めている、と考えられる。そして、福永がこの時期〔1月1日~7月15日〕、結核のため東京療養所に入っていながら、精神がひどく蝕まれてはいなかったことは、私には、嬉しく救われる思いがするのである。 ②『福永武彦新生日記』、1951年12月10日~1953年3月3日までの日記について この時期の日記を読んで心に残ったことを、思いつくままに記しておきたい。 まず、福永が「フランス語」に非常に堪能であることが推察される。彼がフランス語に堪能であることは今さら言うまでもないことかもしれないが、私はジュリアン・グリーンの『運命(モイラ)』の彼の翻訳に関する日記の記述を読んで、特にそのように感じた。彼は、「モイラ」の下訳を池田一朗氏 (1955~1961年 中央大学助教授)と川村克己氏 (立教大学名誉教授 日本フランス語フランス文学会会長を歴任) に依頼したが、その下訳を見て次のように言っている。 「池田君の下訳した部分を見ているが、殆ど原文の痕をとどめない位手を入れるので、ひどく時間がかかる。予期に反してがっかりする。」(1952年11月21日) 「殆ど下訳をたのんだ意味をなさない。」(同 12月15日) 「自分で訳した方がはるかに早い。」(同 12月30日) 「後に行くに従い、下訳があまりにも下手くそで舌打ちばかり。」(1953年1月20日) 池田氏と川村氏の下訳がどの程度のものであったのかはわかり得ないが、福永のフランス語の翻訳についての能力も、彼の翻訳に対する要求水準も、おそらく非常に高いものであったのであろうと思われる。 また、福永は「音楽」について造詣が深いことがわかる。 彼は、室内楽曲の最高峰と称されるベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲や ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番 (1952年8月27日の日記には、「この曲を自分のものとする。」と記されている) を初め、様々なクラシック音楽の曲を聴いている。しかも、彼はただ個人的な趣味で曲を聴くに留まらず、NHKのラジオの音楽番組のために、ベートーヴェンやヘンデル、セザール・フランク、(フランクの高弟の) デュパルクについての原稿も執筆しているのである。 さらに、福永は「絵画」についての造詣も深い。 1952年の9月29日には、岩松貞子と上野の博物館にブラック展を見に行っている。また、同年10月23日の日記には、紀伊國屋に行って「モヂリアーニの画集を思い切って買う。」とある。そして、同年11月4日の日記には、「先日買ったモヂリアーニの画集が素晴らしくて飽きず眺めている。」と記されている。彼の絵画についての造詣は、その鑑賞に留まるものではない。 美術手帳の緑川仁子に、ブラック展を見てリトグラフイについての原稿を書いてほしいと頼まれているのである (1952年9月26日の日記)。先のブラック展の鑑賞はそのためのものであり、鑑賞した日の8時過ぎから美術手帳の原稿を書き始め、「ブラックの版画ーー壺と音楽」六枚を11時までに書き終えている (同年 9月29日の日記)。 さらに、彼は自ら絵を描いている。 例えば、1952年8月24日の日記には、「一日がかりでクレパス『ピアノを弾く女』を描く。僕の描くものがすべて明るい、明皙な色調を持っていることに気が附く。不思議なような気がする。」と記されている。 上記のクラシック音楽や絵画で培われた審美眼や美的センスは、彼の小説や詩の創作にも流れ込んでいると考えられる。 この時期、彼は、永井荷風、横光利一、ボードレール、フォークナー 等々、小説も多く読んでいる。そして、洋書を含め、本をしばしば購入している。この旺盛な読書も、後の彼の創作に大いに資するものであったと考えられる。 また、この時期(1951年12月10日~1953年3月3日)には、福永と様々な女性との交流が目を惹く。彼は、谷静子、谷孝子、岩松貞子、藤井重子、木嶋静子、山下(池澤)澄子、山下延子、方岡輝子、丹阿弥谷津子などと会い、会話を交わしている。 その中でも、谷静子と岩松貞子は、彼にとって特に重要な位置を占めていると言えよう。 1952年6月10日の彼の日記には、「心はつとに T(テレーズ、岩松貞子)を離れてゐた。」とあるが、福永は、澄子との間で 経験した「孤独を有する感受性の鋭い人間同士の、火花のような関係」は避けるべきだと考え、配偶者としては、谷静子ではなく、「昼食、洗濯 いろいろやってもらう」(1953年1月15日の日記) 岩松貞子の方を選んだものと思われる。1952年11月4日の日記において、福永は、「自分の孤独の部分は誰にも手をふれられたくない。」と述べているが、彼は、「自分の孤独の世界を守る」ためにも、「精神生活の安定」は絶対必要であると考えたのではないだろうか。谷静子のような芸術的造詣は深くとも感受性の鋭すぎる女性では、「精神生活の安定」は得られなくなる可能性がある、と恐れたのではなかろうか。 恋人や女友達としてよい女性と、生活を共にする妻(配偶者)としてよい女性とでは、一般に、「よい」とされるための条件が (微妙に) 異なると思われる。(それは、ある野球選手が、現役のプレイヤーとして「よい」のと、監督として「よい」のとでは、「よい」とされるための条件が異なるのと同様である。) 福永は自分の文学的才能(能力)の実現を自分にとって第一義的なものと考え、それが可能となる「精神的環境」を求めたものと思われる。(『福永武彦新生日記』の池澤夏樹氏の「序」の中に、「自分の文学的才能とその実現のための執筆のこと。文学という王国の輝きはよくわかっている。それに自分がどれほどの寄与ができるか。それは彼にとって病む日々の困難を超えた人生最大の課題である。」という文章がある (『福永武彦新生日記』8ページ4~6行目)。) 福永は、自分の文学的才能(能力)の実現が得られなければ、「もはや、自分は福永武彦ではない」と考えたかもしれない。彼は、夫婦生活がたとえ感情の高揚のあまりない平凡な愛情に終わろうとも、自分のアイデンティティーだけは、すなわち自分の「天職」の実現だけは、何としても喪失したくはなかったのではないかと思われる。 そのことに関係して、私は、黒澤明監督の最後の監督作品である「まあだだよ」という映画を思い出す。これは、小説家・随筆家で法政大学教授でもあった内田百閒 (1889~1971年) とその教え子たちとの師弟愛を描いた作品である。 その映画の終りの方に、主人公の内田百閒 (松村達雄が演じている) の喜寿〔七十七歳〕のお祝いのパーティーの場面がある。内田百閒は、彼の教え子の孫たちである子供たち (小学1年生~5年生位の7人の男の子と女の子) を前にして、こう言う。 私は、このケーキと一緒に、君たちにあげたいものがある。 言いたいことがある。 皆〔みんな〕、自分が本当に好きなものを見つけてください。 自分にとって、本当に大切なものを見つけるといい。 見つかったら、その大切なもののために努力しなさい。 君たちは、その時、努力したい何かを持っているはずだから。 きっと、それは、君たちの心の籠った立派な仕事になるでしょう。 この言葉は「天職」の大切さを言ったものだと解することができるが、私は、この言葉(場面)がとても好きであった。そのため、その映画の DVD が発売された時、その場面を見るためだけに、私はその DVD を購入した。実際、DVD でその映画の全編を通して見たのはせいぜい2回か3回位であったが、その場面だけは50回以上見た。もしかしたら、100回以上見たかもしれない。そして、その場面を見る度に、私は、自分の選んだ道は間違っていなかったと確信したものだった。 私は「秋吉利雄氏の『人生』について思ったこと」(『福永武彦研究 第十七号』) という題の拙文の中で、「人生で一番幸せなことは、『天職』を見つけて、それを職業として人生を生きることができることである。」という福沢諭吉 (か誰か) の文を引用したが、上記の内田百閒の言葉はその文の内容と軌を一にしていると思う。 福永武彦にとって、自己の「天職」の実現は、代わりに他のどんなものが得られようとも、けっして譲ることのできぬものであった、と考えられるのである。 私は、学生時代、ある本の中で「姿を変えた幸福」という言葉を見たことがある。それは、不幸な外観を纏っていながら、後から見ると、実は幸福 (あるいは、幸運) だったのだと思われる出来事のことである。福永は、二十代の末から三十代の半ばにかけて、結核で療養所での生活を余儀なくされた。しかし、そこでの生活は、彼を自己の内界へと沈潜させるとともに、書物や芸術に接する多くの時間を与え、彼により一層鋭敏・繊細で詩情豊かな精神を授けたと考えられる。約5年半の療養所での辛く苦しい生活がなかったならば、以後の彼の創作はもっと貧しいものになっていたのではなかろうか。彼の結核療養所での生活は「姿を変えた幸福」であったと思われる。 最後に、1952年7月29日の日記の一節を引用して結語としたい。彼は7月29日の日記の中で、こう述べている。 「青春が、疑ふことと信じること、愛することと苦しむこと、常に真実に生きることをその本質としてゐる以上、またそれが生への冒険と、不正への闘ひとを要求する以上、僕たちは如何に年齢を重ねても、この青春を『終つた』と言ひ去ることは出来ないだらう。」 この言葉は、福永武彦の全作品を貫くモチーフとなっていると思われる。 ③『病中日録』(1978年7月17日~同年10月15日)について この日記を読んで、福永武彦氏 (以下、敬称略) の素直な性格、気さくな性格が、特に印象的であった。信濃追分の自分の別荘の近くの「山崎建材」、「亀田屋」、「本陣」、「土屋さん」などの人々とも気安く交流している。 7月31日や8月3日に、モーツァルトの喜遊曲とセレナードや、マーラーの曲を聴いているとの記述があるが、福永は本当にクラシック音楽が好きなのがわかる。(因みに、私もモーツァルトの「ディヴェルティメント(喜遊曲)」の第17番 (K.334) (ウィーン八重奏団員 演奏) の「第6楽章 ロンド」が大好きである。ここには、モーツァルトの「粋」があると思う。) また、この日記では、福永武彦研究家で大阪芸術大学教授でもあった源高根さんが、福永のために至れり尽くせりの献身ぶりを示していて、感動的であった。 この本の中のあちらこちらに見られる福永の草花のスケッチも趣がある。池澤夏樹氏が、『病中日録』の本の帯に、「福永武彦の文学を愛する者は、この日記に現れた彼の人柄をも愛するだろう。」と記しているが、私も同感であった。 ◇第202回例会 日時:2023年11月26日(日)13時~17時10分 場所:リモート(パルケミートによる)開催 【例会内容】 「福永武彦研究」第17号、「福永武彦戦後日記」について発表と討論 【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略) Kiさん: ○会誌第17号についての感想 全体として、ページ数は少なかったが充実した内容だと思う。 特集「また会う日まで」質問と回答について ・福永武彦のキリスト教信仰についての複数の会員からの質問に対して、池澤氏の回答は「幼児期の信仰は選び取ったものではなかった。だから青年になって一度は離れたのです」であった。小説の中でも武彦は秋吉利雄からの信仰についての問いにそのように応え、利雄は「いつか武彦は信仰に帰るだろうと思った」とあり、池澤氏は福永晩年の受洗について肯定的に見ているのではないかという印象を持った。 ・三坂さんの質問に対する池澤氏の回答「あの女性たちがいたから書く気になったと思います。ぼくにとって小説は女性を書くものです」を読み、長年池澤氏の小説と親しんできて、なるほどと納得した。 ○「福永武彦戦後日記」(1945.9.1~1947.7.31)について 1.概要 ①1945年日記(1945 9/1~12/31) 帯広~信州~東京~信州(サナトリウム)~岡山(父、秋吉伯父)~東京(九品仏) 8/15敗戦。帯広の山下家は居づらく、東京での親子の新生活を期し、妻子を帯広に残し追分を経由して上京。 上田の療養所に入所、10月岡山の父と再会、笠岡の伯父秋吉利雄の家に滞在。11月に上京し、世田谷九品仏の秋吉利雄の家に落ち着き日本放送協会(NHK)への復職活動など、胸の病を抱えながら忙しくしている。 12/31の日記より: 「この日記のモチイフになったのは結局僕の澄子への愛だった。僕は澄子のためにこれをつけた」 「僕はあと五年のうちに、三十三の年までに、文学によつて生計を立て得るやうになりたいと思ふ。この年がその第一歩であることを祈る。いい作品を生みたい。そして たとひ少数の人にでも正しく評価されたい」 ②1946年日記(1946 1/3~1/23、3/12~6/9) 東京~帯広、東京~信州~東京(九品仏)~帯広~東京~帯広 1945年日記と連続して書かれていて、1月妻子のいる帯広に帰り、3月就職活動のため再度上京するが首尾よくいかず帯広に戻り帯広中学校の英語の嘱託教員となる。 ③1947年日記(1947 6/18~7/31) 6/18帯広療養所入所、7/24退所。 1946年日記から1年のブランクがあり、帯広療養所入所中の日記。文語体記述。( 「この日記は備忘のためだつた。従つて文語体で簡潔に書きたいと思つた」) 帯広療養所を7/24に退所後、10月に澄子と上京し、清瀬の国立東京療養所に入所、1953年3月退所(入所5年半)。その後、1949年1月から1953年3月の動向を「新生日記」で窺える。 2.感想 ・池澤氏が序に書いているように、文学作品として評価できる。 ・戦後の混乱した社会情勢の中で、病を抱え、精神的に極めて不安定な妻を抱え、仕事・住居・金もなく、作家としての将来の見通しが無い中で、絶望しながらも孤軍奮闘している姿が浮かび上がってくる。福永は、精神的にとてもタフだったのだろうというのが日記から受けた印象。 ・「戦後日記」に見る「小説 風土」執筆経緯 「戦後日記」の中で最も多く触れられていた福永作品は「小説 風土」であり、次いで「塔」「独身者」となっている。 1945年9月20日の日記の風土ノオトには、ゴーギャンの言葉「希望を持つことは、ほとんど生きることだ」が引用され、9月22日の日記には、「僕は昨日澄子に、「風土は僕の最後の賭だ」と書いた」と記されている。また10月6日の日記には、「僕は文学をやりたい。しかし現実はまだそれを許してゐない。僕は漸くにして小さな希望をこの「風土」にかけながら、絶望の中に喘いでゐるのに」と「風土」にかける思いの強さが感じられる。 1945年9月7日の日記では、「プランは追分に暫くゐて「風土」を書き上げること」と書いていて、この年、第1部第2章から第4章を書き上げている。1946年1月22日の日記の5ヶ年計画では、この年に「風土」を完成させ、翌1947年に出版したいとしている。1947年6月25日の日記には、「風土5章数枚を書く」と記されている(5章は過去を扱った章、その後の第二部に当る)。 ・戦後日記の索引(登場順と作家別)と「小説 風土」執筆経緯(「新生日記」を含む)の表を別紙にまとめた(会員限定公開)。 Miさん: ① 「福永武彦研究」第17号について ア.会員4名は、各々が『また会う日まで』をよく読み込んだ上で、自らの関心と切り結ぶ内容を率直に質問している。それに対する池澤さんのご回答は、短いながらも自己の小説観、女性観、福永観を端的に吐露された大変貴重な内容となっており、『また会う日まで』だけでなく池澤文学全体を考察する際にも参考になる。池澤さん執筆文をやや大きく、青字にしたのは読みやすく正解だったと思う。 イ.木澤隆雄さんの福永武彦関連記述を纏められた一覧は、この『また会う日まで』を既に読んだ者にも、これから読む者にとっても実に有用である。また、池澤作品に今までも登場した魅力的なヒロインたちの像が、利雄周辺の女性たちの姿に投影しているのではないかという指摘は納得できるものだ。 ウ.小林誠さんの随想は、借り物のわけしり顔の薄っぺらい言葉や知識とは正反対の、自らの内省を基にした真摯な文章で、私はこの種の文章を好む。特に、人生の要点の第一として挙げられている天職に関しては、私も普段から同じように考えているし、それは福永武彦の考えとも一致するだろう。 エ.traumzeitさんの、旧twitter に於けるアンケート分析は、一般愛読者の福永作品への興味・関心を知る上で参考になり、彩色された円グラフも直感的に理解しやすいものだ。その意見は整然として納得のできる内容である。これからの福永人気は『死の島』を文庫で新潮社が復刊するかどうかにかかっているという最後の意見を実現するために、私からも池澤さんをはじめ皆さんにその旨を伝えて行きたいと考えている。 オ.ichikoさんの、『草の花』を「オリジナルである日本語で、原語で読めることが嬉しい」という一文は光っている。この気持ちを持ち続ける人が福永作品を外国後に翻訳することを私は望んでいるし、ichikoさんが『愛の試み』を少しずつ露西亜語に翻訳していることを応援したい。 カ.松島健さんは、福永武彦の長い愛読者であり、同時に池澤夏樹さんの作品もすべて読んでいる。そのことが、この滋味ある短文に自ずから顕れている。「世代の継承や人の営みも文学も連綿と続く」という言葉は、今回特集した『また会う日まで』の感想としてもピタリと当てはまる。源高根氏を自らの師とする松島さんには、これから福永関連で大いに活動していただきたい。 キ.青木康彦さんには、今回は福永自筆入り「幼年」校正刷という貴重な資料を画像で紹介していただいたのだが、この資料をどのように「幼年」の読み込みに反映していくか、福永像の形成に役立てていくかは、この資料を眼にした私たちの課題である。源高根氏の校正の手も入っているという点など、松島さんには大いに興味のある点だろう。 薄い冊子ではあるが、論考、エッセイ、随筆、報告文、資料紹介文、どれも福永文学への篤い想いの籠ったものであり、全体としての熱量は高い。 この冊子は、表紙から裏表紙まで含め「ひとつの作品」として捉えていただきたい。大学の紀要などの論文集とはそもそも立つ地盤を異にしているのであり(第一義的執筆動機も目的も異なるだろう)、字の大きさ(=読みやすさ)、余白、そして「(解釈を付けぬ)ナマの福永資料の提供」という点にも特色があると自負している。判型をB5に拡大した第9号から私個人はその気持ちをずっと持ち続けている。毎回、装幀が異なるのは、継続を前提としていない、一年一冊の読み切りの意識で作成されているからだ。装幀の統一というのは、型にはめることでもある。型にははまりたくない、読み継がれる内容、発見に繋がる資料なのか否かがすべてである。 ② 『福永武彦戦後日記』について 例会では、原資料の具体的流出状況、レシとして書き始められた「小説風土」の成立過程ほか多くを語ったが、次回1月例会で『新生日記』を採り上げるので、内容に関してはその際の報告文で一括したい。 日記原本はすべて古書店に流出したもの。AさんがKiさんの協力を得て作成した一覧(HP参照・会員のみ閲覧可)にも掲載されているのでご覧いただきたい。右端はその一覧②の番号。 1945年 神保町玉英堂 2006年1月 目録第282号 150万円 595 1946年 神保町玉英堂 2006年10月 目録「地下室」8号 150万円 601 1947年 大阪浪速書林 2006年5月 目録第41号 63万円 614 *47年日記は、1951年~53年日記と2冊の価格。 目録掲載はすべて2006年である。おそらくその前年に一挙に各店に持ち込まれたのだろう(池澤さんの『戦後日記』序文参照)。 1945年日記原本を提供し、翻刻と註釈に携わった者として、ここでは1点のみ記す。 福永武彦が、帯広、信州、東京、岡山、そしてまた東京へと移動する間も、小さな自家製の手帳を肌身離さず持ち歩き、食料不足や身体的不調、移動の際の殺人的混雑による疲労困憊の間も、毎日必ずペンを取って日記を記し続けたことが(池澤さんも指摘する通り)すべての始まりである。それを可能にしたのは自ら記すように澄子と夏樹への愛であることは勿論だが、それだけではあるまい。将来必ずや傑作をものする小説家として自らを律し、精神を高く保つ矜持があったればこその行為であったろう。天職の自覚である。毎日、自らが直面する敗戦直後のいっそfantasticとさえ言える種々の現実と、それに対する自らの行動を紙上に定着することにより、福永武彦は小説家としての眼、現実を作品として造形していく視点、つまり小説家としての「現実」というものを体得しようとしたのだと私は思う。 紙上にペンで言葉を刻み付けることによりひとつのドキュメントを創ると同時に、敗戦後の現実を生きながら、そこから「小説的現実」を掴み出す術を模索していたのだ。 Iさん:『福永武彦戦後日記』を読んで 多くの人々に読まれる作品を表した福永武彦が、さまざまな不安を抱えていたことを知り、「福永にもこんな時があったのだ」というのが正直な感想と言える。生きていくためには、生活を送るために経済的基盤を整えることが重要な課題であり、妻子と共に生活することへの希望、自身の病気への不安、忌避したい人間関係と同時に志を同じくする仲間と共に切磋琢磨することへの夢など、多様な思いに揺れながらも、「文学をやりたい」(10月6日)という思いが伝わってくる。 敗戦直後の日本全土が、飲食・睡眠・安全など、人間が生きていくために必要最低限の条件すら保障されていない中、伯父秋吉利雄から「直に来るように」と2度にわたる催促があるのは(9月8日に葉書と電報、10月2日に手紙)(「1945年日記」)、甥を心配する伯父の思いであろう。 また、北海道への電報や郵便が不可能な駅、送った電報の未配達、切符を買えないなどの暮らしは、肉体的にも精神的にも堪え難いものであったに違いないという想像しかできない。 9月17日の日記に「夕食時白井の兄より、宿泊のことに関し面責さる。層て経験したことのないやうな場合。再び大いなる屈辱」(「1945年日記」)と記される「屈辱」とは…。 あれほど親戚関係で帰りたくなかった北海道に帰ったのは、妻や子供に会いたいという思いが強かったからであろうか、それとも…。その辺りの事情も含めて、次回の研究会への期待を持てた11月例会でした。 ◇第201回例会 日時:2023年9月24日(日)13時~17時10分 場所:リモート(パルケミートによる初開催)開催 【例会内容】 池澤夏樹 新刊「また会う日まで」発表と討論 【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略) Kiさん:池澤夏樹 「また会う日まで」を読んだ感想 ・著者は、これまでも自然と科学の関わりについて、小説およびエッセイで描いてきたが、本作では業績を残した有能な科学者であり、海軍少将にまでなった軍人である一方で終生敬虔なクリスチャンでもあったという一見共有し難い資質が渾然一体となっている主人公の心の動きを、戦前から戦後の激変する社会情勢を背景に丁寧に描き出していることが印象深い。 ・福永武彦関連の記述では、彼の出生に関わる秘話から山下澄(筆名 原條あき子)との結婚、終戦後、帯広中学校の教師となる28歳までの足跡が本篇に断片的に挿入され、彼の私生活と当時の世相との関連が窺えて興味深い。 ・小説では、利雄の妹トヨ、先妻チヨ、後妻ヨ子(ネ)にも焦点が当てられている。それぞれが聡明で進取の気性に富んだ魅力ある女性として描かれ、彼女たちの生き生きとした存在感が小説に潤いを添えている。 ・利雄の述懐「だいたい我が一族の女たちはなんでも自分で決めてどんどん動く」は、著者の長篇小説のヒロインたち(「真昼のプリニウス」の頼子、「タマリンドの木」の修子、「花を運ぶ妹」のカヲル、「アトミック・ボックス」の美汐)にもそのまま当てはまり、聡明さと並外れた意志の強さと行動力が彼女ら共通の資質である。著者の母を含めた実在した女性たちの像が、後に長篇作品のヒロイン創造に当っての源泉となったのか、あるいは長篇作品のヒロイン像が、本小説の女性たちに投影されているのか。おそらくは両方の要素が含まれているのではないだろうか。 本書は筆者にとって、利雄と繋がる女性たちに抱く敬慕の念と、母を含む女性たちへの思いを託して執筆した作品群のヒロインたちの像を包括した集大成的な小説としての一面もあるのではないだろうか。 Iさん: 9.24 研究会を終えて 池澤夏樹著の『また会う日まで』の冒頭の章は、主人公の秋吉利雄が肺炎で重篤になり死を受け入れる場面で、結末部分「主よ、みもとに」では、秋吉の視点で述べられ「洋子」とする部分からは、娘の洋子の視点で書かれています。そして、最終章の「コーダ」では、秋吉の死後、洋子と内山修治の視点での描写、末尾に秋吉自身の声が挿入されています、そういう意味では、プロット構成で、多元焦点化の手法をとった作品といえます。 2020.8.1から2022.1.31までに朝日新聞に連載されたものが加筆修正されて単行本となった長編小説という点を踏まえて、研究会で、Haさんが、作品の内容をまとめ、全体の構成を捉えることの重要性を再認識させてくださいました。次に、Kiさんが、作品における福永武彦に関する記述をまとめてくださり、異なる観点で福永を読みなおすきっかけを下さいました。そして、Kiさんの提示された「池澤作品における長編小説のヒロイン像の近親性」を中心に話が弾みました(池澤先生、ごめんなさい、私はこの話し合いに参加できるほど、先生の作品を読んでいませんが、皆さんのお話を伺いながら、いろいろなアイデアを頂戴できました)。 海軍兵学校に進み、東京帝大で天文学を修め、水路部に配属された秋吉は、「子どもたちの父であり、聖公会の信徒であり、軍人であることに苦しい」と吐露していますが、その苦悩を見せないし、「この甥をやはり戦場に送りたくない。鉄という素材は似合わない。似合うのは紙ばかり」(p496)と福永を見つめる視線が優しいのです。「ものの言い方にその人の人格があらわれる」と言われるように、仕事上では軍人言葉を使いますが、民間人として話すときは、丁寧な敬体を使い、甥に「たくさん食べていけ。徴兵検査は終わっていることだし」と言うのは、軍人ではなく叔父としての言葉であり、秋吉の一面が見えた気がしました。 そして、秋吉の葬儀で娘が「父に会うのはいつのことでしょう」(p695)との思いが、この作品のタイトルにつながっていると同時に、秋吉自身が戦争で亡くなった旧友たちに心の中で呟いて日々を暮らしていたのでは、と納得しました。 「コーダ」の章で、秋吉が妻に「父が顔を上げて『あたしゃー養子じゃありまっしぇんとばい』と長崎弁で言って」(p705)いる場面に、思わず、優しい目をした可愛い秋吉を想像し、吹き出してしまいました。 Koさん:キリスト教、そして科学と宗教について 『また会う日まで』の主人公の秋吉利雄氏はキリスト教徒であり、同書にはしばしばキリスト教に関する話が出て来るので、同書を読みながらキリスト教を初めとする宗教について、多少なりとも考えをめぐらせてみた。 人が宗教に向かう根源的な理由の一つに、人間の知力〔人知〕の限界がある、と考えられる。 ある人が、1970年5月1日に、東京都世田谷区に生まれたとする。その人は、「どうして自分の人生の始まり(人生の始まりは受精卵の発生にとる方が適切であるように思われるが、ここでは便宜上、誕生日を人生の始まりとしておく)は、ーー例えば、平安時代や江戸時代でなくーー1970年5月1日に指定されたのだろう。」、「どうして自分の人生の始まりは、--例えば、フランスのパリやオーストラリアのシドニーでなくーー東京都世田谷区に指定されたのだろう。」、あるいは、「どうして自分は、この男性とこの女性の子であって、他の夫婦の子ではなかったのであろう。」と考えるかもしれない。 (天皇陛下も、「なぜ自分は、普通の国民ではなくて、天皇陛下として生まれたのだろう。」と思われるかもしれない。生まれてみたら、天皇になる身分になっていた、ということである。) 今述べたような問いは、人間の知力〔人知〕では答えられない問いであると思われる。我々は、この世における出生について「恐るべき無知」にある、と言えよう。一般に、人々は、現実(ないし人生)を当たり前のもの、何の変哲もないものとして受け入れている、と思われる。現実(ないし人生)に何の疑問も持つことなく、それに全幅の信頼を置いて現実に埋没していることは、少なくとも精神衛生上はとてもよいことであると言えよう(哲学的懐疑は、精神を不安定にすることがある)。 しかし、上述の疑問が答えられないものであることを考えるならば、現実(ないし人生)は、けっして堅牢強固な基盤の上に築かれているのではないと言えよう。現実(ないし人生)は、実は、「不可思議に支えられたもの」であると言えると思われる。 我々は、上述のような疑問を前にすると、根源的な「人知の限界」を感じざるを得ない(あるいは、悟らざるを得ない)と思う。そもそも我々は、生まれた時から、「不可思議な状態」にあるのである。 このように、「人知の限界」、それ故「人知の無力さ」を感じると、人間は「主」や「神」といった何か絶対的なものに、換言すれば「宗教」に、向かいたくなると思われる。人が宗教に向かう理由には、現実の人生における苦難なども考えられるが、先にも述べたように、「人知の限界」や「人知の無力さ」も人が宗教に向かう根源的な理由になり得ると考えられる。 ここで、私は、「宗教」について考えるために、「宗教」と「科学」を比較してみることにしたいと思う。一つには、(1) 「反証可能性」という観点から、もう一つには、(2) 「批判」という観点から、両者を比較してみたいと思う。 〔1〕まず、(1) 「反証可能性」という観点から、「宗教」と「科学」を比較してみたい。 「反証可能性」における「反証される」とは、(ある言明〔statement〕が)「誤りであることが示される」ということである。(理論や法則も、「言明」に含まれる。)したがって、「反証可能性」とは「誤りであることが示される可能性」という意味である。 「宗教」における教義には、一般に、「反証可能性」はないように思われる。あるいは、「宗教」における教義は、一般に、「反証可能性」を認めないように思われる。アメリカの少なからぬキリスト教系の学校において、進化論は聖書の教えに反すると言って、進化論を認めず、進化論は学校で教えないとのことである。すなわち、それらの学校では、キリスト教〔聖書〕の教えが進化論によって反証されることを認めないわけである。また、一般の人にとっては不幸なことと思われること(例えば、末次郎が、まだ若く信仰心のとても厚いトヨを病気で失ったような)が起こっても、「主の愛」〔主が人々を愛すること〕が否定されることはなく、ある人から見れば屁理屈としか思えないような理由を付けて、「主の愛」は守られる、と思われる。 先にも述べたように、一般に、宗教における教義(キリスト教で言うならば、「聖書」)は、「金科玉条」であり、「不磨の宝典」であって、いかなることが起こっても、すなわちいかなる事実によっても、反証されることはない(「反証可能性」がない)と言ってよいのではないかと思われる。 それに対して、「科学の言明」には、一般に「反証可能性」が存在する。卑近な例として、天気予報を挙げてみよう(天気予報は、日常的な言明であるとともに、「科学の言明」である)。例えば、「明日は、午前中は晴れで、昼過ぎから曇りで、夕方から雨になりますが、午後10時頃雨は止んで、その後は曇りでしょう。」という予報があったとする。もし午前中曇りであったとしたら、その天気予報は反証される。午後も晴れであったとしても、その天気予報は反証される。夕方から降った雨が午後10時を過ぎても止まず、一晩中雨が降っていたとしても、その天気予報は反証される。 「科学の言明」は、このように、必ず「反証可能性」を有しており、どのようなことが起こったらその言明が反証されるのかが、明確に規定されている。(ただし、ここに言う「科学」は、数学等の「形式科学」を除いた、物理学や生物学、経済学等の「経験科学」のことである。) 物理学にニュートン力学〔古典力学〕というものがあり、それによって惑星の軌道を計算によって導出することができる、とされている。しかし、かつて天王星〔土星の外側を回る惑星〕の軌道についての観測結果が、ニュートン力学による予測とズレが生ずることがあった。その観測結果によってニュートン力学は反証されるかに一見思われたが、ルヴェリエ (1811-1877年 フランスの天文学者)は、天王星の軌道がニュートン力学の予測とズレが生じるのは、ニュートン力学が誤っているわけではなく、天王星の近くに天王星の軌道に影響を与えるような未知の惑星が存在し、ニュートン力学がそれを考慮に入れることなく天王星の軌道を予測しているためである、と考えた。 そして、ガレ (1812-1910年 ドイツの天文学者)の観測によって、海王星が発見された (海王星は、天王星のさらに外側を回る惑星であり、大きさは天王星と大体同じ位で、地球よりずっと大きな天体である)。このことにより、ニュートン力学の権威は一層高まった。 しかし、ニュートン力学といえども「仮説」であり、今までの観察結果によっては未だ反証されていないというだけで、将来の観察結果によって反証される可能性は、原理上必ず存在する。実際、ニュートン力学〔古典力学〕は、高速荷電粒子の質量がその速度によって変化するという事実等によって反証され、少なくとも厳密に理論的な意味においては、その地位を相対性理論や量子力学に取って代わられることになった。 科学的仮説のうち、とりわけ重要性が認められたものは、「理論」とか「法則」といった尊称を与えられるが、どんな「理論」や「法則」も仮説としての性格ーー将来の観察事実によって反証される可能性があるという性格ーーを脱却することは、できない。 「科学の言明」は必ず反証可能性を有しており、どのようなことが起こってもけっして反証されることのないような言明は、「科学の言明」ではないのである。この点は、「宗教における教義」と著しい対照をなしていると考えられる。 〔2〕次に、(2)「批判」という観点から、「宗教」と「科学」を比較してみたい。 まず、「宗教」の場合、キリスト教を例にとるならば、キリスト教徒として、キリスト教の教義〔聖書の教え〕を疑問視することは、許されないのではなかろうか。まして、キリスト教の教義〔聖書の教え〕を批判することなど、もってのほかであるとみなされていると思われる。すなわち、「宗教」においては、その教義を批判することは禁じられているように思われる。 けれども、「科学」の場合、(「理論」や「法則」を含む仮説に対する)「批判」は、歓迎されこそすれ、禁止されることは全くない。 「科学」は、「批判」を通して、成長・発展するからである。「批判」は、「科学」(の学説)の成長・発展の推進力である。単純化して言うならば、今まで認められていた仮説は、それに基づく予測が観察事実と一致しないという「批判」によってその仮説の真理性が疑問視され、その観察事実をよりよく説明し得る別の新たな仮説に取って代わられる。相対性理論や量子力学も、ニュートン力学〔古典力学〕に対する「批判」を通じて成立したものである。現在存在する「理論」や「法則」は、今までのそれに対する「最善の批判」にもかかわらず生き残った「仮説」なのである。 このように、「批判」は「科学」にとってきわめて大切なものなのである。 以上のように述べると、私は宗教を否定しているように思われるかもしれない。しかし、私は、必ずしも宗教を否定してはいない。私は、先に、現実(ないし人生)は「人知」では知ることのできない「不可思議」に支えられている、と述べた。そもそも「人知」には「根本的な限界」があるのであるから、我々が宗教に向かってもおかしくない〔不思議ではない〕と思われる。 キリスト教を信じることによって、「主」とともに在ると思うことによって、孤独に陥ることがないならば、また、自分が「主」とともに在ると思うことによって、自分が「正しい」と信じることを果敢に実行する勇気が与えられるならば、さらに、「主」の存在を信じることによって、心が明るく生き生きとしたものになるのならば、キリスト教を信じる理由は十分にあると思われる。 ウィリアム・ジェームズ (1842-1910年 アメリカの心理学者であるとともに、プラグマティズムの代表者の一人として有名な哲学者)も言うように、宗教を信じることによって自分の人生〔生活〕がよりよいものになるならば、宗教を信じることは十分に好ましいことであると考えられるのである。 Miさん:『また会う日まで』感想ひとつ 秋吉利雄とチヨ、利雄と福永末次郎、利雄と福永武彦をはじめ福岡県出身者同士では、公的な場はともかく、日常会話では博多弁を使用していた筈だが―源高根によると末次郎と武彦はその晩年まで早口の博多弁で会話し、聴いていても意味が取れなかったということである―『また会う日まで』では主要人物はほとんど標準語で話している。 しかし、読んでいてまったく違和感はなかった。その理由は、秋吉利雄の客観的・数理的世界観を表現するには、或いは国際的・開明的な女性たちの知性と感情を表現するには、ある地方の伝統や文化を濃厚に背負う方言よりも、標準語が適しているということだろう。ただ、欲を言えば、例えば戦後岡山にやって来た武彦と柿を食べに行ったり、蛸壺引き上げを見に海上に出たり、古城山に登ったりする寛いだ場面では、利雄と武彦の方言も交えて欲しかった。 |
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