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福永武彦研究会・例会報告(17)
第175回(2019年3月)~第182回(2020年7月)
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【第182回研究会例会】 2020年7月26日(日)
【第181回研究会例会・総会】 2020年6月28日(日)
【第180回研究会例会】 2020年1月26日(日)
【第179回研究会例会】 2019年11月24日(日)
【第178回研究会例会】 2019年9月29日(日)
【第177回研究会例会】 2019年7月28日(日)
【総会・第176回研究会例会】 2019年5月26日(日)
【第175回研究会例会】 2019年3月24日(日)
*直近の研究会例会報告は、本サイトのTOPページに掲載されています。
◇第182回例会
日時:2020年7月26日(日)13時~16時30分
場所:各自自宅
【例会内容】初のリモート例会となりました。今回の参加費は無料。
・互いに画像や音声調整。通信に支障があり1人参加を断念。
・Kiさん小発表。
・Haさん小発表。
・Miさん小発表。
・初のリモート例会の感想。
*各発表後に、質疑応答。
【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
Kiさん:発表概要
「小説 風土」第一部から読み取れる登場人物の「海」に対する想いについて
Ⅰ.概要
福永は、随筆「海の想い」(「遠くのこだま」所収)の中で、「風土」について以下のように書いていて、本作品において「海」のイメージが果たす意味が大きいと判断される。
そして詩を書いていた頃、私は同時に「風土」という小説を構想していたが、その小説の人間的葛藤の向う側に、いつでも海が、一種の運命のように横たわっていた。そして私はそれ以来、海を人間の生、或いは人間の死の象徴のように見ることで、小説の発想を促されることがしばしばある。
「風土」電子版の検索機能とコピー・ペースト利用により、作品に頻出する語「海」(雑誌初出版に約220か所)をキーワードとして、登場人物の海に対する想いをまとめてみた。
ただし、所有のパソコン(Windows10)のKindleでは、初出版ではコピーの際に漢字の抜けが生じるので(後述)、引用文は決定版からコピーした。
Ⅱ.まとめ
第一部から以下に引用した文章より各人の「海」の捉え方が、彼らそれぞれの生き方を象徴しているようだ。また桂、久邇、道子の海への想いは、福永自身の海への想いが部分的に含まれているようだ。
桂昌三にとっての「海」:孤独・絶望
久邇にとっての「海」 :慰安、未知、死の予感
道子にとっての「海」 :慰安、希望・勇気
芳枝にとっての「海」 :慰安
(本文よりの引用)
-1.桂昌三
僕にとって、海はどうも近づきにくいもの、愛し得ないものです。(中略)僕にとって海が親しみに くいのも、やはりボードレールの言うように、海がこの醜い人間の鏡だからでしょう。一体、海は孤独の象徴です、人間も孤独です、しかし海の孤独はあまりに大きすぎる、
──海は、さっきのを少し訂正して、単に孤独というより絶望といった方がいいかもしれないな。孤独と絶望とは違う。孤独とは持続的な魂の状態ですが、絶望は急激な自己破壊の発作です。つまり孤独とは、魂の最も純粋な持続によって、人間を絶望から持ちこたえているものです。ところで僕が、さっき海を絶対の孤独といったのは、こうした自己破壊の発作が永久に疲れることなく続いている、謂わば持続せる絶望であるという意味なのです。それは人間にはもう理解の出来ないことですね。人間は希望に支えられて僅かに生きているだけですからね、絶望を持続することは出来ない。絶望は死に通じています。だから海は、あまりにも人間以上の、人間に敵対する自然という印象を与えて、人間の小さな孤独を押しつぶしてしまうんですよ……。
こういうふうに海がいなのは、僕の幼年時代の環境が作用しているのかもしれませんね。(中略)子供の印象に刻まれた海には、何の浪曼性もない、陰鬱で、絶望的な回想ばかりです……。
海はまったく人生に似ているよ、粗暴で、強情で、残酷で……。それでいて実に原始的で、
-2.久邇
──僕なんか、とおずおずとした声で久邇が言った。海はやさしくて人を寝かしつけるもののような気がします。悪く言えば、いつのまにか人を死の方へ誘って行くような……。(中略)何だか死の匂のようなものを感じるんですが。
海とは何だろうか。この不思議な、未知の存在。その中には、確かに旅への誘いのようなものがある。この海の向うには、いつでも、僕たちが餓えたように憧れている未知なものと、その未知を解く鍵とがあるようだ。しかしそれは何だろう、この僕たちを誘って行くものの正体は。それはひょっとしたら死かもしれない。海には死の匂がする。海は結局死の仮面で、その快い音楽で人の心を麻痺させながら、いつのまにか人を死に導くのかもしれない。
-3.道子
海が透明な衣裳で包んでくれると、あたしたちの身体が汚れのないものに変るのだわ。その代り、考えることだって違って来る。夢のような希望や、外国のことや、生きることや死ぬことや、色んな難しい問題を考えるようになって来る。これも海があたしたちに与える作用なの。海はちっとも怖くはない。海は悲しい時にあたしたちを心から慰めてくれる。
海は心の中にまでいつのまにか沁み込んで、何か遠いもの、涯ないもののやるせなさを植えつけてしまう。ちょっとした悲しみが本当の純潔な悲しみにまで高まって、その上で、生きていることはいいことだというような、うっとりした悦びの中に溶けて行ってしまう。あたしは海が好きなのだ。
あたしは海が、生きる場所を思わせるから好きなのだ。それは一つの戦場なの。海は闘いへの勇気を与えてくれる。
-4.芳枝(道子の想像による)
ママンがずっと海の側でお暮しになるのも、パパのいらっしゃらない寂しさを、海の声、海の馨り、海の感触で紛らしたいからなのだろう。
ママンには、海はただの慰めにすぎないのね。そこではどんなに傷ましい過去も、死の記憶さえも、蒸気のように消えて行ってしまう。
Ⅲ.電子全集を利用して気がついたこと
今回、電子全集の検索機能、文章コピー・ペーストの利用が、作品検討の際に非常に有効であることを認識したが、以下の点に注意が必要。
-1.検索機能
所有のパソコン、スマホのKindleでは、初出版では新・旧漢字の「海」どちらによっても検索できなかったが、Kindle専用端末では新漢字の「海」で初出版の検索もできた。例会出席者で、初出版の検索も問題なくできた方もいたので、通信機器の環境による差があると考えられる。
-2.コピー、ペースト機能
パソコン版Kindleを使用したが、初出版ではコピーしてペーストした際、漢字の抜けが生じた(赤文字箇所)。決定版のコピーでは抜けがなかった。コピーの際、文字の間隔が空いてしまうのはどちらも同じ。Wordには空白文字を詰める一括処理機能(以下のアドレス参照)があるので対処できる。
http://ciao.aoten.jp/ciao/2013/01/word-b678.html
(初出版のコピー、ペースト例)
海 が 明 な 衣裳 で んで くれる と、 あたし の 身 が 汚れ の ない もの に 變 る の だ わ。 その 代り、 考へる こと だ つて つて 來 る。 夢 の やう な 希 や、 外 國 の こと や、 生きる こと や 死ぬ こと や、 色んな 難 し い 問題 をも 考へる やう に なつ て 來 る。 これ も 海 が あたし に 與 へる 作用 なの。 海 は ち つ とも 怖く は ない。 海 は 悲しい 時 に あたし を 心から 慰め て くれる。 ママ ン が ずつ と 海 の 側 で お 暮し に なる のも、
(決定版のコピー、ペースト例)
海 が 透明 な 衣裳 で 包ん で くれる と、 あたし たち の 身体 が 汚れ の ない もの に 変る の だ わ。 その 代り、 考える
こと だって 違っ て 来る。 夢 の よう な 希望 や、 外国 の こと や、 生きる こと や 死ぬ こと や、 色んな 難しい 問題
を 考える よう に なっ て 来る。 これ も 海 が あたし たち に 与える 作用 なの。 海 は ちっとも 怖く は ない。 海 は
悲しい 時 に あたし たち を 心から 慰め て くれる。 ママ ン が ずっと 海 の 側 で お 暮し に なる のも、
-3.コピー文字総数の制限
コピー可能な総文字数には出版社が設定した制限(明記されていない)があるので要注意。
Haさん発表概要:『風土』について
1.『風土』各版の構成の比較
『風土』の5種類の版の構成の比較を付表1(省略)に示す。『風土』の本文で検討する価値のある版は付表1と表1の①~⑤に示す5種類であると思われる。
2.各版の本文の比較
(3-1)比較の組合せ
初出の後に出版される版が書き換え箇所が最も多いと予想される。従って2つの版の比較は直前の版との比較で十分であるように思われる。
①~⑤の5種類の版の比較の組合せ数を表1に示す。
(3-1-1)3つの版の本文の比較
①初出版、②省略版、③完全版の3種類の版の(2つの)比較の組合せは、初出版に第三部が欠け、省略版に第二部が欠けていることを考慮すると、以下の4種類となる。
(A)初出版/省略版 第一部 (電子全集の本文主要異同表Ⅰ)
(B)初出版/完全版 第二部 (電子全集の本文主要異同表Ⅱ)
(C)省略版/完全版 第一部 (電子全集の本文主要異同表Ⅲ)
(D)省略版/完全版 第三部 (電子全集の本文主要異同表Ⅳ)
○今回は初出版との比較をした(A)、(B)を検討する。(A)と(B)は『福永武彦研究』第十号2014年に掲載されている表を使用した。
省略版との比較((C)、(D))は次回に検討する。
(3-1-2)5つの版の本文の比較
表1に示した5種類の版の比較の組合せは、初出版に第三部が欠け、省略版に第二部が欠けていることを考慮すると、10種類となる。
初出の後に出版される版が書き換え箇所が最も多いと予想される。従って2つの版の比較は、直前の版との比較で十分であるように思われる。あるいは表1の『風土』の①~⑤の5つの版を各部ごとに同時に比較することも有用であると考えられる。
(3-2)本文照合のメリット
外国語の翻訳が原文テキストの精読の方法であるように、本文照合により本文を精読することになることが、本文照合のメリット一つである。
4.初出版との比較
(A)初出版/省略版 第一部と(B)初出版/完全版 第二部の本文主要異同表のうち、いくつかの別掲文の検討を行なった。
(4-1) (A)初出版/省略版 第一部の別掲文
①第一部二章3(省略版53頁18行)
本筋である三枝太郎の絵の話から外れる内容を初出版から省いたことで、省略版のほうがスッキリした内容になった。
②第一部四章1(省略版107頁9行)
省略版でゴーギャンの絵を手に入れた船員が喧嘩騒ぎで殺され、絵を売りつけられた男が病死したという不吉なエピソードを加えることで、この絵が縁起の悪いことが強調されて、効果的である。
④第一部四章2(省略版119頁12行)
桂にとって、より深刻な苦しみである芳枝と三枝の結婚及びお君さんの自殺のことを加えることで、桂の苦しみを強調した。
⑧第一部四章3(省略版128頁4行)
初出版に比べ省略版では内容が大きく異なる。芳枝の桂に対する思いが強く表現されている。「わたしはあの時まで、太郎も好きだった、桂さんも好きだった、......。そして太郎から結婚を申し込まれるまで、わたしの心は長いあいだ二人の間を揺いでゐた。」
(4-2) (B)初出版/完全版 第二部の別掲文
①第二部一日(2)過去(完全版166頁6行)
完全版では天上と地上とを合わせた広い世界を描いている。:
天上の遠い輝きを映した理想の生だ、
手をつないで舞曲を踊る天使の群れ、
地上の人間のかかわり知らぬ希望の生、
②第二部一日(2)過去(完全版166頁17行)
完全版では「月光」の第三楽章の第一主題が生、第二主題が死の呼声であることをはっきり書いている。これによりこの段落が理解しやすくなる。生と死を対照的に描いている。最後は死の勝利となる。「...束の間の短い生は、虚無から虚無へ、忘却から忘却へ死から死へ、......」
Miさん:発表概要
初のリモート開催となった7月例会は、事前に使用プリントをメールで参加予定者に送った上行なわれたので、当日は(画像オンの状態だと音声が途切れがちなので)全員画像オフの音声だけで行なってもほとんど支障は感じなかった。
「小説風土」の生成過程に関わる、論文等で顕かにされていない事実を解説した。ここでは論証は抜きで記す。
福永の象徴主義長篇小説は、どの作品も綿密なメモや創作ノートを取り、長期に渡って構想・執筆されるので、すべて創作過程(生成過程)をつぶさに追い、語句の書き換えや増補などの修正跡と同時に、構想全体の練り直しの跡を調べ、その構成の変遷や主題の明確化の過程を確認することが研究上必須となる。
「小説風土」(「風土」でなく「小説風土」と記す理由は、電子全集第2巻解題に記した)は、若き福永が10年の歳月をかけて、小説家としてのメチエを鍛え上げつつ執筆した小説なので、その語句の書き換えや増補跡が著しく、更に構成の練り直しが幾度もなされた跡も歴然として残っている。
例会では、その中で ①現在の1939年、過去の1923年という年代が決定された時期、②第2部の構想が最終的に固まった時期の2点を主として解説した。
①福永自筆創作ノート1947年(電子全集第2巻附録Ⅲとして画像を収録)の翻刻を配付し、そこに「※過去の章を独立させる」、「※年代決定、1939年、過去大正12年」、「1947年(昭22)第五のノオト (予定9章)、過去の章独立」と記されている点に注目し、現在と過去の年代が決定したのがこの1947年にかかることを説明した。その際注意すべきは、この時点でも過去は「章」の扱いであり、「第二部」とはなっていない点である。今まで、この点を論じた論文を知らない。
同時に、「方舟」初出文執筆時点(~1945年)では正確な年代が決定していなかったということは、この自筆資料を参照しなくとも、初出雑誌と省略版本文を対照することにより推測できるという点を指摘し、本文対照の意義を強調した(電子全集第2巻解題参照)。
②電子全集第2巻附録Ⅳに収録した1948年執筆の自筆資料2種を参照し「第二部」の構想が「部」としてハッキリと確定したのは、1948年夏前であることを説明した。この点を証した論文を知らない。省略版の「後記」に、帯広にいる間(1946.4~1947.10)に一度「第二部」を書いたが破棄したという言葉があり、それをソノママ受け入れ、1947年には既に「第二部」が一旦は書かれていたという前提に立って論じられているだけである。しかし、これは既に作品が完成した後の言葉である。「第二部」が最初から構想されていたという論証はなされていない。
また、第2部が出来上がった段階でも、その章立ては私たちが現在知るものとは異なり3章構成であったこと、また過去を「遡行的」に遡る案も未だ構想されてはいない点に注目した。そもそも1948年前半に於いて、1923年という年は決定していたとは言え、それが夏(7月、8月)とは確定されていなかった点に注意を促した。
それが最終的に確定された時期は何時か。それに示唆を与えてくれるのが、「文學51」の責任編集者の矢内原伊作宛はがき(1950.12 電子全集第2巻解題に翻刻収録)である。そこでは、今「有島武郎情死事件」発覚の月日を「加藤」に問い合わせており、「もしアナクロニスムなら、この部分を書き直します」とある。そして、最後に「題名のあと、第二部過去、を次のやうに補足して下さい。第二部 過去(一九二三年八月)」と依頼していることから、この情死事件を挿入することで、日本歴史の枠組みにしっかりと小説を結び付け、現実味を持たせるという意図がこの時期(からさほど遡らない時期)に生れたことを物語っている。つまり、最終的に1923年の年「月」が確定されたのは、この1950年秋にかかると推定される。
そして、このように第二部の構想が固まらなかった理由は、そもそも「小説風土」はレシとして構想されていたことによる。「小説風土」は一つのエチュードとして執筆され始めたのだ(電子全集第2巻附録Ⅱ参照)。この点を論じた論文も未だ知らない。
【「小説風土」初出雑誌紹介】 *各表紙画像は、電子全集第2巻「底本一覧」に収録。
・「方舟」:
創刊号奥付
第2号奥付
創刊は1948年7月で、同年9月の第2号で終刊。発行は河出書房。変型判(縦横205㎜・176㎜)、第1号115頁・80円、第2号120頁・100円。旧字・旧かな。冒頭に「(横書きで)ROMAN 風土1(或いは2)」とある。
表紙に「matinée poétique」と記されていることからわかる通り、戦前からのマチネ・ポエティクメンバーが中心となった雑誌で、編輯同人は中村真一郎、加藤周一、福永武彦、白井健三郎、窪田啓作、そして新たに矢内原伊作、森有正が加わり、編輯者にドイツ文学者原田義人を据える。
執筆者は、前記同人と原條あき子のほかには、渡邉一夫のみ。しかし、その志は高い。「われわれはこれを、詩・小説・戯曲・評論の創造實踐を通じて、開かれた世界に向ふ新しい美學をつくるための舞臺たらしめることを希つている」とその発刊の辞にある通り、従来の詩篇に限らず、より広い藝術表現の創造を通して「新しい美学」を打ち建てることがその目的であった。この雑誌「方舟」の発刊は、マチネ・ポエティクメンバーの熱望するところであり、表紙にその名を冠していることからも、戦後のマチネグループの理念実現の舞台として重要である。
「小説風土」は、この「方舟」創刊号に、第1部第1章・第2章が、そして第2号に第3章が発表されたが、それは、1945年までに執筆されていた原稿である。注目すべきは「風土」の頭に「ROMAN」と横書きで記されている点である。第2号の「編輯後記」で、原田は「作者の意圖は、既に完成した四章の後に、過去の物語が描かれる第二部三章が續き、次いで再び現在に歸つて、第一部と略々同じ分量と形式とを持つ第三部が來る豫定である」と記している。1948年9月の時点では、第2部が(上記で指摘した通り)3章の構想だと福永が伝えていたことがわかる。
・ 「文學51」:
創刊号目次
創刊号奥付
第2号奥付
第3号奥付
第4号奥付
「方舟」が河出側の事情で廃刊となった後、1951年5月に創刊、同年9月の第4号で終刊。発行は日本社。A5判、第1号140頁・80円、第2号140頁・80円、第3号140頁・80円、第4号76頁・50円。旧字・旧かな。毎号、冒頭に「風土 (長篇第1回)」とある(或いは第2回~第4回)。
編輯委員は、中村真一郎『戦後文学の回想』によれば、鮎川信夫、原亨吉、平井啓之、堀田善衞、加藤道夫、串田孫一、中村真一郎、中村稔、宇佐美英治、矢内原伊作の10名であるが、本誌に記載はない。編輯人は「文學51の會」と大草實(註
嵯峨信之)と奥付にあるものの、実質は矢内原である。前記の者以外にも、創刊前後の集まりには、白井浩司、芥川比呂志、日高六郎、倉橋健、窪田啓作、富士川英郎などが参加している。詩人、小説家、学者ばかりでなく、演劇を含めた多彩な分野の執筆陣を糾合した雑誌であった。
「小説風土」は、この雑誌の創刊号に第1部第4章が発表され、続いて第2号(1951.6)、第3号(1951.7)、第4号(1951.9)に、「過去」を扱う第2部全体が連載された。この連載に於ては「風土」の前に「ROMAN」の文字は記されていないが、代りにその後ろに第1号では(長篇第一回)と明記されており(第二回以降も同様)、やはり「長篇」(=ロマン)と明確に意識された作品であることがわかる。
この雑誌でとりわけ注目すべきは、加藤周一、中村真一郎、福永武彦、原條あき子、山崎剛太郎など、マチネ・ポエティクの主要メンバーが参加している点である。「方舟」の編輯長だった原田義人も第2号に一文を寄せている。雑誌の実質的牽引者の矢内原伊作が記した創刊号の「編輯後記」には、朝鮮戦争勃発後の再軍備が叫ばれる風潮の中で、人間としての責任と文学者としての責任という2つの課題が挙げられ「日本の進路を決するのは日本人自身である。日本人の誰もが深い関心をもっている問題に文学者が眼をつぶっていてよいわけはない」という判断の下、アクチュアルな問題への言及をも行い、文学者・表現者としての創造を通して、人間の精神に奉仕することを目標に掲げ、その協同を訴える。矢内原は、この雑誌創刊に向けて、前年より何度も前記の人々と会議を重ね、皆の意見を編輯方針として纏め上げていった。
Fuさん:近況
今年4月に「日本詩人クラブ」に正会員として入会し、6月に「日本未来派」の同人に、7月に「舟の会」誌友になりました。
7月末に「2020現代史先週39」に私の詩「カッパドキア」が載りました。2年に一度の発行で約500名の詩が載ります。
現在73歳ですので、あと10年位はぼちぼち頑張って書いていく予定でいます。宜しくお願いします。
◇第181回例会・総会
日時:2020年6月28日(日)13時~17時
場所:川崎市平和館 第2会議室
【総会内容】
・2019年度会計報告
・2020年度運営委員選出
・2020年度例会内容案の審議
【例会内容】
・第4随筆集『夢のように』の検討。
・「資料で愉しむ福永武彦」
・Haさん小発表。
Haさん:『夢のように』について
- 1.福永武彦(1918-1979)の随筆集
(1-1)発行年(初出年)
①『別れの歌』1969年(1949-1969) ②『遠くのこだま』1970年(1951-1970)
③『枕頭の書』1971年(1954-1971) ④『夢のように』1974年(1968-1974)
⑤『書物の心』1975年(1947-1975) ⑥『秋風日記』1978年(1971-1978、補遺を除いて)
・『枕頭の書』の後記に「実を言うと、既に最初の本を出す時三冊分に足りるぐらいの分量があった」とあり、『別れの歌』の出版を考えた時に、①~③の構成をほぼ終えていたと推察される。
(1-2) 各随筆集の内容
①『別れの歌』:回想と追憶に関する随筆及び信濃追分だより
②『遠く』のこだま』:日常茶飯及び旅行と芸術作品の印象に関する随筆
③『枕頭の書』:書物に関係のある随筆
④『夢のように』:②の続編
⑤『書物の心』:③の続編及び推薦文と書評
⑥『秋風日記』:1970年以降の随筆と補遺
2.『夢のように』
(2-1) 内容(大項目)
・十二色のクレヨン:「ミセス」に連載の随筆(1968年11月~1969年10月、隣家の違反建築の話を省く。)
・美術随想:ロートレック、ドラクロワ、ゴーギャン、ムンクについての随筆
・音楽随想:レコード批評、ワルター、シベリウス、ベートーベン等についての随筆
・身辺雑事:回想と日常茶飯事
(2-2) 語り手の表記
・語り手の表記として《僕》は使われずに、ほぼすべての作品で《私》が使われている。
3.『夢のように』の中で印象に残った随筆
(十二色のクレヨン)
〇「仲人」1968年執筆
・信濃追分の福永の別荘での思い出の中で、別荘で知り合った若者の結婚式の仲人を務めさせられた話。仲人を務めたふた組の話で、読んでいて微笑ましい。
・「この土地がいくら堀さんの小説の舞台だからといって、地で行っては困るよ、君たち、あまり仲よくならないようにしてくれよ。」...「...僕たちが結婚するのは、すべてあなたの責任ですよ。」
(美術随想)
〇「世界の謎」1969年8月執筆
・福永がゴーギャンの油絵の原画(かぐわしい大地)を戦争中に大原美術館で初めて見た話。
・「これはゴーギャンが幻想として見た世界にすぎない。」
・「世界は彼の内部にあり、その内部の謎を解くためには、新しい風土は幻想のための材料に過ぎなかった。」
(音楽随想)
〇「ベートーベン寸感」1970年1月執筆
・「...私が二十代に初めて書き始めた長篇小説「風土」は、その重要な主題として、「月光」ソナタを持っていて、当時私がこのピアノ・ソナタに夢中になっていなければ、果たして小説を書き出したかどうかも疑わしい位である。」
・「(療養所で)私は毎日、朝から夜まで、ラジオであらゆるレコードの放送を聞き、」
・「私は結論として二種類の音楽を考え、その何れもが、私にとって意味がある、或いは、私をして生かしめることが出来る、と考えた。 一つはモツァルトの音楽、及びその亜流。 一つはバッハの音楽、及びその亜流。」「モツァルトによって代表されるものは、時間の中で滅びて行くことに甘んじる一つの甘美な流れ、...。もうひとつのバッハ、それは時間の外に、或いは時間を超えた永遠の彼方に我々を導く。」
(身辺雑事)
〇「夢のように」1973年5月執筆
・「そこで人は、現実の本質が最も露呈したような場合に、この不思議なものを「まるで夢のようだ」という比喩を使って表現する。」
・「しかし夢の中で最も大事な部分、それは現実の無意識界から意識的に抽出された部分と合致する筈だが、それを言語によって記録することは私にかせられた仕事であり、私はまだ自分の仕事をすっかり果たしたわけではない、」
Miさん:皆さまへ、特に研究者諸氏へ
- 1.現状へのひとつの提言。
具体的にお訊きします。皆さんは、福永真筆と贋モノの区別がつきますか? 1枚の色紙を見て、その字が福永のものか否か判別できますか? 無意味なことを訊いているのではありません、現に今、ヤフオクや「日本の古本屋」にはイケナイモノ(贋モノ)が出ています。自らが購入しようと思っても、真筆か否かわからなければ賭けのようなものです。また「買おうか迷っているんですけど、これ大丈夫ですか? 福永の字ってこんな感じですか?」と学生に訊かれた場合、適確な答えが出来なければせっかく自筆物に関心を持った学生の知的興味を摘んでしまうことになります。
或いは、小さな紙片に書かれたメモを瞥見しただけで、それが福永自筆か否か、何時頃書かれたモノかほぼ判定できますか?
そもそも、福永の細かな字を精確に読めますか? 仮に読めなければ、新出とおぼしき資料が出てきた際、その価値を見抜くことができず、たとえ資金はあっても、購入する決断が出来ず、見逃すしかありません。冊子に掲載することも出来ません。
更に、古書市場に、現時点でどのような福永自筆モノが流通しているか、情報を持っていますか? 情報がなければ、これから先も、福永資料は慧眼な愛読者の手に先に渡り、ドンドン市場に流れて秘匿されてしまいます。
重ねて尋ねます。『小説風土』の初出文を全て読んでいますか? 『死の島』の初出文を全て読んでいますか? 読んでいるなら、その両作の構成が最終決定したのは各々何時ですか?
このような問いは、研究者にとって無意味なものではない筈です。
現在の福永研究は、論理性と独創性にばかり主眼が置かれ、実証性に著しく欠けているように外部の者からは見えます。私の言う実証性とは、① 「年譜的、書誌的、文献的知識」に加えて、②「各版の本文ソノモノに関する綿密な検討」の上に成り立つものです。①に関しては、全ての作家(芸術家)の研究に当てはまることですし、今まででも一般に了解されていることですが―しかし、この①に関しても極めて中途半端な実情ですが―、②に関しては、ほとんど注目されていません。せいぜい「大きな書き換え箇所」が採り上げられるだけです。小さな違いが多数あっても、「その他には、大きな違いはない」で片付けられてしまっています。
つまり、一文の意味を主として追いかけているのですが、しかしながら、福永の象徴主義小説の研究には、この②でも、とりわけ細かな手入れ跡の「積み重なり」をいちいち対照することが、決定的に重要なことだと考えます。意味を蔑ろにするということではなく、それに加えて言葉の響きソノモノや文面の印象が大切ですし、更には本自体の造本にも留意しなければなりません(初版本を手にすることの重要性)。
それらが相俟って、言葉に触発されて読者が創り上げる世界は微妙に異なってくるからです。詳しくは、電子全集の「解題」で繰り返し説明しましたが、電子全集の内容自体(小説や詩篇では数種の版を収録したこと、各著訳書の表紙画像を全て掲載したことなど)が、それらの重要性を如実に物語るようにしました。
研究の現状では、①も②も中途半端に蔑ろにされているので、このことを繰り返し強調しなければなりません。貴兄・貴女たちの研究書やプロジェクト冊子掲載の「年譜」や「解題」の間違いからも、その状況は明白です。
勿論、誤りは誰にでもあります(私の年譜にも残念ながらある)。ただ問題は、間違っていることにではなく、①や②の実証性を瑣末なことと思い違いして、論の論理性、独創性のみを競おうとするその研究態度にあります。福永資料の価値を見抜く眼を養おうともしないで、セッカチに独創性を追求しようとする現状、各版の本文対照をまともに成そうとせずに、徒らに解釈を施している現状にこそ問題はあります。
冒頭の質問は一例ですが、それらに(最後を除き)YESの答えを与え、各種資料に精確な解題を附すことが出来るというのが、研究者の能力の一つであることに異論はない筈です。そしてそれは「一つの能力」であるばかりでなく、「研究者として備えるべき基本的能力である」と私は考えています。
福永の自筆モノが自信を持って判定できなければ、「新出資料」を発見することを出来ず論文に使用できませんし、その年譜的事実や書誌的事実が頭に入っていなければ、手許の資料(既出のものでも)に精確な解題を附すことはままなりません。精確にその価値を判定できなければ、論文で資料を正しく使うこともできません。従って、それらのことを蔑ろにした論文には「読者を動かす力がない」のです。
ところが、現状は①他人の作成した年譜の切り貼りを自らの研究書の巻末に掲載しても、皆それを平然として受け入れている状況―調べた上で同じ内容になるのは当然あること、問題は自ら調べもせず切り貼りすることにあります―、②文学館や図書館資料だけで研究が成り立つものとして済ませている状況(=資料を探求し、資料の森を潜り抜ける準備もないように見えます)、③各版本文異同には素人同然の貧弱な知識しか持ち合わせていない実情(=解題などを見ている限りそう見えます)を互いに許しあっている状況、④自分勝手な土俵を作り上げ(このこと自体は当然なのですが、しかし)、福永の真の姿などソモソモ論外(関心もないように見えます)、自らの持つ知識に遮二無二関連付けて、「これぞ福永文学の本質」といいように摘んで料理するだけという状況、このような現状では、責任をもって福永自筆物を判別する能力はいつまで経っても養われず、精確な解題を附すことさえおぼつきません。各版本文についての知識も蓄積されようがない。要するに、それらの実証性を基礎としない、現在生産されている多くの論文に説得力を持たせることは不可能です。
言うまでもなく、論の主眼からして不必要なので「知っていて書かない」事柄が多数あるのは当然なのですが、ここで言うのはそういう意味ではなく、そもそも「知らないんだな」ということが、実証的知識のある者が皆さんの論文を読んでいるといや応なく露わになってしまい、どうにも白けるということです。
この主題、この文脈で、なんでこの事実(小説・エッセイの一部や対談での発言、特に各版の本文異同に関してなど、福永自身が記している事実)を提示しないのだろうと。そうすれば、より説得力が増すのに。
つまり、知らないから引用(参照)のしようがないのでしょう。福永以外の他者の言葉、資料を引っ張ってくることに懸命になるより、まずは福永自身の書き残したものを―メモ、自筆草稿、創作ノート、雑誌初出本文、各版の本文など―出来る限り幅広く深く探求して読み込み、掘り下げて、それを活用して行くことが先決でしょう。豊饒な泉を汲み取ることが第一です。当たり前のことを言っているだけですが、事実としてそれが成されていません。
どのような視点からのアプローチであれ、研究に実証性は不可欠でしょう。今、近現代文学研究に於いても、若い人々を中心に上記の実証的研究が改めて見直されている様子が窺えます。大学内のことは知りませんが、各種資料を熱心に追いかけている愛書家の中から、その大きなウネリが起ってきています。私は、その動きを心強いものと感じます。その流れは、これから各研究分野に間違いなく及んで来ます。つまり、近現代文学研究の実証性の面で、先頭を切っているのは愛読者です。福永に於いても然り。
それは何故か、(文学や本好きな)市民の知的レベルが極めて高いからなどというシャラクサイことは言いません、単純に愉しいからですよ。私は、文学研究が愉しくて仕方ない。文学研究とは、そもそも愉しい筈じゃないですか。私は、愉しんで書かれた論文が読んでみたい。
2.電子全集の意義。
その実証的研究の要、本文研究を成すに当って、数種の版を収録し(『小説風土』・『草の花』・『死の島』では特にその初出形を完全収録し)、多数の自筆創作ノート・メモや、草稿、はがきや色紙、旅日記など、各種の自筆資料を数多く収録し、且ほぼ完全な画像附きの著訳書目録(完璧でないことはわかっています)を収録した今回の電子全集は、決定的な役割を果たすでしょう。
ついでに「解題」を一読していただけると、福永作品(小説ばかりでなく随筆やエッセイも含め)に対する、今迄どこにも発表されていない新たな視点、刺激的な説があちらこちらに散りばめられていることに気がつかれるでしょう。
意欲的な研究者諸氏が、この電子全集を縦横に活用し、興味深い論考が続々と発表され、新たな実証的研究の機運が高まることを期待します。
3.例会では。
1に述べた現状を変えていくために、電子全集が完結した今、例会に於て作品を採り上げる際(決定版は絶えず参照しつつも)、初出版、初刊版ほかの各版を綿密に読み込むことを皆で行なっていきます。例会で、本文研究を積み上げていく予定です。その継続が、実証的研究の機運の醸成に繋がるでしょう。
研究者諸氏よ、これから徐々に―ある段階からはおそらく急速に―福永の実証的研究に注目が集ってくることは、既に目先の利く皆さまにはおわかりの筈です。リモート例会も始める予定ですので、意欲ある方は積極的に参加してください。そこでは、種々の注目すべき発見が成されるでしょう。
4.電子全集の訂正箇所について。
この場で、第20巻「訂正一覧」に関してお伝えしておきます。
(本文ではなく)解題部分には、多くの単純ミス(殆んどは、年号などの数字表記)があることは「訂正一覧」の通りです。ミスの大半は、元原稿を小学館編集部が転記する際に生じたものです(小文字の横数字を、大文字縦数字にする際のミス)。同社には校閲部がないので、編集者が担当していたことに拠ります。横数字を縦数字に変えるということは、編集部が私に了解を求めて来たのでOKし、あちらが手入れしたのですが、その単純作業で間違えられるとは全く予想していませんでした。ですので、著者校正では解題内容、論旨展開、附録の見直しを中心として、数字変換のミスには当初気付きませんでした(偶々ミスに気付いた巻以降、こちらで修正し、編集部にも繰り返し注意を促しましたので、数は減っています)。こちらの正しい原稿を誤って“修正”されたのは初めての経験ですし、大幅に負担が増えました。
その点は、「訂正一覧」の冒頭に編集部名で記されている通りですが、監修者・編者として、私からも改めて購読された皆さまにお詫びします。
各箇所の修正に関しては、これから編集部と相談の上決定します(第15巻附録ほか、何箇所かについては、既に修正済みです。この点は掲示板でも昨年末にお報せしました)。決定しましたら、掲示板に書き込みます。
しかしながら、こと本文に関しては「文学全集の生命であり、電子全集という媒体の信頼性に関わるので、ミスは絶対にあってはならない」ことを企画段階から編集部に繰り返し伝えて、校閲を外部発注していますので、解題部分のようなミスはまずない筈です。万一、本文の誤りを発見されましたら、お手数ですがお伝えくださるようお願いします。この場合は、必ず本文修正をするように申し入れします。
Fuさん:近況
- 研究誌第15号には、レポートを提出するつもりで進めます。書き上がった時点で三坂さん宛てに送付しますが、八月末位を予定しています。宜しくお願いします。
私は今年四月に「日本詩人クラブ」の正会員になり、六月に「日本未来派」の同人になりました。毎年、春と秋「詩と詩論」の」詩誌を発行しています。
今年は海外旅行、国内旅行全て中止しています。八月に山梨にお墓参りを兼ねて下部温泉へ旅行します。皆さんもコロナ対策をしてお元気で研究されて下さいね。今後とも宜しくお願いします。
【当日配付資料】
①『夢のように』についてのメモ A3片面1枚。
②『草の花についてのメモ(その2)』A3片面2枚。+付表1「福永武彦の著作(詩、小説、エッセイ、随筆、日記)における《僕》と《私》」A3片面1枚+付表2「福永武彦作品批評Bにおける《僕》と《私》」A3片面1枚。
③ 過去10年間の例会課題図書と2020年度の例会課題図書案 A3片面1枚。
④ 2019年度会計報告 A4片面1枚。
⑤ 研究会HP 1日平均アクセス者数の推移(2010~2020)A4片面1枚。
⑥ 2020年度 例会内容案 A4片面1枚。
⑦ 資料で愉しむ福永武彦 A4片面2枚。
*源高根宛福永武彦はがき(下記③)の文面画像+翻刻・註釈ほか。
①~③:Ha、④:Sa、⑤:Ki、⑥・⑦:Mi
【回覧資料】
①「扶桑書房古書目録」2011年夏季号
*「古書漫筆」(『夢のように』)で言及される犀星宛献呈本『定本青猫』が画像で掲載。
② 萬字屋書店「明治大正文学書目」(1958年12月)
* 福永武彦詩集『ある青春』が350円で掲載されている。
③ 源高根宛、福永武彦自筆葉書(1965年8月)
*会誌第15号に、源高根宛自筆葉書を20点ほど掲載予定(翻刻+註釈、画像数点)
①~③:Mi
◇第180回例会
日時:2020年1月26日(日)13時~17時
場所:川崎市平和館 第2会議室
【例会内容】
①討論『草の花』そのⅠ
*小学館電子全集第1巻、新潮社全集第2巻収録
②その他
Haさん:『草の花』について
- 1.福永武彦の長編小説
(1-1)福永武彦(1918-1979)の長編小説刊行年
①風土(省略版)1952年、(完全版)1957年 ②草の花 1954年 ③忘却の河 1964年 ④海市 1968年
⑤風のかたみ 1968年 ⑥死の島 1971年9月上巻、10月下巻
(未完:⑦獨身者 1975年 ⑧夢の輪 1981年)
(1-2)初出
①風土(初出 第一部三章まで『方舟』1948年7月,9月;第四章『文学51』1951年5月;第二部『文学51』1951年7月-9月)
②草の花(1953年7月~12月執筆)1954年
③忘却の河1963年
④海市(書下ろし)1968年
⑤風のかたみ(初出『婦人之友』1966年1月-1967年12月)
⑥『死の島』(初出 『文藝』1966年1月-1971年8月)
⑦獨身者(1944年6月-12月執筆、刊行前未発表)
⑧夢の輪(初出『婦人之友』1960年10月-1961年12月;序章 或る愛:『自由』1963年年5月)
(1-3)長篇及び関連作品の執筆時期
福永武彦の長篇小説及び関連作品の執筆・初出時期を付表1(省略)に示す。
・長篇『忘却の河』を完成させたことが画期的だった。『忘却の河』の完成後に福永武彦の黄金の六〇年代が始まり、1962-71年の9年間に4つの長編小説を完成した。
2.『草の花』の視点人物と位相
(2-1)『草の花』の視点人物とその表記及び位相
・『草の花』の視点人物とその表記及び位相を表1に示す。
表1『草の花』の視点人物とその表記及び位相
- A = 現在時の〈私〉パート(語り手、作者の分身)
B = 療養所入所から2年経過後の過去(5年前)の〈私〉パート(語り手、作者の分身)
C = 手記(第一の手帳と第二の手帳)を書いている時点の〈僕〉パート(汐見茂思、作者の分身))
D = 大過去の〈僕〉パート(18歳の汐見茂思、作者の分身)1936年
E = 過去の〈僕〉パート(24歳の汐見茂思、作者の分身)1942年
F = 汐見の死後暫く後の〈わたくし〉パート(石井千枝子)
-
- ・『草の花』は4部40断章から成る。
・『草の花』の主人公は汐見茂思、作者の分身(「遠望されつつある過去の私」)(「草の花」遠望 1972、全集第二巻508頁))
・私(語り手)と僕(汐見茂思)は小説上は別人物であるが、いずれも作者福永武彦の分身と思われる。
・視点人物がすべて一人称で表記されている。福永の他の長編小説(忘却の河、海市、死の島)では視点人物は『草の花』の場合と異なり、一人称と三人称(固有名詞、彼、彼女)で表記されている。
(2-2) 『草の花』の位相
・「告別」(初出1962/1)について、原善「福永武彦「告別」の構造、文藝空間第10号、1996年」で用いら
れた位相を、『草の花』に適用すると以下のようになると思われる。なお、位相を決定する際に、宮嶌公夫の「『草の花』論 ―「語り」の手法をめぐって― 1990」も参照した。
・また、「告別」は『忘却の河』の執筆前の1961年に書かれている。「告別」を書いたことが『忘却の河』を完成することに寄与していると考えられる。
3.『草の花』の主題
『草の花』の主な主題は孤独、愛、死、神とキリスト教であると思われる。
・孤独:神における人間の孤独(初刊版帯裏の神西清の推薦文)、汐見茂思の孤独(第一の手帳と第二の手帳)
・愛:人間における愛の試み(同上の神西清の推薦文)、汐見茂思と藤木忍との愛(汐見から藤木忍への一方的な愛、第一の手帳)、汐見茂思と藤木千枝子との愛(第二の手帳と春)
・死:汐見茂思の死(冬)、藤木忍の死(第一の手帳)
・神とキリスト教:神との三角関係(中村真一郎 *)、神を信じる千枝子と神を信じない汐見(第二の手帳と春)
*中村真一郎「青春と文学6」、新潮日本文学56『遠藤周作集』の「月報」1969年
Miさん
『草の花』に関しては、次回3月例会でも採り上げますので、終了した段階でご報告します。「どのような小説なのか」を検討します。
- 【資料あれこれ】
この1月に届いた古書目録3冊(八木書店、石神井書林、玉英堂)の一部を複写し、例会当日配付しました。どれにも福永武彦の署名本や自筆書簡が掲載されています。
福永末次郎宛の書簡1通は全文写真版掲載なので、皆で読みました。親子関係の一端がよくわかります。消印は写っていませんが、内容から1975年5月の書簡とわかります。この年の1月に末次郎は静岡県函南町の「いこいの園」に入所しています。計6通で30万円、研究会の誰かが手に入れて、翻刻を公開してくれることを願います。
その他に、元版『草の花』自筆詩書き入れ本や『櫟の木に寄せて』の原稿綴り込み11部本、『福永武彦作品 批評A/B』家蔵26部本ほか、なかなか良い品が出ています。目録掲載の自筆詩や署名はすべて本物ですが、近頃、ヤフオクは言うに及ばず、専門店が集うWeb「日本の古本屋」でも、ニセモノの色紙や署名本が散見されます。ここで店名を挙げるのは控えますので、福永自筆物の購入を検討されている方は、三坂まで一度照会してみてください。
私自身は、八木目録より、福永ハガキ2枚(印刷転居通知と古書註文)を安価で入手できたので、年譜に使用するつもりです。一般に、印刷文は安価ですが、年譜作成には大いに役立ちます。
資料と言えば、一昨年(2018年)「文藝空間」第11号で、源高根宛の福永書簡27通が翻刻公開されたことは大変に意義のあることで、一読、よくやっていただいたと拍手したくなりました。年譜作成に大いに役立つのは勿論です。高価な値で入手された資料を公開された諸氏に敬意を表します。出来うれば画像も附けていただけたら完璧でしたが、欲は言いますまい。
このような研究上に意味のある資料の公開は、公的資金の援助を受けているプロジェクトでドシドシ行なっていただきたいものです。潤沢な資金をお持ちで、蒐集方法を御存知ない筈もなく、まさか熱意不足(=資料価値の認識不足)ということはないのでしょうが、この点に関しては残念な実情です。
しかし、たとえ貴重資料を手にしても、それを精確に読み解けなければ紹介も出来ないわけですが、一方で、偶然手にした資料に過剰な意味付けをして、すぐ論を構築しようとするのもいただけません。資料は、まずは出来る限り生のママで提供すべきものです。この点は、自戒せねばならぬ点でもあります。
私自身は、刊行中の『福永武彦電子全集』の解題や附録に於いて、毎巻新出資料を提供していますので、大いに御活用いただきたいものです。ただし、それ以外の資料の翻刻公開が、時間不足で滞っています。
電子全集への執筆はこの3月末で一段落しますので(刊行は5月まで)、「文藝空間」に刺激を受けて、矢内原伊作宛や源高根宛の福永武彦自筆葉書の翻刻(合わせて90枚ほどか)、「『獨身者』の日記」、「『小説風土』創作ノート」、その他の翻刻を進める予定です。
勿論、これらもすべて古書市場で入手したものです。
*北海道立文学館には、『小説風土』の創作ノートやメモ類、『夢の輪』の創作ノート類(未見)他、貴重資料が纏って所蔵されています。ただし、寄託資料とのことで、長期の貸出し資料が何点かあり、必ずしもすべて手に取れるわけではありません。
-
会員短信:Fuさん
- 昨年秋にトルコ周遊旅行をしましたが、昨年末に日本詩人クラブから「詩を出してください」という依頼があり、2篇書きました。一篇は、日本詩人クラブが2年に一度出している「現代詩選集2020」で、450人が載ります。
もう一つは「新しい詩の声」です。私は、日本詩人クラブは、何もしないスリーピング会員ですので、どうして依頼が来たのか不明です。詩人クラブの誰かが、「私の村次郎研究」を知って、依頼したのかも知れません。1月半ばに連絡がきて、掲載することになった、という事でした。日本詩人クラブは会員数8000名いて、ほとんどが正会員ですが私は会友です。ともかく嬉しい知らせでした。
今年の芥川賞、直木賞の候補に知人3名がなっていました。八戸出身の木村友佑、呉勝浩、学習院出身の誉田哲也、ですが残念ながら受賞は出来ませんでした。明治大学、朝日新聞、大岡信研究会中心に「大岡信賞」が新設されました。誰が最初の受賞者になるか興味があります。
今年もよろしくお願いします。
◇第179回例会
日時:2019年11月24日(日) 13時~17時
場所:川崎市平和館 第2会議室
【例会内容】
① 討論、『ボードレールの世界』
*小学館電子全集第6巻、新潮社全集第18巻収録
② 会誌第14号配付。
【例会での発言要旨・感想・】順不同(敬称略)
Haさん:『ボオドレエルの世界』について
- 初刊版『ボオドレエルの世界』(1946年10月-11月執筆、1947年10月刊行)を一つの作品として読んでみた。
大学卒業論文「詩人の世界 ロオトレアモンの場合」(1941年3月)に続いて、「詩人の世界 ボオドレエルの場合」の意味で、「ボオドレエルの世界」を書いたと思われる。
『ボオドレエルの世界』は同時期に書かれた短編小説「塔」(1945年12月-1946年1月執筆)と同じく、緊張感のある文章で書かれている。
1.構成・技法
(1-1) 構成
ボードレール (1821-1867)の活動時期とボードレールの世界成立の契機
第一期:『冥府』詩篇時代 (1849-51) :『冥府』11詩篇の雑誌発表1851 、ジャンヌ・デュヴァル
第二期:『悪の華』時代 (1855-57) :『悪の華』初版の刊行1857、サバチエ夫人
第三期:再版『悪の華』時代 (1857-61) :『悪の華』再版の刊行1861、パリ
第四期:三版『悪の華』時代 (1861-66)
(1-2)技法
aボードレールの生涯(伝記) bボードレールの詩と手紙 c解説 の3つの要素で構成されている。
2.福永はなぜ『ボオドレエルの世界』を書いたか?
「しかし僕は年来ボオドレエルを愛読してゐるうちに、詩人としての立場、自ら創作する者としての立場から、小さなボオドレエル論を書いてみたいと思ふやうになつた。」(序文)
3.内容
目次:1詩集 2形成 3錬金 4旅
1詩集:「一人の詩人にとって、詩集とは何だらうか。」(1詩集)
「詩集とは、彼(ボードレール)が一生を賭けて形成した彼の世界の、一にして全である体系に他ならない。」(3錬金)
「詩とは何か。詩は世界Kosmosの所産である。」(3錬金)
2形成:「ボオドレエルの世界は、まずこのやうに二つの契機に依つて生まれた。『冥府』詩篇時代のジヤンヌ・デユヴアルと、それに続く『悪の華』詩篇時代のジエニ・サバチエとに依つて。そして彼の世界を一層暗く、絶望的に彩つた第三の契機は、即ちパリだつた。」 (2形成)
3錬金:「この、ボオドレエルをその生涯に於いて生かし、また今日に至るまで生かしてゐる詩法とは何だらうか。」(2形成)
「二つの異つたものを等格、或は比較級に置く手法が縦横に鏤められ、『悪の華』の独特の美を形成してゐる。」(3錬金)
「次元が同じでも異つてゐても、全く相反した、或は比較を絶したものが易易と等置せられる錬金の秘密は、これらの物たちが詩人の内部ですべて音楽といふ一元的な要素に変貌させられ、同一面に配列させられたからに他ならない。」(3錬金)
「音楽の中には、絵画や、また言語・・・に於けると同じく、常に聴衆の想像に依って完全に埋められる空隙がある。」(3錬金)
4旅:「ボオドレエルの生涯とその作品とを特徴づけるものとして、旅の観念を考へてみたいと思ふ。」(4旅、以下同じ)
「旅とは一体何だらうか。それは第一に空間への移動である。現在の場所を離れて、他の、未知の国へ赴くことである。」
「しかし旅は、第二に、時間への移動を意味する。現在の場所を離れることに依って、人は今迄とは違つた時間の中に生きることが出来る。」
「彼は人生を、生から死に至る旅として理解した。この、故郷を冥府に持つ憂愁の詩人は、より高いものを慕ひながら、地獄煉獄との道を歩いた。」
4.読後の感想
「ボオドレエルの詩作には、自ら詩を書くものでなければ覗き得ぬ深淵、自らコスモスを持つものでなければ感じ得ない神秘が多くあるやうに思へた。」(序文)
「詩人は生れながらにして詩人である。何故なら、詩を作る故に詩人なのではなく、詩人なるが故に詩を作るからだ。自らの世界を持つて生れた者は、人生に対するこの危険な賭に依つてしか、彼自身の生を主張する術を持たない。」(2形成)
これらの言葉に見られるように、『ボオドレエルの世界』には、福永の、詩の実作者としての経験を、踏まえた興味深い見解が多く述べられている。
Miさん:
- 1.会誌第14号
前日夜に届いたばかりの「福永武彦研究第14号」を配付しました。
以下の本文ミスがあります。
・6ページ下段7行目「えエッセイを書いて下さって」より「え」を削除。
・59ページ上段本文6行目「理事でもある:矢代朝子さん」より「:」を削除。
・73ページ上段本文5行目「分かることかと思いま」行末の空きをツメル。
2.『ボオドレエルの世界』(矢代書店、1947.10)
帝大仏文科での鈴木信太郎の講義より学び取った象徴主義理論の精髄を、マチネ・ポエティクでの詩作活動を通して実践、体得しつつあった福永が、自らの象徴主義小説創作の本格的始動に先立って、その理論的土台を固め、展望を開くために著した作品。
一九四六年の秋、帯広の地で僅かな参考書だけを手許において、自らの内面を真摯に見詰めながらボードレール詩篇への熱情を刻み付けた文章であり、福永最初の単著である(共著、編訳著は除く。短篇集『塔』や詩集『ある青春』が刊行されるのは、『ボオドレエルの世界』刊行の翌年)という点を見逃すことはできない。
自己の作詩体験に裏打ちされたボードレール詩篇への分析は、原音楽という独自の視点からなされる。「次元が同じでも異なつてゐても、全く相反した、或は比較を絶したものが易々と等置せられる錬金の秘密は、これらの物たちが詩人の内部ですべて音樂といふ一元的な要素に變貌させられ、同一面に配列させられたからに他ならない」。それは、芸術として定着された音楽ではなく、あらゆる物たち、もの言わぬ物たちもまた固有の音楽、諧調
harmonieを持ち「詩人はそこに無韻の歌を聽くことが出來る」。
そして、一見無関係なものたち相互を結びつけ、詩句に定着するのである。「音樂を詩の第一要素とした點に、ボオドレエルの獨創があると僕は考へる」。
そして、この「原音楽」という概念は、これより先、福永の創作する象徴主義的短篇、長篇小説の創造の源となる。
当書を純粋な研究書として捉えるならば、より精確に福永の意思が反映された(手が入った)『福永武彦作品批評A』(文治堂 1966.5)収録本文、或いは没後刊行の『ボードレールの世界』(講談社 1982.12)収録文を討論の底本とすべきだが、「あくまで僕の見たボオドレエルである」と福永自身述べる如く、評論『ボオドレエルの世界』は、福永武彦の「ひとつの作品」として捉える視点が肝要である。
Huさん:例会への自由投稿「ボードレールの『悪の華』について」
- ボードレールは、『悪の華』の詩人である。誰でも詩や詩人に興味ある人は、一度は触れると思う。しかし実際『悪の華』を読んだだけでは十分に理解できない。文学部の教授に聞くと、彼の日記や書簡を読むことが必要だと返ってくる。また、彼の『浪漫的芸術』や『審美的猟奇』の中にある文芸・美術・音楽に関する批評を熟読して、詩人にして批評家たるボードレールを理解しないといけないとも言ってくる。これは大変なので、ここでは私はボード―レールの年譜から感じたところだけ書いてみることにします。
先ずボードレールの生い立ちを振り返ってみる。シャルル・ボードレールは1812年パリに生まれた。父親はジョセフ・フランソワ・ボードレール62歳で、母親はキャロリーヌ・アルシャンポー・デュファイス27歳であった。父は元聖職だったが、後に棄教、十八世紀のヴォルテールなどの啓蒙思想を愛読し、晩年には日曜画家として芸術家たちと交流する趣味人でもあった。若いキャロリーヌと再婚したがボードレールが六歳の時死去している。母親が若い士官ジャック・オービックと再婚した。このことが後に詩人に深い傷を残した。後年詩人ボードレールの人生が困難を増すにつれ、この母と軍人の義父に対して強い恨みを持つようになっていく。
義父の任地リヨンでリセに入ったボードレールは知的な少年であったが、教師たちに反攻するようになり、結局退学される。高等中学を卒業するとパリ大学の法科にとうろくしたものの自由奔放な生活を送り、文学青年たちと付き合う一方,終生ひきずることになる性病になった。
1841年、ボルドーよりインド洋のモーリス島、ブルボン島に旅行する。モーリス島で植民地育ちのオタール夫人を知り、この夫人の美しさを讃えたソネットを書き送り、後に『悪の華』に収録されることになった。この航海後,成人に達したボードレールは実父の遺産十万フランを相続した。
遺産を自由に使えるようになってル島にピモダン館に居を構えた。この頃、混血のジャンヌ・デヴァルと知り合う。善かれあしかれ唯一の伴侶となる。詩人のあまりの出費に、家族は詩人に、アンセルを法廷後見人に立てて禁治産者として生涯にわたり実質的保証を与えたものの精神的な屈辱感を与えることになった。1845年心の痛手から自殺を試みる。こうしたノイローゼ状態にもかかわらず「1845年のサロン」評を発表する。詩人は世間的には美術評論家としてデビューすることになった。ここでドラクロワを讃えた。
1848年ころ、ボードレールの文学にとって極めて大切なことはエドガー・ラン・ポーを発見したことであった。疑似科学的なポーの発想や詩作の方法論などに引き込まれていった。48年の革命がナポレオン三世のクーデター、さらに第二帝政によって完全に押しつぶされるとボードレールは表面的には政治熱を失い文筆に没頭するようになる。
しばしば雑誌に発表されていた詩篇が『悪の華』という総題のもとに上梓されたのは1857年のことでボードレール36歳であった。『悪の華』詩集の題名が示すように、詩人の意図は俗人たちを驚かせ爆竹のような効果を上げることにあった。
出版と同時に保守的な新聞「フィガロ」から風俗壊乱の疑いをかけられ裁判所から訴追された。同時期にフローベルの『ボバリー夫人』が同じく訴追されたが、フローベルは無罪となるガ、ボード―レールは有罪。詩人には三百フラン「、出版元プーレ・マラシスには百フランの罰金刑が言い渡された。六編の詩が猥褻の罪で削除命令をうけた。ちなみに有罪判決が破棄院で取り消されるのは、1949年、第二次世界大戦後であった。
14 人間と海 ボードレール『憂鬱と理想』堀口大学訳
自由な人間よ、常に君は海を愛する筈だよ!
海は君の鏡だもの、逆巻き返へす怒涛のうちに
君が眺めるもの、あれは君の魂だもの、
君が心とて、海に劣らず鹽辛い淵だもの。
自分自身の繪姿の中へ、君は好んで身をひたす、
眼で、腕できみはそれを抱きよせる、
君が思ひは時に、自分の亂れ心を
暴れ狂ふ海の嘆きで紛らせる。
君も海も、同じほど、陰険で隠し立てする、
人間よ、君の心の深間を極めた者が一人でもあったか?
海よ、誰ひとりお前が祕める財賓の限りは知らぬではないか?
それほどに君等には各自の秘密が大切なのだ!
そのくせ君等には幾千年、情容赦も知らぬげに
闘ひつづけて來てるのだ、
おお、永遠の闘士たち、おお、和し難い兄弟よ、
血煙あげる殺戮と死がさほどまで氣にいるか!
初版『悪の華』はアグリッパ・ドービニュの「悪徳は知識を母とするのでもなければ、美徳は無知の娘でもない」という詩をかかげ、当時の大家で「芸術至上主義」の旗頭でもあったテオフィル・ゴ―チェに恭々しく、捧げられている。前口上の「読者へ」という詩のあとで、「憂鬱と理想」「悪の華」「反抗」「葡萄酒」「死」の五章構成になっている。そこで描かれたうたわれた詩の大罪の多くは、当時の読者にしてみればまことに目を塞ぎたくなるような精神的閉塞感や後悔、ひねこびた悪徳や反抗、絶望であった。反宗教的な詩句、あるいはブルジョワ道徳を揶揄するようなエロティックな表現などによって常識的な読者を驚かした。詩人が芸術至上主義的な立場から悪のもつ美をうたったと釈明しても、挑発的詩句がモラル問題を喚起しないわけにはいかない。最も注意すべき詩句における比喩やイメージ、色彩、意識、匂いなどロマン主義的美学にそった彫の深いレトリックである。詩人が真に詩人たりうるのは、題材によるのではなく、そこに駆使されるレトリックの確かさとまたその力にあるからだ。詩人ポーの『詩の原理』などに触発されつつ、詩作を感情に流されるのではなく、知的に方法化するという近代詩人の性格をもったのである。
112 仲のいい姉妹 ボード―レール『悪の華』堀口大学訳
「放蕩」と「死」、可憐な二少女、
接吻は惜しまず撒くし、健康には溢れてゐるし、
永久に處女なる胎を襤褸に包み
日に夜をついで精出すが、絶對に子は作らない。
家庭の仇敵、地獄の寵児、
貧乏公家の詩人奴に、
墓と妓楼は、あかしでの葉陰にあって
悔い知らぬベッドを指示す。
冒涜で一ぱいな棺桶と閨は、
仲のいい姉妹のやうに、代わる代わる、僕らに與へる、
恐るべき快感と耐え難い優しさ。
何時僕を葬る心算か、多情な腕持つ「放蕩」よ?
おお「死」よ、劣らぬ婀娜の競爭者よ、
何時、姉が攣つた桃金嬢の枝に、そなた黒い糸杉を接木するか?
前述の二つの詩は、ボードレールの詩ですが、詩集は、前の章の『憂鬱と理想』どこか村次郎の詩と似ている所があり取り上げてみた。次章の『悪の華』の一つの詩です。全く違った印象を受けます。
『悪の華』の定本とされているのは1861年に35篇の詩を追加して出版された第二版である。大きな変更は新たに『憂鬱と理想』の後に『パリの風景』の一章が挿入されたことだ。重要な相違点は、初版においては緊密な構成は芸術家の一生を暗示していると言われるが、再販ではより普遍的な人間の生涯あるいは運命を扱っていると考えられる点だろう。
憂鬱と理想』は最も数多くの詩篇を含む章だが、詩人の誕生、芸術的な美の発見などの
詩篇群を持って始まり、とりわけ象徴主義的な美学の表明である『万物照応』は名高い。続いて愛の詩群が置かれ、ジャンヌ詩篇の官能性、サバティエ詩篇の精神的憧憬、マリー・ブランへの穏やかな思慕が優れた恋の詩人としてのボードレールをみせている。再版の最大の特徴である『パリの風景』がその直後に配置され、ボードレールを都会の詩人とするにたる『白鳥』『七人の老人』『小さな老婆たちの』の傑作を含む。
『悪の華』の章は快楽に身をゆだねた女たちの姿を主にうたっていて、詩作の時期も可なり若い時代にさかのぼったもの。『反抗』は三篇のキリスト教における反抗的立場を主題としている。ここでも問題になるのは、詩人が文字通り悪魔を擁護してキリスト教を批判しているのか、偽善的な立場から逆にカトリック的な世界観を暗に喚起しているのか、極めて曖昧だという点にある。
121 愛し合ふ男女の死 ボードレール『死』堀口大学訳
深きこと墓穴に似る長椅子と、
ほのかなる香たきこめしとねをば、われ等の持たん、
奇き花、卓上に、かをるべし、
われ等が爲めに、美しき異国の空の咲かせし。
今生の最終に殘る情熱を思ふがままにたぎらせて、
われ等二人心臓の、大いなる二つの炬火と燃えさからん、
二重の炎てり映えん、
この两面の眞澄鏡、われ等が心に。
ばら色と神秘めく靑の織りなす、その夕、
われ等交はさん、絶對無二の快感を、
そは長きすすり泣き、惜しき別れと似たらんか。
『悪の華』の最後の章は「死」である。ここでも詩人は慰めとしての死の意味を強調していると同時に、再販で新たに𥇍尾をかざる詩として配置された「旅」は『悪の華』を締めくくり、人生の意味を問う長編である。この世の一切を否認するラディカリスムの後に残されたものは、ただ脱出への期待。こうしたボードレールの詩想をどう読むかは読者にゆだねられている。
◇第178回例会
日時:2019年9月29日(日) 13時~17時
場所:川崎市平和館 第2会議室
【例会内容】
① 討論:『贋金つくり』(A.ジッド)
② 会誌第14号の進捗状況報告、その他
【例会での発言要旨・感想・】順不同(敬称略)
Kiさん:「独身者」(および他の福永作品)における「贋金つくり」(アンドレ・ジイド)の影響について
「独身者」他の福永作品の枠組みが「贋金つくり」の影響を受けていると感じられた。以下に概要をまとめた。
- 1.福永の「贋金つくり」についての言及(「独身者」後記(1975年)より)
『独身者』の主題は、「日記」によれば、「1940年前後の青年たちを鳥瞰的に描いて愛と死と運命とを歌う筈」だったし、そのために10人以上の人物が相互に絡み合って複雑な絵模様を見せることになっていた。「日記」の中には彼等がどういう運命を辿るのか、すべて予測してある。そして私には、小説というものはこうした綿密なプランに則って書くべきものだという先入観があった。私はアンドレ・ジイド―
特にその『贋金づくり』― とオルダス・ハクスリー ― 特にその『対位法』― の影響を受けていたようである。そのことが、かえって小説を書きづらくしていたことを、私は後に知った。しかし当時私に必要だったものは、この長編小説の全体的構想、神の視点からする隅々までの透視だったに違いない。
-
2.「贋金つくり」(1926)作品概要
・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典による
フランスの作家アンドレ・ジッドの小説。 1926年刊。作者が小説 (ロマン) と呼んだ唯一の作品で、他のものは物語 (レシ ) あるいは茶番 (ソティ) の名で呼ばれている。私生子ベルナールの精神の彷徨を扱うこの作品を書くにあたって著者は「純粋小説」を唱え、小説以外の要素の排除に努めた。その間の問題は,『贋金つくりの日記』 Journal des Faux-Monnayeurs (1926) に詳しく語られている。
・岩波文庫カバー
ジイドが贋金使用事件と少年のピストル自殺という2つの新聞記事に着想を得て、実験的手法で描いた作品。私生児の生れに劣等感を抱く青年や作者の分身とも思われる作家、少年を使って贋金を流す男、級友のいじめにより強いられて自殺する少年など、無数の人物が登場して錯綜した事件の網目模様を繰り広げる。作者がみずから<小説(ロマン)>と名づけることを初めて認めた自信作で、同一事件を何人もの口から語らせ、多角的な照明を当てることによって読者のみがその事件の全貌を知るように仕組む。作者の一面的な主観が投影された、特定の主人公を中心に筋が展開する従来の小説の概念を破壊し、20世紀の文学の流れを方向づけた記念碑的作品。
-
3.「独身者」他、福永の小説との共通点
1)多数の人物が相互に絡み合って複雑な絵模様を見せる物語構成(「独身者」、「贋金つくり」では20人以上)
2)「独身者」では、章毎に場面と登場人物が変わり、その場に居合わせた複数の人物により様々な話題が議論される(「贋金つくり」では文学関連が多い)。
3)同一の事象が複数の人物の視点で語られ、時間の流れの方向も一律ではない(福永の小説では、「死の島」、「海市」など)。
4)登場人物のプロフィール
・作者ジイドが相当部分投影されている小説家エドゥワール(「独身者」小説家志望の小暮英二に対応)
「贋金つくり」「独身者」いずれも独立した章をエドゥワールの日記(12の章:全体の1/3)、英二の日記(第9章)に割り当て、「贋金つくり」では、日記の章とは別の「エドゥワール、小説に関する意見を述ぶ」の章の中で自らの小説に対する考えを述べさせている。「贋金つくり」は、エドゥワールが現実に取材しつつ構想している小説でもあり、作品全体が二重構造になっている。
・登場人物の愛の相関図
「贋金つくり」「独身者」では複数の愛が平行的(対位法的)に描かれている(「贋金つくり」では、同性愛が絡んでいる)。
5)クラシック音楽
いずれもバッハ(対位法の頂点とされる作曲家)に言及している(「独身者」第5章)。
「贋金つくり」では「エドゥワール、小説に関する意見を述ぶ」(第2部3章)でベルナールに対し、自分が書こうとしている小説「贋金つくり」について「僕が狙っているのは、フーガの技法(注1)といったものなんです。それで、音楽で可能なことが、なぜ文学で不可能なのか、合点がいかないのだが・・・・」
注1)「フーガの技法」は、バッハが対位法の様々なフーガ形式を追及して作曲した抽象的作品(演奏楽器が指定されていない)。
6)前衛的手法(福永の小説では、「飛ぶ男」など)
・ベルナールの前に唐突に天使が現れ、共に行動する(第3部13章)。
・小説の中ほどに作者が作中人物を批評する章が置かれている(第2部7章)
・・・目先のきかない作者も、しばし立ち止まり、息をついで、不安げに、我が物語は自分をどこへ連れて行くのだろうと、自問する。(冒頭の段落より)
エドゥワールは、一再ならず私をいらだたせた・・・・
エドゥワールで気に入らないのは・・・・ -
4.エドゥワールの小説観
エドゥワールは会話の中で、また手帳(日記)に小説についての自分の考えを記している。エドゥワールの考えは、そのままジイドの小説観を示している思われる。
(「エドゥワールの日記」、「エドゥワール、小説に関する意見を述ぶ」からの部分引用)
小説から、特に小説本来のものではないあらゆる要素を除き去ること。(中略)人物の描写でさえ、本来小説に属するものとは私には思えない。然り、純粋小説は、そんなものに意を用いるべきではないように思われる。(中略)小説家は、通常、読者の想像力に十分の信頼を置いていない。(第1部8章)
・・・僕はそういう効果をあげるために、一人の小説家を仕立てて、これを中心人物に据えるんです。そしてお望みならば、作品主題と言ってもいいが、その主題は、現実がその小説家に提供するものと、小説家が現実を料理しようとしているものとの闘争といったものです。(第2部3章)
私の作品の<根本の主題>とでも呼ぶべきものが、どうやらわかりかけてきた。それは、現実の世界と、現実からわれわれが作り上げる表象との間の競合である。外界はわれわれに自分を押しつけてくるし、われわれはそれぞれの解釈を外界に押しつけようとする。その押しつけ方が、われわれの生活のドラマをなすのだ。・・・(第2部5章)
「贋金つくり」という小説自体が、以上のようなエドゥワール(ジイド)の小説観を具現化した内容となっていると考えられる。 -
5.「贋金つくりの日記」(1919年6月~1925年5月)に示されたジイドの小説観
特別にこの小説と深い関係のない要素は、すべてこの小説から追い出してしまうこと、混合によって何の優れたものが得られないのが常だ。 (中略)
エドゥワールを刺激して、彼が夢想している小説を創作させるには、かつて何人も彼が心に描いているものほど純粋な小説を書いたことがないという確信が必要なのだ。しかも、この純粋小説を、彼はついに書き上げる日はないはずだ。(1922年11月)
人生は、あらゆる方面から、劇の糸口を豊富に提供してくれる。但し、人生が提供する劇の糸口は、小説家が扱う場合と異なって、それが継続し、結末に達することは極めて稀である。僕が自分のこの小説を読む人に与えたいと思う印象がこれだ。またエドゥワールに言わせようと思うところもまたこれだ。(1924年11月)
僕が新しい創作をしようと思うのは、決して新しい人間を描きたいためではなく、実はそれらの人間を現わす新しい手法のためだ。この現に書きつつある小説は、唐突に終わる筈だ。それも決して主題が枯渇したがためではない、主題はむしろ汲みつくせないという感じを与えるべきだ。むしろ、それとは反対に、主題の拡張、主題の輪郭の遁走そのものによって終りを告げるようにするのだ。主題にまとまりがついたりしてはいけない、それはむしろ散り散りになり、崩れなければならない・・・。(1924年3月)
-
6.福永武彦「二十世紀小説論」における「贋金つくり」への参照
「純粋小説」の章より(p234)
「贋金つくり」」において、すべての人物の容貌などはごくあっさりとしか描写されていず、19世紀の小説と較べてみると驚くばかり手が抜いてある。それでいて数多い人物が見事に書き分けられている。それは作者が人物の正確な顔かたちを描かなくても、読者の想像力によって、人物が読者の意識の内部に生きているからである。つまり小説は、読者からみれば一種の内的持続であり、作者の想像力は読者のそれと重なり合うことによって、或は特にその協同作業を意識して読者に働きかけることによって、そこに一つの共通の小世界を作り上げることになる。
Haさん:『贋金つくり』について
- 1.アンドレ・ジッドの主な小説
アンドレ・ジッド(1869-1951)の小説の刊行年:
①アンドレ・ヴァルテールの手記1891 ②鎖がやわだったプロメテウス1899 ③背徳の人1902 ④放蕩息子の帰宅1907 ⑤狭き門1909 ⑥イザベル1911 ⑦法王庁の地下牢1914 ⑧田園交響曲1919 ⑨贋金つくり1926 ⑩女(つま)の学校1929
⑪ロベール1929 ⑫ジュヌヴィエーヌ1936 ⑬テーセウス1946
3.『贋金つくり』(1921-1925執筆、ジッドの唯一のroman)(二宮正之訳、アンドレ・ジッド集成第Ⅳ巻所収、筑摩書房、2017)
(3-1)登場人物と視点人物
・『贋金つくり』の主な登場人物を付図1(省略)に、視点人物とその表記を付表1(省略)に示す。
・『贋金つくり』は全三部四十三章から成る。また「エドゥアールの日記」が章全体の1/3の16の章を占める。
・約30名の登場人物が10名の視点人物(筆者、オリヴィエ、ベルナール、エドゥアール、ヴァンサン、ボリス、ジョルジュ、ゴントラン、ストルーヴィル、パッサヴァン)の視点から描かれている。
・「エドゥアールの日記」では、視点人物のエドゥアールは一人称(“僕”)で表記され、作者は表面に出てこない。
・作者は“筆者”または“私”(原文ではいずれもje、第一人称単数の代名詞)で表記されている。
・視点人物が作者または「エドゥアールの日記」の中のエドゥアールである場合以外、地の文では視点人物はすべて三人称(固有名詞)で表記され、作者が視点人物を描写している。
(3-2)主題
・各章の主題を付表2(省略)に示す。
・全体の主題:一点に収斂しない。ベルナールをめぐる話、オリヴィエをめぐる話、エドゥアールをめぐる話、その他多くの論点が描かれている。
(3-3)『贋金つくり』についての百科事典の記述:
「人間は仮面によって、すなわち<贋金>を使って生きている・・・・始めもなく終りもない人生図を、視点を多様化・多層化し、作中に同名の小説を構想している小説家を登場させ、その創作日記に大きな役割まで与えて、多次元的に描き出そうとした」(大百科事典2007、平凡社)
(3-4)福永武彦の『贋金つくり』と『獨身者』への言及:
「「独身者」の主題は、「日記」によれば、「一九四〇年前後の青年達を鳥瞰的に描いて愛と死と運命とを歌ふ筈」だったし、・・・私はアンドレ・ジイド――特にその「贋金つくり」――とオルダス・ハクスリィ――特にその「対位法」――の影響を受けていたようである」(「独身者」後記1975)
-
4.その他
〇3つの日記の役割
・エドゥアールの日記:エドゥアールが『贋金つくり』を書いている。
・『贋金つくり』の日記(1926年刊行):『贋金つくり』についての作者ジッドの創作ノート。 *
・アンドレ・ジッドの日記(1921-1925年の部分):『贋金つくり』を書いていた期間のジッドの生活と思索、『贋金つくり』と『贋金つくりの日記』を相対化する(一歩離れたところから見る、別の見方をする)。
*「「独身者の日記」は、作者の日常の生活と「独身者」の構想から成っていて、・・・それに作者の小説論が加わる。」(「独身者」後記1975)。すなわち、福永の「独身者の日記」はジッドの「『贋金つくり』の日記」と「日記(1921-1925)」の両方の内容を含む。
Miさん:
- Kiさん作成の「独身者(および他の福永作品)における「贋金つくり」の影響について」、そしてHaさん作成の「『贋金つくり』についてのメモ」は、共に極めて有用な資料なので、出来るだけ多くの会員に眼を通していただきたいものです。
毎日、福永武彦電子全集解題執筆と書誌作成、そして底本の準備で忙殺されています。
電子全集のミス箇所は、出版社が再納品すれば、既に購入済みの読者にもその修正版が自動的に入手できるメカニズムになっているとのことで(説明できませんが)、出来るだけその線で対応すべく交渉しています。
Aさん:福永武彦の音楽(番外編)
- 今をすぐる40数年前の晩秋、昔は市内にも数件はあった「クラシック喫茶」の1つである某店の椅子に深く身を沈めつつ、新潮文庫の『忘却の河』を読み進めていた。その時に何がかかっていたのか忘れたけれども、店主がおもむろに針を落とすと正面の対になったタンノイだったか、マッキントッシュだったか、その大きなスピーカーからはしっとりとした音楽が流れていた気がする。だからだろうか、読み進めるうちに最終章「賽の河原」に移ったあたりから、予期せぬ「魂」の揺さぶりに襲われた。流れる音楽からも、店内の人々からも隔絶され、唯「孤立した空間」に周りから閉じられる形で唯一人、無言のまま「慟哭」の只中にいた。いいようのない感情に支配され、言葉を失い、只々時間だけが流れていた。「孤立した空間」で主人公、あの男の、根無し草のような、移ろいゆく俗世間の世事にもまれ、流されながら自身の業と向き合う男、その男に「何」かを見、そして自身をダブらせていたのであろうか。
「小説空間」に身をゆだねることで、初めて「魂」が揺さぶられた私の内面世界は、「初めて」福永武彦の小説世界に入り込み、福永の小説世界の「主調音」に同調し、また同化しながら、福永の「忘却の河」を成していた精神世界と渾然一体となっていた。
おそらく、私は、初めて「福永武彦の小説」を読み、従って「初めて小説を読んでいた」のだと思う。深遠な小説世界に入り込み、魂の揺さぶられる精神世界を体験することで、作家の「魂に渦巻く高まり」と同調する稀有な瞬間がそこには間違いなくあったと思われる。その稀有な瞬間こそ、福永武彦の作品が持つ、他のどの作家にもない圧倒的な「美」の世界がもたらす「至福の時」であると思っている。
◇第177回例会
日時:2019年7月28日(日) 13時~17時
場所:川崎市国際交流センター第3会議室
【例会内容】
Ⅰ.初刊版 短篇集『塔』(1948.3)の検討(「塔」・「雨」・「めたもるふぉおず」)
*『塔』新装版(1971.3)収録の諸作(「河」「遠方のパトス」「時計」「水中花」)は含まず。
Ⅱ.会誌第14号発行に関して、その他
【例会での発言要旨・感想・】順不同(敬称略)
Haさん:『塔』について
- 1.福永武彦の短編小説集
福永武彦(1918-1979)の短・中編小説集刊行年:
①塔1948年 ②冥府1954年 ③夜の時間1955年 ④冥府・深淵1956年 ⑤心の中を流れる河1958年 ⑥世界の終り1959年⑦廃市1960年 ⑧告別1962年 ⑨幼年その他1969年 ⑩夜の三部作1969年 ⑪海からの声1974年
2.『塔』1948年3月真善美社に収録の短編小説の執筆・初出年月
① 塔:1945年12月5日~1946年1月10日執筆、「高原」第一輯1946年8月初出(電子版全集第一巻解題による、以下同じ)
② 雨:1947年4月11日~4月19日修正稿執筆、「近代文学」第二巻第12号1947年11月初出
③ めたもるふぉおず:1947年3月20日~4月9日執筆、「総合文化」第一巻第五号1947年11月初出
3.短編集『塔』
-
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- (3-1)三作品の比較
(3-2)短編「塔」について
①初出、初刊版、決定版本文の比較
○「版毎に詳細に手入れをする作家福永」(電子全集の三坂さん紹介文のことば)あるいは 「書き変える作家福永武彦」 を実感するため、「塔」について、初出、初刊版、決定版の本文を比較し、異なった箇所を別表(省略)にまとめた。
ただし以下の3項目は違いに含めなかった。
・歴史的仮名遣いと現代仮名遣い
・漢字の旧字と新字
・漢字表記をかなに直したもの(例:共に/ともに、尚/なお、何故/なぜ、如何に/いかに)
〇まとめ
・「塔」の初出、初刊版、決定版本文の比較をすると、65枚の小説で、約120の異なる箇所が確認された。
・変更箇所は予想より少なく、版を改める度に変更を続けているのが福永の特徴ではないかと思われる。
・大きく意味の変わる変更は少なく、殆どの場合、文意をより明確にするための変更である。
・初刊版と決定版で、初出で使用したエピグラフを省いたのが一番大きな変更だと思われる。
・意味は同じでも、声に出して読んだ時に語調がよくなるような変更もある(生の果てるところにただ虚無のみが(初出、初刊版)→ 生の果てるところ、ただ虚無のみが(決定版))。
②「塔」の概略:主人公の僕が塔の中の7つの部屋を遍歴する話。
第一の部屋:世界の民に命令する至高の王(王侯としての人生)
第二の部屋:世界見学(旅行者としての人生)
第三の部屋:世界の富の所有(富豪としての人生)
第四の部屋:智慧・学問(学者としての人生)
第五の部屋:情熱・愛(恋人としての人生)
第六の部屋:争い・恋敵(殺人者としての人生)
第七の部屋(望楼):死
(3-3)「イジチュールIGITUR」」について
作者:Ste’phane Mallarme’(1842-1898)
未完の哲学的小話コント
テキスト:①ボニオ版1925年刊行、②マルシャル版1998年刊行(プレイヤード叢書新板マラルメ全集Ⅰ)
福永が「塔」執筆当時に読んだと推定されるボニオ版の「イジチュール」の筋立ては以下の通り(マラルメ全集Ⅰ別冊 解題・註解2010筑摩書房):
Ⅰ 深夜
Ⅱ 彼は部屋を出てそして階段に消える
Ⅲ イジチュールの生涯
Ⅳ 賽を投げる
Ⅴ 彼は墓に横たわる
(3-4)「イジチュール」と「塔」の比較
①キーワード
「イジチュール」のキーワード:階段、螺旋階段、狂気、絶対、無限、虚無、深夜、賽、夜、影、振り子(時計)
「塔」のキーワード:階段、螺旋階段、鍵、蝶、倦怠、孤独、恐怖、絶対
②筋立て
「イジチュール」:主人公が螺旋階段の最上階から地下室に降りて行き、(服毒)自殺する話。
「塔」 :主人公が螺旋階段を昇って行き、最上階(望楼)から(投身)自殺する話。
〇「イジチュール」と「塔」が対照的な構成になっている。
4.その他
(4-1)「塔」の読後の感想
不思議な感じのする小説というのが最初の読後の感想。
(4-2)初出にあったエピグラフが初刊版以降で省かれたのはなぜか?
① 読者にマラルメの「イジチュール」と比較せずに「塔」を読んでほしいと福永が雑誌発表後に考えを変えたため。→それだけ「イジチュール」の「塔」への影響が大きい?
②「イジチュール」を思い浮かべずに読んだ方が、読者が「塔」をより自由に読むことが出来るので好ましいと福永が雑誌発表後に考えを変えたため。
〇個人的には、「イジチュール」への言及がないと「塔」の内容を理解するのが難しいように思われる。
Miさん:
- Ⅰ.電子全集の活用を。
Haさんは、現在最も活動的な福永研究家の一人である。
今回の『塔』「本文主要異同表」(初出→初刊版→決定版)の作成には、現在刊行中の電子全集本文が活用されており、全集編纂者として正にあらまほしき内容であった。
全集第一巻には、附録として『塔』各篇の異同表は掲載出来なかった(正直に書いておくが、見直しが間に合わなかったためである)ので、Haさんは自ら異同表を作成されたのだが、そこから何らか体得することがあった筈である。
他の巻には「本文主要異同表」を出来る限り掲載しているので、各研究者には論文作成の際にぜひ活用いただきたい。
Ⅱ.七夕古書大入札会。
当日は、Aさん、Suさんと3人だった。毎回参加しているのはAさんと私で、他に1人の計3人というのが恒例になってしまっている。今年は、その後に漱石山房記念館へも脚を延ばすという企画だったが、人数は増えなかった。更なる妙案を考えねばならない。
この企画を凝りもせず継続している理由はただひとつ。とにかく原資料を手にとっていただきたいからである。原資料を手にすること自体がひとつの文学的体験となって、その小説家なり詩人なりの理解促進に資するところ大である。これを幻想というならば、それはそれでよい。しかし、文学とはそもそも幻想ではないか。資料を実際に数多く手にしてみないと分らないことがある、それは確かである。その絶好の機会がこの七夕大市なのだ。
今回は、Suさんと堀辰雄の手紙、はがきを多数手にした。一見ノンシャランに書き流した堀の伸びやかな筆跡を直接眼で見て味わう幸せ。この悦びは確かに文学的体験であり、この悦びを知らない者の論文は、やはり痩せている(=力がないとはあえて言わないが、窮屈である)と私は感じる。
Suさん:2019 七夕古書入札会・漱石山房記念館見学記
- 7月6日(土)、細かな雨の降り出した御茶ノ水駅に下り、日本古書会館に向かう。10時半をまわっている。11時に会館前集合というので少々急ぎ足で到着。私は古書の入札会などというものは全く初めてなので、何はともあれ一度見てみたいと今回やってきた。ややあって、Aさんがやってくる。Miさんを待ちながら入札のシステムや今回の出展物などの概略を説明してもらい、やがて到着したMiさんと三人で入場する。私は勝手がわからないので、上層階から廻るというお二人に従い4階会場から入る。
すぐに漱石の軸物や会津八一の書が目に飛び込んでくる。明治大正期の文豪の多くは能書家でもある。聊か書を学んでいた時期もある私にとって、これらの墨蹟の数々はまさに垂涎の品々といえる。だが、こういうものを日常に手に取ることができる生活は、私には縁遠い。場違いなところに来てしまったのかもしれないと思いつつ会場内を見渡すと、意外にも若い人も多い。もちろん、いかにも好事家らしい年配者もいる。が、一方で研究者らしい女性が、誰かの全集か何かコピーの一部と自筆原稿とを照合していたり、或いは、浴衣姿の年若い女性二人連れが、何やら興味深そうに陳列棚を覗き込んだりしている。こういう場が単なる財力のある趣味人の集まる所ではないことがわかってきて、私も詳細に出展物を見ていく。
様々な作家たちの初刊本、自筆原稿や書簡が展示されており、しかも係の人に声をかければどの品も手にとって確認することができる。今回、福永関連のものは、室生犀星『性に目覚める頃』解説自筆原稿のみであった。残念に思っていると、Miさんから福永以外で興味がある作家を尋ねられる。堀辰雄だと返答すると、Miさんは堀の書簡が展示されているところに案内してくれ、係に声をかけ陳列棚から取り出してくれた。まず、葛巻義敏宛の書簡(s6.10.31)。そして、堀最晩年の矢内原伊作宛はがき7通(s25~28)。どれも走り書きなのだが、堀の穏和な人柄がにじみ出てくるような、しなやかな文字の連なりに思わず引き込まれる。何か、堀が眼前に立ち現れたような錯覚を覚える。さらにもう一点、追加出展物の中に堀のはがきがあった。昭和13年末から14年初めにかけて、新婚間もない堀が当時仮住まいの逗子・鎌倉から懇意の編集者(メモを取っていなくて、この文を書いている時点では誰であったか失念してしまい、堀全集の『書簡集』を確認してみたが未掲載のもののようだ。)に宛てたもの数葉。当時は養父の死の直後、また立原道造の死の目前の時期に当たる。堀自身も病気がちの状況だった。そういう中で、自身の近況や今後の自分の文学展望を語る様が文面から手に取るように感じられて、非常に興味深いものだった。(今、あれを入手した人に会えたら是非もう一度見せてもらいたいと思う。)
他にも、安部公房の満州時代の恋人に宛てた書簡集などもあり、興味は尽きなかった。
今回はほんとうに貴重な体験をさせてもらった。近代の文人たちは、書物に対する思いの強さも現代の作家とは比較にならない。だからこそ、多くの文人たちは自身の作品の装丁・挿画に委曲を尽くし、懲りにこった限定本を何度も出版していたりするのだ。(福永もそういう文人の最後の一人であった。)また、作家たちの自筆原稿や書簡には、その作家の人となりがおのずから滲み出ている。文字の書き様、用紙の選び方、ペンの太さ、インクの色合いに至るまで、そこにはその作家の居住まいが彷彿と浮かび上がる。時に、新資料としてそれ自体が貴重な場合もあろう。だが、そうでなくとも、活字に直された場合とは全く異なる価値を有するように思う。ある作家を研究するとなったら、こうした資料に向き合うことは、絶対に欠くべからざるものであろう。特に若い研究者には、ぜひ勧めたい。
その後、神保町で昼食を摂り、漱石山房記念館に向かう。雨は上がり、曇天だが散策にはちょうどいい気温である。新宿区が漱石没後百年を期に設立した文学館である。東京メトロ東西線早稲田駅を出て10分ほど、漱石が作家として最後の9年間を過ごした早稲田南町の漱石山房跡地に建てられている。漱石生誕の地もここからほど近い。駅前から右手に入り、漱石山房通りと名付けられた小径をやや上りぎみに歩くと、まもなく左手に記念館は見えてくる。漱石山房跡地であるから、当然施設はそれほど大きくはないのだが、カフェや売店もあり、展示品も工夫され復元書斎や漱石公園と名付けられた小さな公園もある。漱石とその作品を学ぶには、実によい施設である。特に復元された書斎はたいへんよくできており、それを見ながら、漱石の作品群に思いをはせた。
考えてみれば、漱石の主な作品は、漱石が日常生活を送った東京を舞台にしている。『三四郎』は本郷や駒込、『それから』では青山、飯田橋付近や小石川辺り、『こころ』は小石川伝通院付近や本郷、上野になろうか。改めて、作品の舞台となった場所を散策してみたくなった。時間の変遷に従い建物を含む風景は一変しても、地形までは変わらない。実際に歩くことで、体感できるものがあるはずである。
福永の作品では、地名が特定できるものはそう多くない。しかし、幼時を過ごした福岡、その後十年以上を過ごした雑司ヶ谷近辺、昭和20年4月から約2年を過ごした帯広などは、作品世界に大きな影を落としている。まずは雑司ヶ谷付近の散策をしてみようと思う。小一時間館内で過ごし、三人で記念館を出る。駅まで歩きながら、福永武彦文学記念館なるものが、いつの日か軽井沢か東京に作られることを夢想しながら。
今回の企画は、私にとって大きな刺激を与えてくれるものであった。残念であったのは、参加者が3名のみだったことである。今後また、研究会で何らかの企画が計画されたら、ぜひ参加したいと思った。本当に貴重な数時間を過ごさせていただいた。
総会・第176回例会
日時:2019年5月26日(日) 13時~17時
場所:川崎市平和館第1会議室
【総会内容】
①会計報告
②新年度運営委員の決定
③新年度例会内容
【例会内容】
Ⅰ.随筆集『枕頭の書』を読む
Ⅱ.福永武彦電子全集配信予定
【例会での発言要旨・感想・】順不同(敬称略)
Ⅰ.随筆集『枕頭の書』を読む
・Miさん:
- 福永武彦の随筆とエッセイの違いとその特質、そして特にエッセイの二大区分に関して縷々述べましたが、それらは現在「福永武彦電子全集」の解題として執筆しているところでもあり、それが刊行されてから、改めてまとめて述べることにします。
ただし、既に「福永武彦研究 第5号」(2000.6)収録の論考「石川淳と福永武彦 ―夷齋と玩艸亭」に於いて、夷齋モノと対照しつつ、玩艸亭としての作品というものがあり、それらの拠って立つ系譜と意義に関して述べたことがありますのでご参照ください。
・Haさん:
- 『枕頭の書』について 第一随筆集『別れの歌』が「堅固なひとつの世界を構成している作品集です」という、第153回例会報告(2015年7月)の三坂さんのことば、また『別れの歌』の後記の「時間が主役を演じるように全体を按排し」ということばを参考にして、第三随筆集『枕頭の書』の世界はどういうものであるかを考えながら読んだ。
また、第二随筆集『遠くのこだま』の世界は、大学での仕事と小説を書くこと以外の福永武彦の主な生活である、と考えられる。
1.福永武彦(1918-1979、清瀬の東京療養所に1947/10-1953/3に入所)の随筆集
(1-1)発行年(初出年)
①『別れの歌』1969年(1949-1969) ②『遠くのこだま』1970年(1951-1970)
③『枕頭の書』1971年(1954-1971) ④『夢のように』1974年(1969-1974)
⑤『書物の心』1975年(1947-1975) ⑥『秋風日記』1978年(1971-1978、補遺を除いて)
(1-2)大項目
①『別れの歌』:別れの歌、追分日記抄、信濃追分だより、信濃追分の冬、室生犀星、追憶小品、回想、清瀬村にて、飛天、プライヴァシィと孤独、日の終わりに
②『遠くのこだま』:旅、心、眼・耳、日常茶飯、四つの展覧会、四枚の絵、四つの映画、四つの音楽
③『枕頭の書』:読書漫筆、文人雅人、身辺一冊の本、足跡
④『夢のように』:十二色のクレヨン(抄)、美術随想、音楽随想、身辺雑事
⑤『書物の心』:Ⅰ(文学についての随筆)、Ⅱ(推薦文)、Ⅲ(書評)
⑥『秋風日記』:秋風日記、幻のランスロほか、八つの頌、風景の中の寺、補遺(1954-1979年)
(1-3)各随筆集の内容
①『別れの歌』:回想と追憶に関する随筆及び信濃追分だより
②『遠くのこだま』:日常茶飯及び旅行と芸術作品の印象に関する随筆
③『枕頭の書』:書物に関係のある随筆
④『夢のように』:②の続編
⑤『書物の心』:③の続編及び推薦文と書評
⑥『秋風日記』:1970年以降の随筆と補遺
2.『枕頭の書』
後記によると、『枕頭の書』の4つの大項目の内容は以下のようになる。
・読書漫筆:書物を読む楽しみについて書いたもの
・文人雅人:読書の対象である人たちについて書いたもの
・身辺一冊の本:福永の愛読した書物についての随筆
・足跡:現在にいたるまでの福永の文学的な足跡
3.『『枕頭の書』の中で印象に残った随筆
(読書漫筆)
〇「枕頭の書」1968年3月執筆
・通常は愛読書を意味する枕頭の書を、「文字通り枕のほとりに置いて寝ながら読む本のことである。」と定義している。
・(枕頭の書として)「...私がしばしば用い、人にもすすめるというのは語学の入門書ある。実益があって眠くなるという一石二鳥で、これにまさるものを知らない。」
(文人雅人)
〇「堀辰雄に学んだこと」1965年10月執筆
・「堀さんから私が学んだのは、一種の魂のリアリズムといったものである。私はそれを自分の小説の中心に据えて小説を書き始めた。昭和十六年の夏、私は「風土」という長篇小説の発端に取りかかったが、...堀さんの方向に沿って、堀さんとは違ったものを書くこと。」
(身辺一冊の本)
〇「リルケと私」1968年1月執筆
・「或る時期に熱愛した作家があれば、自分の藝術を育てるためには彼らの影響からいち早く逃れなければならない。私にとってリルケもそのような作家の一人だった。...リルケに学んだがリルケの徒ではなかった。私に影響を与えたものは殆ど「マルテの手記」だけである。」
(足跡)
〇「夢想と実現」1953年10月執筆
・「...僕なんか恐らく二十五歳くらいの時に、自分の中のあらゆる構想力を駆使して、さまざまのロマンを夢想し尽くしていた。多くの主題が内部で同時に成長した。」
4.『『枕頭の書』の世界
・書物に関係のある随筆:読書の楽しみ、読書の対象(作者と愛読書)、福永自身の本・執筆方法、
・多くの随筆で、最初の文章で明確にその随筆のテーマが提示されていて、その書き方が心地よい。
5.補足:福永武彦の随筆とエッセイの違い
例会でMiさんが述べられた福永武彦の随筆とエッセイの違いについてのコメントが非常に興味深かった。それを以下にまとめる。
・文の主役が対象物であるものがエッセイで、文の主役が自分(福永武彦自身)であるものが随筆。
・エッセイは事実actualityを述べ、嘘はなく福永の意見を述べている。随筆は自分にとってrealityがあること、自分の心に映った福永の内面を述べる、文章の自体の効果を楽しむ、福永の意見を書いていない。
・福永のエッセイは『死の島』刊行以前と以後に書いたエッセイに分けて考えたほうがよい。『死の島』刊行以前のエッセイ(『ゴーギャンの世界』、『福永武彦作品・批評A』、『福永武彦作品・批評B』、『ボオドレエルの世界』)は西洋流のエッセイ(エッセイA)といえる。一方、『死の島』刊行以後のエッセイ(『内的獨白』、『異邦の薫り』、『彼方の美』)は、江戸時代の考証随筆の流れを汲むエッセイ(エッセイB)で、文人的姿勢・意識で書いている。
・福永の随筆・エッセイは随筆、エッセイA、エッセイBの3種類に分けられる。
・Saさん:福永武彦と内田百閒
- 今回のテーマである「枕頭の書」と、「書物の心」にはいずれも内田百閒に関する作品が収められている。個人的な話になるのだが、自分が中学生のころ(1979年)に旺文社文庫で内田百閒作品の刊行がはじまり、ほぼ毎月、足かけ五年で38冊(だったか)を買い続けた。当時でも正かなの文庫本は珍しく、最初は多少の戸惑いがあったものの、読んでゆくうちに慣れてしまい、今でも新かなに直してある文庫本を開くと強烈な違和感を覚える。
福永武彦と内田百閒の関わりで言うと、大学に入ったあと1986年に二つの全集「福永武彦全集(新潮社)」と「新輯内田百閒全集(福武書店)」の刊行が予告され、どちらを購入しようか非常に迷った。結局福永武彦全集のほうを購入し、内田百閒全集のほうは買ったことがない。
この1986年の全集の前、講談社版の「内田百閒全集」の編集委員(三人のなかの一人)として福永武彦が入っているのは皆さん御存知のことだろうが、なぜ福永が選ばれたのかについて考えてみると面白い。
講談社版全集の編集委員は川端康成、高橋義孝、福永武彦であり、こう並べてみると福永武彦と内田百閒の関わりが一番薄いように思える。実際の編集作業で大きな貢献をしたようには見えないし、文学的バックボーンもやや異なるように思える。とすると、随筆や小品というジャンルで親和性が高く、ポピュラリティのある作家として当時(1972年)認識されていたということになる。作家の受容のされかた、文学的ポジションとして考えると、今の福永武彦研究会での認識のされかたと少しずれがあるように見えてくるのではないだろうか。
Ⅱ.福永武彦電子全集、配信予定:Miさん
- 「福永武彦電子全集」(小学館 全20巻)は、現在第8回(第9巻)まで配信していますので、今後の予定を記しておきます。
・6月 第9回(第10巻)『ゴーギャンの世界』、彼方の美を追い求めて。
・7月 第10回(第12巻)『忘却の河』、『幼年』、童話。
・8月 第11回(第15巻)『別れの歌』、随筆の家としてⅠ。
・9月 第12回(第16巻)『夢のように』、随筆の家としてⅡ。
・11月 第13回(第13巻)『風のかたみ』、古典文学の継承。
・12月 第14回(第14巻)ロマンの展開『海市』、「後期六短篇」。
・12月 第15回(第17巻)『内的獨白』、考証随筆家、書誌研究家として。
・2020年1月 第16回(第18巻)『死の島』、ロマンの完結。
・2月 第17回(第19巻)詩人、福永武彦。
・3月 第18回(第11巻)近・現代日本文学評論。
・4月 第19回(第8巻) 戦後の翻訳、実験小説の背景。
・5月 第20回(第20巻)日記/対談・座談/自筆物/福永武彦 人と文学。
*小説は、原則として初刊版と決定版の2種を収録していますが、『死の島』は雑誌「文芸」に56回連載された初出文と初刊版の2種を収録予定。
*各巻に、創作ノート、メモ、絵画等をはじめとして、種々の未発表資料を(「解題」と「附録」に)収録しています。
*加田伶太郎作品以外の長篇、中・短篇の「本文主要異同表」を、出来る限り附録として掲載しています。福永小説の特質を鑑みての対処です。
第175回例会
日時:2019年3月24日(日) 13時~17時
場所:川崎市平和館第2会議室
【例会内容】
『獨身者』を読む そのⅡ A.「独身者」における「恋愛対位法」(ハクスリー)の影響について B.「独身者」と「チボー家の人々」、「贋金つくり」、「対位法」の比較 C.討論
【例会での発言要旨・感想】順不同(敬称略)
・Kiさん: 「独身者」における「恋愛対位法」(A.ハクスリー)の影響について
- 「独身者」の小説としての枠組みが「恋愛対位法」の影響を受けていると感じられた。ただしその影響は小説の枠組みにとどまり、主題の共通性は希薄と思われる。以下に概要をまとめた。
- 1.福永の「恋愛対位法」についての言及(「独身者」後記(1975年)より)
『独身者』の主題は、「日記」によれば、「1940年前後の青年たちを鳥瞰的に描いて愛と死と運命とを歌う筈」だったし、そのために10人以上の人物が相互に絡み合って複雑な絵模様を見せることになっていた。「日記」の中には彼等がどういう運命を辿るのか、すべて予測してある。そして私には、小説というものはこうした綿密なプランに則って書くべきものだという先入観があった。私はアンドレ・ジイド―
特にその『贋金づくり』― とオルダス・ハクスリー ― 特にその『対位法』― の影響を受けていたようである。そのことが、かえって小説を書きづらくしていたことを、私は後に知った。しかし当時私に必要だったものは、この長編小説の全体的構想、神の視点からする隅々までの透視だったに違いない。
-
2.「恋愛対位法」Point Counter Point(1928)作品概要
・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典による
第1次世界大戦後のロンドンの知識人と上流社会を風刺的に描く。文学、絵画、音楽、そして政治への言及が多くみられ、背後には広い科学的知識がある。物語は入組んでいて多数の人物が登場し、彼らをめぐる愛欲や葛藤を音楽の対位法になぞらえて、バリエーションを積重ねる手法で描く。
・世界大百科事典 第2版による
1920年代のイギリス上流社会が舞台。作者の自画像といわれる傍観者的で懐疑的な作家、キリスト教倫理や現代の科学主義に反対して原始の人間性の回復を説く画家、冷笑的なニヒリスト、精神主義を説きながら実際は好色漢の作家、ファシスト、共産主義者、有閑夫人、刹那(せつな)的なフラッパーなど、第1次大戦後の価値観の混乱のなかにうごめく知識人たちの生き方と思想を描いた思想・風俗小説。
-
3.「独身者」との共通点
1)多数の人物(「恋愛対位法」では約20人)が相互に絡み合って複雑な絵模様を見せる物語構成
2)章毎に場面と登場人物が変わり、その場に居合わせた複数の人物により様々な話題(「恋愛対位法」では、文学、絵画、音楽、宗教、政治、科学など多方面、「独身者」のように宗教、文学に偏ってはいない)が議論される。
3)登場人物のプロフィール
・作者ハクスリーが投影されている知的な小説家フィリップ(小説家志望の小暮英二に対応)
「恋愛対位法」、「独身者」いずれも独立した章をフィリップのノート(二つの章)、英二の日記(第9章)に割り当て、自らの小説に対する考えを述べさせている。
・フィリップの義父で著名な画家ジョン・ビドレイク(画壇の重鎮である秋山巌に対応)
いずれも老年で現役の画家であるが、才能は枯渇している。
・ハクスリーの友人D.H.ロレンスが投影されているとされる画家ラムピオン(新進の画家、小暮良一に対応)
・登場人物の愛の相関図
「恋愛対位法」「独身者」では複数の愛の相関が平行的(対位法的)に描かれている。
4)クラシック音楽
いずれもバッハ(対位法の頂点とされる作曲家)、およびベートーベンの後期の弦楽四重奏曲に言及している(「独身者」第5章)。「恋愛対位法」では第2章の夜会の場面で祝祭的なバッハの組曲が実演奏され、最終章(第37章)ではベートーベンの最晩年の作品132の弦楽四重奏曲が演奏(レコード)され、対比されている。
弦楽四重奏曲第15番イ短調作品132第3楽章の描写は、福永の音楽描写(「風土」におけるベートーベン「月光」ソナタなど)と通じるところがあるように思える。以下引用。
ゆっくりゆっくりとメロディは展開してゆく。古風な哀調を帯びた調和音が空中にひろがった。それは激するところのない曲で、透明な、純粋な、水晶のような、熱帯の海のような、アルプスの湖のような曲だった。水また水、静寂が静寂の上をすべる。平らな水平線の、波一つ立たぬひろがりのような調和。静寂の対位法。しかもすべてが明瞭で明るくて、靄(もや)もぼやっとした薄明も何一つない。静止して歓喜に燃える黙想の平静さで、眠さや眠りのそれではない。熱病から目覚めて自分がふたたび美の世界に生まれ返ったと知る病気平癒者の静穏だ。が熱病は「生とよばれる熱病」であり、生まれ返ったのはこの世にではない。美は地上の美でなく、病気平癒の静穏は神の平和だ。哀愁を帯びたメロディの交錯はそのまま天国である。・・・
-
4.フィリップの小説観
フィリップはノートに小説についての自分の考えを記している。その内容は福永の小説へのアプローチに影響を与えた可能性があると考えられる。
(ノートからの部分引用)
小説の音楽化。構成の点で。ベートーベンを考えてみよ。ムードの変化、唐突な転移。もっとおもしろいのは、一つのキーから他のキーへだけでなく、ムードからムードへの転調だ。テーマを述べ、それから展開させ、形をくずし、気づかぬようにゆがめていって、ついには依然として前のものだとはわかりながら、まるでちがったものにしてしまう。幾組ものヴァリエーションでこの過程をもう一歩押し進める。これを小説に持ち込みたい。唐突な転移の方は簡単だ。性格と、平行した対位法的な筋とさえ、充分そろっていればよい。その二つのテーマを交錯させるのだ。(注1)
もう一つのやり方。小説家はみずから神のごとき創造者の特権を持つと考えてよいから、物語中の事件をそのいろいろな相で考察してみたってかまわない―
情緒的、科学的、経済的、宗教的、形而上学的、等々だ。事件の一つの相から他の相に転調する ―
小説の中に小説家を登場させる。そうすれば美学論なども持ち込めておもしろいかもしれない― すくなくとも僕には。実験なども持ち込める。その作家の作品の見本という形で、小説のいろいろな可能なあるいは不可能な語り方の例を見せることもできる。(注2)
思想小説。各人物の性格を、彼が代弁する思想の中にできるだけ包括するようにせねばならぬ。思想小説の大きな欠陥はそれが作りものだということだ。それは必然的にそうなる。何となればきちんと組織立てた思想を滔々と述べうる人間などは、どこか現実感のない、すこし化物めいたものになってしまうから。(注3)
「恋愛対位法」という小説自体が、以上のようなフィリップの小説観を具現化した内容となっていると考えられる。
(注1)“小説の音楽化”: この小説では対位法的アプローチということから「Point Counter Point(対位法)」というタイトルとなったと思われる。ムードの変化、唐突な転調という点では、本作品では当初の上流階級を描いた風俗小説的なムードが後半になって転調し、殺人、自殺、病死(フィリップの幼い息子)により4人の死者で幕が閉じることになる。
小説の音楽化:福永は「海市」において、”バッハの「平均率クラヴィア曲集」に倣い、男と女との愛の「平均率」を、「前奏曲」と「フーガ」とを交錯させる形式によって描き出そうと考えた”と表明している。
(注2)”小説の中に小説家を登場させ、その作家の作品の見本を見せる”:「死の島」における相馬鼎と彼の小説の例
(注2、3)「独身者」においても共通性が見られる。
(参考)対位法counterpointとは(精選版 日本国語大辞典の解説による)
① 音楽で、それぞれ独立して進行する二つ以上の旋律を同時に組み合わせて楽曲を構成する作曲技法。
② 建築や映画、文学などで音楽の対位法の手法を応用して、二つの対位的な雰囲気の様式、情景、 主題、音楽などをわざと組み合わせて作品を構成する手法。
・Haさん: 『贋金つくり』と『独身者』の比較についてのメモ
- 福永武彦が「「独身者」後記」(1975)で、「独身者」を書く際に影響を受けた小説として言及している三つの小説、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』、アンドレ・ジッドの『贋金つくり』、オルダス・ハックスリの『対位法』のうち、『贋金つくり』と『独身者』を比較した。
1.『贋金つくり』の概要
全三部43章から成り、カトリックの家庭のモリニエ家の兄弟オリヴィエとジョルジュ(高校生)及び同じくカトリックの家庭のプロフィタンディユ家のベルナール(オリヴィエの同級生)の3人を主人公とする。実際にあった二つの事件、贋金つくり事件(1907年)と高校生たちの自殺(1909年)を結びつけてひとつの物語としたもの。
-
2.福永の『独身者』との技法上の共通点
小説の登場人物のエドゥアール(作者の分身と考えられる)が『贋金つくり』という小説を書いている構造になっており、頻繁に小説の中にエドゥアールの日記が導入される(全43章のうち約4割の16章がエドゥアールの日記)。またジッドは『贋金つくり』の刊行と同時に『『贋金つくり』の日記』という創作ノートも刊行している。この小説の二重化は、福永が『独身者』で小説の中に英二の日記(九章)という形で小説家希望の英二の創作ノートが含めたこと及び福永が「独身者の日記」を書いた動機にもなっているように思われる。
さらに『贋金つくり』執筆期間(1921-1925年)のジッドの日記が『贋金つくり』と『『贋金つくり』の日記』を相対化している。 -
3.ジッドと福永の小説論
「話がうまく描き出されるには、読者の協力が必要なのだ。」(『『贋金つくり』の日記』)あるいは「『贋金つくり』において賢明な読者なら自分で補足出来るもの(これは私が読者の協力といっているものだ。)は、一切省くよう意を配った。」(ジッドの日記)というジッドの記述は、福永の後年の小説論に類似している。
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4.感想
ジッドの『贋金つくり』は登場人物たちの生き生きした会話で話が進行していてとても楽しめる。ジッドが『贋金つくり』を執筆したのは1921年から1925年(52-56歳)の作家生活の最盛期であった。一方、福永が『独身者』を書いたのは1944年の26歳の時で、初めて書いた長編小説であり、十分に主題を展開できなかったのかもしれないと思われる。
福永は異なる登場人物・筋立でジッドの『贋金つくり』のような小説を書きたかったのだろうと思う。
・Miさん: 提案
- KiさんとHaさんの小発表を聴いていて、以下のようなことを考えました。
福永作品が成るに当って、様々に影響を受けている芸術作品の一覧を(その要点と共に)纏めておくことは、やはり現時点において有意義でしょう。
作品の影響関係が論じられている論文は少なくないのですが、解釈をするのではなく、単純に「眼で見てわかる」形で一覧にするのです。
その際、外国文学は必ずしも原文で読む必要はなく、日本語訳で充分だと考えます。また、福永作品は日本文学からの影響も深く大きいので、外国文学と並んで日本文学との対照をすることは当然です。更に、文学作品ばかりでなく、福永が好んだ絵画や音楽作品との対照も不可欠です。それを、長篇に限らず中・短篇をも含めて、小説別に一覧にしてみたらどうでしょうか。
「影響を受けた作品を選択するには、そもそも各人の解釈が入る」など、色々な議論がありましょうが、難しく考えずに、まずは「福永作品が直接的に影響を受けている芸術作品の一覧を皆で共有する」ことを念頭に、実現に向けて力を合わせられればと考えます。その一覧が出来れば、一般愛読者の福永文学理解を大きく進めることになる筈です。
- 随筆集6冊の「索引」を作成した時のように、会の有志で分担すれば実現できるでしょう。
【当日配付資料】
①「独身者」における「恋愛対位法」(ハクスリー)の影響について。A4 3枚。
②表「独身者」と「チボー家の人々」、「贋金つくり」、「対位法」の比較。A4 1枚。
③『獨身者』福永自筆創作ノートより、「書名(節名)候補」、「秋山清、入江隼人他人物設定」。A4 2枚。
④「独身者」関連主要文献一覧
資料提供:①・④Ki、②Ha、③Mi
【当日回覧資料】
・限定本『夢の輪』A版70部、B版250部
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