Copyright 福永武彦研究会 All Rights Reserved
HOME入会案内例会報告会誌紹介電子全集紹介 | 関連情報 | 著訳書目録著作データ | 参考文献リンク集玩草亭日和(ブログ)掲示板(会員限定)

福永武彦研究会・例会報告
第191回(2022年1月)~第196回(2022年11月)


第196回研究会例会 2022年11月27日(日)
第195回研究会例会 2022年9月25日(日)
第194回研究会例会 2022年7月24日(日)
第193回研究会例会 2022年5月22日(日)
研究会総会 2022年5月22日(日)
第192回研究会例会 2022年3月27日(日)
第191回研究会例会 2022年1月23日(日)

第190回例会以前、第197回例会以降の例会報告


第196回例会
日時:2022年11月27日(日)13時~16時40分
場所:リモート(zoom)開催
【例会内容】
エッセイ『愛の試み』発表と討論
 Kiさんの発表の後、討論を行いました。配付されたプリントの一部が報告文として纏められています。当日、Kiさんから提出された『愛の試み』文献一覧は、ホームページからダウンロードできます。
 今回、Twitterで研究会の活動を知った方が聴講され、積極的に発言していただきました。

【例会後参加者より寄せられた資料】順不同(敬称略) 
Kiさん:「愛の試み」について
1.感想
・エッセイ冒頭の文章「人は孤独のうちに生まれて来る。恐らくは孤独のうちに死ぬだろう。僕等が意識していると否とにかかわらず、人間は常に孤独である。それは人間の弱さでも何でもない、言わば生きることの本質的な地盤である」と最終章の旧約聖書「雅歌」についてのコメント「これは人間の持つ根源的な孤独の状態を、簡潔に表現している。この孤独はしかし、単なる消極的な、非活動的な、内に鎖された孤独ではない。「我心の愛する者をたづねしが」―そこに自己の孤独を豊かにするための試み、"愛の試み"がある。」が呼応していて、恋愛論の形式ではあるが孤独論でもあるこの本書のエッセンスであると感じた。
・福永自身が、” 今までに書いた小説は、存外この中にある主題の延長、挿話のヴァリエントにすぎないような気もする。僕にとってこのエッセイは、謂わば自作自解のようなものである。” と述べているが(「愛の試み愛の終り」新版序・1959)、”今までに書いた小説”だけでなく福永全小説の根本に関わる重要な著作であるにもかかわらず本書に関する論考がほとんどないのに驚く。
・「愛の試み愛の終り」(1958)に追加されたエッセイ『愛の終り』について
 毎日ライブラリー「恋愛と結婚」の一部として執筆された。”「愛の試み」の中で不充分と思われた部分を意識的に書き足したものだが、説明のために恐らくは重なり合ったところもあるだろう”と述べている。後に省かれたのも同じ理由だろうと考えられる。ただし、「愛の試み」より一層”孤独”に焦点が置かれていて、福永の本音が、より色濃く現れていると考える。
(引用)
 "愛は、僕に言わせれば、孤独の描き出した錯覚である。(中略)すなわち孤独とは、愛に向って賭けられるべき可能性である。"
 "自分一人がどんなに愛し続けても、自分一人ではどうにもならないという点において、愛は理解とは全く異なった、宿命的な困難さを持っている。"
 "孤独こそは彼の魂なのであり、その最も赤裸々な、根源的状態なのだ。人の持つあらゆる靱さは、孤独から来ている。人はそれを弱々しい惨めなものと誤解しているだけだ。"

2.挿話におけるミステリー要素
 9つの掌編には、福永の小説作法に特徴的なミステリー的要素(読者の想像力をかき立て、小説世界に誘い込む手段)が窺える。これは「ショートショート(掌編小説)の神様」と呼ばれた星新一の作品と同じく、掌編という形式ならではの”オチ(意外な結末)”の効果を強調したかったのではないかと思われる。


Miさん:『愛の試み』エッセイ部分への個人的感想ひとつ
 一般に形而上的な内容、特に愛や孤独についての文章は、年齢が行くほど読めなくなってくる。このエッセイを「文藝」に連載していた当時、福永武彦は38歳。若い。この本のエッセイ部分もまた形而上的な一見硬い内容で、読み難くなる面があることは否めない。
 しかし、同時に20代の頃とは当然異なった位相ではあれ、60歳を超えた私でも真摯に対峙できる文章になっていることを今回実感した。読むのにエネルギーは要るが没入し得る。それは何故なのか。その点だけを述べてみる。
(理由)
①身銭を切った文章。表面的には抽象的な内容だが、福永自身の切実な体験を基に書かれた文章。戦争、病気、離婚など、愛と孤独と死を自らのこととして体験した者としての涙が籠っている。文章をしっかり支えている。
②文章そのものの力、普遍的内容なのだが主語に「僕」「僕等」を多用し、また「彼」を用いることで、硬い抽象度の高い内容を身近なものとし、漢語を多く使わずに出来るだけ和文脈で語っている。明晰さと叙情性を兼ね備えている。内容も文章も自家薬籠中のものにしている証拠。
*この真摯な内容に比して、日常での福永の対女性関係はどう解釈すべきか。市民倫理から「悪」と取るか、ボードレリアンとして当然の車の両輪と取るか、それをどこまで研究として採り上げるべきか。
③ この種の作品享受に当っては、受け取る側の生へのスタンスも重要だろう。年齢を重ねるということは、何ごとからも適度な距離を取るようになること。その距離感が人生の安定感、安心感に繋がる。一方で、当事者としての感覚が薄れて行く。それが大人になることなのだが、自分のこととして、私は幾つになっても、どこでも<現場の人>で在り続けたいと願っている、昔から。当事者であり続けたい。傍観するのでなく、自ら動いて新しい体験を重ねたい。今年8月、若者たちとツイッターでスペース「#福永武彦を想う集い」を始めたのもその一例。
つまり、自らことを選択し、投企し続けたい。行動し続けたい。当然、自らが傷つき、場合によって人を傷つける。そしてそこに責任が発生する、それを背負い続けること、それが私が生きているという実感になるのだが、私のその覚悟は、ときどき読み返す『愛の試み』の選択、投企、そして責任というキーワードから自然に影響されたもののように、今になって気がついている。

 福永武彦もまた、生涯、文学的前衛を開拓し続け、当事者であり続けた人であると同時に、日常的にもかなりな行動派だったことも改めて思い起こしたい。

Saさん:「愛の試み」について例会時に思い違いしていた点をひとつ
 「愛の試み」は、昭和31年6月に河出書房から刊行され、昭和33年には人文書院に版元を移して「愛の試み・愛の終り」として再刊されている。なぜ短期間で版元を変えたか。
 河出書房の倒産が昭和32年3月で、再版のめどが立たなくなったためと考えるべきだろう。
 このとき河出書房の編集部に山口瞳と竹西寛子がいたのはよく知られている話。

 もう一つ、「細い肩」の旅程について。
 「細い肩」は、東京の大学生が大阪への部活の遠征の帰りに、寄り道して博多の元恋人に会いに行く話だが、当時の時刻表と見比べて見よう。
 わかりやすいように、遠征して試合のあった日を第1日としよう。
 京都発19:10の準急列車は実在していて、第1日: 205レ準急(京都発19:10,)大阪発20:05、(車中泊)、第2日 広島着3:28、下関着8:31、博多着10:25となる。(停車駅は大部分省略)費用は1120円(乗車券920円、準急券200円)
 帰りの旅程は、第2日 206レ準急 博多発15:30、下関発17:26,広島発22:13,(車中泊)、第3日 大阪着5:19、(京都着6:07)になる。
 先を急ぐ旅であればこの準急は京都行であるからそのまま終点まで乗れば、都合よく第3日 122レ普通 京都発6:12 東京着19:38という列車があるのに、主人公は大阪で下車して考え事をする。このまま東京に帰るのか、それとももう一度博多に戻るのか。
 結果として彼は、第3日 126レ普通 大阪発8:22、東京着22:52
 博多からの通し費用 1490円(乗車券1290円、大阪までの準急券200円)に乗って東京に帰るわけだが、この列車が「普通列車でこの日に東京に着くいちばん遅い列車」であることは、時刻表を見て初めて気づいた。
 さらに、彼がもし回心して博多に戻ろうと考えた場合、第3日 1005レ急行早鞆 (東京発前日20:15,)大阪発7:23、博多着20:30、39レ急行筑紫 (東京発前日21:30,)大阪発8:40、博多着22:23の2本の列車に乗る選択肢があった。この2本の間に実際に乗車した東京行きの最終列車がある、というのが設定として重要で、7:23時点でも選択があったし、8:22時点にもなお選択があったのだ。

 蛇足:彼は博多を出るときに東京ゆきの切符を買っただろうから、博多に戻る旅費がほんとうにあったかどうかは不明。また、急行早鞆は3等車を連結していないので非常に高くつく。
 大阪から切符を買い直して博多に戻ったとすると、急行早鞆 3160円 (2等乗車券2200円、急行券960円)、急行筑紫 1320円 (3等乗車券920円、急行券400円)
 「細い肩」とは関係ないが、昔の2等というのはなかなか贅沢であったことがわかる。
(運賃・料金)
大阪~博多 乗車券 3等920円 2等2200円、準急 3等 200円 急行 3等400円、2等960円、東京~博多 乗車券 3等 1290円、急行 3等 500円
時刻表は交通公社の時刻表復刻版(戦後編5)昭和30年8月号に基づく。

【当日使用した資料】
①「愛の試み」について、「愛の試み」文献資料一覧:Ki


第195回例会
日時:2022年9月25日(日)13時~17時
場所:リモート(zoom)開催
【例会内容】
今回もリモート開催となりました。
1.中村眞一郎『夏』発表と討論
Kiさん、Haさんより各々詳細な発表の後、討論しました。配付されたプリントの一部が報告文として纏められています。
2.会誌第16号の内容再検討
第16号は当初の内容を変更し、来年3月に発行することに決定しました。

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
Iさん:福永武彦との出会い
 「愛は孤独と相対的な言葉だが、決してその反対語なのではない。愛の中にも孤独があるし、孤独の中にも愛がある」(福永武彦『愛の試み』新潮文庫「内なる孤独」より)
 約20年前、日本とは異なる教育環境にある国際学校で教え始めた時の教材でした。高校生たちと福永の作品を読み進めながら、孤独、エゴ、愛といったものに向き合うことの難しさ、作品の挿話に高校生たちが「うわー、ホッとする」とか「わかるー」と口々に色々な思いを話してくれました。そんな彼らに「より積極的な、強靭な、孤独」を持つことは恐れることではないこと、「大きな心には大きな知恵が、小さな心には小さな知恵」(「孤独」より)なら、大きな知恵を持つに越したことはない、などと安直な感想もありました。作品を選んだのは私自身ですが、実際に教室という場で、みんなで読み進めることで、私自身一人で読んでいた時に気づかなかった多くのことにも気付かされました。
 約半世紀前の作品であっても、時代を超え、生活環境が異なっていても、新たな気づきを持てた時間を共有できたことは意義深いものです。そして、他の福永作品に高校生たちが触れ、感動を覚える言葉を一つでも自分のものとしてくれたら、そういう思いで今も生徒たちと作品を読み進めていきます。

Kiさん:書き下ろし長篇『夏』(1978)/中村真一郎 について
1.本書の成立
四季四部作の第二部として1978年4月に新潮社より出版。第一部から四部までの出版経緯は以下の通り。
①『四季』(四季・第一部・春)(1975):50代になった「私」と友人のKが、30数年前に一夏を過ごした高原の避暑地を再訪し、青春時代の記憶を辿る。(2014年9月の第148回例会で本作を取り上げた)
②『夏』(四季・第二部)(1978):Kと訪れた高原の避暑地での1週間の旅が終わり東京に戻った日からの50代初めの「私」の現在(約10日間を時系列に沿って描いている)と、10年前の秘密クラブを通じて多くの女性たちとの性愛の遍歴の果てにA嬢との”宿命の愛”に導かれる「私」の回想が重層的に語られていく。
③『秋』(四季・第三部)(1981)
④『冬』(四季・第四部)(1984)

2.四部作執筆の意図(作者自身のコメントを中心として) 
*以下、( )内のNo.は、HP”参考文献一覧”の『夏』文献一覧の資料項目に対応しています)
・日本伝来のその美的感覚と人生観との融合状態の中で、私自身の人生を振り返り、それを小説という形式で、私の人生のそれぞれの時期の根本的体験の意味を追求し、それをフィクションとして造型することで、私自身の生きた事実を、自分に納得させたくなった。(別紙・文献1-1谷崎賞受賞コメント)
・僕の人生を、春、夏、秋、冬という四つの季節に分けて書きたかった。今度の「夏」では、人生の中年の、とくに愛欲の問題を集中して描きました。(1-2辻邦生との対談)
・全体小説を書きたかった: 50歳くらいの時から、自分が生きてきた経験の全体を含む記念碑みたいな小説を書きたいと思うようになってきたんです。(1-2)
・創作ノートに、中村さんは十代の時から、折々に触れて、ある考えなり、挿話なり、ストーリーなり、主題なり、人物スケッチなり、風景なりを200字詰め原稿用紙とかに書きとめて、覚書きとして大きな封筒に入れていた。全体小説を書こうと思ったときに、これらの数百枚の覚書きすべてを使って大きな小説を書こうと決めたことが記されている。

3.『夏』における特徴的な構成、方法論(作者自身のコメントを中心として)
3.1 多層性
① 時間的多層性(三層構造)
 70年代初頭の現在における約10日間の「私」の行動を時系列に沿って描きながら、間に10年前の「黒い部屋」体験とA嬢との再会・恋愛(約1ヶ月間)の回想を挟み込んでいる。さらに出来上がった作品の地肌に「私」が(それを後になってもう一度、考え直してみると)というような別の解釈を書き入れている。
② 「私」の意識の多層性(1-4)
(中村)あの中に「私」が何人もいるって書いたのは、君だっけ? 「主人公」がいて、それを「語る人」がいて、それから「書き手」がいるわけですよね。
(鈴木)それを読んでいる「読み手」も出てくるんですよね。
(中村)「私」の意識の多層性が書かれていると同時に、小説構成上の「私」における、そういう多層性もある、そういうところを読者に楽しんで読んでもらえるといいと思うんですけどね。この小説を読んでいる「私」が語るのは、単なる楽屋話ではなくて、それ自体が、この小説の要素として働いているわけですから。要するに、小説をつくるプロセスを書いている小説なんですよ。だから、そのプロセスを楽しまないとね。出来た話を読もうとすると、話は、しょっちゅう変わってしまうわけだから。
③すべての人物の意識の多層性(1-5)
 ここではすべての人物が"二重性"をもって登場する。つまり日常的な表面と、肉欲の暗黒面とである。この二重性は、「私」にとっても他者もまた、その人格が多層的組織をなして見えるということを示す。つまり、「私」だけでなくすべての人間は「意識の多層性」の構造を持っているという認識。
3.2 人物名の記号・あだ名化
 人物になぜ名前をつけなかったかという質問ですか? 特定の佐野、原田、上杉などという名前をつけるとイマジネイションを展開する邪魔になるからじゃないですか。そういうことに対する嫌悪が働いていた。(1-2)
 A嬢の「A」は、ネルヴァルの小説「オーレリア」で主人公の愛した女性の名前、オーレリアに因んでいる。ネルヴァルは著者が心酔していた作家だった。
3.4 日本庭園のような回遊的構成(1-5)
 この長篇の構成は、迷路的な複雑さを持つだろう。そして、それは平安朝の回遊庭園の散歩道のように、何度も思いがけない場所で、別の道と交わるだろう。また、この道の交錯での"驚き"が、この作品のロマネスクを作り出して行くことにもなるだろう。
3.5王朝文学と二十世紀文学の反映
1)王朝文学における心情的観念”色好み”、”宿世(すくせ)”(宿命)の反映(1-6「色好みの構造」)
 作者の王朝文学への情熱とエロティックな衝動の無意識のつながりを、意識の面に引きずり出してみること。従来の、つまり50前の僕は、王朝文学への愛は評論で、愛欲への衝動は、恋愛小説として書いてきた。今回は両方ともを一つの小説の中に置いたわけです。(1-2)
 この"宿命"というのは、当時、私が読みふけっていた王朝物語の中で、主人公たちが己の行為を是認するのに必ず想定する観念であり、その考え方に私自身、強い感化を受けていたわけである。更に王朝物語の主人公たちにとっては、宿命というものは主として恋の場において自覚される。ある女と知り合った偶然を宿命、前世からの因縁であって不可避のものとして、自分が生まれる以前からその関係が決定されていたのだと感じるとすれば、その女との交渉は意志の力では免れることはできないということになるわけで、従ってそこに倫理的な抑制は働く余地がなくなる。(第二章より引用)
 本書で言及されている王朝文学:『枕草子』、『浜松中納言物語』、『とはずがたり』、『とりかへばや物語』、『源氏物語』、『小柴垣草子』他
2)二十世紀文学の反映(1-7 愛と美の文学)
 私は、この書物において、回想形式によって70年の生涯の自伝を書こうと意図した。(中略)そして今、それを通読してみると、最初に印象付けられるのは、一個の明確な輪郭を持った個性というのでなく、人格が分裂というより分散したものとして提出されていることである。これは私が生涯をかけて追求した「二十世紀小説」の前衛的方法が、人間を人格的自我として固定的に捉えるのでなく、無意識の領域にまで測深機を下ろす手段であり、この手法による人間探究は必然的に人格を溶解させる方向に向かうものであることと深い関係がある。
3)王朝文学+20世紀文学の反映(1-5)
 王朝時代の性習慣は、日本人の性意識の根底にあるものだが、ここでは性愛は純粋に官能的快楽であり、ギリシャ同様に美的感覚とも融合している。西欧中心主義のキリスト教的罪悪感とは無関係。二十世紀西欧の感覚主義(プルースト)は、A嬢のものでもあり、それは自ずとわが王朝の性哲学と一致する。その一致、王朝+西欧が、"私"+A嬢と、並行関係にある。

4.『夏』の主題(作者自身のコメントを中心として)
 人生の中年の、とくに愛欲の問題を集中して描きました。
 この作品は、妻がある日突然、わけもなく自殺のように死んでしまい、その結果、激しい精神的衝撃によって性的にも能力を失った主人公「私」の魂と肉の蘇りの物語として書いたものです。(1-2)
 『夏』のなかでA嬢はこのsensibilite(感性)という言葉を口にし、そしてそれは一方で芸術の享受や創造を支えるだけでなく、他方、肉体的快楽の積極的開発をも意味している。この言葉のなかで、"愛"と"性"とは、ひとつの官能の悦びに融け合うのである。この"官能"を人生の中心に据え、そこから生命が湧き出てくる、という自覚は、中年の主人公にとって、もう一度、自分の内部の感覚のみずみずしさの回復であり、しかも経験に乏しい青年時代の感受性よりも更に芳醇さを湛えたものであった。(1-5)
A嬢との liaison(縁) の進展の段階的変化(1-5)
第1段階:友情(最初の出会いの記憶の突然の回復、懐かしさ、これが愛の地肌
第2段階:誘惑(恋愛心理遊戯)
第3段階:肉欲(成人の愛の特徴、快楽→感性、神経症からの回復、生命感)
第4段階:恋愛(真の愛情、相手の人格の理解)
第5段階:形而上学(愛の本質、全体性の回復:神経症からの治癒、一方で絶えざる死との闘い)
 もともとA嬢のエピソードは、それだけで単独の小説にするつもりだったのを四部作に組み込むことになった、とも創作ノートに書いている。

5.『夏』の評価
5.1 谷崎潤一郎賞選者評より抜粋(委員の全一致により選出された)(2-1)
円地文子:中年男の喪失した性を取り戻すまでの経緯が、中村氏一流のフランス文学と日本古典の教養を生かして描かれている。 
遠藤周作:この作品が氏の長い連作のなかで最も優れている作品であり、しかも氏がその初期から追求してきた小説方法が着実に具顕しているためである。
大江健三郎:中村氏は戦後文学者たちのなかでも特異な個性を、その主題と方法にくっきり示してきた作家である。
大岡昇平:学識豊かな氏の知悉するプルースト風の記憶の粘着性と、ネルヴァルの狂った奔逸が一体となって、多彩な日本的な「語り」が創造された奇蹟に脱帽したのであった。 
丹羽文雄:私のこれまでの中村真一郎観が一変した。作中の「にいまくら」の章を読んで、伊藤整の晩年の変貌に大きな感動を覚えたのと同様の感動をおぼえた。 
丸谷才一:この長編小説の主題は、恋愛小説といふものが妙に書きにくくなった現代において、観念小説性と風俗小説性との両面から男女の仲に挑み、もういちど恋愛小説を小説形式の中心部に位置づけようとすることだらう。恐ろしいくらゐ勇敢な試みだし、まことにこの作家にふさはしい正当な野心である。そして彼の企てはかなり成功に近づいてゐるとわたしは見た。
吉行淳之介:現代において恋愛小説というものの成立するほとんど唯一の道が、第7章以降のなかで観念操作によって捉えられていた。
5.2 その他の論評(抜粋)
1)快楽の形而上学-中村真一郎<夏> 菅野昭正(2-2)
・現在と過去という二つの層をつらぬいて、深い竪穴のように掘りひろげられてゆくこの内面の世界の縦軸となっているのは、いうまでもなく性の感覚、性の意識である。開幕の「カフカ的世界」の夜から閉幕の昔の仲間との会合の日まで、ほぼ十日間に及ぶこの小説時間の枠のなかでは<私>の意識の動きはたえず性を指向し、<私>の内面には性が氾濫する。(中略)<私>の性の遍歴について特筆しておかなければならないのは、それが<私>の内面の変容とひとつに溶けあっている、ということである。(中略) この汎性的な世界は性の領分に根をおろしながら、同時に生の本質とも通じ合っているし、<私>は神経症の治癒のために性の領分を歩きまわる遍歴者としての表情よりも、性の快楽、愛の喜びのなかに生の本質を探る探求者としての表情をしだいに深めてゆくのである。A譲との愛の深まりの物語が、『夏』というこの性と愛の物語の中核をかたちづくっているのは、そこでは愛の本質の探究と生の本質の探究がひときわ緊密に溶けあっているからである。
・宇宙の生命と交感する形而上的な意識と感覚は、中村氏が既に何度も向かいあってきた主題だが、この小説では、それは性と愛に結びつけられて、これまでよりも遠くまで奥行をひろげている。
2)新しい神秘家-中村真一郎「夏」を読む 清水徹(2-3)
・重要なのは、テレパシー、転生、宇宙との和合といった神秘主義的命題が、この『夏』では『とわずがたり』などの<源氏亜流物語群>を媒介とする性愛の哲学と合体させられていることである。つまり一方では<源氏亜流物語群>の頽廃した官能のよろこびと、老年に近づいた「私」をときおり浸す死の影とが、ともに自己溶解による個体の超出である点で一致するという確認があり、他方には性愛は倫理とは無関係な官能のよろこびをとおして「自由の精神的空間」へと脱出する方途だという認識がある。このとき中村真一郎の性愛の形而上学は、いわば神なき新しい神秘主義という姿を見せるであろう。
3)『夏』を読む 石崎等(2-7)
・作品構成の特徴は、話者がたびたび語っているように、<意識の重層姓>――入れ子型の重層化された記憶が、連鎖反応式に解きほぐされ読者の前に開示されるというわけである。その意味では、プルーストの『失われた時を求めて』と同様<回想の文学>なのである。
・プルーストの社会性は『夏』にはない。作者は生活的な日常性を極力排除してしまっている。ストーリーの展開からいったら、A嬢以外の女性との情事は、性や恋愛感情の虚妄性を強調することにあり、そうであるからこそ一層、A嬢と「私」との<宿命>的な出会いと性愛の絶対化がなされるというわけだ。

6.個人的作品評・感想
・作品評としては、上記の菅野氏と清水徹氏の評に全面的に共感した。
・これまでの中村さんの「二十世紀前衛文学」と「王朝文学」へ寄せる熱い思いが結実した充実作だろう。
・初老の「私」が神経症治癒のために臨んだ”地獄めぐり(「黒い部屋」での体験)”を経て宿命的に”永遠の女性(A嬢)”と邂逅し、愛の成就により神経症からの回復を果たすという大筋のストーリー展開は明快で心に残った。
・読み通すのに苦痛だった個所があった。多層的構造、日本庭園のような回遊的構成による意図した複雑さにより読者の参加を要請していることは理解できるし、面白いと言えるが、「黒い部屋」の女性たちとの交渉の叙述が冗長に過ぎると感じた。
・テキストに加えて、さらに『小説構想への試み』の「創作ノート」と「自注」を対比しながら読むことで、作品の意図・成立過程・構造を垣間見ることができ、とても興味深かった。”あとがき”に書かれているように、テキストとの並読で、テキストだけの読みよりも深い読書体験ができた。とくに自注が、小説中の( )内の「私」の叙述と同様に、新たな視点で創作ノートを眺めている著者の存在がとても興味深かった。

Haさん:中村真一郎『夏』について
1.中村眞一郎(1918-1997)の四季四部作 刊行年
①第一部:四季(春)1975年 ②第二部:夏 1978年 ③第三部:秋 1981年 ④第四部:冬 1984年
 いずれも新潮社の純文学書下ろし特別作品として初めて刊行された。第一部の『四季』は1992年に『中村眞一郎小説集成』としてまとめられた際に、『春』と改題された。以下では四季第一部を『春』と表記する。
 また上記四部作の創作ノートが書肆風の薔薇社から刊行されている。『四季』(『春』)と『夏』の創作ノートは『小説構想の試み』『春』、『夏』篇 1982年(以後「創作ノート」と略す)に収録されている。

2.『春』と『夏』
 付表1に『春』各章の登場人物と内容を、付表2に『夏』各章の登場人物と内容を示す(付表1、付表2は省略)。
 小説と創作ノートを読むと二つの小説は登場人物と主人公について以下のように要約できる。
(2-1)視点人物
 『春』のすべての章の視点人物は私(語り手)。
 『夏』のすべての章の視点人物は私(語り手;『春』の私と同一人物)。
(2-2)『春』から『夏』への連続(創作ノート80頁)
・『春』は35年前の記憶(1940年)、『夏』は15年前の記憶(1960年)(創作ノート81頁)
・『春』と『夏』は同じ時期で、『夏』は『春』の終りの日から10日間の出来事。すなわち、私が『春』でKとの信州への1週間の小旅行から帰って来た日の翌日が、『夏』の羽田空港の場面につながる。また『春』と『夏』の現在は1970年代はじめ(1970年~1975年)と考えると辻褄が合う。
(2-3)主な登場人物と主人公
・『春』の主な登場人物は私とKで、主人公は私、Kは案内者。
・『夏』の主な登場人物は私、A嬢、S、P伯爵夫人で、主人公は私とA嬢、P伯爵夫人は副主人公、Sは案内者で『春』のKと同じ役割を果たす。
・秋野さんのお嬢さん(『春』) = ローズ・マリー(『春』) = P伯爵夫人(『夏』)
・主要人物が登場する年代は以下のようになる。

3.『夏』
(3-1)技法
・会話と反省的地の文との連続(創作ノート73頁)
・ある事件の進行の途中に( )で、後の時点での主人公によるその事件の別の解釈を挿入する(創作ノート109頁)。
・『源氏物語』や『失われた時を求めて』(プルースト)のように、息の長い文章が多用されている。
・第九章の「形而上的独語」では、漢字表記を極端に減らした平仮名主体の文章が用いられている。
(3-2)主題
・死、感性(美と性)(創作ノート82頁、84頁、85頁)
・以下の福永の『夏』についての評は、この作品を短い文章で極めて的確に要約している。
 「この作品は、神経症の治療のためといふ大義名分のもとに、主人公が遍歴する女たちのエロスと、永遠の女性であるA嬢に於ける形而上学的にまで高まつた愛とを、日本式回遊庭園をそぞろ散歩するやうに、「意識の多層性」に応じて回想の中に明滅させたものである。といふより、彼女たちをまづ現象学的に考察し、次いで解剖学的に分析して、愛とエロスとを比較研究した独創的な小説である。想像力の葉叢を茂らせた中村眞一郎の生命の樹が、プルーストと源氏物語とを両極とする読書体験に営養を得て、今や滋味あふるる果実を産み出したとでも言へるだらうか。」(中村眞一郎『夏』新潮社の箱裏の福永武彦氏評の全文)
→ これを読むと福永武彦のこの小説の読解力が非常に高いことが分かる。内部に強力な批評家を持つ人が自ら優れた小説を生み出すことが出来るのは当然かもしれない。
(3-3)『夏』についての感想
・創作ノートがなければ『夏』は小説の筋を追うだけでも大変である。創作ノートにある小説構成の記述を読まないでこの小説を理解するのは非常に骨が折れる。
・私とA嬢との関係の五段階(友情(潜伏)期、誘惑期、肉欲期、恋愛(精神)期、形而上学期)(創作ノート89頁、90頁)が小説の主な筋を形成しているという創作ノートの情報は、小説を読み進めていく上で理解の助けになり重要である。

【資料】『夏』献呈先からの中村真一郎宛はがき(Miさん提供)
 画像クリックで、拡大画像にリンク



第194回例会
日時:2022年7月24日(日)13時~17時10分
場所:リモート(LINEミーティング)開催

【例会内容】
1.初出版「心の中を流れる河」(群像 1956.12)
 KiさんとHaさんより、各々作成のプリントを用いつつ、「心の中を流れる河」を中心に、その創作ノート、「夢と現実」創作ノート、そして『夢の輪』との比較対照と継承発展などに関して興味深い発表がありました。その後、質疑応答により新たな論点の提出と検討がありました。
2.「資料を愉しむ14」小冊子(三坂作成 電子版)を配付し、簡単に解説しつつ愉しみました。収録は「心の中を流れる河」と「夢と現実」の創作ノート画像、初出雑誌の表紙・目次と冒頭ページ画像、石川淳と駒井哲郎宛初刊署名本や識語入本画像計5冊、そして「ブール学院同窓会会員名簿」画像などです。

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
Kiさん:「心の中を流れる河」についてのメモ
1.感想
 寂代(さびしろ)、弥果(いやはて)と名づけられた地名、太郎が寂代について梢に語る否定的な思い(梢に「随分くそみそね」と笑われる)や、寂代河の半分凍った水の流れに象徴させている主人公、梢の孤独の内面は、帯広にいたときの福永の心情と通底するものであったように思われる。
 「草の花」(1953)、「独身者」(1944)で既成教会に対する強い批判と原始教会への共感が主要登場人物により語られていたが、この作品においても梢が義兄の門間牧師に対し、彼の信仰について辛らつな批判をしているのが興味深い。
 構成、内容共に充実している小説で、後に長篇「夢の輪」に発展させた福永の心境が理解できる。

2.作品(初出:「群像」1956年12月号)に対する作者の言及
1)「心の中を流れる河」新版後記より(1969年7月)
 私が(再版に)気の進まなかった原因の一つは、この中に含まれている中篇「 心の中を流れる河」を、出来ることなら目録から削り取ってしまいたいと思っていたからである。というのはこの作品に自信がないという意味ではない。この中篇の素材をもう一度解きほぐして、私は「夢の輪」という長篇を構想し、既にその第一部は昭和35年から36年にかけて或る雑誌に連載した。最初に中篇として書いたものとは、筋も主題もやや違うもので、ただ主要な登場人物が重なり合っている。そして私は長篇の第二部以下をこの後書き継ぐつもりだから、最初の中篇を人目に曝さない方が、作者の手の内が見すかされないで済むだろうというふうに考えた。
2)菅野昭正氏との対談「国文学」1972年11月号
福永:「河」では一種の、此岸と彼岸ですか、こちら側と向こう岸ですね。要するに、向こう側は「夢の世界」、「マラルメ」的な「夢」ですね。そういう意味では、河は此岸と彼岸とを暗示するもので、「流れてゆくもの」という感じじゃないと思うのです。「心の中を流れる河」では、そうじゃなくて「流れてゆくもの」としての河で、それはつまり、「心」というものが流動するものであるという意味で、人間の内面を一種の河にたとえたわけでしょ。「忘却の河」もそうだと思うのです。

3.「夢の輪」(初出:「群像婦人之友」1960年10月号より13回連載、序章:1963年5月号)との連関
 関連する主要登場人物のプロフィールを以下にまとめた。

(主要な相違点)
・どちらの小説でも主人公である梢は夫・信治への愛が失せ、現在は誰も愛していない。
「心の中を流れる河」では、「ひとりで、じっと自分の心の中を見詰めているだけ」という梢の孤独な内面を描いている。一方「夢の輪」では信治の同僚として、かつて梢が愛し、戦死したと思われていた志波を登場させ、二人の再会と、その愛の行方(「夢の輪」で新登場の信治の姉、鶴子と梢の妹、含も絡む展開か)を主テーマとした群像ドラマを志向しているようだ。

4.帯広関連年譜(三坂氏作成の年譜より抜き書き)
 2つの作品はいずれも帯広での体験なしには生まれなかったことから、帯広に関連する年譜をまとめた。
・1945年4月(27歳):日本放送協会を休職し、妻の実家の帯広に移住
・5月~7月:帯広療養所に入所、9月:単身上京、12月:日本放送協会に復職
・1946年5月(28歳):帯広中学校嘱託教員となる。
・1947年6月(29歳):肺結核再発し、帯広療養所に再入所、7月退所:澄子との精神的葛藤
・10月:胸郭整形手術を受けるため上京、11月:清瀬村東京療養所に入所 12月:胸郭整形手術
・1950年12月(32歳):妻澄子と協議離婚
・1953年4月(35歳):東京療養所退所
*この時期の福永の動向・心情については「福永武彦戦後日記」で知ることができる。
①1945年9/1~12/31 ②1946年1/3~6/9 ③1947年6/18~7/31

Iさん:感想
 昨日も楽しかったです。ありがとうございました。
 福永が推敲をし続ける作家であることを例会で学べたからこそ、電子本の醍醐味をしっかり味わえる愉しさを知りました。
 「心の中を流れる河」の最後の梢の台詞を読んで、私は、そうかな、彼女は逆にそういう強さを義兄からされると、それはそれで抵抗するだろうにと思っていました。
 「夢の輪・序論」の題名に関して知れてよかったです。自分で踏み出せない、後ろから誰かに押してもらいたい(『愛の試み』の挿話「細い肩」の女性を思い出してしまいました)。
 例会後「創作ノート・翻刻」をあらためて読み、「夢の輪」を読み直しました。
 今後ともよろしくお願いします

Miさん:感想と意見
1.Haさん発表を聴いて。
 「心の中を流れる河」の構成、主題を明らかにし、創作ノートとの違い、「夢と現実」創作ノートとの関連を資料に拠りつつ確認し、更に他作品との関連を人物一覧表として検討し(その骨格を示し)、福永作品の継続性とその展開を見通そうとした内容のある発表であった。
 その中で用いられた、「心の中を流れる河」と「夢と現実」(電子全集第4巻「附録」に画像が既収)の翻刻は有用な資料となる。論文に引用することも(画像で点検できるので)可能である。
 この種の翻刻をHaさんはほぼ毎回自ら行なっている。これを研究として当然と言うか? 然り、その通り。しかし、現実にそれを実行することはた易いことではない。
*この点、2年前に刊行された『福永武彦創作ノート』収録の各種創作ノートの翻刻の多くは、画像で容易には点検出来ないので論文に引用するには躊躇する(新潮社刊行の2冊の日記でも原則同様であるが、私自身関わってみて同社の校閲は信頼出来るので、心安く引用出来る)。さまざま翻刻をしてみて、完璧な翻刻は至難であることを実感しているので、あえて言っておきたい(具体例を挙げて公に説明してもよい)。
 創作ノートや日記など、私的な利用を前提に書かれた文章の公開は、大変な手間をかけずとも点検できるよう原則画像+翻刻とすべきだろう。この画像+翻刻では、例えば『新校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房)が良い先例としてある。
 画像か翻刻のどちらか一方とするなら、画像だけの方が望ましい(電子全集では、創作ノート画像を多数収録した)。上記『福永武彦創作ノート』収録の『藝術の慰め』創作ノート画像は、その点有用である。
 また、Haさんの作成する附録の表は何気なく作られているようで、どれも細かい工夫が凝らされている。

2.Kiさん発表を聴いて。
 Kiさんの発表は、いつものことだが明晰でよくわかる。そして<福永武彦作品を愉しんでいる>ということが伝わって来るものである。良い意味で、あくまで愛読者の視点を忘れていない。豊かな読書体験が、「感想」や全体の資料の選択などにもよく示されている。
 加えて、今回の「心の中を流れる河」と「夢の輪」の登場人物ごとにその概要を明記した一覧は有用なもので、この作品に関する諸家の発言の纏め方も上手い。
 ただ、ひとつ気になった点がある。「心の中を流れる河」と「夢の輪」の上記した対照表に、各々1956、1960~1963と記してあり、創作年としてそれは正しいのだが、これだと初出雑誌をもとに作成した一覧だと判断される。しかし、おそらくこの一覧を作る際の底本は初出雑誌ではなく、決定版たる全集或いは初刊本ではなかろうかという点である。
 つまり、初出雑誌本文と決定版本文には、「心の中を流れる河」の場合、170箇所以上の(大小含めて。新旧字体の違いは除いて)本文異同があるという点を考慮していないという点が気になった。人物ごとの概要を記す一覧なので、本文の一字一句に拘る必要はないにしろ、やはり<この一覧作成のための底本としたのは全集版(或いは初刊版)である>旨を明記すべきだろうと思う。今回の一覧にはないが、もし本文引用をした場合、それが初出雑誌とは異なっている可能性もあるので、研究用として一覧を作成する場合は、やはり何版を元にしたのか底本を明確にしておくべきだろう。(もし初出雑誌を各々底本としていた場合は、以上の言葉は取り消します。)

3.自らの発表に関して。
 毎回反省するのだが、対面でなくリモートで音声のみだと参加者の顔つきが見えぬので、ついついひとりで余計なことまで喋り散らしてしまう。あげくの果ては携帯の電源が切れて尻切れトンボ。無様である。
 何をそんなに喋り散らしたか。要するに<これからは、初出本文から決定版本文への異同に眼を注いだ論文を読みたい>ということ、<必ずや本文研究に真摯に向き合う若き研究者が出てくるだろう、それを願いたい>ということである。

(以下、HPブログに既に掲載した一文に手入れした=一般に公開)
「心の中を流れる河」の本文対照をしてみると、初出→初刊で59箇所、初刊→決定版(全小説)で117箇所の異同がある。
しかし、発表者のプリントを見ても、発言を聞いても、そして既出論文を見ても、その本文異同がまったく無視されている。
 1974年に刊行された決定版(=福永武彦全小説)だけを元にして論じているのに、なぜか1956年に刊行した初出本文を論じている気になり、そこから発展した未完の長篇「夢の輪」との関係やら、実現しなかった長篇「夢と現実」との関係やらを論じ(ようとし)、1956年の福永の年譜的事項を参照したりする。(今回の発表のことだけを言っているのではない。既出論文すべてに向けて言っている。)
 しかし、論者が底本としているのは、あくまで「1974年刊行の本文」についてであることがまったく無視されている。もちろん、一般的に論文内に底本は明記されている。されてはいるが、初出とは170箇所も異なる「心の中を流れる河」本文を論じているという自覚がなく、1974年の本文をもって、1960年~1963年に執筆された「夢の輪」へと発展継承したとか(しないとか)、「心の中を流れる河」が「夢の輪」に先行する作品として論じているのはおかしいだろう、ということに気付いていない。
 要するに、作品の決定版と初出本文とに大きな違いはないという事実に反する憶測の元に、安直に論を立てているからこういうおかしなことになる。
 福永武彦の小説は、加田伶太郎作品を除いて象徴主義小説である。推理小説や一般の物語とは、一語一語の果たす役割が違う(HP電子全集概要を参照されたい)。重い。作品の構成や主題や継承発展、亦その楽屋裏などを探っている今の研究に於いても、一語一語の果たしている役割を、その一語の書き換え跡をキチンと見据えるように根本的な改革が求められていると私は30年以前より主張している。
論を立てる前に、自ら初出本文から決定版本文までの生成変化を検討することが不可欠である。
 「心の中を流れる河」と比較対照される長篇『夢の輪』にしろ、福永生前には刊行されていないことも留意点だ。初刊限定本本文には疑問点がある。編者源高根氏は「発表誌の切り抜きによって集成し」と記しているのに、対照してみると初出雑誌「婦人之友」本文と初刊限定本には異同があることに気付く。この理由は、福永の初出誌への手入れを初刊本で取り入れているからである。しかし、源氏はそのことには一切触れていない。
 たまたま「序章」のみは、福永の手入れした雑誌を私は手にすることができたので、その手入れが初刊本文に生かされていることがわかった。それとの類推で言うと、初刊限定本『夢の輪』本文全体の「婦人之友」連載稿との異同箇所は、おそらく、福永の手入れを生かしたのだろう。しかし、確認は出来ていない。福永の手入れ雑誌が行方不明だからだ。どこかにある筈で、まずはそれを確認する必要がある。
 繰り返すが、初刊本刊行の際、雑誌文への福永の手入れを生かした事実を、源氏は書いていない。書いていない以上、初出本文との異同箇所が福永の手に拠るものと確定できず、その初刊本の本文には信頼が置けない。だから、電子全集では、本文は序章を除いて初出雑誌を底本とした。
 更に問題なのは、初刊本で「序章」とされている「或る愛」の初出雑誌「自由」(1963.5)を確認すると、題には「序章」とはどこにも記されていない。(『夢の輪』に関わる論を立てた者で、この事実を知らぬ者は皆無と信じたいが、誰もこの点を問題としていないのは何故なのか)「或る愛」とあるだけである(この点に関しては、例会でのKiさんの質問により、改めて確認することが出来た)。
 誰がこの「或る愛」の章を、初刊本で序章と位置付けたのか? たとえ創作ノートにそうあった場合でも、例えば「死の島」のように、雑誌初出と初刊本では節ごと入れ替えている作品もあり、創作ノートにあるからと言って、そのまま本にすれば済む問題ではない。源氏はその点もまったく言及しない。
このように問題が種々あるにも関わらず、『夢の輪』論者は、本文に無自覚のまま論を立てている。

 ほかの作品、例えば『獨身者』を例にしてもよい。
 1975年に刊行されたこの未完の長篇を論じる際に、福永自身が1944年に書いたこの本文に手入れをしていることを公言しているにも関わらず、なぜか「1944年に書かれた本文」とみなして、『幼年』の原型をそこに見出して、その生成や発展を論じたり、キリスト教への深い関心を見てしまう。仮に1944年に書かれていたことの大要は変わらぬとしても、しかし、論点に関わる文章が当時書かれていたことを確認したのか? 確認していなければ、注目する一文、一節が後から手入れ、増補されたものだという可能性が残る。たぶん大略同じだろう、という勝手な憶測で論を拵えていないか?
 だから私は言うのだ、上記の点に無自覚な論文は研究の名に値しないと。せいぜいが<仮>論に過ぎないと(この言は過激だろうか?)各種資料を自身で探索しなさい、同時に本文変遷にしっかり眼を向けなさいと。
 20代、30代の若き福永研究者、愛読者諸氏よ、どうぞ福永作品を固定して捉えず、本文には様々な揺れを含みこんでいるものとして、各版をじっくり読んでみてください。
 決定版本文だけを特権的に重視するのでなく、それで福永をわかった気になるのではなく、各版をまずは味わってください。できたら自ら本文対照という手間のかかる作業をしてみてください。研究はそこから始まります。
 「本物に対しては本物のつきあひ、つまり一字一句をも疎かにしない讀みかたが必用である」「ゆつくり讀むとは、作者がさういふ讀みかたを讀者に強制してゐるといふ意味である」「私はただ、曰く言ひ難しは詩の世界に限らない、小説の中にもさういふ部分は沢山あるから、讀者よどうか見落さないやうにゆつくりとお讀みなさい、と言ひたかつたまでである」(「曰く言ひ難し」)

初刊本『心の中を流れる河』書誌
・印刷者 田中末吉・46判・紙装・茶色函・菅野陽装画・製本 未記載 旧字・旧かな
・初刷 東京創元社 1958・2 300円
・2刷 同社 1958・4 同
・3刷 同社 1958・10 同
*刷数は、現時点(2022.7)で確認しているもの。
*古書価は、初刷で3300円~13200円。
2刷、3刷は1000円~2000円。
*署名本が古書市場に出ることは稀になっている。

Haさん:「心の中を流れる河」について
1.「心の中を流れる河」の初出、初刊版、決定版
① 初出:「群像」1956年12月号
② 初刊版:『心の中を流れる河』1958年2月刊、東京創元社に所収
③ 決定版:『福永武彦全小説第4巻』1974年2月刊、新潮社に所収

2.「心の中を流れる河」について
(2-1) 各断章の視点人物と内容
「心の中を流れる河」の各断章の視点人物と内容を表1に示す。

(2-2)主題
・太郎と梢の愛に対する憧れ
・ペテロの否認の理由(ヨハネによる福音書)
・橋の上での梢と門間良作の対決がクライマックス。
(2-3)「心の中を流れる河」創作ノート
「心の中を流れる河」創作ノート(電子全集第4巻に所収)の翻刻を別紙1(省略)に示す。
 ・「心の中を流れる河」が「夢と現実」の一部であると記されていることは注目に値する。
(2-3-1)創作ノートと完成した作品との比較
 ・創作ノートと完成した作品とはほぼ同じ内容である。
 ・ただし、創作ノートに登場人物として取り上げられている羽太謙吉と志波英太郎は作品には出てこない。
 ・また、梶田信治が門間良作を訪問することと太郎が病院に信治を訪問することは作品に出てこない。

3.「夢と現実」創作ノート
 「夢と現実」創作ノート(電子全集第4巻に所収)の翻刻を別紙2(省略)に示す。
 また、「夢と現実」関連の小説の主な登場人物の比較を付表1(省略)に示す。なお、付表1の作成に際し、電子全集第4巻所収の「夢の輪」創作ノート翻刻を参照した。
(3-1)『草の花』の主人公の汐見茂思が「夢と現実」の序章、7章、14章で登場人物(おそらく視点人物)として取り上げられていることは非常に興味深い。また後の『忘却の河』で用いられた、章毎に視点人物を変えていく手法を取ろうとしていたことが想像される。「夢と現実」が『草の花』、「心の中を流れる河」、「夢の輪」に枝分かれしてして行ったと思われる。
・「夢と現実」の構想中に登場人物のひとりの汐見茂思が独立して『草の花』の主人公に発展した。
・「夢と現実」の構想中に登場人物の沢村(梶田)梢と青木一郎(=鳥海太郎)に門間良作を加えた3人を主要な登場人物として
「心の中を流れる河」が書かれた。
・その後、梢と鳥海太郎を主人公として『夢の輪』の第一部が書かれた。

(3-2)福永武彦の長篇小説と関連作品の執筆・初出時期一覧を付表2(省略)に示す。
『風土』が1951年6月に完成し(電子全集第2巻解題)、直後の1951年7月に「夢と現実」創作ノートが書かれた。この時点で「夢と現実」は汐見茂思、志波英太郎、梢、青木一郎(鳥海太郎)の4人を主人公とする小説として構想されていたと思われる。  

4.補足
(4-1) 心の中を流れる河」の時代設定
例会時にKiさんより「心の中を流れる河」の時代はいつに設定されたものだろうかという疑問が提出された。これについては北海道文学館叢書の『福永武彦創作ノート』の「夢の輪」ノートに、梢が昭和21年に信治と結婚し、物語の現在が昭和23年であるとの記述がある(同書150頁及び156頁)。「心の中を流れる河」の創作ノートの記述ではないが、「心の中を流れる河」と「夢の輪」とは時代設定は同じと考えられる。
(4-2)「夢と現実」ノート
今回取り上げた1951年7月執筆の「夢と現実」創作ノート以外に「夢と現実」の創作ノートはなかったのかという疑問が例会時にMiさんより提出された。
これについては、上記の『福永武彦創作ノート』の「夢の輪」ノートに以下の記述がある。
「夢の輪」創作ノート(1)Le Rêve et la Réalité (146-147頁) [「1949年日記」に挟まれていた更紙]
「夢の輪」創作ノート(13)ch.3:梶田 梢 --- その過去
  夢と現実のノオト(déc.50)をみよ。(163頁)
夢と現実のノオト(déc.50)は「夢の輪」創作ノート(1)Le Rêve et la Realitéである可能性が高いと思われる。

【当日使用した資料】
①「心の中を流れる河」についてのメモ A4 5頁
②「心の中を流れる河」についてのメモ A4 2頁
 ・「心の中を流れる河」創作ノート翻刻 B4 1頁
 ・「夢と現実」創作ノート翻刻 B4 1頁
 ・付表1「夢と現実」関連の小説の主な登場人物 A4 1頁
 ・付表2 福永武彦の長篇小説と関連作品の執筆・初出時期一覧 A4 1頁
③小冊子「資料で愉しむ福永武彦14」電子版 A5 18頁
資料提供:①Ki、②Ha、③Mi


第193回例会
日時:2022年5月22日(日)14時50分~17時20分
場所:リモート開催

【例会内容】今回もリモート開催となりました。
1.『第6随筆集 秋風日記』(新潮社 1978.10)
 KiさんとHaさんより、各々作成のプリントを参照しつつ、好みの随筆についての意見と感想、或は書誌事項の発表がありました。その後、質疑応答、また参加者各人の注目する随筆について意見交換をしました。
2.「資料を愉しむ13」小冊子(Miさん作成 電子版)を配付し、『秋風日記』書誌を確認した後、櫻井群晃宛献呈署名本、『秋風日記』校正刷り、萩原朔太郎詩集『氷島』初刷/再刷、『宿命』神保光太郎宛ペン「著者」入本、『定本 室生犀星詩集』東文彦宛署名入本、篠田一士宛中野重治自筆はがき他を画像で愉しみました。

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)

Haさん:『秋風日記』について
1.福永武彦(1918-1979)の随筆集
(1-1)発行年(初出年)
①『別れの歌』1969年(1949-1969)  ②『遠くのこだま』1970年(1951-1970) ③『枕頭の書』1971年(1954-1971) ④『夢のように』1974年(1968-1974)  ⑤『書物の心』1975年(1947-1974) ⑥『秋風日記』1978年(1971-1978)
(1-2) 各随筆集の内容
①『別れの歌』:回想と追憶に関する随筆及び信濃追分だより
②『遠く』のこだま』:日常茶飯及び旅行と芸術作品の印象に関する随筆
③『枕頭の書』:書物に関係のある随筆
④『夢のように』:②の続編
⑤『書物の心』:③の続編(文学関係の随筆)及び推薦文と書評
⑥『秋風日記』:1971年以降の随筆/エッセイ

2.『秋風日記』
(2-1) 内容
主として文学関係の随筆/エッセイと内容見本文
(2-2) 語り手の表記
(2-2-1)語り手の表記として《僕》と《私》のいずれの表記が使われているかによって、福永武彦の主な著作を以下の3種類に分類することが出来た(林雅治:福永武彦著作の《僕》と《私》について、福永武彦研究 第十五号 2020)。第Ⅰ期《僕》の時代(1936年~1954年に発表)、第Ⅱ期《僕》と《私》の併用時代(1955年~1961年に発表)、第Ⅲ期《私》の時代(1962年~1979年に発表)。ただしエッセイ集の『福永武彦作品 批評B』では《僕》と《私》の併用時代が存在せず、第Ⅰ期が1961年発表の作品まで継続した。
(2-2-2)
『秋風日記』の作品は全て1971年以降に発表された著作で第Ⅲ期に属し、語り手として《私》が使われている(ただし、「人称代名詞」、「中島敦の星」、「高橋元吉の泉」、「丸山薫の風景」、「寿岳文章の「神曲」」では語り手の表記はなし)。

3.『秋風日記』の中で印象に残った作品
〇「獨身者」後記 ―― 1975年6月初出
「「獨身者」の主題は、「日記」によれば、「一九四〇年前後の青年達を鳥瞰的に描いて愛と死と運命とを歌ふ筈」だつたし、そのために十人以上の人物が相互に絡み合つて複雑な絵模様を見せることになつてゐた。「日記」の中には彼等がどういふ運命を辿るのか、すべて豫測してある。そして私には、小説といふものはかうした綿密なプランに則つて書くべきものだといふ先入観があつた。私はアンドレ・ジイド──特にその「贋金つくり」──とオールダス・ハクスリィ──特にその「対位法」──の影響を受けてゐたやうである。そのことが、かへつて小説を書きづらくしてゐたことを、私は後に知つた。しかし当時私に必要だつたものは、この長篇小説の全体的構想、神の視点からする隅々までの透視だつたに違ひない。戦争が苛烈になり、いつ兵隊に取られるか、またその結果としていつ死ぬか分らないやうな青年にとつて、すべての人物を自己の分身として生き抜くことが、短い人生を永遠に生かすための唯一の方法といふふうに思はれた筈である。」
→ 中村真一郎の『四季』のテーマと共通すると思われる。
「戦争が苛烈になり、・・・・・・唯一の方法といふふうに思はれた筈である。」という言葉には、当時の福永の切実な思いが感じられる。
〇曰く言ひ難し―― 1976年2月初出
「私の考へでは文学といふものはゆつくりと味はふべきもので、どんなに忙しくても一語づつ辿り、めつたに飛ばし讀みなんかをしてはいけない。速讀術と称して斜めに讀むことがはやつてゐるが、これは相手がまがひ物の場合に限るので、本物に対しては本物のつきあひ、つまり一字一句をも疎かにしない讀みかたが必要である。(中略) 私はただ、曰く言ひ難しは詩の世界に限らない、小説の中にもさういふ部分は沢山あるから、讀者よどうか見落さないやうにゆつくりとお讀みなさい、と言ひたかつたまでである。」
→ 小説を熟読することの大切さを強調している。福永は自分の小説も熟読されることを望んだ。
〇私にとつての堀辰雄 ―― 1977年7月初出
「しかし私の場合に、堀辰雄の影響を進んで受け入れた点が幾つかあり、私はそれによつて自分が堀辰雄の弟子の一人とみなされることを容認する。(中略) 共感した点を大ざつぱに、箇条書ふうに書きとめておかう。(中略)
一、堀辰雄の文学的立場が、出発に当つて、フランス現代文学の影響の下にあつたために、彼はハイカラだとして後々まで貶められた。既に昭和五年頃に、「小説を書くには」「もつと複雑な精神作用が、百パアセントの虚構が必要だ。」と書き、「小説に特有でないあらゆる要素を、小説から取除く。」といふジイドの純粋小説の理論を紹介してゐる。昭和五年は一九三〇年で、ジイドの「贋金つくり」は一九二五年の出版だから、その摂取のしかたは実に早い。しかし大事なことはその機敏さではなく、このやうな方法論を彼が一生貫き通した点である。
一、堀辰雄の眼は、先程も述べたやうに外界の見えないものが見えて来るやうに馴致された眼である。それは当然内面にも及ぶ。自己と他者との別なく、その見えない部分に或る種の照明を当てて浮び上らせようとする。その照明は人工的、技巧的であり、死者の眼と呼んでもいいやうなところがある。早くも「聖家族」に於て、死んだ九鬼の眼はこの小説の世界をあまねく支配してゐる。「風立ちぬ」に於て、女主人公は死ぬ以前から死者の眼で周囲を見詰め、その眼は同時に主人公の眼と重なる。私が堀の小説の特徴として認め、そこから学ばうと思つたのはかういふ点である。
一、堀の持つ視点が形而上的に死者の眼によるものとすれば、日常的にはそれは病者の眼であつたと言へる。病者である以上は健康な人間とは違つた生活の價値観といふものがあり、幸福があり、夢想がある。(後略)
一、従つて人生が藝術に優先する。堀はその文学的な道程で藝術のための藝術を早くから選んでゐたやうに見えるが、彼がその藝術のために人生を蔑ろにしたことはない。人生 は 常に 藝 術 よりも 尊い。(中略) 私もまた人生は常により重要であるといふ観点に立つて藝術を創る。
一、直接的な教訓として、私は堀辰雄からなるべく數すくない作品を、吟味し彫琢しつつ入念に書くことを学んだ。如何にして少しだけ書くか。また書いた作品に対して、如何にして責任を持つか。堀辰雄は病身だつたから作品が少いのではなく、書きたくないものは書かなかつたから少かつたのである。そして作品といふのは小説に限らず、エッセイも随筆も翻訳も、手紙にいたるまで、彼にとつてはすべて作品であつたやうに思はれる。その意味では堀辰雄は紛れもなく自己を律することの厳しい藝術家だつたし、青年の時期にさういふ藝術家と親しく交はることが出来たのは、私にとつて得がたい幸福だつたのだといふふうに、歿後二十四年の今にして考へるのである。」
→ 以上はすべて福永も実行したことだと考えられる。

Miさん:『第6随筆集 秋風日記』
 以前に例会報告文でも書き、電子全集「解題」にも既に記していることではあるのだが、以下のことをここで改めて簡単に指摘しておきたい。
 収録の「富本憲吉と木下杢太郎」の文末には「追記」が附され、「初出の校正時に『和泉屋染物店』を手に入れて文中に註を入れた」が、その後この随筆集を出すまでの間に『南蛮寺門前』も入手して現物を点検したところ、先に両著の表紙絵と函絵の作者に関して自ら推測したことが間違っていた旨をこの追記で述べている。
 この点、つまり一度発表した文章は、単行本が出る際に手入れをして内容を訂正してしまわずに、追記として読者に明示した上で訂正し、元の文章はそのままにしておくという姿勢に注目したい。このような訂正法は一般的とは言えないだろうが、福永の場合、他の著作でも見られる。
 例えば、第2随筆集『遠くのこだま』の「冬の夜のモツァルト」の文末を見られたい。K563の三重奏曲を「何となく聞き覚えがある」「こんな傑作を今まで知らなかったとは情けない」と思いつつも、本邦初発売と言う販売元の言葉を信じて推薦文を草したところ、その後、自らのレコード棚にまさにそのK563番を発見し、あわてて問い合わせたところ、ステレオ盤が初めてと言ったまでですと軽くいなされる。その初出文を単行本に収録する際に「我と我が恥を天下に曝した」と附記しつつ、本文は訂正せずにそのまま掲載している。自身の狼狽ぶりを記すことで随筆としての味わいが出ている。
 ただし、この方法は随筆集ばかりでなく、『異邦の薫り』も同様である。単行本で「重版追記」として、識者より指摘のあった初出文の間違いを、指摘された人物の名前をあげて訂正している(第4版まで)。この『異邦の薫り』は随筆ではなく(江戸以来の考証・校勘の手法を取り入れた)エッセイであるが、訂正するスタイルは随筆と同様である。
 つまり、文中に虚構の混じる(ことがある)随筆でも、また対象の特質を客観的に論じるエッセイでも、ともに初出文での端的な内容上の間違い箇所は単行本にする際に黙って訂正せず、文末に附記として明記している(勿論、文章の手入れや増補は別に行なっている)。
 これは「文士たる者は一度書いたことに対して責任を持たざるを得ない」(「冬の夜のモツァルト」)とするプロの書き手として、福永が選んだその責任の取り方と言える。更に、これもやはりプロとしての責任感だろうが、本文だけでなく、随筆集巻末の「掲載紙誌一覧」にまで細かな指示を出していることが、その校正刷を点検することで明白になる。一字一字に眼を通して訂正し抜けを指摘し、字数計算を行っている。
 福永にとって、一冊の随筆集は、装幀を含め巻頭から巻末に至るまですべて自身が責任を負って読者に提供する「ひとつの作品」であるという自覚に拠るものだろう。

 『秋風日記』巻末「掲載紙誌一覧」の校正刷(再校) 緑字が福永自筆
 この1冊分全体の校正刷は、10数年前あきつ書店より購入した品。別に『異邦の薫り』全体の校正刷、『死の島』の一部分の校正刷も出廻った。すべて、古書目録掲載品である。(画像クリックで拡大画像にリンク)

Kiさん:随筆集『秋風日記』について
1.収録された随筆、エッセイ
 死去のほぼ1年前の日付(1978.9.21)の後記によれば、過去5冊の随筆集では、多少とも同一傾向のものを集めて分類していたが、数年来の病気で随筆、エッセイの数が少なかったため、本書では主として1975年~1977年(実際には1971年から1978年)の文章をほぼ年代順に集めている。
 晩年(50代後半)の福永の関心がどのようであったかを知ることができて興味深い。もっと長生きして60歳以降の福永の心境を綴った随筆、エッセイを読みたかった。

2.とくに興味深かった随筆、エッセイ
・「獨身者」後記 ’75年5月
 「獨身者」限定版出版の経緯。福永は「まさかこれが陽の目を見ようとは予想しなかった。分別のある作家がこんなものを活字にするのを許すわけにはいかないとの気持ちに襲われた」と書いている。未発表作品の出版の動機のひとつとして、病気で新たな小説の執筆ができないもどかしさがあったのだろうか。
・「深夜の散歩」の頃 ’76年6月
 丸谷才一、中村真一郎と「エラリイ・クイーン・ミステリ・マガジン」に連載した「深夜の散歩」執筆の経緯。当時ミステリ-好きだったので、大いに参考にさせてもらった思い出深い本。
・直哉と鏡花 '74年12月
 志賀直哉と泉鏡花の個人全集の日記、書簡の対比に見る芸術観の違いについて。
 “志賀さんは人生そのものの中に藝術を生き、鏡花は藝術の中にのみ人生を見出したといふことになるだらうか“
・朔太郎派 ’75年7月、朔太郎の聲 ’75年2月
 “萩原朔太郎の詩の本質は一言で言うならば音楽だろう”
・「山海評判記」再讀 ’75年8月
 鏡花全集第24―26巻の月報。「秋風日記」の中では一番長い文章。福永の一番愛着の深く、寝食を忘れて読み耽ったという長篇「風流線」をいずれ読んでみたい。
・「氷島」一説 ’76年2月
福永が17歳の時から思い入れのある詩集であり、「氷島」は朔太郎の登りつめた絶頂であり衰弱であると認めたくないと述べている。
・「死都ブルージュ」を讀む ’76年11月
以前読んで感銘を受けた小説をこの機会に再読した。福永の”この小説の長所は心理にもなく筋書きにもない。ひとつの死んだ町が主役である”に改めて共感。
・露伴の宝庫 ’78年3月
 ”殆ど病中の憂さを露伴によって拂った”
 娘の幸田文さんは読んでいるけど露伴は未読なので福永が耽溺したと言うことで読んでみたい。
・伴奏音楽 ’76年6月
 原稿書きのBGM(クラシック)の一端を披露していて、福永晩年の音楽趣味が想像でき興味深い。挙げられている10点は、バッハ3、モーツアルト2、バロック、ショパン、ブルックナー、マーラー、ドビュッシーが1点ずつとなっている。

【当日配付資料】
①2021年度会計報告書 A4片面 1枚
②HPアクセス者数の推移(2010~2022) A4片面 1枚
③『秋風日記』についてのメモ A4片面 2枚
④随筆集『秋風日記』についてのメモ A4片面 1枚
⑤小冊子「資料で愉しむ福永武彦 13」電子版  A5 32頁
資料提供:①Sa、②Ki、③Ha、④Ki、⑤Mi


研究会総会
日時:2022年5月22日(日)13時~14時45分
場所:リモート開催
【総会内容】
・会計報告、今年度新運営委員の選出、本年度例会内容案が承認された。


第192回例会
日時:2022年3月27日(日)13時~17時
場所:リモート開催

【例会内容】
今回もリモート開催となりました。
1.初出版「忘却の河」第4章~第7章を中心として、それ以降の版と対照しつつHaさんより小発表の後、全体討論。
2.「資料で愉しむ福永武彦12」小冊子(Miさん作成 電子版)を配付し説明、皆で愉しみました。収録は『忘却の河』より第4章「夢の通い路」の福永自筆創作ノート、本文主要異同表(初出→初刊本文/第4章~第7章)、初出誌4冊の目次と表紙、岡鹿之助自筆はがき(翻刻附き)、ラジオ台本「忘却の河」の各画像。

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
Haさん:『忘却の河』について(その2)
1. 短編「忘却の河」と長編『忘却の河』
(1-3-2)初出本文と元版本文の主な相違点(承前)
四章から七章までの『忘却の河』の初出本文と元版本文の重要な相違点と変更は特に七章に認められる。
①七章「自分が生きてゐることの証とするのではないだらうか。」(初出32頁上段3行目)の次に以下が追加:
「寒いかぜの吹き抜けるプラットフォームに ~ 青年に向けて訴えていた。」(元版266頁17行目~269頁1行目
⇒・昔の看護婦の恋人の言葉「わたしたちはみんな死んだら何処に行くんでしょうね。」(元版268頁4行目)は、この恋人がこの時点で自殺を考えていたのではないかということを暗示する。
・元版268頁11行目の「僕は決して君のことを忘れないよ、と彼は言った。」の彼は25歳の藤代で、この文章は元版269頁10行目(初出32頁上段16行目)の「僕は決して忘れないよ、と彼は言った。」に呼応している。
・追加部分の後の「でもあなたはわたしのことを決して忘れないわね。」(元版269頁8行目、初出32頁上段14―15行目)は元版269頁11行目(初出32頁上段17行目)の「僕は決して忘れないよ、と私は言った。」に呼応している。私は56歳の現在の藤代。
②七章「どうしてわたしがその子守唄を知つてゐるんでせうね。」(初出33頁上段21―22行目)の次の文章から「力づけてくれたものはなかつた。」(初出33頁下段17行目)までの文章が大きく書き換えられている(元版272頁2行目~273頁10行目)。
⇒ 藤代と美佐子との和解のやり取りがより自然に感じられる。

2.考察
(2-1)創作ノート(承前)
(2-1-2) 創作ノートについての福永武彦と中村真一郎のコメント
福永の「忘却の河」創作ノートが掲載された『国文学 解釈と鑑賞』1977年7月号は福永武彦特集号で、9編の論考と参考文献の他に中村真一郎のインタヴュー(「福永武彦を語る」)と福永と清水徹の対談(「文学と遊びと」)が掲載された。
①福永:「・「忘却の河」なんかだって、(中略)創作ノートといってもごく大ざっぱな最初の思い付きがあるだけで、その思い付きが発展した後のことはだいたい書いてないですね。
・創作ノートっていうことに関すれば、中村真一郎に発表させると僕は面白いと思いますね。彼は非常に、それこそアンドレ・ジッド風のノートをたくさん執って常に十分なる準備してから書きはじめるというんですからね。」(対談日:昭和52年5月5日)
②中村:「・私のノートというのは福永のと違ってね、つまり人生の経験に関するノートです。(中略)小説のためにとったメモじゃなくて人生の結果としてのメモが小説に収斂されていく途中のメモですね。福永のメモはそうじゃなくって作品を作るためのメモなんじゃないかと思うんです。
・彼(福永)は作品においても徹底主義で非常に綿密なノートを執ります。」(インタヴュー日:昭和52年5月19日)
福永は中村が、中村は福永が、十分な創作ノートを準備してから小説を書くと思っているのが面白い。
(2-1-3)創作ノートはいつ書かれるのか?
後述の中村の『小説構想への試み』によれば、創作ノートが書かれるのは作品の①構想以前 ②構想中 ③執筆直前 ④執筆中 とのことである。 ①~③は執筆前だが、また福永のように作品の執筆日と枚数を⑤執筆後にメモすることもあるであろう。
(2-1-4)読者は創作ノートをどう活用したらよいか?
中村真一郎は『四季』四部作の「創作ノート」として、『小説構想への試み』 「四季」四部作創作ノート① ――『春』、『夏』篇(1982年、書肆風の薔薇)を出版した。そのあとがきに本書を公刊した目的は「作品のテキストと「創作ノート」との併読から、この作品に複数の読まれ方が可能になるからである。」として、五通りの読み方(省略)を提示している。創作ノートの活用方法の例として参考になると思われる。詳しくは本書を参照してください。
(2-2)短編「忘却の河」にはなく、長編『忘却の河』で叙述されている事項
・藤代、ゆき、美佐子、香代子はそれぞれのふるさとを求めている。
・各章の視点人物が何を考えているか、視点人物の視点から多面的描写がなされている。
・家族全員がそれぞれ何に悩んでいるかという内面が作者によって描写されている。
・特に妻ゆきの内面が詳細に叙述されている。(四章)
・藤代と妻・娘たちとの和解が叙述されている。(七章)

Miさん:初出版『忘却の河』第4章、第5章、第6章、第7章
① 原稿執筆年月 *自筆創作ノートに拠る。
「夢の通い路」:1963年7月29日~8月5日
「硝子の城」:1963年9月17日~同21日
「喪中の人」:1963年9月29日~10月4日
「賽の河原」:1963年10月15日~同20日
② 創作ノート
 福永にとって、創作ノートもまた「ひとつの作品」である。多くのノートには、原稿執筆日付と枚数まで克明に記されている。執筆後に、創作ノートに立ち戻っているということだ。執筆前に構想を練るだけのメモではなく、初出執筆後にも見直して、単行本化する際に構成を練り直したり、更に新たな作品のヒントを得る大切な資料であったろうことを伺わせる。
 長短問わず多くの創作ノートを生涯手許に置いていたことからも、将来の研究者、愛読者の利用に供することをも予め想定していたに違いない。私たちは、そのノートを繰り返し読み込むことで様々な視点を得ることが出来る。ひとつの作品という理由である。
 中村真一郎は「四季」4部作の創作ノートを生前に『小説構想への試み』(書肆風の薔薇 1982/1985)2冊として刊行しているものの、私の知る限り、いちいちの短篇の創作ノートまでは手許に残してはいなかった。
 代々木から赤坂への引越しをお手伝いした際に、たまたま見つけた小説『孤独』(河出書房新社 1966.10)の校正刷―単行本化に際して、雑誌初出文に中村自筆の細かな手入れが大量にあるもの―を、「君にあげるよ」と頂いたのだが、その校正刷は今は軽井沢高原文庫に収まっている。おそらく、そのように気軽に友人・知人に分けてしまった自筆物がいくつもあるのだろうと思う。福永とは対照的な取り扱いである。
③ 初出→初刊本文対照の意義
 初出文から初刊本文への手入れ(削除、増補、書き換え)を逐一検討することにより、作品の主題ほかが見えて来ることに加え、文章創造の現場に立ち会う喜びを得ることが出来る。
<第4章> ゆきの延々と続く独白は「遠方のパトス」の弥生の独白に効果的に用いられた手法だが(早くは高等学校時代の短篇「眼の反逆」に於いて試みられた。もちろん、ジョイス『ユリシーズ』末尾の夫を待つブルーム夫人の意識の流れを書いた場面での文体を参考にしたものであることは見易い)、その延々と続く中年女性の独白の地の文中に、式子内親王の和歌を効果的に挿入することにより、ゆきの想いが1回的個別的なものでなく、王朝以来の日本文学の伝統・文化に深く結びついたもの、普遍的なものであることが読者に伝わってくる。
 同時に、手入れを見ると「しかしわたしたちにはもうためらっているだけの時間がなかった」(画像1)という増補が見られる。この手入れにより、ゆきと入隊を控えた呉の極めて限定された時間がより強調され、普遍(=永遠)と対照的なゆきの1回限りの個別的生に於ける恋心の燃焼が―寝たきりで物想うだけの現在の状況と重ねあわされ―、私たち読者に感動を呼び起こす。
<第5章>
 章の末尾近く三木の独白が大幅に書き換えられている(初出画像2)。「俺は駄目だ」を含め、三木の心情を直接的に示す語句がスッパリと削除され、説明的語句が削られて、読者の想像力の働きに任せる余地の多い文言に置き換えられる。
 事実をソノママ描くのではなく、人物の内面に反射、反映した心の動きを余白の多い、喚起的語句を用いて描く。
<第6章>
 初出「ただ私はね、まだ喪中だといふふうに考へるんだ」という香代子に対する藤代の言葉「まだ」が「いつでも」と書き換えられる(画像3)。
 わずか1語の書き換えでその章の主題が示される例である。
<第7章>
 この最終章の末尾は、特に全体的に手入れが著しい(画像4)。この他にも、右上3行目の後には、初刊本で若き藤代の子を身ごもった彼女との停車場での最後の別れの場面が一節丸まる増補されている。
 これだけ徹底的な手入れは、この時期の作品として稀である。メチエ確立途上であった「小説風土」の初出→省略版の手入れの多さに匹敵するが、ここでの手入れの多さは未熟さではなく、創作姿勢の変化に拠るものだろう。つまり、創作ノートは取るものの、一文一文は勿論、構成の細部までは意識的に執筆開始前に決定せず、原稿を書きながら手が考えるという、より筆任せの姿勢がこの作あたりから取られるようになっていたことに拠るものだろう。他の章に比しての手入れの多さは、一章ずつ個別に発表した長篇全体の結末として、より綿密な手入れを施したものだろうし、加えて雑誌の枚数制限もあっただろう。
 何にせよ、これだけ多くの手入れ箇所をきちんと確認することにより、研究上にも多くの示唆を得ることができる。電子全集では、この部分の異同箇所は「本文主要異同表」に記載せず、読者が自ら対照出来るように初出文画像を附録に収めてある。

・画像1・2・3(クリックで拡大画像にリンク)
 
・画像4(クリックで拡大画像にリンク)
 

Suさん:福永武彦『忘却の河』読書メモ
※前回、今回の読書会を踏まえて、考察したことをメモしてみた。極めて簡単なメモであるが、自分なりの読みとして示したい。
第一章
・全体的主題…創作ノオトより「人はふるさとを忘れることは出来ない、人はふるさとに帰ることは出来ない
・短編小説としての完成度の高さ(独立性・緻密さ)
 …主人公の、アパートの一室で書かれた手記という形式による現在、その現在の状況をもたらした「女」との近過去、そして「女」との邂逅によって蘇る大過去。「女」は過去に恋愛関係にあった「看護婦」の、蘇った一種の“幻”としての存在?。
・「長編小説」の首部として各章への影響…一章で提示された主題が反響しつつ引き継がれる。
・文体的実験
内的独白と客観描写(過去)の連続性による主人公内面世界(表層意識と深層意識、また、現在と過去との自在な転換・)の総合的把握
→W.Faukner『アブサロム、アブサロム!』等からの技法的影響?
第二章
・三章と対…2つの章を対照することで作品世界を広げる
・推理小説的…子守唄を媒介にして、主人公の、自分はもらい子ではないかという疑問
・中間小説的…当時の時代風俗を描く実験(やや古風な娘)
第三章
・二章と対
・推理小説的…母と呉さんとの関係、主人公(香代子)自身の出生への疑惑
・中間小説的…当時の時代風俗を描く実験(60年安保後の戦後世代の大学生、発表誌『婦人之友』、読者層を意識)
第四章
・文体的工夫
a.仮名文字を多用する
b.センテンスの長い文を織り交ぜる
c.和歌(式子内親王の歌)を本文中の地の文で引用する
〔本文中に『新古今』から12首、他に題詞『千載集』より1首〕
 →平安かな日記の現代版的世界⇒堀辰雄『かげろうの日記』、室生犀星『かげろうの日記遺文』へのオマージュ、或いは福永版⇒『風のかたみ』へ
 …日本古典文学の伝統を踏まえ、現代における愛の不可能性(或いは、可能性)を描く
・一章との深い連関、対として描かれる
…一章が「女」の去ったアパートの一室での主人公(藤代)の手記であるのに対し、四章は主人公(藤代の妻「ゆき」)が病臥する寝室での主人公の夢、或いは妄想
創作ノオトより
「ふるさとは人の心の中にある.何かしら遠いもの.過ぎ去つたもの.もう取り返せないものだ.Heimatlosが人の運命だ。ふるさととは或はその人の死かもしれない
・一章とともに小説における文体的実験…W.Faukner等からの影響?
第五章
・二章と対応し(二章の解決編とも言える)、更に、四章を踏まえ、六章とも対となる
・この章のみ家族の成員以外の登場人物からの視点で描かれる
 →単調さを回避させるとともに、外部からの視点を入れることで、読者に、各章の登場人物を客観的に把握させる機会を与える(主人公「三木」は知識人、美術評論家)
…長編小説として全体構成を配慮
第六章
・三章と対応し(三章の解決編といえる)、更に、四章を踏まえ、五章とも対となる
七章
・一章、四章と対応し、長編小説としてのまとめの章
 (そのため、短編としての独立性はやや希薄)
→発表誌も一章と同じ=一章との連続性を意識(初出での「A子」「B子」の表記も)
…まとめ意識からか、方法的実験性はやや希薄
 (ただし、初刊時に結末近くで、大過去として「看護婦」との別れの場面を新たに挿入することで、一章同様過去との交錯を描き、小説全体の主題の明確化を図っている)
・一章題詞「レーテー…… 『ギリシャ神話辞典』から」
 七章題詞「我々は皆…… 柳田国男」
 →二つの章の題詞…初出になく、初刊時に新たに追加され、小説全体の主題提示を明確にする
 …創作ノオトより「生まれた土地がふるさとであり、死ぬ土地がふるさとである。人はそれが等しいことを願ふ。ふるさとは自己の生の罪を捨てる場所である.生まれたときは汚れを持たなかった。死ぬときもまたしかありたいと願ふ.しかし生は即ち罪である。」

《小説全体》
*『忘却の河』各章の対応関係⇒胎蔵界曼荼羅的(或いは亀甲文様)構造
(数字は各章番号)
   
*第一章は短編小説「忘却の河」として独立しながら、長編『忘却の河』の全体主題をも提示し、小説全体の基調を作る。
*章に題詞がある1、4、7章が長編としての主要部となる。
 …人体に例えれば、頭部、心臓、腰部となる。
  章の長さもあり、構造もやや複雑で、過去と現在が交錯するなど、方法的実験も見られる。
*2、3、5、6章は、やや短く構造も単純で、中間小説的ストーリー展開重視か?
 …人体に例えれば、四肢にあたる
*第四章の「ゆき」の「呉」との愛の形が、常に、各章の登場人物の愛の形と比較される。
 …創作ノオトより「全体的主題
 現代に於ける愛の不可能性(父・姉・妹
 過去に於いては可能か 記憶 忘却 (父 母)
 (死者—遠い声)その人のために死ぬことによってのみ愛は可能だ」
*各章は互いに共鳴しあい、コレスポンダンス(交感)して作品世界を作る。
 →方法的実験はこの後更に小説表現において追求され、章段は分節され、時間と空間も自在に交錯しつつ、小説世界を形成する方向へ向かう。
…福永の求める〝象徴主義小説〞の実現へ   『海市』・『死の島』

【当日配付資料】
①『忘却の河』についてのメモ その2 A4片面 4枚
②『忘却の河』創作ノート翻刻 第2章、第7章、全田的プラン A4片面 6枚
③小冊子「資料で愉しむ福永武彦12」電子版 A5片面 15頁
 ①・②:Ha、③:Mi


第191回例会
日時:2022年1月23日(日)13時~17時
場所:リモート開催

【例会内容】
今回もリモート開催となりました。
1.初出版「忘却の河」第1章~第3章を中心として、それ以降の版と対照しつつKiさん、Haさんより各々小発表の後、全体討論。
2.「資料で愉しむ福永武彦11」小冊子(Mi作成 電子版)を配付し説明、皆で愉しみました。収録は『忘却の河』より第2章「煙塵」と「全体的plan」の福永自筆創作ノート、初出誌3冊の目次、献呈署名本『忘却の河』8冊(加藤周一宛、白井健三郎宛、山崎剛太郎宛ほか)、別紙として「本文主用異同表」(初出→初刊本文/第1章~第3章)と「年譜」(1962~1964)。
*新規参加者2名

【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
Kiさん:『忘却の河』について
1.第1章「忘却の河」を独立した短篇小説としてみたときの感想
・主人公の藤代は福永作品に特徴的な芸術志向の人物ではなく、家庭問題に悩む中年男性に設定されていることがそれ以前の福永作品と異なる。福永にとって家庭小説的な枠組みは、一種の挑戦だったのではないか。
・藤代が苦しんでいる問題は芸術上の観念的なものでなく、彼自身が抱いている過去・現在の罪の意識であり、そして信仰(神や仏)を持たない彼の罪を赦してくれる存在がないということだった。あるとすれば、死者の魂、あるいはそれにつながる古里(妣の国)ということを暗示しているのだろうか。
・最後に彼は、自らの罪の象徴としての賽の河原で拾った石を河に投げ捨てることで、心の決着をつけることができた(回心)と思われ、短篇としてきっちりと完結させている。
・福永作品としては結末にほの明るい希望が感じられるのも珍しく、叙情に富んだ描写も魅力の短篇作品として評価できる。

2.第2章「煙塵」、第3章「舞台」について
・『忘却の河』初版後記には「私には各々の章が独立した作品であるかのような印象を与えたいという意図があった」という記述があり、各章毎に発表媒体を変えているのもそうした意図の反映だったと思われる(担当編集者にも内緒だった)。
・長女の美佐子、次女の香代子、魅力的でかつ対象的な女性像(性格、生き方)の描写のコントラストが効果的。福永は女性の内面を描くのに長けているようだが、彼の生育環境を考えると不思議だ。
・わらべ唄を絡めた謎と二人が抱く自らの出生の疑いというミステリー要素の提示が福永作品らしい。
・当時としては斬新な手法(章ごとに語り手が変わる、会話の「 」がない、現在と過去の交錯)も小説の流れと調和しているように感じられ、違和感がない。
・2章以降には題材として文芸的な要素(サルトル、式子内親王、柳田国男、折口信夫など)が入ってくるのが、やはり福永らしい。

Haさん:『忘却の河』について
Ⅰ.短編「忘却の河」 と長編『忘却の河』
二章以下がないものとして、初出の一章「忘却の河」のみで、小説の構成、主題等を検討し、次に長編『忘却の河』のそれらと比較した。
1.短編「忘却の河」と長編『忘却の河』(1964年5月刊)
(1-1)初出(「煙塵」以下の執筆時期は源 高根「編年体・評伝福永武彦」1980年による。)
忘却の河 『文藝』1963年3月(1962年10月-1963年1月に執筆;三坂剛:福永武彦
研究会例会第168回報告)(文末に(了)の記載あり)
煙塵:『文學界』1963年8月(1963年6月に執筆)(文末に(了)の記載なし)
舞台:『婦人之友』1963年9月(1963年7月に執筆)(文末に(了)の記載なし)
夢の通い路:『小説中央公論』1963年12月(1963年7-8月に執筆)(文末に(了)の記載なし)
硝子の城:『群像』1963年11月(1963年9月に執筆)(文末に(了)の記載なし)
喪中の人:『小説新潮』1963年12月(1963年9-10月に執筆)(文末に(了)の記載あり)
賽の河原:『文藝』1963年12月(1963年10月に執筆)(文末に(了)の記載あり)
・「これ(註:初出の一章「忘却の河」)はこれで独立した短編である。しかし書き上げてからこの作品のノオト*やら資料やらを見ているうちに、どうもこの一作だけでは惜しいような気がして来た。」(福永武彦全小説第七巻 序1973年10月、新潮社)
*創作ノートAとする。
⇒福永のこの言葉と一章の「忘却の河」執筆の5ヶ月後に二章の「煙塵」が書かれ、以下七章までほぼ毎月一章ずつ書かれていることにより、一章「忘却の河」が独立した短編として書かれたことは確かだと思われる。独立した短編として書かれた初出の「忘却の河」と七つの章からなる長編『忘却の河』の内容

・読後感を比較した。
(1-2)短編「忘却の河」
(1-2-1)構成・技法
・文体:「会話のカギがないため会話と意識描写との区別がつかない。」(「忘却の河」創作ノート、解釈と鑑賞1977年7月号:創作ノートBとする。)⇒ これにより話が途切れることなく、なめらかに進行していくように思われる。
・構成:主人公は藤代。藤代の過去(彼)で述べられた看護婦との恋の話と台風の日に助けた女との話を経糸している。

(1-3)長編『忘却の河』
(1-3-1)構成・技法
長編『忘却の河』の各章の視点人物とその表記を表1(省略)に示す。
・章ごとに視点人物を替えて叙述している。これは「退屈な少年」(初出1960/6)や『夢の輪』(初出1960/10~1963/5)でも用いられた技法。
・章ごとに視点人物を替えて叙述しているため、章と次の章で話が直接つながらなくても不自然ではない。
・一章、四章、七章:作者が表面に出てこない。
二章、三章、五章、六章:作者が視点人物を描写している。
・視点人物が作者の分身としてではなく、すべて独立した個人として描かれている。
・文体:①四章でのひらがなの多用、文章・段落が長い。(高木徹:福永武彦における表現の特質 ―『忘却の河』の基礎的調査より― 1999年 名古屋近代文学研究9号)
②短編「忘却の河」と同じく会話のカギはなし。
(1-3-2)初出本文と元版本文
・各章は初出のままで短編として独立しているか、長編にまとめる際に各章の文末と書き出しの段落に書き換え・追加をしているか、初出のままで長編になっているかを確認した。
・その結果、六章の最後の段落を除いて、各章の最初の段落と最後の段落が初出と元版で同じであった。
・六章の最後の段落 「その代り涙がぽたぽたと垂れた。窓からの明るい日射しの中に、(初出104頁) → その代り涙がぽたぽたと垂れた。あたしは何処かへ行ってしまいたい、ママ、あたしは何処か遠くへ行ってしまいたい、と彼女は心のなかで叫んでいた。窓からの明るい日射しの中に、(元版225頁)」(下線部が元版で追加された部分)
⇒香代子のゆきへの思いが強調される。また、七章で香代子がゆきのお墓参りに行くとことの伏線となる。

(1-4)主題
(1-4-1)短編「忘却の河」:・或る女の変身の物語(昔の看護婦の恋人と台風の晩に助
けた女)(「忘却の河」創作ノート 一章、1977年)
(1-4-2)長編『忘却の河』:
・愛の挫折と不在に悩む家族の葛藤:
「この小説で、私は、現代では愛が不在である、ということを書きたかったんです。(中略)母親たちには、とにかく愛と呼べるものがあったのに、こどもたちになると、もう愛はない。それはなぜか?昔の人にとって、人を愛することは、おのれの死を賭けることであったのに、今の世代には、そんなことは滑稽としか思えない。そのことが、現代の愛の不在をもたらしているのでしょう。この対照を書きたかったんです。」(著者との一時間「忘却の河」についてのインタビュー、朝日新聞1964年7月6日)
これは『忘却の河』出版直後の発言であり、実際に書かれた作品の主題をかなり率
直に述べていると考えられる。

・「この作品(註:長編『忘却の河』)の主題は(私の創作ノオトに拠れば)まあこういうふうなものであろうか、――人は古里を忘れることは出来ない、人は古里に帰ることは出来ない。」(福永武彦全小説第七巻 序、1973年10月、新潮社)
ここの創作ノートは後述の創作ノートMで、この部分は電子全集12巻の解題に全体的planとして掲載されている(福永武彦 電子全集12 『忘却の河』『幼年』、童話、Kindle の位置No.10858)

2.考察
(2-1)『忘却の河』の創作ノートのまとめ
(2-1-1)三つの創作ノート
創作ノートA:短編「忘却の河」を書く前に書いた創作ノート。次の創作ノートMに吸収・拡大された。
創作ノートM:短編「忘却の河」を書いた後に追加して書いた、一章から七章まで及び全体的planを含む創作ノート。一部が電子全集12巻に掲載されている。(創作ノートAと創作ノートMの一章は同じもの)
創作ノートB:雑誌(『解釈と鑑賞』1977年7月号)発表用に創作ノートMを整理・省略した創作ノート

Ⅱ.『忘却の河』と『雪国』、『風立ちぬ』との比較
元版『「忘却の河』あとがきの以下の記述は興味深い。
「こういう連作的な長篇としては、既に夏目漱石に「彼岸過迄」や「行人」があり、私もその顰みにならった迄である。ただ私は、各章が主人公を異にし従って視点をも異にするが、全篇を通じて主題は時間と共に徐々に進展するというふうに書きたかった。その点が漱石の方法とは違うし、また川端康成氏の連作的方法とも違っていると思う。」
そこで、同じような発表の仕方をした堀辰雄の『風立ちぬ』と川端康成の『雪国』を検討した。
初出版の『風立ちぬ』、『雪国』、『忘却の河』の比較を表2に示す。

表2 初出版の『風立ちぬ』、『雪国』、『忘却の河』の比較
 
・いずれも種々の雑誌に長・中編小説の一部を発表している。
・『風立ちぬ』と『忘却の河』は約1年と短い連載期間で小説を完結しているが、『雪国』は連載の完結まで約13年と長い時間がかかった。
・『風立ちぬ』と『雪国』の視点人物はひとりで、『忘却の河』の視点人物は章ごとに異なっている。
・時間に伴なう主題の進展は、『雪国』では明確でなく、『風立ちぬ』と『忘却の河』でははっきりしている。
・単行本での初出の文章の変更は、『風立ちぬ』の序曲と風立ちぬ、死のかげの谷の章で殆どなく、婚約と冬の章で変更が多い。『雪国』では最終の断章で変更が著しく、また全般に多数の小さな変更がある。『忘却の河』では七章の2ヶ所で大幅な追加あるいは変更があり、その他の章で多数の小さな変更がある。堀辰雄、川端康成、福永武彦はいずれも「書き換える作家」であると言えるかもしれない。

Miさん:例会/初出版『忘却の河』
Ⅰ.例会
 『忘却の河』第1章から第3章の雑誌初出文を中心に、初刊版以降も含めて、KiさんHaさんから小発表をしていただき、各々その後に全体討論をしました。後半はMi作成小冊子「資料で愉しむ福永武彦11」(別紙として当該部分の「本文主要異同表」と「1962年~1964年の年譜」)を配付し、解説しつつ画像を愉しみ、質問にお答えしました。
 今回は、HPやtwitterで当会を知った方2名が新規参加され、お2人とも積極的に討論に参加されたので、進行役としてやり易く愉しい会になりました。

Ⅱ.初出版『忘却の河』第1章、第2章、第3章
① 原稿執筆年月 *自筆創作ノートによる。
第1章「忘却の河」:1962年10月24日~1963年1月14日
第2章「煙塵」:1963年6月17日~同月24日
第3章「舞台」:1963年7月23日~同月27日
第1章を書き終え、第2章執筆までに5ヶ月以上の空白があること、冒頭を書き直した第1章を除くと、執筆期間が極めて短いことが注目される。

② その期間の文学活動、日常。
1962年10月後半、短篇「忘却の河」起筆。
1962年末より1963年正月にかけて、人文書院版『ボードレール全集』個人編輯のため、2週間ほど一人で京都に滞在。この間も「忘却の河」を書き継ぐ。
1月14日、短篇(=連作第1章)「忘却の河」執筆了。
春先、再び一人で3週間程京都に滞在(~4月8日)。ボードレール全集の編輯をほぼ終る。
3月号「文藝」に短篇「忘却の河」発表。その後、連作の構想を練り始める。
5月、過労のため体調を崩す。大学を休講し、追分に滞在。「忘却の河」第2章以降の創作ノートを取り始め、全体の構想を立て、執筆し始める。
6月24日、連作第2章「煙塵」執筆了。「文學界」8月号掲載
7月27日、連作第3章「舞台」執筆了。「婦人之友」9月号掲載
8月5日、 連作第4章「夢の通い路」執筆了。「小説中央公論」12月号掲載
9月21日、連作第5章「硝子の城」執筆了。「群像」11月号掲載
10月4日、連作第6章「喪中の人」執筆了。「小説新潮」12月号掲載
10月20日、連作第7章「賽の河原」脱稿。「文藝」12月号掲載
*集中した仕事ぶりが伺える。
12月15日、下血。16日、胃潰瘍で国立東京第一病院に入院。

③『忘却の河』創作ノート(右画像クリックで拡大画像にリンク)
 「国文学 解釈と鑑賞 福永武彦その主題と変奏」(至文堂 1977.7)に、福永の『忘却の河』創作ノートが収録されています。今、その掲載稿を原資料と対照すると、基本的に創作ノートの記載をソノママ翻刻してありますが(仏語は日本語に手入れしている箇所も多い)、それでもかなりの分量が省略され、抜粋したものになっています。作品執筆の年月日なども省いてあります。
従って、雑誌掲載文だけでは研究上不十分で、この創作ノートの原資料(の画像)を精読することは、『忘却の河』の生成過程に触れる場合には必須となるでしょう。
 手許にあるその原資料(*2017年、古書市場に出た源高根資料の中のひとつ)から、第7章「賽の河原」創作ノートは、既に『福永武彦電子全集』第12巻「附録」に画像で収録しました。また、前記雑誌には未発表だった「全体的plan」も、同全集第12巻「解題」に、やはり画像で収録してあります。 
 今回例会で使用した小冊子では、第2章「煙塵」創作ノートと前記「全体的plan」を画像で公開しました。第2章の画像は初公開となります。
 ところで、討論の中でSaさんがそれら創作ノートの罫の色に注目した質問をされました。彼の発言に促され、各章創作ノートの罫の色その他を、原資料によって改めて確認しましたので、簡単にご報告しておきます。
 すべて200詰原稿用紙で、4種類に分けられます。
1.グリーン罫 「新潮社」と右下枠外にあり:
 1章「忘却の河」A1
2.グレー罫「ARS LONGA VITA BREVIS」と下部枠外にあり:
 1章「忘却の河」A2
3.グレー罫「紀伊國屋製」と左下枠外にあり:
 2章「煙塵」B
 7章「賽の河原」G2
4.オレンジ罫 「紀伊國屋製」と左下枠外にあり:
 3章「舞台」C
 4章「夢の通い路」D1、2
 5章「硝子の城」E
 6章「喪中の人」F
 7章「賽の河原」G1
全体的plan
*A~Gは各ノート上部に福永が記載したもの。また、「A1、2」は、用紙が2枚であることを示す。
*ARS LONGA VITA BREVIS:藝術は長し人生は短し。

 これらの用紙の違いから、『忘却の河』生成過程に関わって何らか考察出来るでしょう。各用紙の記載内容や筆跡を、年譜(1962年、63年の文学的/日常的事項)と関連させることで何か推測できることがあるかもしれません。
 次回3月例会で作品全体を検討することになりますので、それまでにそのことを纏めておきたいと思います。

【当日配付資料】
①『忘却の河』第1章~第3章についてのメモ A4片面3枚
②『忘却の河』についてのメモA4片面5枚
③小冊子「資料で愉しむ福永武彦11」電子版A5片面24頁
提供:①Ki、Ha ③Mi



HOME入会案内例会報告会誌紹介電子全集紹介 | 関連情報 | 著訳書目録著作データ | 参考文献リンク集玩草亭日和(ブログ)掲示板(会員限定)