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福永武彦研究会・例会報告(2)

第57回〜第71回(2001年7月〜2002年11月)


第57回発表(2001.7.1)
1) 『海市』の章立てをめぐって/高木 徹
<要約> 抜き刷りをお配りし、10分程度の補足説明を加えるというつもりでおりましたところ、偶然にも十分な時間をいただけることになりました。ところが心の準備ができていなかったため、せっかくの時間を活かしきることができず、皆様にはこの場を借りてお詫び申し上げます。『海市』が全部で24章であれば良かったのですが、どうして23だったり、25だったりするのでしょうねえ?

2) 「鏡の中の少女」を読む/田中鉄也
<要約>  「鏡の中の少女」は、「水中花」「秋の嘆き」に続く、「精神病」をテーマとした作品である。しかし、それらの作品と違い、「精神病」的心理をを外側からではなく、主人公の内面から描いている点に特徴があるだろう。それは、福永自身の療養所生活の中で、強い不安や恐怖によって「現実との生ける接触」を失うという「精神病」の特徴が、むしろ健常者においてもしばしば見られる体験の中から生まれた。そして、「精神病」的心理を内側から描くという態度は、「世界の終り」「飛ぶ男」、さらに「死の島」の萌木素子へと結実するのである。
 少女・麻里が会話を交わす鏡の中の少女も、決して精神病による異常心理なのではなく、むしろ彼女自身がそうなりたいと願い、本当に生きていると実感できる自己である。彼女が「鏡」の中のもう一人の自分と会話を交わすというのは、彼女が自分自身と実存をかけて対峙しているということである。
 一方、麻里の父・五百木画伯は、そうなりたいと願うもう一人の自分、つまり「鏡」から目を逸らして生きている。それによって、彼は「現実との生ける接触」を失い、深く絶望しているということが言えるだろう。
 「鏡の中の少女」は、常人とはかけ離れた「異常心理」を描いているのではない。むしろ、そこで描かれている「異常心理」とは、人が自己の実存の真の姿を直視し、全存在を賭けて対決する中から生まれる大きな不安そのものである。そして、それは私達自身にとって、避けてはならない普遍的な問題であろう。



第58回発表(2001.7.22)
1)『夢百首』を読む−福永武彦の短歌について/佐藤 武
 福永武彦が短歌を詠んでいたことを、『夢百首 雑百首』がでるまでは知らない人が多かったと思う。また、この本が出版されても殆ど問題にされなかったようだ。私も短歌が好きなので、実作者としての体験を踏まえて『夢百首 雑百首』の評価をしてみた。

1.なぜ反響が無かったか。これは福永自身が短歌は素人で、余技であるとはっきり云っていることと、短歌は昔から文芸評論家は問題にせず、実作者同志、又は、読者の批評のみで現在に至っている経緯からも当然のことであろう。
2.総括的にみて短歌の出来はどうか。『夢百首』の方が詠んだ内容に深みがあるが、玉石混交の感じだ。『雑百首』の方はやや平凡の嫌いはあっても粒揃いと云えよう。

これは『夢百首』と『雑百首』の詠み方の違いだ。 『夢』の方は昭和四十九年九月から半年間に短歌を詠もうと意識的にとりくんだ成果ではないだろうか。雑誌「海」に発表したものを歌集として出版したものである。『雑』は昭和十九年頃から四十六年に至る長い期間に、心のおもむくまま書きためた作品を纏めて『夢百首』出版のときに加えたものである。従って現存していた『雑百首』の五十一首は、この数倍の作品中から気に入ったもののみが残っていたのであろう。『雑』の方を粒揃いと私が感じたのは
此のためと思う。

3.それでは福永の短歌の特徴とはどんなものか。
a 歴史的仮名遣いで詠んでいても古典的雰囲気の漂う作品に佳品がある。
b イメージを駆使した短歌も優れている。
の二点を挙げることが出来る。

『夢百首』の自序で福永は次のように述べている。
(前略)昭和四十九年の九月の初め頃、私は信濃追分の山荘にあって、ふと思いつくままに言葉を操って一首の歌を得た。それと同時に『夢百首』といふ題名もまた浮かび(中略)この年の秋から冬にかけて細君が入院したり私がまたぞろ病気になったりして事件の方にはこと欠かなかったが、こんなことがなければ出来ないやうな歌なら無い方がましである。年が明けて昭和五十年の二月ごろ、病気が回復して来るのを汐に『夢百首』は忽ち終わってしまった。それ以来今日まで一首も浮かんで来ないのだから、歌の神が私を見限ったといふことになるのだろうか。(後略)『夢百首』は九十首で終わっている。あくまでも素人として自認していた福永の短歌だが、豊かなイメージを遺憾なく発揮した作品がある以上、もう少し続けていたら、
更に味のある十首の短歌が追加された事であろう。

作品に残せし福永の心根を究めんがため われらは集う
佐藤 武

2)『忘却の河』輪読 第五章 硝子の城/近藤 圭一
 今回担当した第5章は三木の独白により成り立っている部分であるが、いうまでもなく藤代家以外の人物が中心になっているのは作品中唯一である。藤代家のそれぞれの人物がそれぞれの世界を持ち、他の家族との関わりあいが微妙な模様を綾なす『忘却の河』の世界においてこの第5章の存在は異例のことであるが、この第5章を精密に読んでみてもその謎は解き明かされなかった。ただ全体の丁度真ん中、第4章の死にゆく母・ゆきの独白「夢の通い路」の直後に来ることを考え併せると、「夢」の世界から藤代家の現実の世界に戻る一種の緩衝材の役割を果たしているのではないかとも考えられる。というのはこの三木という人物は『忘却の河』の世界において、第2章で美佐子のお相手として出てくる他は第6章以降ついぞ登場せず、全体の中にあって影の薄い、彼自身が「硝子」のような存在だからなのである。しかし、その「緩衝材」はそれ自身として時代の立派な刻印をもっている。「血のメーデー」「破防法反対のデモ」から「安保闘争」に至る三木の軌跡は、もう夢にしか生きられないゆきと「アプレ・ゲール」の美佐子・香代子の娘2人をつなぐものともいえる。それは父・藤代氏も同様なのだが、戦争という過去に制約される「アヴァン・ゲール」世代に対し、三木の過去は既に「アプレ・ゲール」のものなのである。つまり、三木の時代感はそれが歴史的な現実であるだけに、却って時代を超えた人間存在の「硝子」のようなはかなさを示しているように思われるのである。それが娘2人の生と際立った対照を為すことはいうまでもない。 なお、三木が美術評論家とされている点については『ゴオギャンの世界』の影響が窺えるだろう。秋田の存在も『風土』以来の画家の系譜という流れで考えることが出来よう。
 一点追加。「ロ−クマ−カ−」は原綴 Hendrik Roelof Rookmaaker 、1922年ハーグ生まれの和蘭陀の美術研究家。アムステルダム自由大学教授として美術史を講じていた。深い基督教の信心の上に立って美術史を論ずると共にジャズ等にも関心が深く、放送や映画の公職にもあった。日本では『現代美術と文化の死滅』『美と愛を求めて(マニエリスムと現代美術) 』の2冊の邦訳が出ている。“Synthetist Art Theories−Genesis and Nature of Gauguin and his Circle" (『綜合主義芸術理論』)は1959年の出版、ゴオギャ ン等「綜合主義」といわれている画家たちについて論じたものだが、三木が訳したとされ秋田に言及されている「シンテチストの本」とはこれであろう。『ゴオギャンの世界』の参考文献にも取り上げられていないが、恐らくは同書執筆準備の際の文献渉猟の折に知ったものであろう。
 今回は私事の為に発表を一ヵ月延期させて頂いた上に追加迄出す羽目に陥り、深く恥じ入っている。今後充分留意したい。



特別イベント: 川端文学研究会との合同研究発表会報告 (2001/8/25 東大島文化センター)

:研究発表
  発表者  高野 泰宏
題目 『風のかたみ』と『川のある下町の話』比較解釈−「美しさ」と罪と罰

 昨年より話のあった合同研究会ですが、各方面の多大なご尽力のおかげでなんとか開催のはこびとなりました。発表の機会を与えてくださいました両研究会の皆様には改めてお礼を申し上げます。私は『風のかたみ』と『川のある下町の話』の比較解釈を行い、ヒロインの美貌を罪と考えてその責任を問うという読みを構築しました。プレゼンテーションにはアウトラインプロセッサを駆使し、自分のイメージを視覚化するよう努めました。さて、本番の議論では、大衆小説同士を比較する意義、それから図示化できない部分についてどのように考えるのかといった質問が出ました。このやりとりは2次会の席に持ち込まれ、長時間にわたる議論となりました。「こういう捉え方をするのか!」と驚くことも多数。後日改めてご報告させていただこうと思いますが、極めてたくさんのことが学べた発表会だったと思っております。合同研究会終了後、近くの居酒屋で2次会を開きました。2次会には長谷川泉先生を初めとして今村先生や現役の文学研究者、学生さんが集まり、賑やかなものとなりました。(川端研には酒に強い人が多いとのことでしたが、本当にそうでした。)2次会の席でも文学研究談義に花が咲きました。ここで感じたのは「この作品が好き」というのが原点だというのは愛好であろうとプロであろうと同じだと言うことです。その「好き」な福永文学が世の中から忘れ去られないよう、研究会は努力すべきだとの激励をいただきまして、福永武彦研究会は今後福永武彦の文学だけでなくその周辺についてもサポートする責務を負えるような体制にしていかなければならないと痛感しました。これは、今後我々が取り組まなければならない大きな課題だと思います。

:研究発表
発表者  鈴木 和子
  題目 福永はどのように川端を読んでいたか

 福永は青年時代の膨大な読書を随筆などで振り返っている。随筆「別れの歌」、座談会「川端康成 人と文学」などから、学生時代(昭和5年)より作家になるまで福永が川端をどう読んできたか、その接点にスポットを当てた。
 次に、実際に文壇での交際をはじめた福永が(昭和30年代以降)、『伊豆の踊子』『高原』「川端康成集」解説などの中で、川端をどのようにとらえていたのかを
紹介した。「信濃の話」を高く評価したのは、そこに福永自身の文学観が投影されていると言えるのではないかということ、『死の島』で玉堂が論じられるが、それは川端の所蔵を見せてもらったことから得たインスピレーションもあったのではないかということ、『死の島』については他に、「『雪国』他界説」との関連、川端が書きたいと言っていたという「原爆小説」との繋がりを問うた。
 こうしてみると、福永にとって川端は、自らが影響を解説してはいないものの、同世代に活躍した先輩の作家として、つねに意識し、学ぼうとしていた作家であったことが作品の中から窺えると結論づけた。
 プレゼンテーションはOHP10数葉を使用した。中でも、川端が堀辰雄全集編輯委員になった年を示す手紙を紹介したことは、川端全集年表に記された年を訂正する資料を提供することとなった。また昭和16年初めて軽井沢に滞在し、福永が川端の別荘を探した時に見たという「Map of KARUIZAWA」なども紹介した。
 上記の手紙は私信のため、レジュメとしての配布を堀文学記念館から許可されなかったので、OHP使用を会場選定時から申し出ていた。しかし、当日会場にはスクリーンがなく壁に映すことになり、一部の方には見づらく、ご迷惑をおかけした。

:研究発表
   発表者 今村 潤子氏(川端文学研究会)
題目 福永武彦と川端康成−「風土」における末期の眼を中心に− (コメント)

 尚絅大学(熊本)の今村先生には福永と川端を比較して論じた論考が2本ある。福永側からいえば、うち1本は『風土』を対象としたもので、もう1本は『草の花』を取り扱っているもの、管見の限りではこの題のものは今村先生の2本しかなく、「福永武彦と川端康成 −『風土』における末期の眼を中心に−」という今回の発表は、それだけで興味を惹くに充分なるものであった。
 「末期の眼」はいうまでもなく芥川龍之介に端を発するものであるが、これを川端が取り入れた時の文章に「藝術」という語が付されているのに着目し、『風土』の桂の藝術観や所謂「死者の眼」と対比して、「現実(人生)のすべてを切り捨てて生きるところに芸術家の生き方をみ」る川端と「人生の中に芸術を見出だすところに真の芸術家の生き方があると」する福永との「異質性」を見、同時に「無の世界、或いは無を越えた彼方に、涅槃を凝視することによって生じる世界」が「芸術家が求める世界」であるという点において両者の「同質性」を見る(以上引用は今村先生の発表資料より)論は大いに刺戟的なもので、発表後の質疑応答では4〜5名の参加者と併せて中々白熱したやりとりが繰り広げられた。斯くいう小生もその一人で不躾な意見を開陳したりもしたが、10年にも亙って書き継がれた『風土』という作品の欠陥、にも拘らず人を惹き付けて止まぬ其の魅力を改めて認識すると同時に、川端との比較という分野はまだ手の付いていない沃野であり、此の研究を通して福永の文学世界を逆照射する可能性を教えられた。 今村先生は大学の文学部長であるばかりではなく、県教育委員会の委員長も兼任なさって御出でで、公務に大変お忙しい合間を縫って上京、此の合同研究会に親しく参加されて発表して頂いたとのこと、洵に有り難い限りで、感謝申し上げる次第である。(文責:近藤 圭一)


第59回発表(2001.9.23)
1)福永武彦に於ける戦前戦中と戦後−思想の変遷に関して/倉持 丘
<要約> 筆者は福永研究の新しい側面を研究しようと思った。しかし福永研究の新しい側面を考えるのはなかなか難しい。でも筆者の問題定義の微意をくんでいただければ幸甚である。これからは、資料を踏まえて考えて行きたい。(文責:倉持 丘)

2)輪読発表「忘却の河」第六章 喪中の人/三坂 剛
<要約> 今回の発表は、「語釈」と「解釈」に大別した。どちらも、藤代の愛の様相と、香代子の精神の発展の考察が中心になる。「語釈」では、@人称に注目し(香代子の「わたし」と「あたし」の使い分け)、A初出との主要な異同を点検することにより、呉に対する香代子のこだわりの強さを確認し、最後に香代子が叫ぶ「あたしは何処かへ行ってしまいたい」という言葉(初出ではなし)の典との意味を、そして、藤代が「私はね、まだ喪中だというふうに考え」ていたという文を、「いつでも喪中だというふうに考える」と福永が訂正している意味を考察し、Bその藤代の求める恋愛を、プラトンの(イデア論における)「エロース」と関連付けて理解した。「解釈」では、香代子の「自分では選択できない」恋愛が、下山との関係の中で、「亡くなったママが生きたようにあたしも生きる」と自ら選択するまでに変化していく経過を、(恋)愛とは、「自己を投企し、自ら選択すること(選択のないところに責任はない)、選択したその結果に生涯を賭けて責任を取ること」という、福永の愛のテーゼに沿って、そこに向っていくものとして、解釈してみた。この第6章「喪中の人」は、今まであまり問題にされなかった章であるが、学生らしく体ごと他人にぶつかって行き、傷つくこと(実践)を通して「自覚的生」を志向する香代子の姿は、「地獄とは他人のことだ」というフレーズが全篇に響くこの作品のテーマの一つを最も典型的に示していると言え、また、質疑において提起されたような全篇の構成上から見た(詳細は略)問題もはらんでおり、決して軽く扱える章ではないことを、皆で確認できたと思う。(文責:三坂 剛)



第60回発表(2001.11.5)
1)輪読発表「忘却の河」第七章 賽の河原/鶴見 浩一郎
<要約> 昨年11月に入会してからちょうど1年、初めての発表で「忘却の河」の最終章は少々荷が重かった。各章との関連も考察したいと思いつつ、結局は全くの時間切れでわずかに1章の記述との関係に触れたのみとなってしまった。
 理系で生きてきた私にとって、文学について読む以外の能動的な作業を行うのはほとんど高校以来のことだった。まずは先輩諸氏の方法論をなぞるところから始めようと、初めて初出と全集版との校異を試みた。都立中央図書館へ出向き、「文藝」1963/12に掲載された初出を見た。雑誌に掲載されている福永の作品を見るのは初めてであり、いささかの感慨をおぼえた。しかも星新一などで見慣れた真鍋博のイラストが付いている。63年当時、真鍋は極めて斬新かつ現代的なイメージを喚起する新進イラストレーターであったはずで、「現代」の文学としての「賽の河原」のイメージを補強するものであったに違いない。福永は装丁には大変凝った作家であるが、刊行された小説に挿画の入っている事例はほとんどないと思う。雑誌掲載時の挿画を調べてみるのは楽しい調査となるのではないか。
 校異の結果、福永は多数の語句の修正に止まらず初出に対してかなりの加筆を行っていたことが明らかになった。全集版281頁14行?283頁16行の転向・療養の後の帰省時の駅のエピソードは初出にはまったく登場しない。また完結の直前、287頁?288頁にかけての藤代と長女美佐子のやりとりも大幅に書き加えられている。特にこの美佐子との和解を描く部分は、1章で若い女が藤代に言う、「寂しい人(52頁1行)」・「やさしい人(60頁15行)」・「そういう」藤代が「好き(61頁2行)」という語句を作品最後の部分で美佐子にも語らせ(287頁15行?)、作品全体が大団円を迎える極めて重要な効果を上げている部分である。しかし初出では記述の大意は同様ながらもその表現は「お父さんが好きになった」というだけである。すなわち、1章の若い女に直感的に見抜かれた藤代の魂が、しかし家族には理解されなかった彼の魂が、7章の最後で美佐子に同じ語句をもって理解されるという、この加筆された語句の対応があることで作品「忘却の河」が最後の最後で非常に大きな感動を呼び起こしていることに気付かされた。
(この要約において追加; ある象徴的な語句を作品の中で繰り返し用いることは文学においては珍しくないと思うが、この作品の場合は普通に観賞している読者が上記の語句の繰り返しに気付くのはやや困難と思われる。しかし福永が初出にはなかった語句の繰り返しを無意識に書き加えているとは考えられない。読者の意識と無意識の狭間を狙って書き加えたといって良いのではないか。これは文学におけるサブリミナル(注)効果である。執筆当時この言葉は知られていなかったはずだが、福永は直感的に文学におけるその効果を理解しており、意識的に使ったのではないか。福永なら充分に考えられる。
(注)サブリミナル;1965年、アメリカで映画のフィルムに内容とは無関係に1コマだけポップコーンやコーラという文字を入れて上映した。誰も文字を見たことには気付かないが、上映後にそれらの売り上げが有意に上昇した。不正行為として禁じられたが、近年は心理療法などに積極的な評価もあるという。)
 この章を読んでいてひとつ気になるのは「鏡はしょっちゅう見ます、でもパパみたいに変な顔じゃないわよ。(267頁12行)」という笑いを誘うような文章である(288頁3行にも)。福永のこのような文章は極めて珍しい(「風土」にもあるとの指摘あり)。福永文学におけるユーモアも調べてみると面白いかも知れない。
 本章では、民俗学の賽の河原に関する「学説」も重要なモチーフとなっているが、これには調査が及ばなかった。席上、三坂氏より子守唄や柳田国男の原典(「赤児塚の話」;ちくま「柳田国男集」)のご教示があったことを記してお礼申し上げる。

2)会誌六号合評会報告/近藤 圭一
 第6号について合評会を行おうとしたところ、遠方の方からも御意見を頂き、誠に有り難う御座いました。
 実は輪読会と事務聯絡・報告で時間がなくなってしまい、充分なことが出来ない結果となってしまいました。輪読会は上記報告の通り『忘却の河』の最終回で、当然色々話すべきことがあり、それはそれで大いに得るところがありました。事務聯絡・報告も、第3号増刷の件から始まり、近代文学会のことやら堀夫人の講演会のことやらがあり、時間を取られてしまいました。結局終了予定時間の5時になってしまったので、急遽別の会場を取り、6時から始めたのですが、時間が十分に取れず、しかも幹事が居るもので内容より編輯の進め方や今後の方針の検討に関心が向いてしまったこともあり、折角お送り頂いた御意見を充分に踏まえて討議することが出来ませんでした。之は全く不手際で、申し訳ありません。
 ただ、確かに時間は充分ではありませんでしたが、個別の論文については事前に頂いた御意見やその場で出た意見などがありますので、個別にまとめて執筆者へ後日お知らせしようと考えております。今暫くのご猶予をお願いします。 (kon)



第61回発表(2001.11.25)
1)「遠方のパトス」考察1−ぎこちないエチュード/濱崎 昌弘
<要約> 登場人物3名(沢、吉村、弥生)の恋愛は何故に悲劇的結末を迎えるに至ったのかを題名「遠方のパトス」の表す意味を詳細に読み解く事で解明しようと試みた。『遠方』からは、個々の持つ『距離観』の差異を、『パトス』からは、個々の持つ『量的パトス』そして『質的パトス』の差異を明らかにする事により考察した。その結果、これら3つの全ての要素に於いて3者間には明らかな『ずれ』が存在し、それが3者の恋愛の結末を導いたのではないかとの結論を得た。 「遠方のパトス」は決して完成度の高い作品では無い様に思う。この作品は作品そのものを鑑賞するよりは、後の福永作品に現れてくる幾つかのモチーフの実験の場であったのではないかとの意味も込めて副題を、「ぎごちないエチュード」とした。また、「考察1」としたのは、この作品に関する考察を引き続き行って行きたいとの(あまり自信は無いのだが)意思表明でもある。(初めての研究発表だったので、勝手がわからずに(理科系の発表なら得意なのですが・・・)お聞き苦しいものになったかと思います。済みませんでした。今後も皆様の発表を参考にさせて頂いて文学研究(のようなもの?)を行って行きたいと思いますので、よろしくご指導願います。) (濱崎)

2)詩から小説へ−福永武彦の轉身について」/近藤 圭一
 詩人から小説家に転向したという例は数多い。福永武彦も其の例に入るだろう。実際、『ある青春』の末期に『風土』に着手し、「マチネ・ポエティク」を経て、『草の花』とほぼ同時期に書かれた「詩と転生」を最後として自分の文学世界として詩を選ぶことは以後殆ど無かったからである。
 しかし、例えば上記「転向」の例として直ぐ思い浮かぶ島崎藤村は、明らかに詩の泉が枯れたと自覚して、自然主義の文学活動に転身したのであるが、福永の場合、例えば『幼年』に見られるような詩的感興が小説にも持ち込まれている事は事実であり、だからこそ我々の気を惹いて止まない存在なのである。単純に詩人から小説家に転向したと言えるようなものではなかろう。
 『ある青春』の「ノオト」には、「詩は、精神であり、生き方であり、思索である」とある。しかし、『福永武彦詩集』の『詩集に添へて」には、「詩は私にとって畢竟抒情に過ぎなかった」と、突き放したような言い方に変わっている。 roman の探求者の目には詩とはそのように映るものなのだろうか。実際、『ある青春』の幾つかの詩を見ても、確かに旧制高校生的な「抒情」が窺えるのは確かである。しかし、それだけでは戦後の苦しい時期に北辺の凍原からこんな詩集を出すという「酔狂」な行為の原動力を説明することは出来まい。
 私は、既に「マチネ・ポエティク」の実験にある成果を得、今や romanの探求に進もうとした福永が、自分の文学世界の因ってきたるものを探そうとしてこの詩集を編んだものかと仮定した。勿論、其処には戦争という生と死の境の大きな境涯に身を置くという当時の現実があることは言うまでも無い。
 そして、『ある青春』の世界で「精神と生き方と思索」を探し出そうとし、「マチネ・ポエティク」で其れに引き続いて詩の世界を十二分に探求した結果、そこで燃焼しきって roman の世界に進んだのではないかと推測した。つまり、言語の世界の構築ではもはや飽き足らなくなって、全的世界を具現しようとしたのではないかと思ったのである。だから、福永にとって小説は詩の世界を止揚したものであって、其の尻尾が小説に残ったところに我々は「音楽」を感じるのではないか、という仮説である。
 未だ不完全なもので、十分な立証が出来ないが(といっても出来よう筈も無いと思われるが)、今後も考えつづけていきたいと思う。なお、仮説ばっかりでは覚束ないので、福永にはさして関係が無い作家だが、比較対照の為に藤村を取り上げた。去年の川端研究会で学んだことの一つに、さして関係なさそうな作家と雖も比較してみると思わぬ発見があるということがあったが、其れを実践したような形である。当日は、こちらが珍しかった為か注目を集めたようである。他の作家の話も随時挿入すれば、意外に新しい展開があるかも知れないと感じた次第である。(近藤)



第63回発表(2002.1.27)
 福永武彦墓+文人の墓参り特別レポート(事務局長 近藤)
先月は福永の墓参りをして心を清めてから、新年会で例会の幕を開けました。今年1年の会員の発展と健康、会の進展とを墓前に祈念してきました。前にお参りしたのは3年前の暮れのことで、少し御無沙汰し過ぎたかも知れません。
 今回参ってみると、前回参った時には無かった石碑が建立されて居りました。『風のかたみ』の終わりに出てくる「跡もなき波行くふねにあらねども 風ぞむかしのかたみなりける」の歌碑でした。福永の奥津城を見守るに相応しいかどうかは皆様の評価に委ねるより他はありませんが、単なる石の構築物に多大の意味を賦与したことだけは間違いありません。雑司が谷墓地の1号12側12号ですので、今回機会を逃した方もどうぞ御参拝下さい。其の後は序に(といったらに洵に失礼ですが)他のお墓にも詣でて、学識の深まらんことを祈りました。即ち、大町桂月、窪田空穂、夏目漱石、伊沢修二、中浜(ヂヨン)万次郎、東郷青児、川口松太郎・三益愛子等、島村抱月、松井須磨子、竹久夢二、金田一京助、森田草平、泉鏡花、永井荷風等の墓に詣でましたが、非会員含めて総勢7名、正に福永文学に相応しい死臭漂う墓場を経巡って、大変有意義な(愉快とは到底言えませんが)ひと時を送りました。其の後は都電で早稲田に出て、新宿で新年会、一寸した文学散歩でした。こんな文学散歩なら随時行なってもよいので、御希望の方はどうぞお申し出下さい。


第64回発表(2002.2.24)
1)『草の花』にみる<孤独>−『こゝろ』の受容を超えて−/鳥居真知子
 福永武彦は『草の花』において、夏目漱石の『こゝろ』における手法と主題を踏襲し、さらにサルトルの実存主義を参照して、遺書的なるものを通して福永独自の〈孤独〉の問題の追求を試みる。本発表においては、この『こゝろ』の受容を超えた『草の花』の 〈孤独〉の問題を究明する。
 福永は、『こゝろ』における「先生」とKの両者の〈孤独〉の問題を汐見に投影しストーリーを展開させつつ、あえて汐見の遺されたノートが「他人」に受け入れられない結末を描出していく。遺書的手法は、汐見の死後、「対他存在」としての「意味付け」の媒介となり得なかった。そこには「生者」と「死者」との媒介をも断った『草の花』独自の「氷のような孤独」が表出されているのである。(鳥居)

2)「近代文学の分身像」(渡邉正彦・角川選書)から「福永武彦の分身小説群」/田中鉄也
福永の小説は、はっきり言って「暗い」のである。特に精神病になって、人格が崩壊して、死に至ってしまうような作品(「世界の終り」とか「死の島」とか。まぁ、そういう作品が私は好きなのですが・・・)は、殆ど希望というものがそこに描かれてはいないかのようである。しかし、そこに本当に救いの可能性はないのであろうか。今回、私は「分身」を考えることによって、「再生」という救いを見出すことができたように思う。さて、一口に「分身」と言っても、それを定義することは難しい、というかあまり意味がないだろう。つまり、人間が自己を対象化すること自体に、既に分身は始まっており、それが夢で現れるか、幻覚として現れるか、多重人格として現れるか、という現象としてではなく、むしろ人間存在の本質的なあり方として、分身こそを出発点として考えることはできないだろうか。「分身」は、しばしば小説の中で自己の死として表現されるように、常に自己に対する否定として現れる。しかし、小説とは違って、現実にはそれは必ずしも、個体の死を意味するわけではないだろう。それは、象徴としての死である。そして、その死を乗り越え、止揚しようとする反復の中に、「再生」への可能性が生まれてくるのである。
 今回の発表では、福永自身が作品を生み出すという行為の中に、死とその先にある「再生」を考えてみた。まさに「分身」によって、現在の自己は死を迎えるのであるが、「分身」は自己を新しい生へと導いていくことができるのである。今回はあまり言及できなかったが、福永による自己の「再生」への試みを考える中で、キリスト教との関わりについて、次回は考えてみたいと思う。(田中)



第65回発表(2002.3.24)
1)中村真一郎宛書簡に見る1940年の福永武彦・未発表短歌三首紹介/三坂剛
 「中村眞一郎に宛てた、1940年の福永武彦自筆の書簡・未発表短歌3首を紹介・解説した。
 書簡においては、人名・語句の注釈を施し、関連事項を説明することにより、その内容を精確に把握することに努めた。特に、1940年という時代に注目し、戦争に向う時代思潮の中において、若き福永が、翻訳に取り組むことで文学の方向を探りつつ、一方で、詩歌という伝統的定型の中へ自らを投げ込むことによって、激しく文学創造を追及したこと、その創造行為のなかで、自らの生を「生き切ること」に懸命であった姿を確認しようと試みた。
 未発表短歌3首については、この短歌が「間違いなく福永のものである」こと(原稿は無署名)を確定した上で、各首の解釈を行い、解説を施した。
 その解説では、福永の短歌に対する捉え方、つまり、俳句が「現実を丸ごと捉えてしまう、制限された空間」を表現するものであるのに対して、短歌は「流れ行くものを捉まえる」という点、抒情を掬い取り、造型するものであるという福永の見方に焦点を当ててみた。この俳句と短歌の区分けは、また、福永の小説を検討する際の、重要な視点ともなるだろう。
 以上のような検討を通して、福永文学の成立過程の一端をみようとしたものである。(三坂)

2)『未来都市』について/渡邊 啓史
 全集4巻の序によれば、短篇「未来都市」は「面白いものを」という註文に応じて書かれたものであり、しかも作者にとっては、この「SF まがい」の作品も純文学、即ち純粋小説であるという。「面白い」純粋小説「未来都市」とは、どのような作品か。ここでは第一に、舞台装置としての未来都市の設定、第二に、物語の進行と主題、第三に、作品の構想過程の三点を検討し、その主題と作者の意図について、可能な推測を述べた。    第一に、舞台設定については、この作品が枠組みとしては、Huxley の良く知られた反ユートピア小説「すばらしき新世界」(1932)の構図、即ち、技術の進歩の果ての全体主義国家という構図を継承する一方で、未来世界の内容については Leibniz の「単子論」の、いわば parody になっていることに注目して、ここで作者はHuxley に対抗して、未来世界を舞台にした独自の反ユートピア小説を、文学的な「遊び」として試みたと考えられることを示した。この推測は、執筆時期からも裏付けることができる。また、何故 Leibnizであるかについても、可能な解釈を、根拠を示して与えた。 
 第二に、物語の進行については、物語の要点が、結局は「僕」とローザの「未来都市」からの脱出に帰着すること、およびこの最後の場面が Orpheus の地獄降りの神話を強く連想させることから、「未来都市」が実は「冥府」であり、二人の恋人たちが漕ぎ出す夕暮れの海が、「冥府」を取り巻く「忘却の河」であると考えられることを示した。Orpheus 神話という「補助線」は、この作品の構成の、多くの伏線を説明する。
 第三に、作者が如何にしてこの物語を構想したかについて、Shakespeare の戯曲 Tempest の結末と「未来都市」の結末との類似、および、その戯曲と Huxley の反ユートピア小説との関連を指摘した。
 Huxley の反ユートピア小説は、表面上、物質的には満たされた世界の悪夢を描いて社会を風刺、批判するが(物質的・社会的)、福永は、人為的な「悪」の消去により罪の意識から解放された世界において、幻想的な愛の再生の物語を展開する(下意識的・幻視的)。福永の試みた独自の反ユートピア小説は、通常の反ユートピア小説をさらに捉え直したという意味で、反・反ユートピア小説と呼び得ることを述べて、結論とした。
 話を終えて:通常の研究会に比べ、いくらか変わった話で、どう受け取られるかと思っていましたが、皆さん大変熱心に聴いて下さり、こちらも楽しく話をさせていただきました。質疑応答では、会員の鶴見さんから「この作品と、星新一の作品に似たものを感じるが、関係はどうか」という質問をいただきました。確かに、あの「ショート・ショート」という形式は、徹底して夾雑物を省いたという点では Gide のいう roman pur なので、「面白く書かれた」純粋小説という意味で、通じるものがあることに気付きました。濱崎さんの質問(「そもそも、どうしてこれが『未来』なのか」)にしてもそうですが、こうした質問は、むしろ答えさせていただく方が勉強になるもので、感謝しています。話を聴いて下さった皆さん、および、このような機会を設けて下さった事務局長の近藤さんと幹事の方々に、改めて御礼申し上げます。(渡邉)

<司会者コメント>
「近代日本文学形成の歴史は、世界文学の吸収とそれへの対決である。鴎外・漱石は言うに及ばず、潤一郎のワイルドやジョージ・ムーア、龍之介のゴーゴリやフランス、康成のヴァージニア・ウルフ、辰雄のラディゲやジード、そして戦後派の作家たちはもちろん、現在の村上春樹や池澤夏樹に至るまで、彼らは世界文学を吸収し、それとの対決を通して、普遍的世界文学を追求した。それは、特殊日本的な現実・人間ではなく、汎世界的な人間の原型・現実の原型の模索であった。
 そのようなコスミックな文学の果実として、今、私たちは『死霊』を、『生々死々』を、そして『死の島』を、「四季四部作」を持っている。               そのような文学についての研究は、また、必然的に比較研究たらざるを得ぬ。福永武彦の作家形成において、『悪の華』や『失われた時を求めて』や『贋金つくり』や、ヨクナパトゥーファ・サガは、決定的な役割を果たしているだろう。そこを、見極めねばなるまい。
 しかし、研究の現状は、極めて貧困である。多くは言うまい。今までの研究において、福永をハクスリーと、スウィフトと、ましてやダンテやシェイクスピアと「福永作品の分析を通して」、その関連と意義を跡付けた研究がいくつあるのか。そのような現状にある今、ここに渡邊啓史氏の「未来都市」についての画期的な発表が行われた。一言で言えば、上に述べたような「世界文学としての福永作品の成立過程」が見事に浮き彫りにされた、実に興味深い発表であった。しかも、それが比較文学研究によくある如く、ひとつか2つの作品を細かに検討して、両者の「関連のある、なし」を論じるだけで、文学全体の流れを見ないものとは異なり、シェイクスピアやダンテまでをも視野に収めた、実に眼のよく行き届いた、本格的な発表である。
 思うに、このような発表が、文学専門研究者ではなく、数学を専攻された渡邊氏によってなされたという事実にこそ、福永文学の普遍性、その開かれた文学の本質が、よく示されていると言えよう。
 道は示された。この方向に向って、私たちが研究を進めることにより、大きな成果をあげることが出来ると、私は確信する。(三坂)



第67回発表(2002.5.26)
1)『忘却の河』−「ゆき」を中心にして−/倉持 丘
 序論
 『忘却の河』のゆきの発想の転換を中心に考えた。自分は堀辰雄の作品に出てくる人物と同じ「発想の転換」(「気分の切り替え」、「気持ちの切り替え」)がゆきにみられると考えた。
 1 堀の発想の転換との比較
 堀は重病で苦しんだ。苦しさから逃れるために「発想の転換」が生まれた。本発表では、発想の転換が見られる作品として「風立ちぬ」や「恢復期」をとりあげた。
 2 ゆきは脇役から主役に発展
 ゆきは脇役から主役に発展する。「忘却の河」は第一章で終わる筈で、ゆきも普通の主婦として書かれていた。ところが連作となり、ゆきは、章が進むにつれて発展して行き、第四章に至って存在感を増し、主役となる。
 3 ゆきの発想の転換
 ゆきが肉親、最初の子を失い、さらに自分も寝たきりの重病になる。その苦しさから逃れるために発想の転換を図る。
 4 ゆきは式子内親王の歌に会う
 たまたま、ゆきは式子内親王の歌に出会う。恋人を思う式子内親王と同一化する。ゆきは学生の呉を愛したが、呉がマリアナ沖で戦死したあと、式子内親王の歌を通して呉を思うことによって慰めを得る。
 5 「古里は海」の意味
 ゆきは「古里」は「海」だと言う。これは呉の死んだ海であると考えた。
 6 結論
 ゆきは、寝たきりで歩くこともできなかったが、歌を通して思い出すことによって自由になることができ、苦しさから逃れることができた。

2)連続発表「文学と音楽の関係について」〜其1 前提及び西洋音楽に見る「文学的音楽」について 近藤圭一
 「文学と音楽の関係」というのは大変興味深い主題ではありますが、同時に大変困難な研究課題でもあります。誰でもそういうことは口に出来るのですが、では具体的に何だと問われると論証出来ないのです。我々の愛して止まない福永文学でも事情は同じで、よく「福永文学は『音楽的』だ」と云われるのですが、では「一体どう『音楽的』なのか」とか「どこが『音楽的』なのか」「抑も『音楽的』とはどういうことか」抔と問われたら薩張り分からなくなってしまうのです。少なくとも従来の論考の中で其の主題を正面から全面的に解明したものはないように思われます。小生も其の点を考えようと孜々努めては居りますが、浅学菲才故に中々考えがまとまりません。前回の会報で申した通り、例会の時間が余ってしまうので何らかの穴埋めを余儀なくされ、而も夫れが数回有る状況に立ち至ったので、逆に此の機会を活かして連続の穴埋め発表をして、論点を整理し、此の課題に活路を拓く道をつけ度いと考えています。
 今回は其の第1回で、先ず前提として文学と音楽の淵源を多少の想像も交えつゝ語りました。次に『萬葉集』の歌も引き、ソシュウルやロシア・フォルマリストの理論も少し紹介し乍ら、「意味性」を軸に音楽と文学の差異を話しました。次いで「文学的音楽」の例を論じ、Wagner の.ie Walkure(歌劇)や Schonberg の ̄elleas und Melisande(Maeterlinck 原作の戯曲に依る交響詩)の楽譜を引用し乍ら、楽音に意味を付与せしめて恰も文学であるかの様に音楽を構成した実例を見ました。繰り返し申しますが、之は「穴埋め」に過ぎないので、本来の福永研究会の目的に相応しい発表が予定されたら喜んで其の場を譲ります。「穴埋め」の為に本来の発表をし度い方が遠慮されてしまわれたら本末転倒です。そこで、次回はいつ行なわれることになるやら分かりませんし、若しかしたら其の機会は無いかも知れませんし、亦然うであることを小生も望んで居るのですが、若し次回があるとすれば今度は日本の近代文学の中に見る音楽に就いてお話しすることになるだろうと思います。(結局福永には到達出来ないかも知れません……。)



第68回発表(2002.6.23)
夢見る少年の昼と夜」と「退屈な少年」における福永の原型/鶴見浩一郎
 福永の作品にはしばしば「少年」が重要な人物として作中に登場する。福永がこの「少年」に象徴的な意味を持たせようとしていることは明白である。福永にとって「少年」とはどのような意味を持つ存在であるのか、今回の発表では明らかな類似性が認められる短編「夢みる少年の昼と夜」、「退屈な少年」を題材に考察を試みた。異なる作品に共通の特徴が認められるとき、それは単なる類似ではなく、その作品の成り立ちに共通の「原型」、すなわち作者の原風景、執筆動機、表現者としての精神構造が現れているはずである。「夢みる少年の昼と夜」、「退屈な少年」の二作品から読みとれる「原型」を書き抜くと以下のようになる。
 思春期前の「少年」が主人公。「夢〜」10歳(発表時著者の子息夏樹は9歳)、「退屈〜」14歳(夏樹15歳)。少年はお坊ちゃんでガキ大将とは正反対のタイプ(「退屈〜」ではこの時代背景においてもベッドを使うような生活をしている)。父親は知識人勤労者。母親を喪失している。しかし父親は再婚していない(福永の親の世代としては珍しい?)。母代わりの若い女性が身近にいる。その女性に幼い性的な関心、憧憬を持っている。その一方で女性への幻滅も感じている。外国の珍しいものを入れた宝箱を大事にしまっている。宝箱の中身は誰にも見せない。父親、祖父による外国の象徴の品がある。ギリシャ神話に関心を持っている。転校[予定]による疎外感があり、友達がおらず、一人遊びをしている。しかし友達がいないことを全く苦にしていない。一人で遊べることは大事なことだと思っている(回りの大人に言われている?)。少年は一人で「神」あるいは「運命」のような哲学的存在を相手に遊んでいる。それは儀式を伴っていて、目を閉じ、願掛けをし、目を開けると強い夏の日差しがある。蝉が盛んに鳴いている。その泣き声は「ジーッ」である。夏の風物としての蝉に関心があるが、生物学に詳しいというわけではない(蝉の子が鳴く!?という記述)。仲の良い友達(彼は寂しがりである)が病気で死ぬ。「作者」が作中で解説を行う。「少年」に対しては肯定的、大人に対しては肯定否定両面を描いている。愛に苦悩し挫折する大人を描くのに対し、少年は母親を喪った傷は持っていても悩むことなく伸びやかな精神を持つ者として描かれる。作中の人物の年齢がはっきり判るよう記述されており、年齢へのこだわりがある。
 これらの共通点は常に作者自身の意識の中の最も内奥にあり福永武彦という精神を形作る「原型」である。「退屈〜」では複数の登場人物が描かれるが、「夢〜」の少年も含めてすべて「原型」を軸にして重ね合わせて理解することができる。そこにあるのは福永の甘美な少年時代の記憶であり、そうありたかった理想の姿であり、作品を通して福永が読者へ、或いは妣(なきはは)へ伝えたかった福永武彦その人の心である。福永は自身の少年時代の記憶を極めて甘美なものとして大事にしていた。作品に描いた「少年」は福永の自己愛の現れであり、仮に後の弓道部の事件、戦争、療養中に家族を喪失したことなどの経験がなかったとしても福永が書いたであろうテーマである。
 発表後の討論の中で、福永は「小説家として想像力によって小説を組み立てる主義に属するが『草の花』だけは例外」という意味のことを述べているが、これは韜晦であって、実は「私小説作家福永」と呼んでよいほど実体験を題材にしているのではないか、という指摘があった。福永の作風が私小説的であるとは思わないが、実に面白い意見であり、研究会の楽しさを実感した瞬間でもあった。
 (蛇足)今回採用した方法論「原型」は元々ゲーテなどの18、9世紀の自然哲学的生物学における比較解剖学を基盤とする動植物の抽象概念である。ある生物分類群に共通する特徴からその生物群を定義する観念的モデルを「原型」として理解しようとするものである(岩波生物学辞典より)。ところが福永は「退屈〜」の中でダ・ヴィンチの人体図と文字の起源に関連して「原型」の語を用いて主人公の形而上学を解説している。内容としては通じるところがあり、福永がどこから「原型」の語を持ってきたのか興味深いところである。


第69回(2002.7.24)
田端文士村文学散歩レポート/松木文子
 私には「田端」を歩いたはっきりした記憶がない。東京に三十年以上も住みどこでも見て歩くのが大好きなのに、どうしたことであろう。今回、福永研究会で田端文士村を歩くというので、とても楽しみにしていた。
 7月14日(日)午後2時JR田端駅北口に8名が集まった。田中、倉持、濱崎、井手、金井、松木、近藤の皆さんである。(その他、最近良く会に見える非会員の岩館さんが見え、同じく非会員の渡辺さんが途中まで加わり、送別会には三坂さんも参加された。) 梅雨明けの強い陽射しと強風の日であった。それぞれの思い思いの服装が新鮮である。 駅前の大道理をいざ出発、と思ったら横断歩道を渡った先の半円形のホールのような建物が第一の目的地なのだった。「田端文士村記念館」という。北区文化振興財団が運営していて入館無料だ。栞によれば、明治末から大正・昭和の初期にかけて田端に多くの文士芸術家が住み交流し一時代を築いたのだそうだが、その多彩な顔ぶれは、まさに<芸術家村>というにふさわしかった。小杉方庵、板谷波残山、吉田三郎、香取秀真など画家や彫刻家などの芸術家が多かったが、文士も芥川龍之介、室生犀星、萩原朔太郎をはじめ堀辰雄、佐多稲子、小林秀雄など居り、足跡を記した人の数は大変多い。
 展示室は小ぶりだが、ホールに閲覧自由のビデオがあり、当時の田端ののどかな風景や、着物姿で書斎前の木に登る芥川の姿をみることができる。思い思いに1時間余を過ごした。
 栞の裏のマップの、文士村に住んだ人々の住まいの跡を辿る散策コースも魅力があるが、今回は駅前に戻り、東京駅北口行きのバスに乗る。向丘、本郷追分を通って東大農学部前で降りた。農学部の美しい透かしの門扉を目の隅に、東大本部キャンパスとの間の言問通りを少し進み、Y字路を右に入ると左手の3階建てのこじんまりした建物がある。それが立原道造記念館だった。現在は特別展「立原道造と杉浦民平―往復書簡を中心として−」(9月29日まで)を開催中である。
 こまごまと小さな字で綴られた葉書や手紙から多感な青春の交友のありさまが立ちのぼってくる。その他に展示されているのは、立原が自室の屋根裏の書斎で使っていた彫りの模様のある木製の机と椅子、ランプなどやパステル画、それに「ヒアシンス・ハウス」の模型。この「ヒヤシンス・ハウス」とは立原の設計による「5坪ばかりの独身者用の住居」で、寝室と書斎のワンルームに玄関、トイレが付いただけの極めてシンプルな建物なのだが、いまどきのsmallhouse,smallspaceなどのコンパクトな住居の先駆けにも思える。立原が長く仕事をしたら、箱型に閉じてしまえるキッチンとユニット・バスを付け加えてくれたかも知れない。次に立ち寄った根津神社で記念の写真を撮り、観潮楼跡の鴎外記念本郷図書館は時間が遅かったので外から眺め、地下鉄で千駄木からお茶の水へ出た。
 今日のもう1つの目的は、福永武彦研究会の運営にアクティブに関わってこられた会員の井手香里さんがご結婚のため郷里の愛知県へ帰られるその送別会なのであった。
 三坂さんと丸善の前で合流し、お茶の水駅前のイタリア料理店『カプリチョーザ』で井手さんのこれまでの労をねぎらい、新たな人生の門出を祝った。彼女が編集にたずさわった会誌第4号から第6号の会誌の充実は、装幀が美しくなったばかりでなくそれ以前よりステップアップして格段の努力の賜物と思われる。東京を離れれば月例の会への出席は難しくなるだろうが、会員であることに変わりはないし、インターネットのような新しい交流手段もあることなので、井手さんにはこれからも変わらぬアクティブな参加を期待している。昨秋から福永フアンとして参加させて頂いた私が書くのもおこがましい事だが、短い間にも感じられたことを記させて頂いた。
 近藤事務局長から記念の写真入れの額縁が贈られ、なごやかにボリュームたっぷりの料理を楽しむ中、今後もまたこのような文学散歩をしたいという声も聞こえる。次の機会は気候の良い季節に、作家たちの暮らしぶりを偲びながら町並みを大いに歩くのはいかがなものだろうか。(松木文子)


特別イベント(2002.8.24-25)
帯広例会サマリーレポート/近藤圭一
 福永研究会始まって以来の一大行事たる帯広例会は、お蔭様にて大成功の裡に2日間の日程を終えることが出来ました。参加者は会員の家族含めて20名、うち会員の家族ならざる非会員は6人でした。中でも、後で報告しますが田口先生のご尽力で事前に新聞に予告記事が出たので、其れを見て市内や遠く札幌からお出で下さった方が居られたことは大きな喜びでした。
 内容に就いては今月号より順次報告致しますので、如何に充実したものであったかお分かり頂けると思いますが、第一日(8月24日 土曜)は5時から6時頃に終了予定のところ7時近くまでかかったという熱気溢れるものでした。会場には山内先生が『ある青春』の初版本や映画「廃市」の帯広上映時のポスターを持ってきて下さり、また田口先生のお力で柏葉高校所蔵の昭和21年、福永が柏葉高校の前身たる(旧制)北海道庁立帯広中学校に提出した自筆の履歴書が展示されました。夜は宴会にて大変美味しい(而も安価な)料理を頂きながら話に花が咲き、一次会で3時間を過ごし、更に二次会に繰り出し、元気な人は三次会で気勢を揚げ、『トリスタン』ではないけれどもこのまま夜が明けないでいて欲しいという尽きることのない楽しい時を過ごしました。また、二日目(8月25日 日曜)は天気に恵まれ、「寂代」の地を経巡って往時を偲びました。偲ぶと云っても半世紀の時を隔てては当時の建物などは殆ど姿を消してはいましたが、辛うじて福永が住んでいた教会の牧師館の前にあって福永が通った野口病院や池澤が通った双葉幼稚園が残っておりました。(けれども野口病院は現在廃屋の為遠からず取り壊されるかも知れません。)十勝の風に触れつつ2日間の有意義な会を閉じた次第です。
 反省点としては、御協力を頂き準備には万全を期したのですが、2日目の朝に待ち合わせる場所をはっきりしておかなかった為に、行き違いになってしまった方が出てしまったことが挙げられます。わざわざ札幌からお出で下さった非会員の方なのですが、誠に申し訳なく、帰途札幌でお目に掛かりお詫び申し上げましたが、今後の戒めにしようと思います。
 なお、冒頭に北海道新聞の記事を載せましたが、道新は文学に関心が深いようで、小生も東京で事前に電話取材を受けましたが、一日目にもその初めの部分は記者の方が取材に見え、その結果が此の新聞記事となった次第です。次ページにあるのは田口先生のお力で出た新聞の予告記事2種です。亦、田口先生は近日中に道新に今回の会や福永と帯広のことなどに就いてお書きになるとのことで、次号でご紹介する予定です。
 今回の例会に至る経緯に就いては例会の御挨拶で申しました通りが、今月号は他の記事満載につき之は次号に譲ります。兎も角、福永ゆかりの地を訪れ、会員相互の交流を図り、或いは会員ではないけれども福永文学に大きな関心をお持ちの方との意見交換をすると謂う点においては一千倍の成果を収めることが出来ました。之も偏に今回の例会開催に当たって献身的なご協力を賜りました田口耕平先生、貴重なお話を賜り、亦ゆかりの場所を案内して下さった山内秋夫先生、縁のある場所を提供して下さった北海道立帯広柏葉高等学校、此のきっかけを作って下さった北見の藤田晶子さん、わざわざ大きな車で来て下さりお手間をお掛けした厚岸の会員室崎さん、そのほか多くの方のお力の賜です。本当に有り難う御座いました。(事務局長)


第70回(2002.10.27)
『風のかたみ』と『今昔物語集』、或いは作中の和歌との関連について/佐藤 武
 今回の研究に当り、私は福永武彦の現代語訳『今昔物語』を読み直してみた。『福永武彦全集』第9巻の末尾には、その中から『風のかたみ』にヒント程度に使ったと作者自身が言う十九の話が収められているが、それ以外の話の中にも、若干ではあるが『風のかたみ』の中の地名、人名等に参考になったと思われる話が発見出来たことは収穫だった。
 また、『風のかたみ』の作中には和歌が十首あり、その内二首は『万葉集』『古今和歌集』からの引用だが、残る八首が福永の自作かどうか確認する為に、上代・中古・中世の和歌を調査した。その結果、この八首は現存の和歌集には無い事が判明した。従って福永の自作であることは間違いない。
 これらの歌は『万葉集』等の和歌を参考にして、本歌取りの手法で詠んだものである。福永の唯一の歌集『夢百首』にはこの八首は収められていないが、その理由はここにあるのだろう。なお、「本歌取り」とは旺文社の古語辞典によると、「意識的に昔の歌を手本にして作歌すること。背後にある古歌と二重写しになって、余情を深める効果がある。余韻、余情をたっとぶ新古今の時代に特に重んじられた表現技巧である」とあり、『風のかたみ』に即してここに具体例を一首挙げると、

(本歌)待つらむと契りしほどを忘れずば誰かながめて日を暮すらむ(藤原定家『拾遺愚草』)
(福永武彦作)待つらむと契りしほどを忘れずば身の朽ちぬまの逢うこともがな
(『風のかたみ』では萩姫の作ということになっている)
  という具合になる。
 調査の結果、上三句が全く同じ歌が上に引いた歌の他に二首発見し、他の五首についても作歌の参考になったと思われる本歌を見つけることが出来た。いずれも意味の分かりやすい作り方で、声に出して詠みたいほど粒揃いの歌である。
 福永には『今昔物語』の他にも『古事記』や『日本書紀』『御伽草紙』等の現代語訳があり、古典に対する造詣の深さはかねてから知ってはいたが、今回の調査を通じてそのことが改めて分かった次第である。

<コメント>
(所感 其の一)今回の佐藤武氏の発表は、周到に準備された資料と、自らの作歌体験に裏打ちされた、実に興味深いものであった。
 全体の「あらすじ」を確認した後、『風のかたみ』中の短歌10首が、自作の『夢百首・雜百首』に未収録の点に着眼し、作中で出典が明らかにされている2首以外の8首も、実は『万葉集』や『古今集』、わけても定家の『拾遺愚草』からの、見事な「本歌取り」であることを具体的に指摘された。これらの歌の比較検討の精しい資料は、佐藤氏の長期に渡る準備を物語り、また、第10首目の歌(「跡もなき〜」)についての解釈には、氏の作歌経験が反映しており、充分納得のいく、見事なものであった。さらに、この『風のかたみ』が、どの程度『今昔物語』を下敷きにしているかを、福永自身が明らかにしていない巻までも調査し、比較された点が注目される。
 今回の発表は、福永が、日本文学の伝統を実によく踏まえて作品創造をしていることが如実にわかる好発表であり、それは、佐藤氏の(付け焼刃ではない)、日頃からの福永作品と歌に対する研鑽の賜物であろう。ただ一点、発表の手順として、「あらすじ」は資料として配布されていたことでもあり、その全文にわたる音読は、やや発表を間延びさせた感があった点だけが惜しまれる。(三坂 剛)

 (所感 其の二) 日本文学の研究は「訓古学」と言う学問に其の一つの源流があります。『万葉集』や『古事記』、或は『古今集』や『源氏物語』などの「古典」を「訓ずる」ところから出て居るのです。其の学問は、時間をかけて多くの書物を繙き、記憶し、其の中で聯関性を見出し注釈をつけていくのです。最近の文学理論の研究ではそういう方法ははやらないのかも知れませんが、其の成果は誰も否定することは出来ません。そして今回の佐藤さんの、半年かけて準備したと云う此の発表は、そういう伝統が脈々と息づき、福永文学に対してゞさえも有効な方法であることを実証したように思われました。
 『風のかたみ』という、一種通俗的に見えるもので、而も「王朝もの」に分類される福永文学としては珍しい作品は、其の特殊な性格故に福永文学の系譜から外れたものとして扱われている嫌いがなくもなく、研究もさして盛んではないようです(尤も福永文学全体も盛んではないのですが)。しかし、丹念な調査を基にすれば新しい可能性が開けてくるのだろうと云う展望が今回示されたような気がします。斯う云う発表は、発表しっぱなしでは余り意味がないので、発表した本人や聞いた人が其の後を如何に発展させていくかゞ大切です。自分としても之からもう少し考えていこうと思った次第ですが、同時に他の方にも大いに期待しています。(近藤)


第71回(2002.11.17)
「飛ぶ男」を読むー「風花」との比較検討/高野泰宏
 以前に発表した「風花」と「飛ぶ男」の作品構造を比較し、「死の受容」についての考察を試みた。「飛ぶ男」で主人公「彼」は魂と肉体の2つに分けて描かれており、両者が同時並行に物語に登場する。そして最後でこの2つの「彼」は合体し、死の受容が行われていると分析した。このような構造は「彼」に精神、肉体の両面で「死」を受容させるための仕掛けとして機能しており、本作品は叙情的に仕上がっている「風花」とは異なった主題を持っていると考えられる。
 研究発表時に、本作品は「世界の終わり」と比較すべきであるとの御意見をいただいた。これは宿題として持ち帰り、検討することにしたい。発表を終えてみて、「風花」と比較したのは的はずれであったとの印象を持った。


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